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夜中の商店街をふらふらと帰る。 鞄が重い。 スーパーマーケットの前の子ども用自転車。ぽつんと。 まだまだ、新しい。 通り過ぎても泣き声が聞こえる。 太郎ちゃん、どこにいるの? 探しに来て! ずっとここで待ってるから! 置いていってしまわないで! 寒くても我慢するよ! 暑くても頑張るよ! 太郎ちゃん、ママに叱られたか。 泣きながら眠ってしまったか。 次の日に取りに来るか、忘れた場所をやっと思い出して。 ママに怒られるのは、怖いよね。あの甲高い声、たまたまに響くよね。 どこへ忘れて来たの! 早く思い出しなさいよ! 買ったばかりでしょ! いい自転車なのよ! こんなだから、あんたは宿題もきちんと出来ないのよ。 ああ、なんて子だろうねえ。 親は子を選べないし。 越えー女、こえー女。怖えー女。 ぼく、どこに置いてきてしまったんだろう。 えーと、えーと、次郎君と遊んだ、花子ちゃんと遊んだ、それからそれから、えーとえーと。 それとも「いいさ、また買えば」というパパ、ママが付いているか。 自転車自転車。 夜中の自転車。 小さな自転車。 白とブルーで塗られた自転車。 雨上がり、あちこちに捨ててあるビニール傘。 電車の中、切符うりば、街角、コンビニの前。 ポイのポイのポポイの傘傘傘。 捨てろ、捨てろ、心を捨てろ。 どんどん、どんどん、ステロタイプの心を養え。使い捨ての心を育てろ。また買えばいい、そうだ、経済の活性化だ。国民の協力、万歳。石油は順調に湧き出している、流れ出している。地球の血を吸い尽くせ。鳥や魚のイノチを奪え。 生活だ、便利だ、文化だ、規格化だ、二本足だ。 家の近くの公園脇に、時々、自転車が乗り捨ててある。 いつも決まった所。 駅前か、パチンコ屋か、居酒屋か、どこかから鍵のかかっていない自転車に乗って来てしまう「犯人」が近くにいる。 いつの間にか、自転車はなくなっている。 行政が片付けたか。 本人が探し出して持って帰ったか。見えない「犯人」をののしりながら。 回収業者が喜んで持って帰ったか。
2010.06.28
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「本格的に学んだわけだいが」は「本格的に学んだわけではないが」の書き損じです。 謹んでお詫びします。
2010.06.24
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ほぼ書き上がったのに、突然パソコンの画面が変わって何かが導入された。 原稿は消えた。 やれやれ。 どうもレポートの中味が頭から離れない。 特に「なぜ資料特論の授業なのに思想善導についてのレポートを書かなければいけないのか」という記述は不穏な響きがある。 学ぶと言うことは、すべて全体との関係性の中に存在するのであって、「資料特論」が切り離されてあるわけではない。「図書館の自由に関する宣言」の中にも「思想善導」の黒い波に襲われた図書館の先輩達の反省が述べられているのだ。 いつも学生達に伝えている。 自分の能力を低く見るな、と。 自分の得意なものを発揮していれば、どこで誰の目にとまるかも分からないのだから、と。「司書」の肩書きの奥に「自分」がある、と。 その延長線上で、「文章教室の生徒さんが童話に絵を描いた。回してみんなに見てもらえばいいのだが、……ここで読みます。本格的に学んだわけだいが。読み聞かせの授業ではない、この絵の作者にみんなの感想を届けたい」と前置きして読んだ。 多くのレポートは一枚。 一枚でも良いから、と言った。 絵本の感想が純粋に記されていた。 問題のレポートは……。『なんのための読み聞かせ?』 これはこちらに言っているのか。一般論として使っているのか。「普段子どもに読み聞かせボランティアをしている立場として、先生の読み聞かせには違和感を覚えました。専門でないから読み方がへただというのではありません。それ以前に、なぜあの絵本の読み聞かせをし、感想文を書かせるのか疑問に思いました。」 原稿用紙の一枚目にそう書いてある。 こちらの問題提起を全然無視している。「わたしは司書資格を取得するためにこの学校に通っています。二ヶ月半いろいろな授業で繰り返し言われるのは、『司書は必ず出典を明らかにして利用者のサポートをする』ということです。決して自分の知識で答えてはいけないし、自分の考えではなく『○○の本にこう書いてある』と典拠を示すのが最も重要なのです。 子どもは自分では本を選べず、大人の手助けが必要です。大抵の親は児童書の知識はなく、子どもが喜ぶものを与えがちですが、必ずしも良い本ではありません。その場限りの」(原稿用紙一枚目。