仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2010.10.14
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カテゴリ: 東北
49歳で実業界から隠居した伊能忠敬は、日本の測量に情熱を注ぐ。蝦夷地、九州、屋久島、八丈島、とそれこそ日本中を、17年をかけ、10次にわたる測量に身を捧げた。

東北との関わりを考えてみた。第3次測量までが、東北に関係している。

■参考文献 渡辺一郎『伊能忠敬の歩いた日本』筑摩書房(ちくま新書206)、1999年

1 第1次測量(蝦夷地)

 蝦夷地を目指して奥州街道を北上し、三厩から蝦夷にわたり、ニシベツ(西別。根室付近)までの往復3200kmを180日で踏査している。
 寛政12年(1800年)閏4月19日(旧暦。以下同じ。)朝に江戸深川を出発。福島、仙台、盛岡、青森を経て、津軽半島の三厩まで21日で歩いている。1日40kmのペースで急いだ。幕府との折衝に時間が掛かって出発が遅れ、蝦夷地が寒くならないうちにと、急いだのだ。幕府は、ロシア北方情勢も踏まえて蝦夷地の測量の意義は理解しており、測量機器の運搬のため船に乗せてやると言ったようだが、忠敬は、船から見たのでは入り江の奥行きが解らず測量できないと頑張り、陸路の測量に持ち込んだ。
 急ぎに急いで5月10日に三厩に到着。8日間風待ちしたので、奥州街道を急いで稼いだ日数を無駄にする。吉岡に上陸し、箱館山から四方を観測。海岸沿いを歩き、67日目に西別に到着。鰊漁最盛期で人足が得られず、根室まで行けずに引き返す。
 歩測に天測を併せて測量したが、間縄を張って正確な測量はできなかったので、経度(東西方向)の観測は正確でなく、伊能図の北海道は大幅に東偏している。

2 第2次測量(関東・東北の太平洋岸)


 6月19日に再度出発し、房総半島沿岸を回り、鹿島灘を北上、磐城、松島、宮古、釜石など三陸沿海を測り、尻屋岬に進み、下北半島を一周して野辺地に出る。青森を経て、11月3日三厩に到着。
 帰路は、奥州街道を再測量しながら12月7日江戸に到着。230日、3122kmだった。

 第2次測量では、歩測をやめて、間縄を張った測量を徹底して精度を上げた。街道や海岸に梵天(ポールの先に紙切れをつけたもの)を立てて、間を縄で測るのである。縄は伸び縮みするから毎日間棹で調べたという。全国を実測する伊能測量の本格化である。
 場所によっては海中でも縄を張った。伊能図の松島付近を見ると、たくさんの朱の測線が海中を走っている。8月21日に塩竈に泊まり、23日にかけて松島湾を測量した際にも、船で縄を引いた記録がある。梵天を立てた船を始点と終点に固定し、その間を測量船が尺取り虫のように縄を張ったのだろう。
 なお、参考文献に掲げられた松島付近の伊能図では、宮戸が、島になっている。

 はじめて蝦夷地から本州東海岸の地形を明らかにした伊能測量の評価は高まり、第3次測量以降の待遇は、多量の無賃の人馬を与えられるなど、格段に高まった。

3 第3次測量(東北・新潟の日本海岸)

 享和2年6月11日江戸出発。奥州街道を白河まで測る。ここから街道を分かれて会津若松に向かい、米沢、山形、久保田(秋田)を経て、能代、弘前、青森を通り、三厩まで進む。
 三厩からは、算用師峠を越えて小泊に出る。日本海沿岸を測量しながら南下し、能代を経て男鹿半島を回り、本庄、酒田、新潟、柏崎、今津(直江津)と進む。その後、高田、善光寺、上田を経て追分けから中山道。軽井沢、高崎、熊谷を通って10月23日江戸帰着。
 132日、1701kmであった。

 山形から奥羽本線沿いに秋田領に入った忠敬は、雄勝峠を越えた。下院内村では、庄屋や村役人が藩の指示により袴着用で峠まで迎えに出たという。江戸からお触れが秋田藩庁にも達してたのだ。6月8日に伝馬町を出た先触れが30数個の宿場経由で秋田に到着し、藩庁がすぐ指示書を作って秋田から継ぎ送って下院内に18日に到達しているので、先触れは書き写しを繰り返しながら、刻付けで10日半で駆け抜けたことになる。忠敬は江戸から秋田まで連泊を除いて36泊、下院内と秋田の間は5泊だから、この41泊分を先触れは10日半で駆け抜けた。江戸の通信交通文化の素晴らしさである。刻付け(昼夜を問わない継ぎ送り)と指定されると、受信時刻を記載して次ぎに送らねばならないから、宿場の担当者は一刻を争って処理したと推測される。



 8月8日弘前城下に着く。待遇が悪くて、出迎えもない。測量御用が支障なくできるよう申し入れたが反応が悪い。公儀から沿海測量があるからよろしくと仙台、南部、津軽藩には同様に伝わっているはずなのに、津軽沿海地域では蝦夷地上り下りの御用の程度に考えている、と忠敬は憤慨している。
 9日になって藩士が見舞に出てきて、藩主からの菓子一箱を贈られる。11日、油川の宿舎に訪れた松野茂右衛門に菓子の礼を述べ、弘前宿の町役人の不行き届きを話す。松野の側用人山鹿八郎左衛門(山鹿素行の子孫)が通達を出し、夜通しで村々に伝えられる。

 能代には7月23日から11泊。連泊は会津若松と新庄だけだが、ここでは日食を観測したのである。経度の観測のため日食の交食現象を、江戸、大坂と測量先で同時に観測して、交食の開始と終了の時刻差から経度差を求めたのである。
 8月1日は日食の当日。朝から曇りで、午後には一面雲が覆って太陽が全く見えなかった。それでも八つ(午後2時)頃から一隊が測量場に詰める。食が終わる少し前に、ようやく雲間にぼやっと形が見える。復円するころはまた見えなくなる。結局観測は失敗した。

 9月21日には、越後の岩船町の町年寄伴田与惣左衛門方に泊まる。伴田家の覚書には、伊能隊測量のようすが記されており、大変興味深い。

 村相互の連絡体制により、伊能隊の支援態勢も整えられた。
 酒田での食事メニュー(9月21日)では、一汁三菜であった。先触れでは一汁一菜とあったので豪華だ。夜の天測に時間が掛かり、四つ(夜10時頃)過ぎに夜食としてそうめんを出したという。精一杯のご馳走を出したようである。





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最終更新日  2010.10.14 07:14:15
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