仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2009.11.12
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カテゴリ: 仙台
9 養賢堂教育の充実

指南役の間で儒学学説の対立があり、養賢堂不振の一因であった。仙台藩は、山崎闇斎の学統を引く学派が主流だったが、幕府の昌平坂学問所に学んだ大槻平泉は、寛政異学の禁に従い、朱子学に統一する。

文化8年(1811年)、書学、算法、礼法の3学科を追加。商人や百姓の学ぶものとされた算術を藩校で教育したのは珍しい。勘定所の役人に商人や百姓の家の出身者が登用される例が多いのも、このためで、仙台藩でも宝暦5年(1755年)の大凶作で窮迫した藩財政を立て直すため、献金で武士の身分を取得した豪商安倍清右衛門を出入司に抜擢している。

庶民出身の平泉は、財政再建のために算術に長けた人材の育成を重視したのであろう。

文化9年には、兵学、槍術、剣術が設置された。ロシアに対する国防が急務となった背景があるのだろう。

長崎遊学の経験もある平泉は、文政4年頃、蘭学方を新設し、蘭学教育を行わせた。蘭医の庄司玄琢に担当させた。

平泉の後任として嘉永3年に学頭となった大槻習斎は、洋学の充実を図り、蘭学局を設け、また、小野寺丹元にロシア学を担当させた。この頃の養賢堂は、12の学科を備える総合学園となった。

開国前後には、英語も洋学科に取り入れられる。これを基盤として、明治初期には官立宮城外国語学校(のち官立宮城英語学校)が開校する。

幕末には、西洋式軍備にも関わる。学頭大槻習斎と兵学主任の小野寺鳳谷らが中心となり、西洋式軍艦の開成丸建造や大砲の鋳造を行っている。



文化9年には養賢堂の蔵書は1万353冊。天保6年には、1117部、1万7183冊に増加している。明治維新の混乱で多くが失われたが、一部は明治14年設立の宮城書籍館(しょじゃくかん)に移管されている。宮城県図書館の前身である。

11 修業のしくみ

学生に自由に選択履修させる方式。入学は8歳から許可され、修業期間は限定されないが、17歳までに素読試験に合格しないか、各学科の試験に3回落第すると退学させられる決まりであった。

通学生と寄宿生があり、通学生は幕末期には千人以上いた。寄宿生は、定員はないが役員として入宿する者には二人扶持が支給され、一般の生徒は自費で二人扶持相当の米を納めた。

教科書用の漢籍類は、養賢堂で出版した。教科書は自前で用意させたが、貧しい生徒には貸与した。学田経営や出版事業、有志の献金のため、生徒からの入学料や謝金は徴収していない。こうして、貧しい子弟にも配慮していたのである。

12 医学館の創設

養賢堂と称する以前から医学講師を置いていたが、大槻平泉の提案により、文化12年、百騎丁(東二番丁)に医学館の設置が決まり、文化14年完成。文政2年には末無掃部丁に御薬園を設けて、本草学を教えた。

13 青柳館文庫

医学館構内には、青柳文庫が設けられた。文政12年に青柳文蔵が蔵書を願い出て建設され、天保2年に完成したもの。

文蔵は、宝暦11年、磐井郡東山の松川村の医家に生まれ、江戸で医学を学んだ経験もあり、2万冊の書籍を所蔵していた。

文字文化が庶民にも浸透し、仙台でも出版が盛んとなり、国分町には多くの出版関係者が存在していた。こうした庶民層の文化的向上を背景に、青柳館文庫は、一般の人々にも公開され、我が国公共図書館の先駆と称されている。




■関連する過去の記事
仙台藩と学問(1)藩校の開設と芦東山 (09年11月3日)
仙台藩と学問(その2)養賢堂 (09年11月5日)





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最終更新日  2009.11.12 21:57:29
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