原文のまま。以下同) ボランティア症候群のような頭。 こちらは司書ではない。 選んだ本についてどこがどう間違っているというのか。 無名な本など取り上げるな、ということか。 では、いい、いい、と言われている本だけを選んでいれば無難である、とお考えであるか。 原稿用紙三枚目。「……一般の書店でも入手不可能のカルチャーセンターの生徒が自己満足でつくった絵本を読み聞かせても、子どもと本を繋いだことにはなりません。」 ここか、言いたいのは。 でないとしても、随分と高飛車な視線の持ち主であることよ。君は何様? 本を選ぶ目にそれほど自信を持っておいでか。「……子どもであっても読書はプライベートな行為です。司書は学校の先生のように指導するのが仕事ではありません。」 こちら、一応学校に勤めている。 五枚目の原稿用紙。「以上のように、今回の感想文にはよいことは一つも書けませんでした。ただ、先生が最も悪い司書の見本をわざと見せ、それを指摘させるのが目的なら、とてもいい例だったと思いました。また、先生が感じたように感じろという思想の押しつけであれば、なぜ資料特論の授業なのに思想善導についてのレポートを書かなければいけないのかという疑問が解決します。司書は自分が全面に立つ職業ではなく、主役は利用者であり本であることを忘れてはいけないと改めて考えさせるために、先生が反面教師になったのだと思いました。」 選書論から読み聞かせ論から子どもに感想文を書かせる是非、などなどが放り込まれている。そのどれについても、この学生と話し合わなければなるまい。 が、こちらの求めたことに答えることをまず学ばせよう。 書き直し。 応じなければ、単位認定は出来かねる。 ピントのぼけた喧嘩を売られても。 C文学賞『はるゆりの唄』についても、意味不明な喧嘩を売られた(上の学生は、そんなローカルの賞など、と言いそうだな)。「遊女、問わず語り、方言……あたしが書いている物と重なるのですが」と言ったU女史、新聞に掲載された受賞作を読んで、もう一度意見を述べなさい。 そういう骨組みは似ていても「文章・描写・構成」が違った作品が出来を競っているのです。「結婚・不倫・逃亡……あたしの書いている物と重なるんですけど」と世界中のどの作品にいちゃもんをおつけか?
2010.06.24
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日本ハムのダルビッシュ投手の人気が急上昇、きっかけはツイッターによる激論。 と人気になっている(日刊ブログウォッチ livedoor ニュース)。 エースとしてのこだわり、考えを、素人のファンに対して真摯な文面で答えている。 ダルビッシュ投手、楽天のエース・まー君をもっと応援したくなった。 素人の江川さん(オーム事件を追及)の「(批判的な)反応」に対して激怒した張本さん、というニュースも巷間を賑わしている。番組から降ろそうとしている、と。 自分も気を付けよう。 自分と意見が違ったからと言って立腹してはならない。 だが、「『資料特論』の講義の中で童話絵本の読み聞かせとは」と言ったレポートの感想には、ちょっと驚いた。 ある新刊の絵本を二冊朗読した。「こちら、『読み聞かせ』などを『正式』に学んだわけではないが」と前置きして。 好評をもって受け取ったレポートもあった。 が、先のレポートは続けた。「その上、感想文まで書かされた。読み聞かせのとき、子どもには感想文を書かせたりしない」と。 こちらは、子どもを相手に喋っているのではない。「司書資格取得」を目指して学んでいる学生のために、必要な「融通性」「多様性」「応用性」を身につけて欲しい、と思って話している。表面から見えるもの・分かるものだけを学ぶのが「資格取得」ではない、と思っている。それを求めて組み立てている。「読み聞かせ」に絶対のテクニックなどあるだろうか。 一応の基本はあっても、要は、語り手の受け手の関係だろう。 様々な方法があることを知ってもらおう、模索しよう、と暗示して行ったことだ。「図書館利用者」という生き物を相手に働くには、柔軟な発想が求められる。「司書」という「肩書き」が働くわけではない、と。 必要な科目を履修して単位をそろえれば「司書」である、というわけではない、と。「読み聞かせとはこうである」などという「絶対」など、どこにあるだろう。「授業とはこうである」などという「絶対」がどこにあるだろう。 まるで「無駄なことを」と言っているようにも取れるレポートの内容だった。 ボランティアで「読み聞かせ」をやっているという生徒(履修科目生・女性)だが、「静かに聞きなさい」を連発しそうな人格の持ち主という感じが伝わってきた。「読み聞かせ」とは、押しつけることではない。