『福島の歴史物語」

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2008.02.14
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     某、切 支 丹 に て 候

 権兵衛は齋藤三郎左衛門を江戸に呼び出した。長綱の言う二人のうちの一人として、その信仰を明らかにするよう、すべてを明かして説得したのである。
「分かりました御家老様。しかし殿が切支丹であったことを、はじめて知って驚きました。ところで切支丹である私は死をも覚悟致しまするが、殿が信仰をなされていることとは絶対に関係がございませぬし、私も殿の御信仰について口を割るようなこともありませぬ。そこのところは何卒・・・」
「それは分かっておる。ただのう、殿が家臣の二人と申された以上、あと一人を差し出さねば事は落ち着くまい。そこのところをどうするかじゃ」
「・・・」
「そこでじゃ、その方の切支丹仲間から誰か一人、江戸へ出て来るように説得ができぬか?」
「御家老様・・・、私が命を捨てることは、少しも厭いませぬ。しかし純朴な百姓の信者を引き出すのは・・・、それではあまりにも・・・」
三郎左衛門は絶句した。
「そうか・・・、相分かった。ただ殿が家臣の二人と申された以上その方はともかく、あとの一人が百姓では如何にも間尺に合わぬ。少しわしも対応の策を考えてみよう」
「御家老様。私共に対してそこまでのお心遣い、心より御礼を申し上げまする。こうなりますれば私はすでに命を捨てたも同然の身の上、御家老様のお役に立てることがあればなんであれ喜んでいたしまする」
 その後権兵衛は、三郎左衛門をそのまま江戸の屋敷に留め置いた。もし幕府から切支丹の調べが入った場合に、『すでに切支丹の身柄を江戸屋敷に拘束しておいた』と説明する積もりであったのである。この早手回しの行為が、もしも起こるかも知れない長綱への疑惑を解くためのよい方法であるとも考えていた。
 しかしそれにもかかわらず、幕府の動きも急を告げていた。権兵衛がそれなりの処置を講じてほっとする間もない正保元(一六四四)年の四月九日、幕府に対して加藤家より『門番の斬殺』、また山内家よりは『使者に斬りかかったこと』が乱心によるものとしての顛末と同時に、長綱の領知返上の願いが提出されていたのである。そのため翌十日、長綱に領知返上の沙汰が下されたのである。すでに権兵衛の思惑が外れ、事態は大きく転回をはじめていた。
 この返上にともない、この年の四月十四日、幕府は三春城請取の役を寺社奉行であり高崎藩主である安藤右京進重長に命じた。更にその命を受けた会津藩主の保科肥後守正之は下向の暇願いを提出すると、直ちに江戸を出発した。この幕府の処置を聞いた権兵衛は、愕然とした。今までの苦心の数々が水泡に帰しそうなのである。返上とは御家取潰、すなわち藩の解体を意味していた。三春に早馬が立てられ、江戸の屋敷内も騒然としていた。
乱心との理由で高知藩山内家に預けられることになった長綱は、迎えの駕籠に乗せられて高知藩江戸屋敷へ移って行った。そしてそれとは行き違いに高知藩の相良文右衛門が使者となり、『万端首尾よく三春城を引き渡しますよう』と伝えてきた。さらに幕府からは三春城在番に棚倉藩主内藤豊前守信照を、その目付として能勢頼重、永井直元らを命じたことが伝えられてきたのである。
 ──万事休す。
 予想外の展開にそうは思ったが、それでも権兵衛は長綱の嫡子の豊綱が江戸の屋敷に残されていることにまだ一縷の望みをかけていた。仮に減封ではあっても、お家再興の期待が断たれた訳ではないと考えていたからである。
──しかしそれには三春城の引き渡しを粛々と進める必要がある。
 藩邸に併設されている長屋に起居する藩士たちの動揺を見ながら、権兵衛は再び早馬を三春に発した。

