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F 二本松勢、舞鶴城攻撃の動き
*三春駐留の二本松兵が、舞鶴城攻撃のため馬頭観音山に集結した事件。
前掲の年表より
二本松藩は、兵を三春城下に進めて荒町馬頭観音山に屯させ、将に三春の町を一炬にせんとして伺った。このことに対して、老臣細川可柳が自ら出て折衝の任に当り、この難局を解決した。
三春・松本登氏(八十四歳)談
二本松兵がネ、馬頭観音山に集まったんですよ。そして舞鶴城を攻撃しようとしたんですネ。何とか落ち着いたからよかったんだが、三春兵は殆ど城外に出て、町には居なかったんですネ。だからお城は、本当に危なかったんだという話を、子どもの頃聞いてネ。
解説・不確実ではあっても、二本松藩は出先の部隊にまで、三春帰順の情
報を流していたことを示唆する事件であった。
G 二本松藩へ恭順の使者を派遣したこと
* 三春藩は、自己の帰順以前に、二本松藩へ恭順勧告の使者を派遣してい
る。この使者を二本松藩が殺害していることから、三春が二本松を裏
切ったことにはならないと考えられる。
1 城下町に生きた人々 七六ページ
二本松城下戦の直前に、三春藩の使者四名が、三春街道付近で斬殺された有名な事件がある。彼らは、帰順の勧告を行うため、七月二十七日に二本松に来て、その夜は松岡の茗荷屋という旅篭に旅装を解いた。
別に、大山巳三郎という三春藩士も、ただ一人で松岡の三春屋に泊まった。この時、三春藩はすでに降伏しているので、二本松では知っているし、彼らも追い駈け使者の報告を受けている。
二十七日の夜は、世相不安の由をもって、三春屋と茗荷屋の両旅籠は、藩命によって松岡、若宮の町人が警備に当たっていたが、藩の真の意図はどうであったかはわからないが、三春の裏切りを知った町人は、軟禁と解したらしかった。
藩は三春の使者に二十八日早々に帰国の途につくよう要請し四名の者は早々に出立した。ところが四名とも、出立直後に三春屋の裏手の桑畑で殺害されてしまった。
田村小史には、
『七月二十八日二本松に於いて、仙台よりの帰途に在りし不破関蔵、渡辺喜右衛門及び大山巳三郎は同藩士の為同地に於いて斬せらる』
と書いてある。彼らの最後を見ていた町人{本町・松坂庄八談}は、
「三春の使者の三人は、掌を合わせて、命ばかりはと嘆願した」と語り、家中の人(士族)は、
「立派に割腹している。町人は割腹する姿を遠くから見ていたので、見誤ったのだろう」と弁護している。
【解説】 三春藩は、棚倉から蓬田を進んできた新政府軍と平から進んできた新政府軍、それに加えて二本松藩攻略に備えた新政府軍は、7月20日、すでに三春藩の北12キロメートルにある小浜を長州藩兵3小隊で占拠していた。三春藩は、北、東、南と包囲された情況にあった。三春町史によれば、7月26日の昼頃、平からの兵が三春に到達、三春藩はこれに帰順を願っている。これに対して、ウィキペディア『二本松の戦い』には、大山柏の見解として、『 三春藩が用いた策略は悪辣ではあるが、外交のマキャベリズムとして妥当なものである』と載せられている 。また三春藩の帰順願に対しての返答のないままその日の夕方、新政府軍は二本松領に侵攻、とある。しかしこれには戦いとなった記述がないので、小浜の長州藩兵と合流したものと推測できる。
7月27日、参謀局軍務局より秋田主税・家老の荒木国之助・小野寺舎人が呼び出され、嘆願書を聞き届けるとの返答があった。その上でここの記述にある27日の二本松藩の動きであるが、三春藩からの帰順の使者が二本松に入ったのは、将にこの日であった。