相手の心の中にある感性に刺激を与えることだ。 単に「読み方が下手だった」というのなら、書き方がもう少し違うだろう。 いや、それを直截に言えないから、原稿用紙7枚も必要としたか。「司書は、引用する文献を必ず明示する」「司書は自分の意見を言ってはならないと学んだ」ともレポートに書いてあったが、では、こちらの発言も「どこそこの本に書いてあった」と言わなければならないのか。 こちらは「司書」ではない。 様々な本を読んで、それを自分の考えで組み合わせ、加除し、さらにこちらの思想・体験を付加して、その上で話している、伝えている。 なんだか「司書」を「特別」と見過ぎているような考え方のレポート。「司書という仕事を聖職ととりすぎてはいけない」ともすでに話してあったのだが。「その発言は、どこに書いてあったか」あるいは「『資料特論』というワクから外れている」と要求され、指摘されたようで、不快な印象が残ったままだ。 君は「ワク」が頼りのようだね。 本を書く著者も、様々な所から援用した資料の上に自分の考えを付加して作成している。純粋で完全無欠な独自性、などをどこに求められるだろう。「この意見はどこそこの本の何ページ」「この考えはどこそこの資料の何ページ」などと「証明」しなければ執筆・発言はできないのか。 これだけの文章を書くことが出来たから、この生徒のレポートも役にたったのか。 これだけのレポートが書けたから、こちらの「反面教師」も役に立ったのか。
2010.06.23
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図書館長や公民館長を歴任した知人が、<本省>の「課長職」で戻った。 ある日、会議が招集され、委員の一人として出かけた。 彼がすぐ目に入った。 会議室の入り口で会っても、表情は変わらなかった。 目も動かず、頬もゆるまなかった。 気安く声をかけられる雰囲気ではなかった。 見事な変身。 あの笑顔をどうやって隠せるのだろう。 後で何かの反動が起こらなければいいが。 心配することはないか、役を解かれれば、またあの笑顔が戻る、か。
2010.06.19
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抜け出した。 今日の午後の「蒼穹」の原稿も読んだ。 近くの送電線がヒュウヒュウともの凄い音を立てている。 金属製の雨戸もガタガタと鳴り続けている。 バイクで出かけられるか、電車か、と思いながら、ようやく自分の言葉がよみがえって来た。ついさっきまで、洪水のような日本語の中で泳いでいた。自分の言葉を見失っていた。 考え、感じながら、会員・生徒さんの文字の洪水の勢いに飲まれていた。 一昨日の夜は暑かった。二階では寝られなくて、一階の居間のソファの上で寝た。 昨夜は寒さすら感じた。 そして、今、空をも揺るがす強風。 いつも「薄い夢」を見ているが、昨日は実にリアルな夢の中にいた。 長女が部屋の中に入って来たのだ。書類と本だらけの部屋。「来ちゃダメ」などと言ったようだ。 かまわず入って来て、こちらの膝に頭を乗せた。「布団に入ってもいい?」 などとも言った。 それからは会話だけ。 将棋盤を買って欲しい、と言う。 折りたたみではなく、足の着いた盤。 どうやらイタリアで、将棋ライターのようなことをやっているらしい。「えー、明日はベニスへ帰るのじゃないか、これから買いに行ってくる」 そのようなシーンの後、実際に近くの机の上の時計に目をやった。そこで目が覚めた。 天才少女が高段者に勝った、という新聞記事が元になっているのか、どうやら。囲碁の方でも、藤沢秀行先生のお孫さんが高段者との対戦を制した。 単純な頭 実際の娘は、歌を歌っているのだが。 九月にまた来日。 日本人の大学の先生が作った抽象詩にイタリア人が曲をつけた、それを名古屋で歌うために。 風、ごうごう。
2010.06.19
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もう月の半ばだというのに。 電気毛布にスイッチを入れて寝ている。 情報が多いのも、実は考え物だ。 原油に塗れている海鳥たちの姿など、ああ、目にするのではなかった。 石油石油石油。 日常生活の快適さ・便利さをよだれを流して享受しているニンゲンの傲慢さ。 寒い寒い寒い。 温泉が恋しい。 熱い湯が恋しい。 シャンシャン、今、君の物語を書いているからね。 鎮魂鎮魂。 物語は魂の納め所。 生まれてじきに我が家へやってきて、たった一年のつきあいだったね。そして、イノチ。 本当に人間の子どものようだった。 こちらの言うこと、何でも分かった。 シャンシャンの言うこともよく分かったよ。 語りかければ、鳥だって植物だって、犬だって猫だって、きちんと答えてくれる。 人間同士でもむつかしいことなのに。 家の中には言葉がない……。寒い六月中旬。 ルイジアナ沖の原油に火でもついたら、地球は熱くなるか。
