仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2011.01.16
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カテゴリ: 東北
寛永20年(1643)6月13日盛岡藩山田湊に漂着したオランダ人10人が江戸に送致された。ブレスケンス号事件である。

オランダはスペインによる「金銀島探索」を日本侵略の意図と非難しながらも、自国としても関心を抱き東アジアの探索を行っていた。オランダ東インド会社は1643年2月、バタビアから2船を出帆させる。しかしそのうちブレスケンス号は嵐のため離別し、6月10日(陽暦)真水を求めて山田湾に姿を現した。

盛岡藩の記録によれば、北閉伊代官の注進の内容として、寛永20年4月22日沖に大船が見え、翌日近づいた漁船に大船から梯子が降ろされたので6人の漁師が乗船。菓子や酒で歓待されたが、翌日異国船は姿を消したという。在地の記録からは、この湾は下閉伊郡山田町大浦の集落近くとされる。

ブレスケンス号は再び食料と水を求めて6月12日(陽暦7月28日)山田湾に現れる。前回の来航を重視した盛岡藩は既に領内沿岸の巡視を派遣しており、迅速な対応を図る。陸地を見物すると見せかけて彼らを捕らえようという漆戸正茂の計略により、翌日に10人のオランダ人を誘き出した。彼らをなるべく船から遠ざけ、織笠の地で捕らえ、その日のうちに南閉伊代官のいる大槌に護送。一方ブレスケンス号は船長以下が捕らわれたことを知ると15日出港し台湾に戻っている。

船長ヘンドリック・コルネリスゾーン・スハープら10人は、さらに盛岡に連行されたが、道中でオランダ人であることがわかると藩の対応は好意的になり、17日盛岡でスハープらは南部重直に謁見している。重直は親しげに「オランダ、オランダ」と呼びかけ、彼らがキリシタンか尋ねたという。しかし、オランダ人たちは十字架や祈祷を厭い、さらに踏絵の銅板にも唾を吐いたため、重直は大笑いしたという。

スハープらは幕府から派遣された上使と通詞らが随行して江戸に護送される。将軍家光は南部重直に対して賞詞を伝え、随行した七戸直時、漆戸正茂にも拝領物を与えた。

江戸でスハープらは、大目付井上政重から、航海の目的、オランダとポルトガルの状況など、多岐にわたる尋問を受けている。長崎奉行から事件を伝えられた長崎オランダ商館長ヤン・ファン・エルセラックはが10月江戸に入り、身柄を引き受ける。

現在、山田湾の大島はオランダ島とも別称されている。町は平成4年、来航350年を契機に交流を深め、日蘭交流400年にあたる2000年に、オランダのユトレヒト州ザイスト市と友好都市関係を締結している。

■瀧本・名須川編『街道の日本史5 三陸海岸と浜街道』吉川弘文館、2004年 から





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最終更新日  2011.01.16 08:59:24
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