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終わったのに、しつこくつぶやくのはナンだけど・・・。和宮の像を隠した人たちは、終戦後、何を思っていたのだろう。戦争が終わったので、金属供出はないけれど、GHQに睨まれない様に、と思って、隠した銅像を、ずっと表に出せなかったのかもしれない。でも、多分?GHQは、須磨まで監視していなかっただろうし、銅像のモデルが誰であるかを説明したところで(皇族だと知っても)、アメリカ人には解りはしなかったと思う。・・・つまり、銅像を元の所(学校の校庭)に、戻したくても戻せなかったのか?戦後7、8年のうちに、時代は激動、(戦後の混乱期)そろそろ墨で塗られた古い教科書も消え、新しい価値観が、世間に頭をもたげ始めた頃・・・日本女性の伝統ある美徳保持をと願われた、和宮の像は、居場所を失ってしまったのか、と。新しい場所に、新しい意味を持って置かれる方が、像を隠した人達にも、和宮の像にも、幸せだったのかもしれない、ということか。(「皇女和宮の像」をお祀りすることは、GHQより、日教組の方が難癖をつけそうな気がする)だけど、戦争から彼女の像を守ろうとした人たちは、『御国の為』という大義を捨てて、小さいながら、自分の正義を貫いたわけで。その価値観と正義を、再び世に出したいと思う気持ちは、分からなくもない。だから、戦後8年ほども経ってから、和宮の銅像を、日の当たるところに置く事の出来た人達の(木陰ながら)、さぞホッとしたであろう心情を思うと、なんだか少し、可笑しくなる。それを可笑しく思うことは、相当不謹慎だと、知ってもいる。・・・和宮の像を秘匿している人たちにとって、この八年間が、一体、どれほどの葛藤を抱えた月日だったのかと思うと。勿論想像に過ぎない。像が、寄手墳・身方墳のあった、木の鬱蒼と茂る、狭い荒地に遠慮がちに置かれるに至った経緯は、どこにも資料が残っていない。あるいは、忘れられる寸前だったかもしれないし、世間に知られぬよう、処分されそうになったかもしれない。色々、想像せずにいられない。(※ 年数を間違えていたので、誤字と共に修正しました。南洋植物パークの設立年数と寄手墳・身方墳の設置年数を間違えていました(汗))
2014.01.31
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りっちゃんにバナナを与えると、かごの中なら、器用に足で持って食べるのですが、私の肩の上だと、むっちゃむっちゃ音を立てながら、嘴だけで食べ、嘴からあふれたバナナは、私の肩でフキフキします。・・・・・・洗ったばっかりの私のカーディガンが、バナナの匂いがするよう。><************************さぁ、そろそろまとめに入らなければ。安徳天皇行在所跡 posted by (C)ぺぺる南洋植物パーク跡地より、10分もかからないところに、安徳天皇の行在所跡地があります。安徳天皇が、都落ちする途中に滞在した場所だと伝わっていますが、特に古典文献に載っているわけではないようです。当初は、ここを見ることが目的の一つだったのですが、私はその隣・・・同じ敷地内の比較的新しい祠の中のものに驚きました。和宮です。一の谷 和宮の像 posted by (C)ぺぺるおお、此処にありましたか。そういえば、そんな事が書かれていたような気もする・・・。和宮と言えば、国の為に望まぬ結婚を強いられた気の毒な方、という言い方がありますが、徳川家茂は和宮を大切にしたそうですし、波乱万丈の人生を送り、御歳32才で亡くなられはしましたが、他人から評価されるのも変ですが、良い人生であったのではないか、と個人的には思います。この和宮像は、神戸市内の、とある三つの高校の校庭にあった、三体のうちの一体だそうです。二宮金次郎さんのように、当時は、尊敬すべき婦女子の鏡だったのですね。第二次世界大戦時、金属供出を免れる為に、有志達の手で秘匿され、戦後、『寄手墳・身方墳』が建てられた折りに、『寄手墳・身方墳』の間に建てられたのだといいます。参考:兵庫県立夢野台高等学校wiki何故、『寄手墳・身方墳』の間に建てたのでしょう?慰霊塔といえ、敵味方であったことを考慮に入れた結果でしょうか?