2010.06.09
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人のことをああだ、こうだ、と「評論」ばやりの世相。 これも、保証された「表現の自由」か。 早いけれど、もうねる。 やがて、永遠に眠る時も来る。 とにかく、ああだ、こうだ、と問題が発生するのだねえ。西も東も。 表紙をすり替えただけ、なんておまえに言われたくねえよ、大島さん、とでも言ってやりたい自民党幹事長。 ただ足を引っ張るような発言ではなく、現実を引き受け、その上で力を合わせて「この国」を思うかどうか、を表明して欲しいだけなのに、そういう表現はなくて、自分の圏域・権域を広げたいだけの発言・行動のオンパレード。「よし、ではこちらも出来る限りの応援はしよう。お互い、この国に住み着いて行かねばならぬからな」とでも発信したら、国民も気持ちよくなるのだが。 あんた達がやれなかったから、国民は別の選択肢に手を伸ばしたのだ。始まったばかりじゃないか。 低い、低すぎる。(実を言えば、「国民」の意見など、何も知ってはいない、こちとら。「国民は」とか「我々は」は便利な言いぐさの一例)。 国民が投票して選んだ結果なんだよ、今は。 ここには、日本人が住んでいるのだ。日本人同士が。なのに、毎日「角突き合い」の絵柄ばかりの配信。 これでは、巷間に囁かれている「アメリカ(CIA)の意向で動かざるを得なかった政府」とかの辻ビラの文字もなんだか信憑性を増して来る。 見える見える。 ソドムの隅っこに溜まったゴミが、風に吹かれて転がっている。 ゴミの上で空気を吸って吐いて、裸踊りの繰り返し。 曲は、トニイトロヘハで作られた「タラレバ音頭」。 テレビでは、○流イケメンが愛を囁き、片方では(昔の)「英傑」が熱き「理想」を胸に、ニッポンをなんとかしようとがなりあい、組んだり別れたりしている。 若い生徒さんの弟が四日ほど「家出」していた。「帰りました」と、少し前に姉からのメール。 大のオトナのこちらも家へ帰りたくないことが往々にしてある。
2010.06.07
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時間がふっと空いた。 久しぶりに電気紙芝居、おっと失礼、活動写真。またまた失礼、シネマ・キネマ、映画を見た。 今朝の新聞での週刊誌の見出しに「SEX AND THE CITY2を見てすすり泣く女性」とあったが、こちとらにはなんの感動もなかった。 自分の体験と合わせて強烈に思い出すことがあった女性にとっては、涙無しには見られない映画ということなのだろう、か。さっそく週刊誌を手に入れなくては。。 文学も絵画も映画も、自分とどのように重ね合わせるか、ということが「鑑賞」する基本になるのだろうか。自分の中の「感傷」をどれくらい引き出されるか、が「作品」と「自分」との一般的な位置関係と言うことだろう。 もとより、体験だけで読んだり見たりするわけではない。共通してもてる感動・共感は、体験があるないにかかわらず、見る者・読む者の想像力にかかっている。 それにしても、この映画は男としての自分の中の何かを揺さぶってはくれなかった。 どちらかと言えば、右往左往のドンチャカ騒ぎ、と言った感じでしかなかった。さらに言えば、よそ見をしてはならぬよ、と言った教訓めいたお説教節の感さえあった。 高見の見物にも飽きた。途中で退散したくなった。 アブダビへ出かけた仲良し四人組の女性たち。男の肉体が女たちの目の前にこれでもかこれでもか、と映し出される。 時には、四人組の一人が男の膝に手をやる。現地の男が見ていて、連れの女の目を隠す。 立ち上がった男のズボンはもっこりと持ち上がっていて……。彼女は現地の男から訴えられて警察に捕まる。 ようやく解放されたと思ったら、今度はコンドーム入りのバッグをぶちまける……。 現地の男立ちのひんしゅくを買い、つけ回される。 しきりに「倦怠期」という言葉が出てくるが、問題の主人公は「結婚」してまだ二年しか経っていない。「倦怠期」 その地で昔の彼(今は絨毯を仕入れて大きな商売をしている)に会い、あちらこちら案内されているうちに口づけをしてしまう。 頭を抱える主人公。仲間は黙っていれば何のことはない、と悩みに乗ってくれるのだが、彼女はケイタイで夫に打ち明けてしまう(彼女はしょちゅう電話をしている。出かけるときに夫ともめ事があったから)。 で、帰宅してから改めて二人で生きていく「家訓」のようなものを確認し、豪華な黒ダイヤの指輪を贈られて仲直り……。 それにしても「二年」めでの倦怠期 ではまた何かが起きて、また「家訓」を作り直して……を繰り返すのだろうか、この先。 女と男の間の「恋情」については賛歌しているように見える。いや、女・男に限られたことではない、と。初めの方には「ゲイ同士の結婚式」なども出てくるのだから。「恋情」とは不安定なものだから気を付けろ、とただ言っている訳ではないようだ。 このようなことが時々起こるけれど、初めに惚れ合った相手との「愛」を確認しあって辛抱強く生きていくしかないのだよ……。そういう「ご高説」なのだろうか。 それとも、見境のなくなった世代へ贈る警告の一言なのだろうか。
