仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2010.09.21
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カテゴリ: 宮城
留守氏の初代伊沢家景の出自、伊沢氏の名称や由来ははっきりしないものがあるが、藤原道兼の末流で、文筆を持って九條大納言光頼につかえる侍であったらしい(水沢市史)。奥州攻めにも参加し、文治5年(1189)大河兼任の乱後、陸奥留守職に任ぜられ、多賀の国府に来任した。以後、吾妻鏡には留守家景と記され、代々、留守氏を称するようになる。


留守氏は、はじめ居城を国府に近い利府町加瀬に構え、後、岩切城(高森館、鴻の館)の東麓付近に移したらしい。岩切城は南北朝時代に築かれたと考えられる。

留守氏の惣領家に伝わった世継文書が現存しないのは残念であるが、留守氏の庶流余目氏に伝わった留守文書が中世の留守氏の姿の一端を示してくれる。留守文書によれば、留守職の機能は13世紀中半までで、以後、次第に封建領主化を指向しはじめる。鎌倉時代における領地は、「高持名(たかもちみょう)」と呼ばれ、七北田川流域から利府町にわたる範囲内で、岩切、余部(目)、南宮、村岡(利府)、椿等の村々を含んでいる。

このほか、留守氏は塩竈神社の神官を支配し、社領も留守一族の支配するところとなった。

留守氏は南北朝時代には、南朝方の北畠顕家に従って叛徒討伐に西上したが、ほどなく足利方に転じた。足利方が二派に分かれて戦った観応の擾乱において、留守氏は尊氏方の奥州探題畠山高国、国氏に味方し、岩切城、留守城(多賀城市新田)にこもり、直義方のもう一人の探題、吉良貞家に対抗したが敗北した。

大打撃を受け所領も削減され苦境におちいった留守氏は、永和3年(1377)伊達政宗と一揆契約し、伊達氏のさん下に入りその地位と安全を確保した。更に、寛正年間(1460年代)、伊達持宗の三男(ママ。通説では五男か。)郡宗の入嗣により、留守本流は滅亡するが、留守氏は伊達氏を背景に勢力を強め、周辺の在地土豪層を勢力下にいれ、一円領主化をおしすすめる。留守氏の内部にくすぶる反伊達勢力も政景(伊達晴宗三男)の入嗣により(永禄年間、1560年代)一掃され、伊達氏の統括のもとに入る。


■宮城県高等学校社会科教育研究会歴史部会『宮城県史料集』宝文堂出版、1981年 から

■参考

余目旧記
中世留守氏
伊沢家景
留守政景





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最終更新日  2010.09.22 00:39:51
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