何の資料も残っていない以上、どうしたって憶測の粋を出ない話です・・・。一の谷には、もう禍々しい空気は残っていません。(此処より海の方にある『戦の濱』古戦場跡では、二月の・・・いつだったかな?・・・夜、馬の嘶く声が聞こえる、という、怪談めいた話はありますが。)昔(といっても戦後)の人が、「戦」と聞いて、どの戦を思い浮かべたかを想像するに、『一の谷の合戦』ではない、のではないでしょうか。であれば、『寄手墳・身方墳』の間に、悲運のお姫様を置いた人は、(恐らく、発案は塩田富造氏ではない、と思う)終戦して尚、ちぐはぐな状況下にある「元」敵味方を憂いて、巧く調和をもたらす期待を込めていたのではないだろうか、という気がします。和宮は、朝廷と幕府の衝突を回避させ、慶喜の助命、徳川の家名相続を図りました。但し、置いた方には申し訳ないですが、もし、今も塔と並んでいたなら、見た目のセンス的には、・・・最悪な気も(苦笑)。平成12年に、雨曝しだった像は、山の中から、今の公園内に移されたのだそうです。・・・なんというか、これら一連の話を纏めようとすればするほど、何処か落ち着かない気持になるのは、『戦い』をキーワードにしながら、時代もシチュエーションも全く違うという、絶対に噛み合わない話を、『歴史』という一連の流れの中においているからなのでしょう。元々、一つの話にしようというのが無理がありすぎる。これで、私のエセ歴女な歴史探索は、ひとまず終わり、私は、あの60年物の南洋植物たちに思いを馳せながら、熱を冷ましました。しかし、キーワード『和宮』でとある引っかかりが消えず、先日までに、『徳川将軍家十五代のカルテ』(篠田達明著)を読み終えました。現役のお医者さんから見た歴史人物というのも、誠に面白い。純粋で綺麗な「おはなし」じゃない「話」は、リアリティがあり、それもまた、ある一定の推測の粋を絶対出ないとはいえ、興味深いものではありました。これも、一冊の本になっているものの、ゆうに200年余を纏めたものなんですねえ・・・。ゆっくり紐解けばどんな面白い話があるだろう・・・・・・・・・興味が尽きません。現実からの逃避行動のようでありますが、もう楽しくてwとはいえ、今回私の元々の計画は、地元源氏平家の縁の地を訪ねることにあったのであって、・・・楠公に心酔した実業家のおじさまのことや、閉園放置された植物園のこと、そして、まさか江戸時代の和宮を模した銅像から、大戦後に思いを馳せる事になろうとは。・・・さて、次は何を調べよう。
2014.01.28
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義経道 posted by (C)ぺぺる須磨、須磨と軽くローカルな地名を挙げましたが、それは皆さんにとって、私が、とある政令都市の、一地方を聞かされて途方に暮れるのと同じ事、ですね。・・・兵庫県は神戸市で有名な、海水浴の出来る海岸があるところ、です。隣の区にも海水浴場はありますが、・・・名前が一番知られているのは、此処じゃないかな。百人一首に、淡路島 かよふ千鳥の 鳴く声に いく夜ねざめぬ 須磨の関守との、有名な句がありますが、あの『須磨』です。いにしえは流刑地、今は海浜公園を中心とした観光地、と言ったところでしょうか。先に述べたように、歴史的な遺構が数多く残る土地でもあります。****************さて、寄手墳・身方墳です。楠正成は、鎌倉時代末期から南北朝時代の戦乱の時代を生きた武将です。公家政治では武士を統制できない、と時代を見切りながら、後醍醐天皇の大恩に殉じた、日本三忠臣のうちの一人です。神戸の湊川で足利軍と対峙し、敗れて自刃し、死後500年を経て、神に列せられた方です。(神戸には、楠公を祀った神社、『湊川神社』があります)彼は、所謂悪党豪族であったり、忠義にあつい天才軍師であるとされるお方ですが、今一つ、その生涯は判っていません。が、人に好かれる清廉な性格だったらしく、(三徳を備えたと評される)今日まで、非常に尊崇される事の多い神様となられました。その生前の性格を顕すものの一つが、大阪の千早赤坂村(楠正成の生誕地)の寄手塚・身方塚なのだといいます。当地で起った合戦で戦死した人々の霊を弔うために、楠公が建てた五輪塔と言われています。