2010.06.06
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なんだか暫く雨は降らないみたいだね。 窓から見える柿の若葉がまぶしい。昨日生乾きだった洗濯物を干してある。そろそろ取り込んで、出かける支度。 これから柏教室へ。 書き方がへたくそだった男性の作品、見違えるような出来になっていた。 嬉しいね。 みんな何かを持っている。だから書き続けている。 ほんの少しだけ、表側の仕掛けや工夫を直すことでこうなるんだね。ほんお少しのお化粧。「書きたい者」は「書きたい物」を持っている。 これがあるから、こちらもやっていられる。 人間そのものは、こうはいかない。 人と人の組み合わせ。 夫婦の辞任って、どうなんだろうね。 鳩山さんの辞任。うーん。
2010.06.03
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江戸時代中期~後期の設定のようだ。 上総の小金牧で「牧士」(お上認許の名誉ある職責)の頭を務める徳馬。 ある日、野馬を一カ所に集め、選別する作業を行う。良い馬はお買い上げとなる。 壮大な光景が繰り広げられる(書き足りない)。 狭心症をわずらっているらしい。作業の途中で気を失いかけ、休み処に担ぎ込まれた。 牧士としてのプアライドはずたずに裂かれた。 娘婿・安兵衛は、徳馬より6つ7つ若い。50代半ばの徳馬は、なぜか頭の座を譲る気にはとてもなれない(安兵衛に譲れない気持ちも充分に描かれていない)。実子はまだ15歳。実は、徳馬には娘ばかりしかいなかったため、娘夫婦の子どもをもらい受けた。 飼っている馬を殺し、家の断絶を願う……と言うことなのだろうが、ここも書き足りない。 壮大な馬追いの場面をもっとしっかり書くこと。一種の山場。 最後は、徳馬の女房の視線から短く描かれる。 いかにも頼りなさそうだった息子が、出かけた牧でいつも問題となっていた暴れ馬と仲良くなるシーン。女房の脳裏には、若き日の徳馬との出会いが重なってよみがえる。 が、視点のズレとなってしまっている。ずっと徳馬の視点から描かれているのだから。 それよりも何よりも、作者は何を訴えようとしたのだろうか、読者に。 狙いがよく出ていない。 戦もなくなって馬の需要もすっかり減ってしまった現状。その上、持病があって、充分に勤めを果たせない男……その絶望 馬を殺す情景も迫力が足りない。 殺すなら殺すで、もっと「らしく」書くべき。 生き物を殺す場面なのだから 殺してはいけない。 殺そうと夢想するシーンにすればいいのではないか。 読者に伝えたいのは「イノチの賛歌」であるべき。 一度は間近に迫った「死」を突き抜けて、生き延びる覚悟を決め、安兵衛に頭の座を譲る男の思い、をきっちり追求すべきであろう。。 面白い資料を探し当てたという喜びだけで済ませてはいけない。「良い馬だ」だ「悪い馬だ」などと騒いでいる人間の小ささを冷やかして見つめる、という視点ももっと使えるだろう。 そのために、先に触れた勇壮な馬追いのシーン(馬の肉体・気配をもっと活かして描写)がその伏線となっている。 馬にまたがったこちらよりも大きく見える野馬、その瞳の中ではこちらの持病が見透かされている、などといういい描写もあるのだから。 もっとおおらかにのびのびと。 文章が縮こまっている。 群れる馬の大群、広漠とした草っぱが描き足りない。 部分と全体と。 題材と文章と。 これだけの文字を使った作者の狙い……。 有料通信添削作品から。
2010.06.02
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----- Original Message ----- From: > To: ??????@k7.dion.ne.jp> Sent: Wednesday, June 02, 2010 10:01 AM Subject: 2日の日記
2010.06.02
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