仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2010.05.16
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カテゴリ: 東北
現在の花巻市街地図を見ても見当がつかないが、花巻の町はかつて、花巻と里川口(花巻川口町)の相拮抗する二核構造だった。

南部氏が秀吉に与えられた当地は、伊達氏と境を接することから重視され、北秀愛が和賀・稗貫8千石を与えられ、花巻郡代に着任。鳥谷ヶ崎城を花巻城と改めた。秀愛は、盛岡に通ずる街道筋として四日町(よっかまち)に開町の重点をおいた。二代目郡代の北松斎は、南方との物資交送のため里川口(川口町)の活用と、四日町に続く一日市(ひといち)の町づくりを考えた。ここに四日町、一日市、里川口のいわゆる花巻三町を中心とした花巻発展の基礎が形成された。
藩政時代には、川口町の中に八日町(現在の上町、大町)、鍛治町などつくられた。特に上町は商業町として急速に開けるところとなった。
(ここは 愛隣館 さんのサイトを参考)

明治に入り、里川口村の人たちは町おこしの妙策として遊郭の誘致を行い、仙台、八戸に次ぐ規模の遊郭が敗戦直前まで続いた。これは、隣村の花巻村への強烈な対立意識によるようだ。両村とも、大体同規模だが、藩政時代は政治的中枢機能は花巻側にあった。明治11年の郡区町村編成で新しい稗貫郡役所が里川口村に設けられたが、明治天皇巡幸の行在所は花巻村に置かれるなど、有力者に士族の多い花巻村の人々は優越意識を持っていた。

花巻衆と川口衆の長年の反目は政治面にも表れたが、経済発展を強力に進めた里川口村がしだいに花巻村をしのぐようになる。明治22年の町村制で、花巻村は花巻町に。里川口村は里川口町(のち花巻川口町)となる。川口の町制後の商業発展は目覚ましく、昭和4年両町が合併し花巻町を称するが、銀行の本支店が置かれるなど、経済力では完全に川口が花巻を引き離していた。

宮澤賢治が明治29年に生まれたのは、里川口町であり、急速な商業発展めざましいこの時代だった。現在の豊沢町である。
(参考:上田哲ほか『新装版 図説宮沢賢治』河出書房新社、2009年)



現在の東北の各都市のなかで、藩政期や明治期から、こんなにも近接しながら互いに反目し、結果として町勢拡大につながったという歴史を持つものは、ほかにもあるだろうか。





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最終更新日  2010.05.16 09:14:00
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