仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2016.06.18
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カテゴリ: 国政・経済・法律
東京都知事選挙が行われることになって、誰が立候補するのかに関心が移っている。ところで、2012年10月に石原元知事が4期目の途中で国政復帰のため辞任して以来、後継の猪瀬前知事が1年ほどで辞任し、舛添現知事は今度は自らの公費支出や政治資金の問題で1年半ほどで辞任となる。辞任と選挙が相次ぐ形で、都知事選はこの6年間で4回行われる勘定になる。

この事態に関連して、あまり注目されてはいないだろうが(読売新聞が15日に報じた)、河野太郎行政改革防災担当大臣が独自の主張を展開している。都道府県においては知事と副知事をセットで公選して、知事辞職の際は副知事が残任期を務めるべし、との意見だ。17日の閣議後の会見で、地方自治制度や選挙を担当する高市総務大臣は、記者の質問に答えて、憲法では自治体の長は住民の直接選挙と定められていることとの関係で、慎重に検討する必要があると発言。河野氏の意見を否定する趣旨である。

では、その河野大臣の主張とはいかなるものか。14日の会見での発言だ。舛添知事が自信の政治資金流用問題で不信任決議を受けそうな見通しだが、どう対処すべきと考えるか、との共同通信の記者の質問に対して、次のようなことを言っている。
(内閣府ホームページから、おだずまジャーナル要点要約)

・2014年1月に猪瀬氏が辞職した際に、5千万円もらった知事が辞任して50億円かけて都知事選するのはいかがなものかと思った。当時、山口県知事も病気で辞職して同様に選挙になった。
・知事や指定都市市長が辞めるケースは結構あるが、そのたびに選挙コストかかる。
・しかも、短期の選挙戦になるのでノーウィッシュで知名度選挙みたいになるのは良くない。
・数十日間で次の知事を選べといわれても、何が争点で、東京の抱えるどの問題に候補者はどう対応するのか、が伝わらないまま知名度のある人が次の都知事になるのはおかしいだろう。
・党内でも提言したが、知事と副知事をセットで選んで、知事辞任の残任期間は副知事がやることにする。2人セットで都道府県民に選んでもらうのが良い。


河野氏の主張の根拠は、(a)相当のコストを犠牲にすることと、(b)突然の選挙でまっとうな候補者選択の機会にならないことの2点に存すると言えるだろう。(b)については、たしかに、東京都の知事選挙はおよそ他の道府県と異なり、大衆票が鍵を握るなどの特異性が際だっているように思われる。ただ、突然の辞任という事情がそれを一層浮き彫りにする事情はあるとしても(特に候補者を擁立する側の事情)、通常の任期満了選挙についても言えることでもあろう。青島氏が当選した歴史もある。

また、前者の(a)コストの点については、たしかにわかりやすい根拠だ。特に、今回のように辞任する本人に責めがあるようなケースだと、当人のせいで50億円を無駄に使うというような庶民的話題になるのもうなずける。だが、そんな大衆迎合的な論拠で直接民主主義の最大の機会である選挙を邪魔者扱いするのは果たして適切かどうかは問題だろう。いまジャーナリズム的には舛添知事の個人の資質の問題とされているが、知事としてこの人を選んだのは、まさに主権者(住民)なのだ。辞職や不信任決議や解散や解職などの制度が用意されていることからも、任期の4年ごとの選挙以外のイレギュラーな選挙だって、いわば民主主義のコストとして織り込まれるべきではないかというのが、おそらくは制度論の側からの一応の反論だろう。あまりコストを強調すると、議会による不信任や住民運動による解職などのダイナミズムも封じられるかも知れない。

おそらく、河野氏は、米国大統領選挙のしくみなども参考にして、都知事選の実態やコスト感覚などから大局的に考えているのだろう。ひとつの提案としてはありうるものだとは思われる。