 権兵衛からの書状を受けた三春では、家老の主馬と角左衛門がきびしい選択を迫られていた。言わずと知れた、主戦論の台頭である。
「われわれは豊綱様が居られるにも拘わらず、藩が返上とされた理由に納得がいかぬ。納得できぬままに御誅伐されるよりは籠城しても自分らの心底を訴え、聞き届けられないときは城を枕にして討ち死にすべきである」
 こう主張して城中に立て籠もろうとする藩士たちに、権兵衛は江戸にあって豊綱によるお家再興を主張し、穏便な行動を説得していた。しかし遠くからの説得は、必ずしも意のままには進まなかった。
 一方で三春城請取の態勢が着々と進んでいた。
 この同じ十四日、江戸を出発していた保科肥後守正之は、途中の栗橋宿から家臣の井深、馬淵らを三春に先発させた。さらに白河と棚倉藩は三春領周辺に藩兵を配し、平藩などは藩兵三百人を出動させた。そのような中で「主馬や角左衛門の説得に応じなかった主戦派は城を離れ、戦闘に備えて近隣の山中に潜んだ」という報告とともに、権兵衛の肝を冷やすような出来事が知らされた。あの州傳寺に葬られた先代の墓地が荒らされ、墓碑に記された法名『州傳院長厳長洋大居士』は、読むに耐えられないほど深く大きく削り取られてしまったというのである。
 ──なんということか! それは主戦派の叛意の表れか、はたまた切支丹の者共の恨みによるものであるのか!
 そうは思ったが今はそれを調べる余裕がなかった。それでもその間に行われていた『お家再興』を願うさらなる説得に、主戦派はようやく矛を収めた。
 四月二十日、保科肥後守正之は白河に到着した。そしてこの日、会津藩に三春城が引渡された。これは、江戸の権兵衛が願ったとおりの、平穏な無血明け渡しであったのである。城付けの武具改めや渡し請取も行われず、侍屋敷も帳面のみで行われた。
 それらの一切が済んだ後、権兵衛たち家老は、お家再興のための陳情を幕府に繰り返していたが、それは常に気休め程度の返答を引き出すに過ぎなかった。
 五月八日、山内家は長綱と嫡子豊綱の高知引き取りを命じられた。その長綱親子には、家老であった藤田主馬の他に松下小源太、松下庄右衛門、鈴木八右衛門、新国平三郎、高瀬三郎介、松山忠兵衛らが高知まで随行して行った。
 五月十二日、安藤右京進重長は将軍家光に謁見して三春城請取を復命したが、そのとき『三春藩家臣二名、邪宗を信奉す』との報告を加え、その使命を終えた。この返上後の三春三万石は、幕府代官の樋口又兵衛、同じく福村長右衛門の支配とし、城は隣の相馬氏の警固下とされた。これらを知らされたとき権兵衛は、やるべきことを全てやったにも拘わらず、その心に虚しさが拡がっていった。権兵衛の、『お家再興』の夢も断たれた。

