仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2023.08.16
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カテゴリ: 東北



(下記文献、下記のサイト、などから。)

■関連する過去の記事
感染症と人類の歴史 (2023年08月15日)
■参考とした文献
茂木誠『世界と日本がつながる 感染症の文明史 人類は何を学んだのか』 2023年、KADOKAWA
■松前町サイトの 説明
説明
■アイソトープ・ニュース723号(医療史跡)​ 五郎治と久蔵
■松木明知「 本邦牛痘種痘法の鼻祖中川五郎治研究の歩み(上) 」(日本医史学雑誌)

中川五郎治(1768-1848)は、日本の種痘の祖とされる。陸奥国川内村(現むつ市)に生まれ、松前の商家に奉公の後、択捉島内で事業に携わる。択捉島のアイヌ人は松前藩に帰順しており、五郎治もアイヌ人の娘と結婚している。

(五郎治の人物伝 =函館市文化・スポーツ振興財団サイトから)
明和5年、陸奥国下北郡川内村(現・青森県川内町)で、小針屋佐助の子として生まれる。若い頃から蝦夷地に渡り、松前で商家に奉公し、寛政11年松前の豪商栖原庄兵衛の世話により漁場の”稼ぎ方“としてエトロフ島に渡る。働き手だった五郎治はやがて番人から番人小頭になる。文化4年、ロシア人・フボストフは船2隻を将いてエトロフ島を襲撃、番屋を荒らし、物資を奪い、番人らを捕えてシベリアに連行、その中に40歳になった五郎治もいた。

シベリアの抑留生活は5年にもおよんだ。この間、逃げ出したり、捕えられたり、仲間に死に別れたりしたが、9年、突然、松前へ送還されることになる。というのは、フボストフらの暴行後、警備を固くしていた幕府の役人が、千島方面を測量に来たロシアの艦長ゴローニンを捕えて、松前に抑留した事件があり、その釈放を求めて日本に行く副艦長リコルドが、漂流民を連れて行くことになり、その中に五郎治が加えられることになったからである。

イルクーツクを出発してヤコウツクに向う途中、商人の家に一泊した。その時、書棚に飾られていた本の中に種痘書を見つけ、興味を引かれるままその本を貰いうけた。5年の抑留生活でロシア語が読めるようになっていた五郎治は、この本で種痘が恐ろしい天然痘を予防することを知る。

その時、幕命で松前に来ていた幕府の訳官馬場佐十郎がこの種痘書を見て驚き、早速翻訳して文政3年「遁花秘訣」(とんかひけつ)と題し、わが国最初の種痘書となった。30年後の嘉永3年には、利光仙庵の手で更に翻訳し「魯西亜牛痘全書」(ろしあぎゅうとうぜんしょ)と改題して出版された。

五郎治は後に足軽となり、松前や箱館に勤務したが、文政7年天然痘が流行すると実際に種痘術を行ったのを始め、更に天保6年、12年など2度にわたって実施して多くの人々を救った。五郎治の実施した方法は天然痘の種苗を大野村の牛に植え、その痘苗を男子は左腕に、女子は右腕に、それぞれ一箇所ずつ植えたといわれる。松前、箱館の土民は五郎治の施術を受けて難病を免れ得たものが多かった。

五郎治はこの方法を箱館の医師白鳥雄蔵、高木啓策、松前藩医櫻井小膳等に伝え、白鳥雄蔵は秋田にいたりこれを藩医に授けたといわれる。弘化5年9月27日、わが国種痘術の創始者・中川五郎治は福山において数奇な一生を終えた。享年81歳であった。

明治18(1885)年、72歳になる田中イクという老婆が11歳の時、五郎治に種痘してもらったという。逆算すると文政7(1824)年にあたり、五郎治がシベリアから帰されてから12年後になる。五郎治が種痘を施した最初を文政7年としても、長崎でオランダ医師モーニックが、始めて種痘に成功した弘化6(1849)年に先だつこと実に25年も前ということになる。


(ゴローウニン事件について=松前町サイトから)
幕府が松前藩を梁川に移し北方警備を強化している中、文化八年(1811年)千島列島などの測量を命ぜられたロシア軍艦ディアナ号が国後島沖にやって来ました。国後に上陸したゴローウニンら八人はたちまち捕らえられ、船に残った副艦長リコルドは南部藩と砲撃戦を行いましたが、オホーツクへ引き返しました。

ゴローウニンらは松前に連行され、取り調べを受け、捕虜として抑留されることになりました。翌年には脱走を試みますが、失敗に終わり再びとらわれの身になっています。この文化十年八月にリコルドは、中川五郎治や6名の漂流民とともに国後に来て、ゴローウニンの釈放について交渉しましたが許されませんでした。たまたまそこへ高田屋嘉兵衛の観世丸が現れ、嘉兵衛と4名の水夫を伴ってカムチャッカに帰港し、ゴローウニンらとの交換を申し入れました。翌文化九年九月リコルド副艦長の指揮するディアナ号は箱館に入港し、ついにゴローウニンらは高田屋嘉兵衛と交換、釈放されました。この後しばらくの間、北方は平穏になりました。


(中川五郎治の功績=同上)
天然痘は古くから有効な治療法が見つからず、死亡率が高く非常に恐れられていた病気でした。その予防法である「種痘」を、ロシアから伝えたのが中川五郎治(1768~1848)でした。

五郎治は南部藩領下北半島川内村の出身ですが、いつ蝦夷地に渡ったのかは分かっていません。やがて彼は、栖原屋庄兵衛の雇いになり択捉島の漁場で働いていましたが、ロシア船が襲撃してきたときにアイヌ語を覚えていたため、シベリアに連行され6年間のロシア生活を送りました。文化九年(1812)、五郎治が45歳の時「種痘書」を入手し医師について種痘方法を学びました。

五郎治の最初の種痘手術を受けたのは、函館大町の商人田中正右衛門の母田中イクで、十一歳の時(文政七年 1824)だと言われています。五郎治の晩年の記録は明らかではありませんが、彼を通して渡ってきた種痘法はその弟子たちによって伝承されていきました。

不治の病として恐れられた天然痘を治す種痘法は、当時の微妙な日本とロシアの国際関係がもたらした歴史的偶然の所産であったといえるかもしれません。



当時の蝦夷地は、和人が持ち込んだ天然痘が猛威をふるっており、アイヌ人が山に逃げてしまい、開発のための労働力が不足していた。開発促進のためにも種痘が必要だった。五郎治の日本初の種痘接種とその効果を確かめた松前藩は、アイヌ人に対する集団種痘を実施し、流行を収束させることができた。

松前公園には、没後150年の1998年函館市で日本医史学会が開催された際に建立された中川五郎治の顕彰碑がある。また、函館市の高龍寺に墓があるという。

なお、松木氏(上掲論文)によると、名は「五郎次」の表記が正しい。


傘松(むつ市旧川内町) (2013年6月26日)
第一田名部小学校、第一川内小学校、第一田名部街道踏切 (2013年7月5日)





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最終更新日  2023.08.16 14:31:16
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