『福島の歴史物語」

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2008.02.08
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 この「寂滅」は、2005年、新人物往来社の「第30回歴史文学賞第3次選考16篇」に入選し、2007年の「ふるさと自費出版大賞・優秀賞」を得たものです。

     寂     滅

     隠 れ 切 支 丹 大 名

 キリスト教が初めて日本に入ったのは天文十八(一五四九)年のことであった。当初その伝道に当たっていたイエズス会の方針は上から下へということであったので、まず天皇との会見を強く望んだが戦国という時代相もあって天皇の権威は全く地に落ちていた。やむを得ず彼らは、布教の目標を各地の大名に変更した。
 地方の大名に接近したイエズス会士らは南蛮交易による利益を教え、さらには軍事的援助をし、その歓心を得て庶民に布教しようとした。この時代は鉄砲の伝来によって戦法が変ろうとしていた時期であり、城砦にも火砲を備える必要が生じていた。それなのに国内では武器や火薬の調達が困難であったため、これらの購入を含む交易は有力な諸大名にとって必須の条件となっていた。そこで諸大名は競って西欧文化の吸収につとめ、切支丹伴天連との引見も繁く行われていた。そこではまた伴天連の歓心を買うために、切支丹となる大名も現れた。それもあって全国の約三十侯が切支丹大名となり、南蛮文化は当時の日本の大流行のような風潮を見せていた。ところが天正十五(一五八七)年、豊臣秀吉は突如としてこれらイエズス会士の国外追放令を発した。

 奥州三春(福島県)の田村氏が会津領に編入されることでその領地を失ったのは、豊臣秀吉の『奥州仕置』によるものであった。そしてその会津九十二万石を受け継いだのは、蒲生飛騨守氏郷である。飛騨守氏郷は受洗名をレオと称する切支丹大名であった。
 寛永四(一六二七)年、その会津の領主であった飛騨守氏郷の孫の下野守忠郷が、疱瘡のため二十五歳の若さで亡くなった。そのため幕府は出羽上ノ山四万石に封じられていた弟の中務大輔忠知に蒲生の名跡を継がせると同時に伊豫松山二十四万石に転じさせ、その松山城主であった加藤左馬頭嘉明に会津への国替えを命じた。
 『賤ヶ岳七本槍』の一人として名を馳せておりながらすでに老齢となっていた左馬頭嘉明は、松山城下近くの和気村にある四国第五十三番札所・真言宗智山派圓明寺に匿名で寄進した切支丹灯籠のことが気にかかっていた。変形した十字の形をとったこの石塔の灯籠には、聖母マリアを写した像を浮き彫りにしていたからである。ただ左馬頭嘉明には、一尺五寸ほどというこの小さなこの灯籠と、地蔵様に似せた形の聖母マリアの姿が、誰にもそうとは気付かれないという自信はあった。しかし松山を離れるに当たっては、その切支丹灯籠を噂にならぬよう内密に取り外しをしなければならないという考えもあって、「整備が終わったばかりの松山城を手放したくない」との理由をつけて松山から離れることを拒んだが、それは許されなかった。やむを得ず灯籠をそのままにして会津に入った左馬頭嘉明は、無城であった三男の加藤民部大輔明利を会津領内の三春三万石に、また娘婿で下野烏山(栃木県)二万石の城主であった松下石見守重綱を同じ会津領内の二本松五万石に任じたのである。


寂滅

         (愛媛県松山市・園明寺の切支丹灯籠と案内文)

この二本松城主となった石見守重綱の父の松下加兵衛之綱は遠江久野(静岡県袋井市)一万六千石の城主であったが、一時、のちの豊臣秀吉が仕えたことがあった。そのとき秀吉は松下氏に敬意を表して公を外し、木下藤吉郎と名乗ったという。 その関係もあって松下岩見守重綱は豊臣秀次に近侍していたが、之綱の死後は徳川家康に従うようになり、関ヶ原の合戦では東軍に属して岐阜城攻めに参加した。そして美濃の郷戸川では石田三成と戦って自らが敵の首五十余を得る奮戦をし、さらには島津義弘を打ち破った。その後、石見守重綱は徳川秀忠付きとなるが、許可なく久野城に石垣を築いたため常陸小張(茨城県伊奈町)一万六千石に国替えを命じられた。しかし大坂夏の陣では天王寺口の一番槍で首十七の手柄を立て、下野烏山の二万石を拝領していた。 ところが、下野烏山から二本松に移されて僅かに数ヶ月後、石見守重綱は病気のため急死してしまった。そのため左馬頭嘉明は三春に入れたばかりの民部大輔明利を二本松に移し、石見守重綱の嫡子の松下佐助長綱を二本松から三春に入れ替えた。当時の長綱は未だ独り身であったこともあってか、二万石の減封とされたのである。
 寛永六(一六二九)年、幕府は切支丹を見つけ出すため、踏み絵を開始した。この踏み絵は切支丹独特の信仰への態度、つまり自分の命を棄ててでも自分の信仰を守っていくということを知っている、いわゆる転び切支丹よりの提案であったと考えられている。
 その翌年、徳川家康を祀る日光東照宮が造営された。そこで日光から四十里四方を聖地と定めた将軍家光は、日光参詣の際に棄教を強制された切支丹たちに反抗されるのを恐れた。そのため幕府は下総古河領やその周辺を急襲し、切支丹約六百人を思川と渡良瀬川の合流する三角地の下宮村(栃木県藤岡町)に追い立てた。ところが、たまたま豪雨のため川が増水したのを機に、下宮村の堤防を夜半に掘削して決壊させ、約四百人を一夜にして水死させた。そして残りの約二百人には無理矢理棄教させた上で帰農させ、それでも棄教しない九十五人を古河城外の金掘谷に連行し、礫にして皆殺しにしてしまった。家光の『寛永の治』と言われた事件である。この古河での事件以来、幕府は信仰を捨てるように命じても従わない者たちには極刑を与えるようになった。そのため、これらの迫害から逃れようとして切支丹たちはその信仰を隠し、西国や関東から比較的取り締まりのゆるく、かつ新たな開墾地を多く抱えて人の少ない奥羽や蝦夷地へと移動をはじめた。


寂滅

(これはイタリアのアッシジの土産物屋で買い求めたタウ十字架のネックレスである)


            切支丹灯籠

 ギリシャ語のアルファベットではTをタウと言うので、この形の十字架はタウ十字架とも言われる。これは上部がカットされた珍しい形の十字架で旧約の十字架とも言われ、モーゼが荒野で蛇を持ち上げたときに用いた竿がこの形をしていたとされる。このことから、後に十字架にかけられたキリストの予表であるとされている。 (ヨハネ3;14)
 伝説によると、聖フィリポがこの形の十字架を付けて殉教したとされることから、聖フィリポの十字架とも言われる。
 この園明寺のタウ十字架は、切支丹迫害から逃れる目的で使用されたものと思われるが、よく見ると登頂部分が若干高く平になっている。もしここに7本のローソクを立てれば十字架の形になる。一見、灯籠らしからぬ形にもかかわらず、切支丹灯籠と伝えられた理由が、ここにあるのかも知れない。
 7つの燭台(ローソク)については、ヨハネの黙示録1:19,20節において、「7つの星は7つの教会の天使たち、7つの燭台は7つの教会」と説明されている。







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最終更新日  2008.02.08 11:54:17
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