文治二年の頼朝奏上「爲搜尋求行家義經隱居所々」に「謀叛人居住國々。凶徒之所帶跡ニハ。所令補地頭候也。然者庄園者本家領家所役。國衙者國役雜事。任先例可令勤仕之由。所令下知候也。」
とあり、義経を匿った藤原秀衡の所帯跡に地頭が補す事。奥州征伐の総奉行工藤行政が地頭職に任じられている。

国衙の国役雑事は先例に任せ勤仕する事が帰されている。
陸奥国衙は平安時代~鎌倉時代へ先例通り引き継がれた。それ故、平安時代から鎌倉時代末期まで陸奥守補任記録が存在する。勿論、藤原秀衡も北畠顕家も含まれている。
多賀城跡の発掘調査で平安時時代末期より一世紀以上前に廃絶された遺跡と確認されている。多賀国府など実在しなかった。陸奥国衙が信夫郡に在った事は大同五年の太政官符が示す通りである。陸奥国衙から百丁程の所に藤原秀衡の居館はあったのである。存在しない多賀国府を前提とした論考は前提から謝りと言える。 (2020.08.25 10:55:41)

仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2010.09.21
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カテゴリ: 宮城
留守氏の初代伊沢家景の出自、伊沢氏の名称や由来ははっきりしないものがあるが、藤原道兼の末流で、文筆を持って九條大納言光頼につかえる侍であったらしい(水沢市史)。奥州攻めにも参加し、文治5年(1189)大河兼任の乱後、陸奥留守職に任ぜられ、多賀の国府に来任した。以後、吾妻鏡には留守家景と記され、代々、留守氏を称するようになる。
 伊沢なる地は陸奥伊(ママ)沢郡をはじめ、岩代、下野、信濃等に散見するが、いずれも伊沢氏の本貫地とは認められない。伊沢氏は本貫地をもたない「京都の輩」で陸奥国に来住してはじめて本領を得、伊沢氏なる号はさした重要な意味を持っていなかったのではないかと考えられる(水沢市史)。

留守氏は、はじめ居城を国府に近い利府町加瀬に構え、後、岩切城(高森館、鴻の館)の東麓付近に移したらしい。岩切城は南北朝時代に築かれたと考えられる。

留守氏の惣領家に伝わった世継文書が現存しないのは残念であるが、留守氏の庶流余目氏に伝わった留守文書が中世の留守氏の姿の一端を示してくれる。留守文書によれば、留守職の機能は13世紀中半までで、以後、次第に封建領主化を指向しはじめる。鎌倉時代における領地は、「高持名(たかもちみょう)」と呼ばれ、七北田川流域から利府町にわたる範囲内で、岩切、余部(目)、南宮、村岡(利府)、椿等の村々を含んでいる。

このほか、留守氏は塩竈神社の神官を支配し、社領も留守一族の支配するところとなった。

留守氏は南北朝時代には、南朝方の北畠顕家に従って叛徒討伐に西上したが、ほどなく足利方に転じた。足利方が二派に分かれて戦った観応の擾乱において、留守氏は尊氏方の奥州探題畠山高国、国氏に味方し、岩切城、留守城(多賀城市新田)にこもり、直義方のもう一人の探題、吉良貞家に対抗したが敗北した。

大打撃を受け所領も削減され苦境におちいった留守氏は、永和3年(1377)伊達政宗と一揆契約し、伊達氏のさん下に入りその地位と安全を確保した。更に、寛正年間(1460年代)、伊達持宗の三男(ママ。通説では五男か。)郡宗の入嗣により、留守本流は滅亡するが、留守氏は伊達氏を背景に勢力を強め、周辺の在地土豪層を勢力下にいれ、一円領主化をおしすすめる。留守氏の内部にくすぶる反伊達勢力も政景(伊達晴宗三男)の入嗣により(永禄年間、1560年代)一掃され、伊達氏の統括のもとに入る。


■宮城県高等学校社会科教育研究会歴史部会『宮城県史料集』宝文堂出版、1981年 から

■参考

余目旧記
中世留守氏
伊沢家景
留守政景





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最終更新日  2010.09.22 00:39:51
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Re:中世の留守氏(09/21)  
山田久夫 さん
余目氏は白河(あまる河前守)の一族が信夫郡余目郷の地頭職になった記録があります。 (2018.01.10 16:59:05)

Re:中世の留守氏(09/21)  
山田久夫 さん
文和二年四月十日 【足利尊氏下文】 
        (足利尊氏 花押)
下 結城弾正少弼顕朝
      可令早領知陸奥国信夫庄余部地頭職事、
右以人、為勲功之賞、所充行也者、守先例、可致沙汰状、如件、
        文和二年四月十日 
      陸奥国信夫庄余部地頭職に白河の結城氏が任じられている。
      余目舊記を残した余目氏は白河結城氏の家系の人物と推定。
結城氏は小山氏であり白河に城を結び結城氏あるいは白河氏とも 呼ばれている。
余部(餘目)の地頭職となり餘目氏を名乗ったと推測される。
信夫庄餘目は宮代(宮城)であり790年代に陸奥国軍所であった可能性がある。 (2018.01.10 17:05:07)

Re[1]:中世の留守氏(09/21)  
山田久夫さんへ
コメント大変感謝申し上げます。勉強になりました。
宅地化された今とは風景は異なるでしょうが、今と同じふるさとの山河を眺めながらどんな歴史があったのか、を考えるのが歴史勉強の楽しみの一つです。 (2018.01.13 09:51:13)

Re:中世の留守氏(09/21)  
山田久夫 さん

Re:中世の留守氏(09/21)  
山田久夫 さん
余目氏について。余目の地頭職に任じられたのは
文和二年四月十日 【足利尊氏下文】 1353年
 (足利尊氏 花押)
下 結城弾正少弼顕朝
 可令早領知陸奥国信夫庄余部地頭職事、
右以人、為勲功之賞、所充行也者、守先例、可致沙汰状、如件、
 文和二年四月十日 
文和二年四月十三日 【仁木頼章施行状】長沼文書 1353年
結城弾正少弼顕朝申、
陸奥国信夫庄余部地頭職事、任今月十日御下文之旨、
石河孫太郎入道相共、莅彼所、沙汰付下地於顕朝代官、
可被執進請取之状、依仰執達如件、
 文和二年四月十三日 散位(仁木頼章 花押)
 長沼淡路守殿
白河の結城氏が余目地頭職となり、長沼氏が余目地頭代官として赴任した。余目旧記は白河結城氏系の長沼氏が記した故に白河宿内の伊達大膳大夫政宗の様子を詳細に記録できたのである。留守氏は全く関係ないと思います。 (2020.08.25 11:17:21)

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