寄手塚・身方塚 (よせてづか・みかたづか)(大阪観光局サイト)名を、敢えて「敵」とせず、「寄手」とし、味方(身方)の塔より大きな塔を建てた事が、楠正成の奥ゆかしい性格を表わしている、のだと言われています。話は戻り、南洋植物パークを造った塩田富造さんも、楠正成のたいそうなファンだったようで、先の大戦中、被災した神戸の湊川神社の復興に尽力しているため、湊川神社の宝物殿に胸像があるほどです。なるほど、一の谷に「寄手墳・身方墳」を建てたのは、楠公さんの生きた時代とは違うけれど、合戦跡地と言う事で、多くの死者が出ていることが推察されること、当時は大戦後と言う事で、世界中の数多の死者に思いを馳せた結果、塩田さんが、「寄手塚・身方塚」を建てた楠公さんに倣って建てた、慰霊塔だったのでしょう。(楠公の精神に感動、と言うのはこういうことでしょう)・・・と、ここまでは、何とか色々なサイト様からお力を得て、知る事が出来ましたが、(勿論、文章にならないところもあると思いますが、ソースが乏しく、これ以上は無理でした)では、どうしてあの場所から、塩田さんの建てたという、「寄手墳・身方墳」は、立看板と土塁を残し、消えているのでしょうか?これは、昭和60年ごろまで現地に建っていたらしい、と言う記述を見つけただけで、完全に失尾(苦笑)しました。何処へ行ったのか・・・何の目的であったのか・・・・・・知りたいところであったのですが。(続く)
2014.01.21
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去年の秋の終わり、私は、地元の源氏平家の縁の地を歩いていました。ご存知の通り、兵庫は、平安時代末期、平清盛が京の都に代わる福原京を造った場所。半年で夢破れ、元の京都に遷都した上、福原京の建物群は木曽義仲が焼き払ったため、現在は全体像がはっきりせず、清盛の造った、貿易するための要所だったいう経ヶ島の在り処まで、不明となっています。歴史を今に伝える遺構や資料は、実に沢山あるのです。私の生活圏にも、あちこちに歴史に縁のある場所がありますが、私にとって縁のある、鵯越(ひよどりごえ)と、『義経が、坂落としを行ったのはどこなのか?』論争を二分して繰り広げる「一の谷」へ、一度行ってみたいと思っていました。前置きが長くなりましたが、今回の山歩きは、そういう訳で決行したのであります。しかし前述の通り、今回私は、義経より、清盛より、心揺さぶられるものを見てしまい、この日記も、当初の本題から逸れていくのですが。旗振山より須磨の海岸を望む posted by (C)ぺぺる***************山を降りた後も、源氏平家に縁の場所を訪ね歩き、ま、それはそれで面白かったのですが、帰ってから、私は、幻の南洋植物パークや、諸々の謎に取り憑かれてしまいました(笑)。・・・調べるのは簡単でした。 どなたかがウィキペディアにアップしてくれていましたし、同じ感動を持つ方が、訪問記をネットにアップして下さっていましたから。てか、そんなにメジャーなのか!?^^;南洋植物パークとは、その昔、神戸市で貿易会社を経営していた塩田富造という人が、「ドミニカへ移住したが、事業に失敗して帰国した人たち」の救済を行わなかった国に憤慨し、彼らを救済するべく、私財を投じて造った施設なのだそうです(1964年)。塩田さんは開園した翌年に亡くなり、後を継いだご子息は色々ご苦労があったようです。何しろ、救済資金どころか、黒字が出せないまま、当初の目的の就労支援も出来ず、20年後に閉園、とあります。当時東洋一を謳ったドーム温室も傷み、取り壊され、6000種もの南洋植物は、他の施設に移されたものの、残された植物たちがそのまま生育を続けた結果、今の様なジャングル状態になったと言います。当時を知る人は、とても立派な建物だった、と。・・・今は、パーク跡地は売却され、何処か別の会社の持ち物の筈です。知りませんでしたが、現在、神戸の異人館と言えば中央区の北野ですが、須磨区は昔、異人館が幾つもあったのだそうです。私が通った道に、コンクリート製の古い門の跡がありましたが、ネットの中で、それはダンロップの英国人倶楽部の跡地である、と言う記述を見つけました今や、ダンロップは、住友ゴム工業のタイヤブランドなんですねえ・・・。神戸に最初の工場があった、というのも驚きでした(今は神戸工場は閉鎖され、福島へ移転)。