ここに時間的には問題が残るとは思われるが、それでも使者を斬殺してしまうのは、どういうものであろうか。また『城下町に生きた人々』に『三春の裏切りを知った町人』とあるが、果たしてこの時点で、情報の少ない町人が、『裏切り』と判断し得たであろうか。この記事を載せる時点での加筆とは考えられないだろうか。
2 二本松市史 第六巻 七三九ページ 三春家より本町辺へたんさくの御方三春ニ而ハよほと大しんニ而たんさく方相分候利口なる御士方弐三人参りおり候処此砌ハ二本松ニ而も農兵町兵槍に鉄炮よとけいこさい中ニ付いかゝの次第ニ候や町兵三人斗にて壱人の御士を槍にてつき留其後首打取候様子ニ御座候残の御士方ハほうほうにげくきニ御座候
3 二本松市史 第六巻 九三五ページ
三春藩の使者が「町兵三人斗にて壱人の御士を槍にてつき留其後首打取候様子に御座候」とある。この使者は三春藩の使者の中の大関兵庫の事かと思われるが明らかではない。
4 明治維新三春藩殉難諸士事跡概況調書
(三春・佐久間真氏所蔵)
●大山巳三郎 奥羽列藩同盟の関係上藩命により二本松藩に使したるものな
らん。七月二十七日三春藩帰順するを知るや、その故をもって二本
松藩のために虐殺せらる。
● 不破関蔵 奥羽列藩同盟の関係上藩命により数士と共に仙台藩に使した
るものならん。時局逼迫するや数士を残置し渡辺喜左衛門と共に帰
藩の途につき 偶々二本松城下において大山巳三郎と会す 七月二
十七日三春藩官軍に帰順するを知るや、その故をもって大山・渡辺
両氏と共に遭難 戦死す。
● 渡辺喜左衛門 不破関蔵に同じ高野村 農民 橋本周次 三春藩官軍に
帰順した旨を、二本松城下に使者として派遣、叡感勅書せられたる
藩士に通達すべく任せられたる使者なり 大山・不破・渡辺と共に
戦死したるものの如し
解説・1による四名は、3の調書に記載されているように、三春藩帰順の
何日か前から二本松に恭順勧告のために滞在していた大山と、仙
台から帰る途中の不破、渡辺、それと三春藩の帰順を連絡しに行
った橋本と思われる。
2によると、殺害されたのは一名であとは逃亡したとあり、1とこ
の死者数の点で一致しない。ただし、これを書いた人から見えな
い場所に逃亡後、そこで殺害されたとも考えられる。なお同書に、
「たんさくの御方・・・弐三人参りおり候処」(傍点筆者)と記述
されていることは、二本松藩は三春藩による恭順勧告を、三春藩
帰順の何日か前から受けていたことを示唆していよう。なお1に
ある7月二十七日は、三春舞鶴城無血開城の日である。「城下町に
生きた人々」と「二本松市史」との間には、二本松藩を訪れた日
に若干の齟齬がある。いずれ調査の必要もあろうが、二本松での
戦争以前であることでは一致する。
同盟直後において三春藩は奇正隊の意見に屈服し隣藩守山並びに二本松に降順の誘いをかけた。守山は暗に賛意を表したが、硬論の多い二本松ではそれをしりぞけた。しりぞけざるを得なかった事情にあった。もし同盟の義約を脱すれば一挙会津と米沢のために叩きつぶされるのは火を見るよりもあきらかである。(中略)
(片倉)新一郎は河野(信次郎・広中)を通じて、もっともよく三春の内情を知っていた一人である。二本松を恭順に誘った時、使者となった三春家老細川孫六郎を、密かに上層部にとりついだのも新一郎だ。
【解説】これは榊山潤氏の小説の一節である。小説ではあるが、ここの行動はノンフィクションであると考えてもよいのではないか。
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50位以内に入れればいいなと思っています。ちなみに今までの最高位は、2008年7月22日の52位でした。
参考文献 2008.02.07
資料と解説 I~L 2008.02.06
資料と解説 H 小野新町の戦い 2008.02.05