仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2009.08.06
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カテゴリ: 宮城
1945年、宮城県の青年男女が、焼け落ちた明治宮殿跡の整理に携わったのが、後の皇居勤労奉仕の起こりである。

私も子供の頃、自分の家だったか母親の実家だったか忘れたが、勤労奉仕の集合写真を見たことがある。皇居の清掃に携わる勤労奉仕団として、全国から延べ100万人以上が上京した。最初の頃は、3泊4日の作業で、奉仕者は米や味噌を持参し皇居内で寝泊まりしたのだそうだ。東北と北陸地方、そして農閑期で、女性が圧倒的に多かった。

ところで、この勤労奉仕が制度化されるキッカケとは、宮城県の青年の熱意だったのだそうだ。

以下、高橋紘『天皇家の仕事-読む「皇室事典」』1996年、文藝春秋 から当ジャーナル要約。
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昭和20年11月22日のこと、皇居坂下門に、2人の青年が現れ、皇居外苑の草刈りを申し出る。宮城県栗原郡の青年団有志と名乗る2人とは、鈴木徳一と長谷川峻。鈴木は慶応大卒で故郷で自主活動中。その後輩の長谷川は、当時緒方竹虎の秘書。鈴木らは、戦時中に堆肥増産のための草刈大会で青年団日本一になった経験を生かして、お濠の草刈りをしたいと申し出たのだ。

坂下門の警手から電話を受けた宮内省総務課長筧素彦は、鈴木等の熱気に押され承諾。むしろ2人は、意外と簡単に許可が出て呆気にとられたという。栗原青年団の状況は12月8日と決まる。話は、侍従次長の木下道雄から昭和天皇の耳に入る。

奉仕団は鈴木以下62名。オブザーバーとして早大教授木村毅が加わる。占領直後で皇居はMPの警戒下にある。何かあればと水盃を交わした者もいた。団員は各戸盃一杯の餅米を出し合って餅をつき、献上した。

8日の午前8時過ぎに全員集合。筧が、草刈りではなく宮殿の焼け跡を整理して欲しいと告げると、宮城内の作業など想像していなかった一団はざわめく。更に驚いたのは、正午過ぎに天皇が奉仕団の作業を見に来たことだ。



約30分の会話のあと、ご苦労と言って天皇は戻ったが、直後に誰からとなく君が代が沸き起こった。青年たちは涙し、天皇も歩みを止めて振り返った。その後皇后も、同じところで8名の女子団員に声をかけ、労をねぎらった。

栗原郡青年団(みくに奉仕団)の奉仕は、8日から10日までの3日間。この青年団との会話が、天皇夫妻にとって庶民との交歓の初めであった。翌年から始まる地方巡幸ではこうした会話が繰り返された。
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両陛下が庶民との対話をした始まりが、栗原の青年団。そして、それを実現したのは、青年の熱意だった。

私は全く知らなかったのだが、終戦直後の荒れた宮城(きゅうじょう)を見るに付け、国が破れても人心を立て直すために何とかしようと考え、地元の有志を糾合した宮城県の青年の心意気、そして、これを聞きつけてみずから足を運び庶民の声を聞こうとした昭和天皇の姿勢。

宮城県の戦後を語るにも、特筆すべき出来事のように思う。

戦にやぶれしあとのいまもなほ 民のよりきてここに草とる





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最終更新日  2009.08.07 00:22:32
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