高市総務大臣の「憲法規定があるから」というのは、官僚作文に依拠しているのだろうが、たしかに憲法93条2項との関係は一応検討すべき事柄になるだろう。

では、もし河野氏のように「知事選挙は必ず知事と副知事のセットで行い、知事辞任など(死亡や欠格も含めるか)の際には自動的に副知事が知事となる」という立法を行おうとする場合に、果たしていかなる問題が生じるか。

まず、やはり、長や議員は住民による直接選挙で選ぶことを定める憲法93条2項が問題になる。同項の解釈に際しては、長は住民の「直接選挙によるべきこと」が憲法の要請とされるからだ。

憲法93条2項に反しないとみる説もありうるように思う。すなわち、予め「知事が欠けた際には副知事が昇格する」との了解の上で副知事を知事とセットで直接公選するというのであれば、自動昇格によって知事に就任することも、93条2項の求める「直接選挙」の範囲に含まれると解釈する余地もあるのかも知れない。

これに対して、93条2項に反し認められないとする論拠は、
(1)予断なく(セットではなく)単純に一人の「長」を直接公選することが要請されている
(2)条件付きの有権者の承諾ではなく、「就任するその時の」承諾が求められる
などが考えられる。さらには、



(4)かりに副知事を必須の公選職と立法する場合、(単なるナンバー2という事実上の権能行使だけでなく)有権者が期待すべき、知事の職責とは別個独立あるいは知事を牽制するなど何らかの意義のある職責を負うものであるべきだろうが、そのような役割についての認識や合意がまったくなされていないこと

などの論拠も援用されるかも知れない。もっとも、(3)(4)の点は憲法が禁止しているとまでは言い切れないようにも思われ、とすると立法政策の問題だろう。

(4)の点について補足すると、現行地方自治法では副知事はあくまで知事を補佐する補助機関に過ぎず(条例で不設置も可能)、議会の同意を必要とするが、知事と独立あるいは知事の職務執行を牽制するような制度上の権限は何ら有していない(職務代理者となる程度)。いわば制度上は知事の権限の枠の中にあるのである。(完全ではないにせよ)枠の外にある警察本部長や教育長などを公選とする(憲法上の要請とまでは解されないが立法では可能だろう)のに比較すると、必要度は下がるというべきであると思われる。

とすると、やはりセット公選の構想は、自治体のあるべき組織体制というよりは、コスト論や選挙の(不)効率性を重視したものということだろう。

憲法問題に関して参考になるのは、93条2項の解釈において、首長の公選制が要請されている(間接選挙は認めない)のは当然だが、そもそも首長の必置までを要請するものではないとする学説があり、この解釈に立てば地方自治法を改正して、公選の知事という制度にかわって、議会やその任命する者(例えばシティ・マネージャー)が執行機関となることは可能である余地がある。実際に、93条1項は「法律の定めるところにより(中略)議会を設置する」と定めるが、議会の設置を憲法上必須の要請としたものとは解釈されていない(現実に地方自治法は、議会を置かず条例により有権者全員の総会(町村総会)を設けることを規定する)。このように、93条2項についても、その核心は直接公選制にあり、首長や議会などの組織のあり方については、憲法が(少なくとも長や議員の語を用いている以上、その存在を想定ないし奨励しているとは言えるとしても、)長なる執行機関または議会なる合議機関を必ず置けと言っているわけではないから、執行や合議のための組織のあり方については、憲法は一定の立法裁量を許しているという見方が可能かも知れないことになる。



さて、河野構想は広がりを得られるか。

憲法論議や自治制度の観点で見ると、高市総務相の答弁は否定的だが、おそらく、地方自治制度の従来の論議の図式には全くないような異次元なものを取り上げるわけにはいかないという官僚側の原稿を読んだだけだろう。異次元の異論と書いたが、私が不勉強なだけで、実はこれまで地方制度の議論で俎上にのぼったのかも知れない。知事の度重なる辞職という場合よりも、長の不信任と議会解散などで選挙が連発されるような場合はたびたびクローズアップされたから、これにともなうコストや行政の混乱停滞を回避するような制度の可能性について議論がなされてきているのかも知れない。

