仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2010.10.15
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カテゴリ: 東北
仙台藩最大の寛政9年仙北諸郡一揆の指導者とされる山伏正覚坊について。

1 一揆の概要

寛政9年の一揆は、3月7日払暁、江刺郡伊手村の農民が要求願書を携えて岩谷堂の伊達大炊家の居館に迫ろうとしたことに始まる。伊達大炊家(本姓岩城氏)は前沢の三沢信濃、水沢の伊達将監、登米町の伊達式部などと連絡をとり拡大防止に努めたが、8日には一揆が南北伊手村から横瀬村に広がり、9日には江刺郡東方6カ村1200人に増加した。しかし別段手向かいする様子はなくわめき立てて仙台に登ろうとするので、10日、岩城家は願書を受け取って解散させた。11日には、今度は江刺郡西方の12カ村が立ち上がり、12日夜に大体鎮静する。

3月18日。南部領に近い江刺郡伊手村の農民が強訴のため胆沢郡水沢町に向かったが、邑主伊達和泉のとりなしでようやく解散した。ついで一揆は伊沢郡に波及、群衆を増加し前沢町まで進出、いったん邑主が取り鎮めたが、また蜂起して役人と衝突し足軽組から数名の怪我人を出した。前沢邑主三沢氏は少禄であったので、一門の大身登米伊達氏に加勢の依頼、登米は鉄砲組や弓矢組を進発させた。

胆沢郡内では、上胆沢の村々は参加しなかったが下胆沢の一揆は上胆沢境の見分ノ森に登り、昼は鬨の声を上げ、夜は満山に篝火を焚いて上胆沢の農民の参加を呼びかけ、物情騒然とした。一揆は南下して岩井郡にも発生し、4月下旬には登米郡の村々からも参加した。

4月25日夜には西磐井郡西永井村に一揆が発生、群衆はたちまち登米郡石越村に進入。石越の領主芦名氏は防戦できず、同村東郷の肝入の家が破壊される。栗原郡若柳、武鎗、有賀、三田鳥の所村も呼応、一揆は金成村の大肝入宅に乱入。26日夜には13カ村3500人の農民が集合し、27日には奥羽街道を築館に南下。この時、一迫、二迫、三迫の農民はほとんど全部蜂起して築館に殺到、さらに仙台に進撃する形勢を示したので、事態は緊迫した。

一方、佐沼方面の農民は迫筋の一揆と呼応して千余人が、28日瀬峰町に集まり、栗原の山間地文字村などの農民1200人も29日築館に侵入。遠田郡西野村でも全農民が蜂起して専興寺で気勢を上げた。

藩では有力な領主を動員して鎮撫に努めさせる。迫方面の一揆主流に対しては高清水領主石母田備後が説得して解散させた。佐沼方面の一揆には佐沼邑主亘理内膳が瀬峰に駆けつけ取り鎮める。山間地の群衆には真坂村邑主白河上野が鎮撫。西野村の一揆は大肝入のとりなしで翌日解散。その他、玉造は岩出山で伊達弾正が、志田郡は三本木で茂庭周防が説得。

2 大槻安賢の謹功



安賢は、寛政9年目附を勤仕中に一揆勃発し、奉行の命を受けて郡村の情況調査と一揆鎮静のため廻村を命ぜられ、前沢町で首謀者伊手村の正覚坊ら徒党の一味を逮捕する働きをした。雨中の廻村に暑中の病悩も重なり、同年閏7月に37歳で病死している。

以下は、安賢の子安世が書きつづった家譜書上草藁による。

3 正覚坊の逮捕

5月朔日、安賢は伊沢の上衣川村北股の肝入宅に宿泊したところ、前沢町大肝入鈴木養作より使いがあり、前沢の村々の百姓が検断大肝入宅に押し入り仙台表に登る路金の無心を相談していると通報。夜中雨降りではあるが2日朝近く前沢に到着。鈴木から事情を聞くと、29日に中野村で一揆の首謀者山伏正覚坊が潜んでいたのを代官菊地千蔵らが一度召し捕らえたが、大勢の百姓が追ってきたため肝入某宅に正覚坊を入れ門を閉じた。座敷の中から正覚が、自分は今捕らえたが此の御礼をよろしく申し上げよと百姓共に言うと、百姓が一気に家中に乱入し、足軽達を打擲し半死半生にさせた上で、正覚坊を奪取して去った。これが大肝入の報告だった。