 全てを失った権兵衛と角左衛門は切支丹屋敷に喚問された。それを聞いて元藩士の間には動揺が走った。
「まさかに筆頭家老であられた松下権兵衛様や木村角左衛門様が切支丹であったとは」
 それは誰もが想像し得ないものであった。
 切支丹屋敷での問責は厳しいものであった。もとより身に覚えのない二人は必死に抗弁したが、認められることはなかった。しかし権兵衛は、幕府の切支丹取締大目付の井上筑後守政重が発した言葉を身の震える思いで聞いていた。
「元三春藩家老・松下権兵衛。その方が切支丹であることは元藩主の松下長綱様より言及があった。あと一名は同じ元家老の木村角左衛門に間違いなかろう。どうじゃ」
 いままで長年、長綱が切支丹であることを隠してきたにもかかわらず、その長綱の口から「家老の松下権兵衛と木村角左衛門は切支丹である」との虚偽の報告がなされていたらしいことが、権兵衛にはなんとも納得致しかねた。
 ──いったい殿は、何を考えて切支丹はわしだと!
 権兵衛は怒りで血の逆流する思いであった。角左衛門もまた想像を絶する面持ちをしていた。しかしこの取り調べに際して権兵衛は自らが切支丹であると告白し、頑として踏み絵に応じなかった。長綱の裏切りにもかかわらず、自分は切支丹であると徹して見せることで長綱を救おうとしていたのである。そのためもあって権兵衛は、切支丹を自認する書状を提出した。
『某、切支丹にて候』
 しかし井上筑後守政重は、「自分は切支丹である」という権兵衛の主張に、納得することができないでいた。そこで切支丹であることを否定する角左衛門に対して、拷問が準備された。角左衛門は権兵衛が切支丹であると自白しているにも拘わらず踏み絵にも応じ、切支丹ではないことを主張していたからである。一方で権兵衛は、なんとしても角左衛門を救いたいと思っていた。もしも三春藩が存続された場合に備えて、せめて元家老として唯一人残った角左衛門を帰郷させたいと考えていた。
 権兵衛は切支丹に対する拷問の厳しさについては、充分に聞き及んでいた。そのため『切支丹は家老の角左衛門ではなく実は割頭の齋藤三郎左衛門であり、すでに江戸屋敷に拘束している』と主張し拷問による傷害を受けさせぬようにと考えていた。今度は三郎左衛門が切支丹屋敷に呼び出されて尋問を受けることになった。その三郎左衛門は、ついに踏み絵を踏むことはなかった。
 角左衛門は、ようやく無罪放免とされた。
 権兵衛と三郎左衛門の二人は切支丹屋敷に収監された。しかし井上筑後守政重は『踏み絵』に応じなかった権兵衛に対して、疑問を感じていた。その取り調べの返答を通じて切支丹ならざるものを感じていた。これほど耶蘇宗のことに疎い切支丹を見たことがなかったのである。しかし踏み絵を頑固に拒否する権兵衛を見て、それだけを理由として、『切支丹である』との裁断も下せないでいた。
 ──なにかを隠しておる。
 表面上、元三春藩家老としての立場を考慮したことにして穏便に扱わせながら、政重は考えていた。
 ──小藩といえども権兵衛は元三春藩家老、それなりの責任を持って行動をしてきた筈。
 そうは思いながらも気になったのは、権兵衛が切支丹でないとすれば、三春領内に別の家臣の切支丹がいる筈ということであった。そのことから政重は早急に手を回した。釈放した角左衛門を「厳しい調べをしない場合には目付を派遣する」と脅かし、領内での踏み絵の実施を命じたのである。しかしその返答は政重の予想に反し、切支丹存在の報告は來なかったのである。
 ──本当か? しかしそれは三郎左衛門の拷問で得た返答と一致する。すると権兵衛は、やはり何かを隠しておる・・・。そのなにかとは・・・。
 そう考えてきた政重はふと気づき、血の気が引くような思いがした。
 ──これは長綱様を庇っているということではあるまいか? すると・・・、あと一人の切支丹とは長綱様ご自身のことではあるまいか! そこで長綱様を詮議するということになれば、いまの三春松下藩小なりと言えども、事は松下本家にも、また場合によっては『賤ヶ岳七本槍』と謳われた加藤本家にも、そしてそれ以上に長綱様の御正室の喜与姫様が家康様の孫にあたられるということから、とてつもない問題に拡大するやも知れぬ。それに元とは言え藩主の取り調べは、わしの権限外のこと・・・。
 そう考える政重の額には、深い縦皺が刻まれていた。それには寛永十四(一六三七)年の島原の乱を経験している幕府、その様子を知っている政重にとって、三春藩の調査が予断を許さない結果になることも想像させていた。その上でもう一つの関心事は、耶蘇宗の教えが三春藩にどのような経路で入ったかであった。しかし他に切支丹がいないとすれば、考えられることは三郎左衛門が藩主の長綱に教えを受けたのではあるまいか? という疑惑であった。
 ──しかし三郎左衛門は単なる割頭、藩主と直接対話の出来る身分ではない。すると長綱様は元松山藩主の加藤左馬頭嘉明様から続く切支丹でもあると考えられる。そうなると問題は元三春藩主のみならず松山藩累代の身にも及ぶ。ところが長綱様は人も知る乱心者。そうなれば何とでも言い逃れができよう。これであれば尚更のこと、「長綱様は無罪である」と繕わねばなるまい。
 そういう論理ではあったが政重は三郎左衛門に対する過酷な拷問をゆるめることはなかった。たしかに三郎左衛門は、取り調べに対して頑なに黙秘を続けていたからである。







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最終更新日  2008.02.14 11:25:58
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