■関連する過去の記事
大衡村の議会解散を考える (2015年3月18日)

副知事の存在や機能は一般にどう認識されているだろうか。膨大な事務を抱える都道府県にあって、トップを補佐しつつ、あるいは政治情勢と行政ニーズの相克する場合にいわばクッション役となって、事実上は組織を統率して地方行政を牽引する、という姿だろうか。一般に、当該都道府県職員OBが就任したり中央官庁の職員が出向で務めることが多いのは、職員組織の統轄や行政実務の実質的な調整を担うという側面を反映している。また、この事実上の重要な職責に着目して、長が自らの施政方針の実現のために主体的に任用することもある(民間人や政治家の起用など)。このため、自治体事務の管理執行の責任はすべて長が負う建前ではあるけれども、副知事の地位の行政上や政治上の実質的な重要性から、議会の同意を必要としたもの(住民リコールの対象にもなる)と考えられるだろう。

少なくとも現時点では、副知事が制度的に「次の知事」になるポストだという認識は、議会など政治の側にも、住民の側にもないだろう。実際に副知事から知事に立候補したり、知事が後継指名に副知事を挙げることはあっても、あくまで多数の選択の中の一つだ。これを、立法で(上述の憲法論議をクリアする前提で)セット選挙と自動昇格なる制度を導入するとしたら、政治側や有権者はどう考えるだろうか。

政界の側では、勢力(与党、野党など)の内部が一本化するような配慮のもとに正副知事候補を擁立することが、まず考えられる。米国大統領選のように、与野党の指名を受けた大統領候補が、政党内の勢力バランスをみて副大統領補を指名するような図式だ。おそらくは、職員OBや中央省庁職員は擁立されにくくなるだろう。住民の側としては、どうだろうか。少なくとも、選挙に際して副知事候補の「独自の」政策などの訴えはなされないだろうから、人物の知名度やイメージぐらいしか認識しない可能性がある。

自治体の内部で考えると、副知事が政治任用の側にすっかり振れてしまって、調整やクッションの役割が期待できなくなり、選挙に際する争点を中心にトップの意向が直裁に行政組織を動かすことになり、行政の継続性中立性のような側面は後退するのではないか。さらに、都道府県議会としても、公選の知事の施政方針を質しつつ、職員組織には法制面や予算面での実行可能性の検討などを迫るなど、ある意味で県政チェックの実効的な作法が積み重なってきたと言えるように思うが、このようなチェック手法もやりにくくなるかも知れない。もっともこれらは、程度の問題で、本質的な変革というべきものではないかも知れない。

以上のようなことを考えると、やはり、河野構想の核心は、やはり自治の組織論ではなく、選挙コスト回避の観点と選挙の効率性(知名度選挙に流れるのではなく真っ当な候補者をじっくり選ぶという意味での効率性)なのだろう。しかし、効率性の点に関しては、逆に副知事候補に知名度ある人を挙げて(ドリームチケット)、当選可能性を高めるという政治側の行動が容易に予想されてしまい、むしろ河野氏の問題意識からかけ離れていく気もする。

重要な問題提起だが、まずは自治の組織論としてしっかり検討されねばならないと思う(その上で、或いは同時に憲法論議も)。

今回の舛添辞任については、都民には申し訳ないが、住民の判断のツケというしかない。本当にコストの点だけを重視するなら、辞任させないよう議会や都民が声を上げるべきことだ。住民に非があると言っているのではなくて、政治組織や選挙制度について合意がない以上、ルールに従わねばならないということだ。もちろん、辞職や不信任の判断をする長や議会においても、コスト論を十分考慮して行動すべきことは当然だが、長も議会も判断は「選挙」だったのであり、その判断はルールに反していないのはもとより、都民の多くの支持に依拠してもいるだろう。

選挙のコストや効率性は重要な問題だ。だが、表面的や即応的な感覚の論議ではなくして、地方自治のあり方に根ざして考えていかなければならない。





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最終更新日  2016.06.19 12:17:20
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