現地の代官や大肝入は間者を使い、百姓の動向や首謀者の潜伏場所は察知していたが、藩の沙汰がないので臨機の処置がとれず、やむを得ずして三沢家預かりの足軽の手助けを借りて召し捕らえに向かったのであった。

5月朔日暮方の集会は、徳岡村幸作が現れ、400人ほどが掘切村肝入居宅の後の野原に集会、肝入宅に押し入る相談をしていたが、水沢の伊達将監家から足軽を借りて屋敷を厳しく警備したので、百姓は押し入りを中止し、上胆沢の見分森に集会。水沢の役人に追われて掘切村の松原の中で詮議を続けていたが次第に退散して、2日曉には100人ほどに減少していた。正覚坊は先日召し捕らえたとき元気も衰えており、徳岡村の自分の家にはおらず、中野村の谷地という所に隠れており、今は幸作がひとり計策を巡らしているが、なんとか幸作を捕縛したいという。

以上が、2日朝に前沢で安賢が聞いた様子である。すると、安賢の逗留を聞いて小人目付柴山喜平太たが連絡に立ち寄り、先刻徳岡村与頭七右衛門宅に百姓が乱入、それから要ケ森に集会していると注進してきた。

安賢は集会の場所に赴くこととし、夜四ツ時(10時頃)に馬で足軽らと濃霧と雨の中を要ケ森に向かった。要ケ森を登り集会の場所に到着すると、安賢は小人をして、願の節は静かに申し上げよ、不敬がなければ集会はお構いなし、召し捕らえに来たのではないと申し聞かせ、所々に松明を持たせて、百姓2千人との会見を始めた。

安賢の側には蔭の暗いところに正覚と幸作を見覚えている足軽が隠れていたが、一団の先頭にいるものが間違いなく正覚だと安賢に耳打ちした。安賢は足軽共を百姓の間に入雑らせて彼らを取り巻かせ、正覚に願数ヶ条について質問している間に、松明を入れて明るくさせ、安賢は正覚と問答した。問答に身が入り正覚は自然と進み出てきた。安賢は言葉巧みに正覚を油断させ、前に行き寄せて独断で俄に縄を打たせた。百姓が総立ちになろうとするのを入り込んでいた足軽達が杖で制する。組方の手に噛みつくなどして暴れた正覚も組み伏せらた。大声で役人に寄りかかるよう群衆に呼びかけるが、足軽共が固めたため群衆の反乱はできない。安賢は、群衆に向かい、事件の大悪首領の正覚を捕らえるが、今後は人に勧められても集会をしてはならない、農村潤助の方策は御卒去のため発表が遅れたのであって近日中改めて仰出されるのだから、よく合点して集会をしないように、と大雄弁で諭した。一同は村毎に申し合わせて解散した。安賢は捕らえた正覚をもっこに入れて担がせ、3日朝五ッ時(8時)前沢に引き上げた。

昨夜の集会の者が正覚を奪い返す相談をしているとの風評もあったが、その様子はなく、また、調査の結果徳岡村の3人以外は全員帰村したとのこと。仙台に護送される正覚を奪取するため下衣川で待ち伏せしているとの情報もあったが、4日に安賢が廻村するとどこも平穏であった。

徒党首領の居所は段々明らかになったが、藩の取調べ方針が明確ではなく、召し捕らえに踏み切ることができなかった。そこで、安賢は奇計を用い、集会の事ではない喧嘩口論の件として誘い出し、首謀者達4人を捉えて16日仙台に護送した。幸作は南部領に逃亡していた。



正覚は奪取の風説もあったので余党に知られないよう仙台に護送した。安賢が帰仙したのは5月23日だった。廻村に精根消耗し、3か月後に病死したが、恩賞は死後金山御繭三段下賜だけだった。
(続く)

■平重道『仙台藩の歴史3 百姓一揆』宝文堂、1972年 から
 (同書の第2章、第4章を中心とした。なお、10月10日の2件の記事は同書の第1章を中心とした。内容が重複しているが、著者の原典の違いのためである。)

■関連する過去の記事
仙台藩領寛政9年大一揆 (2010年10月10日)
仙台藩領の百姓一揆 (2010年10月10日)
■奥州市サイトから「 百姓一揆





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最終更新日  2010.10.15 23:09:39
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