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平蔵は許可を得てクシュンコタンを出発、左のシュシュヤ山と名も無き山の間を通ってさらに北上してみた。富蔵に、「クシュンコタン以上の良港になる浜がある」と聞いたからである。山中を通ったとき、多数の獣の白骨を見つけた。
「これはアイヌ人が、大雪などで食物が不足したとき、飼育していた熊や犬などを殺して食い、祀った跡です。彼らはその動物たちが、神になると信じています」
富蔵がそう教えてくれた。
さらに行くと平野の中に小さな集落があった。様子を聞くと、「このまま北へ行くと右手に大きな湖があり間もなく海になる」という。その海辺には、トンナイチャ(富内)という集落があった。湖はひょうたんの口のように海に接し、波のない湾のようになっていた。内陸に引込まれたような湾であるので、波が穏やかである。
「なるほど。ここに港を開けば、クシュンコタン以上の良港になるな」
平蔵がそう言うと、富蔵は「そうでしょう?」言って嬉しそうに笑った。
──ロシアがここから上陸して、われらを背後から襲うことがあったら、これは問題だ。しかし奴らとて船の大筒を外してまで攻撃すまいから、白兵戦となればこっちのもんだ。
そうは思ったが、富蔵の前で平蔵は、その思いを胸に押さえ込んでいた。
閏六月の下旬、シラヌシより『船一艘』の狼煙が上がった。
「敵襲か!」
クシュンコタンの本営内は色めき立った。アイヌ人たちを奥地に避難させ、今までの訓練に従って兵員の半数が配置についた。ロシア船がどの辺りにいるのを発見されたかまでは分からなかったが、早ければシラヌシから半日で現れると考えられた。砲口は予定通り海岸線をにらみ、それぞれに身を隠した。極度の緊張から武者震いをする者もいた。今まで見たことも会ったこともない赤蝦夷(ロシア人)という恐ろしげな者との戦いであるのであるから、それもむべなるかな、である。残りの半数は遊撃隊として兵営に残って英気を養いながら、ロシア船出現のとき配置につく準備を整え、全隊が臨戦態勢に入った。
「敵さんお出であれ。今までの訓練の程を目にもの見せてくれるわ!」
夕方遅く小さな舟が一艘、クシュンコタンに近づいてきた。
「えっ、なんだあれは! あれはロシア船ではあるまい?」
「たしかに。ロシア船にしては小さすぎし一艘だ。サンタン舟ではないのか?」
「ロシア船が来襲するというのに、のんびりした舟だ!」
しかしシラヌシから、その後の狼煙はなかったので、『船一艘』の情報はこの舟であることが分かり、緊張が一瞬にして解けた。
サンタン舟とは、北唐太から黒龍江一帯の少数民族サンタン族が使用していた川舟であり、帆は約三〇〇枚の鮭の川をなめして張り合わせ、後部には竹で編んだ篷(とま)が付けられていた。この舟は満州のコルデッケと言う者の造作であって、アイヌ人に造れる者はいないと言う。またこの舟は海上に浮かぶと大変安定しており、一間程度の波を受けても特に不安な状態ではなく、大変よく考えられた木造船であった。松田伝十郎と間宮林蔵らがこの舟にアイヌの案内人を従え、ここへ帰還してきたのである。
復元されたサンタン船は稚内市間宮林蔵顕彰会会長田上俊三氏が私費を投じて復原を行ったもので、製作は稚内市の造船会社(株)一条造船鉄工社長一条木氏が担当した。
四月十七日、間宮林蔵はアイヌ人の漕ぐ丸木舟(デジプ)でシラヌシを出発、クシュンコタンの沖を通った。それは会津隊到着の二日ほど前のことであった。間宮はそのままトンナイ湖を横断して北上タライカ湖を経、五月二十一日、シレトコ岬の付け根にあるシャッコタンに着いた。そこから山を越えて、オホーツク海岸に出たが潮流が激しく、その上風波が強く、丸木舟に食料その他を積んで舟行するのは不可能と判断された。そこで松田との約束に従って西海岸に出るため、三十日、マーヌイに戻った。ここから山道を抜けてクシュンナイに着いた。そこで松田の様子を尋ねると、彼は奥地に向かったと言う。直ちに後を追って北上、六月二十日、ノテト湾に入った。
一方、松田は間宮に遅れること半月の六月二日、シラヌシを舟で出発、途中仮小屋を作っては野宿し、二十五日ホロコタン(ピレオ。北緯五〇度線のやや北)に着いた。さらに北上して六月九日、ノテト湾に着いた。これまでに通ってきた集落はギリヤーク人の小屋三~四軒であったが、ここも山丹人の家三軒という寂しい入り江であった。住民に聞くとここから先は住む人もなく飲む水もないということなので、ここに仮小屋を作り、十日ほど滞在した。行ける所まで行ってみようと決心して入江を渡り、ナッコという岬へ行きさらに陸路でラッカに達した。しかしその奥は陸地が見分けられないほど海藻が繁茂していて歩行も困難であった。そこから見渡すと対岸の山丹地は極めて近く、四里ほどの距離でマッコ(黒龍江)の河口もはっきり見分けられた。そこで松田は北蝦夷地が島であると判断し、この海峡を日本の国境と見極めてノテト湾に戻った。
間宮は以上の話をノテト湾で聞いたが自分の目で確かめたいというので、六月二十二日、二人はアイヌ人の案内を得て再びラッカへ到達した。このとき松田は、「これより奥へ行き得たら、それは貴殿の手柄である。試みられたらよい」と言ってノテト湾に戻ってしまったという。
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