仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2011.10.05
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カテゴリ: 宮城
前谷地の駅から北の方に2キロばかり平野を隔てて和淵山が横たわる。平凡な一山丘だが山上の展望はこれはとおどろくほどすばらしい。標高は173.9メートルで、旭山の173.8メートルと僅差で、位置も旭山より北に寄っているのに、奥羽山脈と太平洋に対する展望は和淵山に軍配があがりそうに思われる。特に斜め右に松島湾が視界に入り、松島最大の宮戸島の全体が盆石のように眺められるのは和淵山だけではないだろうか。

太古、経津主(ふつぬし)命が常陸浦から八重の潮路を分けて和淵山のふもと舩沢に舟をつないで、山上の樹零峠に宮柱太しく建てて鎮座したといい伝え、これが延喜式内社の香取伊豆乃御子神社であった。延喜式神名帳にこれを牡鹿十座の一としてあるのは、宝亀2年、桃生郡の建置以前、和淵は牡鹿郡だったからであろう。これを中世、葛西氏の五代清宗が現在和淵の町の北の山上に移したという。

元来ここは大同2年に坂上田村麻呂が京都鞍馬から分霊勧請した貴舩明神の社地であった。祭神は晴雨を司る竜神クラオカの神で河上神とも称し、京都では加茂川の上流にまつられているように川の上流に祀る習わしであるから、ここは北上川の支流、迫川と江合川が集まるところだけに格好の位置であった。

むかしから12月晦日、塩カツオと鮭のハラコを神前に供え、3月の18日28日の両日氏子が社家に集会してこの供え物を相饗し、4月と6月の満月の日を祭礼としていた。迫、江合の二川は社の下で対岸の神取山の崖下に突き当たって渦を巻いていたので、これを明神巻と称し、水が輪を描いていたところから、むかしは輪淵といったという。和淵はその門前町で、東浜街道の宿場町でもあり、家格召出1600石の武田氏の采地であった。西隣の前谷地は家格一族570石の西大條氏の采地で、もと和淵山のふもと山根に屋敷を構え武田氏の廟所耕徳院もここにある。

■三原良吉『郷土史仙臺耳ぶくろ』宝文堂、1982年





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最終更新日  2012.06.28 20:35:05
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