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それを聞いた平蔵は友の死を悲しみ、会津で帰りを待っている友吉の妻の心中を思い、まだ満一歳に満たぬ子の春武を考えて目が涙で曇った。友吉に再会したら話してやろうと思っていたこれまでの出来事が、不意に空虚なもののように思えた。
──友吉。お前、会津を出るとき心細いことを言っていた。もしかしてこうなることを、予感していたのではあるまいな。
八月十六日、蝦夷地は険阻であったが、ここまで来ると陣将も騎乗する必要がなくなり、通常の旅となった。海岸を回り、箱館に着いた。この地は西の松前から二十五里、南は海を隔てて南部藩の佐井と正面に相対している。海水が湾に入り、屈曲して東は一大湾となり、海口を扼する山がある。鎮府は山を背にして湾に面している。湾に突き出た山が海中に浸って波が静かであり、商船が集中して高い帆柱が林立している。松前の海は暗礁が多く停泊に向かず、外国船の多くは箱館に停泊する。この蝦夷地は千里茫々と物寂しげな所ではあるが、箱館の街に限っては弦歌が溢れていた。自然の景色に埋没し、保護色のように溶け込んだ人たちの暮らしから突然和人の町が現れ、そこの人びとがまぶしく見えて、ようやく夷狄の生臭さを綺麗に洗い流した気分になった。この日、仙台の国境守備隊長・柴田兵庫様より酒を贈られた。兵庫様より「本日は蝦夷の正月である」と聞いた。
「そうか、正月というものもあったんだ」
そう言って酒を酌み交わした。
「それにしても国元の正月と比べると、随分時季外れだな」
そう言いながらも、その内地を目前にしてはしゃいでいた。平蔵も嬉しかったが、まさか襲われるとは思わなかったあの嵐のことを思い起こしていた。結局は、その『まさか』のために陸路をとることになった自分たちが一番苦労したかも知れないが、逆に一番蝦夷地の様子を知ることになった、とも思っていた。
夕泊チャシ(HPより)
平蔵は箱館での余暇を利用して、蝦夷地十二館の最東端の志濃里館跡(シノリタテ・函館空港の南)を見学に出かけた。城郭としてアイヌ人から学ぶべきものがあるのではないか、と考えたからである。
志濃里館は中世の和人豪族が築いた館跡である。四方に土塁が巡らされた短形で、沢地形を利用した空壕が掘られていた。土塁で囲まれた郭内は、東西四〇間~四五間、南北三〇~四七間ほどの平坦地である。北側の土塁は二間ほど、南側は一間ほどの高さであった。また北側と西側の空壕は幅三間から五間、深さ最大二間で、特に西側は土橋を挟んで二重壕が掘られていた。コシャマインの乱において蝦夷地十二館のうちこの志濃里館や宇須岸館(函館市元町)などの十館が落とされた。残されたのは茂別館(函館市上磯町矢不来)と花沢館(檜山郡上ノ国町勝山)の二館のみとなってしまったという。なお宇須岸とはこの地の古名で、アイヌ語でウショロケシ(湾の端の意)がウスケシに転じて宇須岸の字を用いたという。
この志濃里館の手前の半里ほどにチャシ(函館市湯川町)があり、その先半里ほどにもチャシ(函館市新湊)があった。さらにその北、一里ほどの所にもチャシ(函館市庵原町)があったことを知った。現在チャシのほとんどは取壊令によって壊されており、皆無であるという。チャシはアイヌ人の心の拠りどころであった。彼らはそれを、彼らの歴史とともに抹殺されたのである。平蔵は思った。「われわれとても、もし城を失うことがあったら、心の拠りところを失うこととなろう。古い時代から、われわれは蝦夷の地を自分たちの土地と考えてきた節がある。しかしそれは、そこに住んでいたアイヌ人が、認めたことの上であったのであろうか。自分がこうして見聞してきた範囲では、決してそうであったとは思えない」
そう考えると、アイヌ人と和人との抗争の歴史が忍ばれた。
八月十九日の夜、いよいよ箱館から知内に向けて出航した。あとは青森に行く予定と聞かされた。船の中で身体は横にしたものの嬉しさがこみ上げてきて、とても眠れる状況ではなかった。
八月二十日辰(午前八時)、知内に至ったが西風に遭って退き、箱館に戻った。しかしその後、また風は東に変わったため箱館を出、知内を過ぎて吉岡に至った。夜中に三険を通り抜け三厩を過ぎた。そして二十一日の未刻(午後二時)、ようやく青森の港に到着した。箱館と青森の間はそう遠くはないが、海流が激しく海の横断が大変である。そのためやや西に位置する松前近くから舟を出し、潮流に従って下ると、巧く青森に到達するということであった。
わが藩の使番の井深重休が青森へ来ることで、あの嵐で行き方知らずになっていた大黒丸の消息が知らされた。
「大黒丸に乗っていた組頭田中鉄次郎、多賀谷左膳らの計六三名は、方々を漂流しながら三厩に漂着し、八月一日に三厩を出発した」
八月一日と言えば一ヶ月も前のことである。恐らくすでに、若松に着いたと想像された。よかったという感覚が、万感の想いでどっと胸に押し寄せてきた。
そしてそのとき、筆頭家老の死を知らされた。田中玄宰、性格は度量寛大で大人(たいじん)の風格があった。貞昭侯および今上藩侯のため三十年藩政を執り、その感化で善政が行われるようになった。賢相と称された国人の死を聞いて全軍みなこれに驚き、涙を流さない者はいなかった。田中玄宰は六十一歳の死に臨んで、「わが骨は鶴ヶ城と日新館の見えるところに埋めよ」と遺言し、それらの見渡せる小田山の山頂に葬られたという。
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50位以内に入れればいいなと思っています。ちなみに今までの最高位は、2008年7月22日の52位でした。