市が、北野の異人館の梃入れをして、観光地として売り出した一方で、須磨区のそれは寂れ、無くなっていったのだそうです。私は、ただただ木に圧倒されて、この日、写真もろくに撮っていませんが、何年か前に、動画をyoutubeにアップしている方がいるので、リンク貼らせて頂きましょう。須磨南洋植物パークは実在した(開始から半分位までは、自転車でパークを探し回る様子しか映ってないです)・・・この方は、須磨の西海岸化、を夢見て、西海岸には南洋植物が要る!件の場所に、タダで手に入る南洋植物(ヤシ)が沢山あるらしい!ということで、南洋植物パークへと赴いたそうです。続編出てないみたい・・・残念。 奥のほうのリポート見たいのに。動画では、辺りは、少し清掃されていたように思えます。この頃(2012年)、マンション建設の話が持ち上がっていたからでしょうか。今はもっと鬱蒼としていた様に思います。 マンション計画はどうなったんだろう・・・。人知れず歳月を重ねた植物群は切られて、いつか、あの場所はマンションになってしまうんだろうか・・・。google earthで南洋植物パーク跡地を見てみると、本当にジャングルです。(笑)植生が他と違っているのが、宇宙からの写真でも分かるのです。自分の意思で移動できない植物群が、山に食い込み、街へ迫出して広がる様に、なんともいえない感慨を覚えずにいられません。塩田さんは、志半ばで南洋植物パークを残して逝かれた。原動力は人を想う気持ち、だったかもしれないけれど、その後内実が伴わなかった。・・・それもまた、仕方の無い事。では、塩田さんと寄手墳身方墳、とやらの関わりは?・・・(続く)
2014.01.16
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※今日は、長文になります。^^;物凄くつまらないですが、私が見てきたことを、備忘録的に記しておきたいので・・・。どうぞ、スルーしてくださいませ。^^*************************************************************一の谷 posted by (C)ぺぺるそれは、源義経が逆落としをしたと論争のある場所より、そう離れていないところでした。寄手塚・身方塚案内板 posted by (C)ぺぺる須磨区旗振山、一の谷を、安徳帝内裏跡地へ下る山道を降りた所で、『寄手墳・身方墳』と書かれた立て札を見つけました。・・・其処に書いてあることを読んでみたのですが、何一つ意味が分かりません。曰く、大阪に全く同型同寸の『寄手塚、身方塚』があること。(どうやら楠正成が建てたらしい・・・でも何の為?)曰く、此処よりもっと下った所に建っていたらしい、南洋植物園のオーナーが、楠正成の精神に感激して、(←唐突な説明で理解できない)第二次世界大戦の講和条約を記念し、昭和29年に、合戦に縁のある一の谷に、『寄手墳・身方墳』を建てた事。そんな事が記されており、締めくくりに、『幾多の戦いで亡くなった人々の霊安らかに!平和な時をいつまでも!(立て札原文ママ)』・・・全く分かりません。楠正成?植物園?大阪?一の谷?塚?・・・どんな符丁も見当たりません。そして、?マークを乱れ打つ最大の要因は、そこにある、と記された『寄手墳・身方墳』なるものが、土台以外見当たらないためでした。背の高い雑草がはびこり、辛うじて、何かが建っていたらしい土塁のようなものは認められても、それに、何か畏敬の念を感じるような痕跡は、ちらとも残っていません。マムシの存在を警戒するレベルの、薄暗く、狭い荒地でした。そして、更に訳が分からなかったのは、『和宮像』と記したものがあったこと。そんな像はどこにも見当たりません。 ・・・あったとしたら、どうして? ・・・で、どこへ行ったの?私は、暫く其処に何かを見つけようと佇んでいましたが、やがて、諦め・・・。首を傾げながら坂道を降りてくると、今度は別の疑問に行き当たりました。六甲山系に、何故か竹の植生は無いのだと聞いていました。それが、その場所には至る所に竹が沢山生えています。 ・・・人の手で管理されているようには見えない竹林。???・・・何故?と思いながら、更に坂を下ると、「うおっ!!」思わず声を上げて空を仰ぎました。ヤシ科の植物が、辺りに沢山生えているのです。