仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2013.06.26
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カテゴリ: 東北
大湊を過ぎると、国道沿いの建物も少なくなる。やがて川内の町に入るが、思ったより密集した街だった。往時は地域商業がさかんだったろう。

地図にある傘松を見ようと、蛎崎地区の神社の庭にいた人に尋ねるが、知らないという。蛎崎小学校のそばのようですがと改めて聞くと、廃校になった小学校ならこの先だとやっと話してくれた。

たしかに、あった。 廃校の小学校の脇に大きな老松。これが傘松か。写真に収める。

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「菅江真澄の歩いた下北」という、たぶん統一されたシリーズの説明看板が、松の傍らにある。松の説明はないが、次のように書いていた。


菅江真澄が蛎崎を訪れたのは、寛政5年5月朔日(1793年6月4日)であった。下北半島に来る以前の数年間を「蝦夷が島」(北海道)で過ごしていた真澄は、松前領主の先祖にあたる蛎崎氏の城跡を見ている(『奥の浦々』)。
この城に昔、蛎崎蔵人信純という武将がいた。安藤氏の水軍を後ろ盾に、南部氏の本家である八戸根城の政経に戦を挑む。しかし、陣営の中に南部氏を手引きする者がいて、奥戸(大間町)から上陸した南部方に背後を突かれ、安藤氏の拠点があった渡島半島の上ノ国に逃れたと云う。南部側の資料に従えば康正2年(1456年)のことである。上ノ国花沢城の蛎崎季繁は下ノ国家政の娘を養女とし、武田信広を婿に迎えた。その子孫が松前領主となった。
真澄が蛎崎の里を過ようとすると、行く人が言うには、ここに鷺の湯という出湯がある。むかし火矢にあたって脛を砕かれた鷺が、この湯に入って日を過ごすうちに、癒えて飛び去った。それで、鷺の湯と名づけ、躰を打った人に効くと言っている、と。鷺の湯は、蛎崎の集落から北へ外れたところにある。いまは湯は温くなったが、眼に効くと言い、湧き出る丘の上に薬師を祀って、むらびとが護っている。


松やこの看板と、廃校の間には小さな道がある。錦帯城、錦帯城公園入口という木製の標柱があった。

さて、校庭の桜が咲いている学校跡が風情があった。

130595kakizaki3.jpg

むつ市サイトに 説明 があった。カラカサマツと呼ぶそうだ。不勉強な自分がカサマツと言ったから神社のおじさんには通じなかったのか。とにかく、由緒があるようだ。かつては高い木だった。街道の目印だったろう。





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最終更新日  2013.06.26 06:38:21
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