仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2014.08.08
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カテゴリ: 宮城
木地業とこけしの歴史や系統について、少し学んでみた。

■参考 柴田長吉郎『宮城伝統こけし』理工学社、1999年

■関連する過去の記事  木地師と東北を考える (2014年7月12日)

1 木地業について

こけしは東北地方を原産とし、それぞれ伝統を遵守した特色があるが、産地の多くは山深い温泉場周辺。昔からこけし製作の人は、原材料を求めるため山々を分け歩き、伐採地を見つけるとその周辺に仕事場を構え、そこで木工轆轤を挽いてこけしをつくっていた。轆轤(ろくろ)を用いて加工することを「挽(ひ)く」といい、作り出される物を「挽物(ひきもの)」という。本来、挽物は椀や盆などの生活用品が主で、こけしは技法を応用した産物といえよう。挽物を製作する人は木地師と呼ばれ、その業を木地業という。

木地業の歴史は古く、奈良時代にはすでに多くの木地師が都周辺に集まり、轆轤を用いて木製の小塔を百万基(いわゆる百万塔)量産したことが知られる。百万塔は、称徳天皇が陀羅尼経100万枚の製作を命じた折、それらを納める塔婆として製作され、畿内の寺院10か所に各100万基づつ納められたという。

そのころの木地業はすべて官営で、祭具などを主として製作したが、平安時代に律令制度が崩壊するとともに官営組織は消滅したと考えられる。官の庇護を失った木地業は、その後、近江国愛知(えち)郡小椋谷(おぐらだに、滋賀県神崎郡永源寺町)の筒井谷に多勢の木地師が集まり、惟喬親王を木地業の始祖とあがめる蛭谷(ひるたに)の筒井神社の統制下に、椀などの木地製品が作られた。その後、筒井神社のさらに奥の君ヶ畑金隆寺(高松御所)も、惟喬親王を祭って木地業の中心の地位を築き、木地師の信仰的中心を神社と競い合った。

筒井神社、金龍寺の拠り所を得て木地業は産業としての発展をみる。そのため、近江国周辺では原材料の確保が難しくなり、また木地師自体の生活形態が山中の移動を繰り返す性格も働き、より良好な原材料地を求めて全国に広がった。この動きに対して、統制元の小椋谷では、各地に広がる木地師の庇護が常に問題となったようで、時代時代の権力者に木地師を筒井神社または金龍寺の氏子として諸役免除、商売安堵などの認可を求め続けた。小椋谷にある木地師資料館には、朱雀天皇や正親町天皇の御綸旨、また足利尊氏や織田信長の免許状と称されるものが残されている。



伝によれば、平安時代に木地業は近江国を中心に各地に広まったが、東北地方には戦国時代末期に伝わったという。天正18年(1590)に、伊勢国松坂より蒲生氏郷が陸奥国会津に入封した際、氏郷が元来の出身地である近江国から木地師を連れてきたのがはじまりといわれる。近江系という。

その後、寛永11年に保科正之が信濃国高遠(長野県上伊那郡高遠町)から会津に移封した時も、木地師を胎動して木地業を行わせた。信州系という。

この2つの系統が主に東北各地に広がったと考えられるが、それ以外にも、津軽地方や南部地方では古くから土着の木地業が伝えられている。これらは筒井神社や金龍寺の影響を受けない、居木地師(いきじし)とよばれているが、どのような流れを有しているかは不明。

3 こけしの発生

これらの流れから東北でこけしが生まれたが、現在に伝わる系統は特徴により11を数える。土湯系、遠刈田系、弥治郎系、鳴子系、作並系、肘折系、蔵王系、山形系、木地山系、南部(花巻)系、津軽系。これらまとめて、こけしの発生時期は、記録的には江戸時代中期から後期となっている。

なぜこけしが生まれたのか。起源には諸説あり、いくつか挙げると次の通り。
(1)まったく新しい玩具として考案された
(2)他の玩具(おしゃぶりなど)から転化
(3)オシラ神信仰(養蚕、農業の神、男女一対のクワの木の偶像)などの信仰に関係
(4)性器、性的信仰に関係

以上のように民俗学的な考察も唱えられるが、確かなところはわからないのが現状。筆者(柴田氏)としては湯治場近くの木地師が湯治客の子の玩具として作り始めたと考えている。ともあれ、東北固有の産物と思われるので、東北に住む人々の心情が大きく関わっているのは確かだろう。



こけしの語にも諸説。にわかに判定しがたい。
(1)頭が芥子(けし)に似ている
(2)コケシとは子供のオカッパの髪型を指し、身の回りの人形で一番安いものをケシ坊主と呼んだことなどから(柳田國男説)
(3)木形子(こげし)。木で作った人形の意味。仙台で言われる「きんぼこ」が木のボッコ(木のオボコ)としていることからもうかがえる。遠刈田では、コゲシのコゲは「削ぐ」の意味で、木を削って作る人形のこと(天江富弥説)
(4)木削為(三原良吉説)


どれもこけしの特徴をよく踏まえているが、どれが正しいとは難しい。なお、この状況のためか、こけしは、木形子、小芥子、木芥子、木削子、小筍子などさまざま表記された。そのため、昭和15年鳴子温泉で開催された全国こけし大会では、以後ひらがな表記に統一するとの決議がなされ、徐々に定着した。

(次回に続く)
木地業とこけしの歴史を考える(その2) (8月10日)





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最終更新日  2014.08.10 09:45:30
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