しかも、相当年数を経た、どれも立派な木ばかりが、所狭しと!日本に自生しているヤシも数種類あると聞きます。 ・・・でも、生育北限はもっと南の筈。どうしてこんな所に熱帯植物が? そして、半壊した小屋が二つ・・・覗き込まなくても、小屋は使用されなくなって久しい態で、荒れ果て、便器が見え、公衆トイレ的なものであるのが分かりました。立派な木の所為で薄暗く、見通しも悪い為、正直、気味悪さを堪えられませんでしたが、・・・私はやっと思い至りました。『・・・海外移住者救済目的の旧南洋植物園のオーナー・・・』・・・先ほどの立て札に書いてあったことを。『海外移住者救済』の意味は解らないけれど、つまり此処に『南洋植物園』があったのでしょう。その跡地で、この植物群は、当時から植えられ、閉園してから放置されているものなんだ・・・。藪の奥へ分け入りたい欲求に、物凄く囚われましたが、ここで童心に帰って冒険心を解放したら、ろくな事にならないのを、残念ながら歳を取ると知ってしまっているのです。今の私には、そんな勇気は出せず・・・蛮勇を奮うべきタイミングでない事も分かっていました。私はとても興奮し、後ろ髪を強烈に引かれながらも、仕方なく、その場所を後にする事にしました。 ヤシの木は、陽光の下で輝ける植物ですが、ある意味、枝垂れ柳なんかより不気味です。古い葉はいつまでも落ちず、幹に纏わりつき、その上に別の落ち葉や埃が降り注ぎ、何か不思議なものの存在を匂わせ、樹の頂点付近の鋭く尖った葉がこちらを威嚇し、百戦錬磨の猛者を思わせる貫禄ぶり。その場所は、住宅地の直ぐ後ろ(山手)にありました。坂を下りつつ、名残惜しげに振り返ると、山の出口から、木々が、結界を破かんと溢れ出ているかのような迫力ある光景が見えました。腐海が街を侵食する様な。噴出しそうなパワーを、寸での処で文明が押し留めているという、周囲に漂う緊張と、不思議なバランス感。これは、故あって住宅街に放置された熱帯植物が街を吞み込んでゆく、なんてファンタジーを巧くテーマに切り抜いて、宮崎駿監督に一本映画を作らせたら、良いものが出来そうなんだけどなぁ・・・。・・・元より廃墟好きでもある私は、その光景に、すっかり魅入られてしまいました。南洋植物パーク跡地にて posted by (C)ぺぺる(続く)
2014.01.16
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献血をしに行きました。問診の結果、前日の晩九時に飲んだ薬も問題ナシとのことで、恙無く、献血手続きを進めようとしていましたら、受付の方に、『それ・・・出血してませんよね?』と問いかけられました。私の指に巻いたバンソーコーの事でした。『もう、出血はないと思いますが、何ならバンソーコー剥がしましょうか?』と言うと、『いやまぁ』と、そのまま、再び問診する医師の元へ連れて行かれました。『あかぎれかなんかでしょ?』医師は軽~く言いましたが、『イエ、飼っている鳥に噛まれまして』と答えると顔色を変えました。『それじゃ駄目です。・・・犬や猫、ペットに噛まれたら、傷が治っても三ヶ月は献血出来ません』『三ヶ月!? それじゃァ、私は献血出来ません!』訴えるも、医師は苦笑い。因みに、噛まれたのでない、単に出血のある傷があっても、献血は駄目なんだそうです。知りませんでした・・・りっちゃん自身の健康診断では話にならないのであって・・・(鳥の健康診断は、幾つかの菌を持っているかどうか検査される)輸血される方の健康を第一に考えれば、私の血液が否定される事は何の不思議もない。・・・のですが。私が何らかの保菌者であれば、とんでもない事になってしまう。分かっていても、ほんの少し寂しい今日この頃・・・。そうだよ。りっちゃんが、カミカミ鳥を卒業すればいいんじゃないか!・・・て訳に行かないのが、ますます寂しいです。リドル posted by (C)ぺぺる
2014.01.15
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リドル君謹賀新年 posted by (C)ぺぺる今年も宜しくお願いいたします!
2014.01.05
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