仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2010.10.10
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カテゴリ: 宮城
1 概説

勃発は寛政9年(1797)3月9日の払暁。江刺郡伊手村であった。9日には他6か村の農民二、三百人が集まり、江刺郡邑主で一門の伊達大炊(岩城氏)の岩谷堂町に押し寄せた。

やがて水沢、前沢など上下伊沢郡から磐井郡に広がる。波は登米郡にも押し寄せ、寛政一揆最後の仙北諸郡大蜂起が勃発する。
すなわち、西磐井郡流郷永井村で計画された一揆は、石越村に入り四方に連絡を取って一部は東進して石森村、黒沼村に屯し、登米伊達氏の城下に進出し栗原郡の一揆と合流。また、石森村からの連絡で佐沼郷7か村の農民も蜂起し瀬峰から高清水に向かった。
かくして一揆は、石越若柳方面、佐沼瀬峰方面、栗原郡西部方面のものが築館、高清水に合流し、仙台城下を向かって奥州街道を南下しようとした。これに呼応して遠田、玉造の両郡下にも蜂起の形勢があり、もし栗原登米の農民が高清水を突破して大崎耕土に入るなら、遠田志田玉造の農民も合流することが明瞭の緊迫した事態となった。

藩ではこの重大事態に地方邑主を動員し、できるだけ願書を受理し穏便に解散させるよう指示。4月28日29日の頃に、迫方面の一揆主流に対しては高清水邑主石母田備後が、また、瀬峰に向かった佐沼郷の一揆に対しては佐沼邑主亘理内膳が、栗原郡山間地の一揆に対しては真坂の邑主白河上野が、それぞれ一揆と交渉して嘆願書を必ず藩主に上聞すべきことを約束して群衆を解散させた。その他遠田郡西野村の一揆は大肝入がとりなし、玉造郡の一揆は岩手山の邑主御一門伊達弾正が、志田郡の一揆は三本木町で松山の邑主茂庭周防が説得した。

気仙、伊沢、磐井、登米、栗原、遠田、玉造、志田の9郡を席巻し一説には宮城郡にも蜂起が伝えられる。正しく仙台藩未曾有の大事であった。

2 一揆の要求と藩の対応

記録が残る永井村の嘆願書は31ヶ条から成るが、(1)不当な課税や借上げに反対、(2)御買米に対する反対、(3)郡方村方役人の不正、(4)窮迫した農村に救済の要求、の4点にまとめられる。最後に、拙者共申上候通御下知不被成下候ハ拾ヶ年間御暇被下置度奉願候御事、と固い決意を述べて藩を威嚇した。



平定後1か月を経た5月2日に、奉行衆より出入司に、郡村の潤助と民間の窕(くつろぎ)のための改革を指示。地方役人の大減員、役人の廻村停止、郡村の諸償(肝入大肝入などの費用)や遣捨人足(御作事や御普請方)の厳正化、年貢先納の緩和、などが正式に村々に通知され、事務の簡素化で役人の不正も減少し農民負担も減る結果となった。
ただし、一揆が最も要求した買米制度の改革と大肝入制度の廃止には、藩は一切手を触れなかった。買米制は藩財政の支柱であった。また大肝入は農民の抑えとなる重要な役割で蜂起の取り鎮めにも大きな力となった。寛政転法で地方の中間的役職はかなり整理され、実権が代官に集中したが、これがためにむしろ農民との間の緩和役である大肝入が重要となったためである。

3 責任者、首謀者の処分

一揆の直接の原因は、郡方役人の苛政とこれに結託する大肝入肝入への憤激であった。藩が地方役職制の改正に主眼を置いて寛政転法を実施する以上、当然ながら不正役人や役付の処分を行った。
全貌を明示する史料はないが、郡奉行小松左門は免官、北条大輔、平三左衛門は役替。村方役付では、迫筋一揆の責任を負い、佐沼大肝入高橋佐戸右衛門(御買米本金を私的流用)が大肝入追放。登米郡大肝入伊藤慶治(寛政5年為登(のぼせ)米の大坂銀利潤や同6年登米佐沼上納金着服など)は城下及び登米一郡から追放。

一揆首謀者側については、「張本人ハ江刺郡伊手村百姓誰(名前失念仕候)、下伊沢徳岡村百姓山伏正覚坊を始御郡々張本人有之候得共、伊手村百姓誰正覚坊ハ徒党主本人ニ付死刑に被相行、其他大体流罪被相行候事」(佐伯是保の書上)。死刑にされた2人を中心に各郡各村に連絡者組織者があったのであり、例えば永井村に発端する迫筋の蜂起は石森村の百姓嘉蔵が連絡に当たったが、主として指導したのは大肝入や肝入級の土豪的百姓ではなく、組頭級の中農層だったらしい。瀬峰に向かった南方村一揆の指導者清蔵、兵作、惣作の身許からも想定される。伊手村の百姓某や徳岡村の山伏正覚坊も恐らく同様な階層だろう。
一揆が中農層に指導されたのは、耕野村や松川村の初期の一揆が、封建農村の設定をめぐり村を支配してきた土豪層と藩の支持を受けた給人との対立であって、肝入を中心に動いたのとは異なる。寛政一揆では、大肝入肝入は農民から分離し、藩と協力して鎮圧につとめた。金成村大肝入や石越村肝入は一揆の襲撃を受けている。藩の貢租が強化されると村方役付は農民からの収奪に一役買うことになるから、一般農民との間に対立が生じる。買米や貢租の重課で打撃を受けるのは組頭級の中農層であり、その強固で合理的な自衛行動が寛政一揆であった。藩としても、本百姓維持政策を継続する以上、首謀者の処分も寛大にならざるを得なかった。

こうして張本人2人が極刑とされただけで、他の指導者は流罪。南方村兵作は家財欠所、網地浜へ流罪、清蔵と惣作は家財欠所の上、長渡、田代島に流罪。永井村首謀者も入牢の上7回の詮議を受け寛政10年離島へ配流。


■関連する過去の記事
仙台藩領の百姓一揆 (2010年10月10日)
三閉伊一揆を考える (2008年1月7日)
■平重道『仙台藩の歴史3 百姓一揆』宝文堂、1972年 から
■奥州市サイト  百姓一揆





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最終更新日  2010.10.10 11:47:53
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