『福島の歴史物語」

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2010.11.11
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 養老四(七二〇)年、エミシの反乱が起こった。このとき持節征夷将軍で按察使の上毛野朝臣広人がエミシによって殺された。これに対し、大和の側からの攻勢が強まった。そしてその兵站基地となった安積からは、ここを流れる大河を利用した舟運で兵員や戦略物資が北に送られたと思われる。上流から下流まで一本の川として認識する必要がでてきたのであろうが、その名称については、確定的に証明するものは残されていない。なおこれに関して、平安時代(七九四~一一八五)初頭の木簡が多賀城跡から発見されている。

     安積団解 申●番●●事
     畢番度玉前●還本土安積団会津郡番度還
         ●二人
     畢土●●●●●●●●●●●

 この木簡の一行目には「安積團解 申●番●事」と件名が書かれているが、解(げ)とは上位官庁へ上申する文書の標題である。安積團とは現在の郡山市付近にあった軍事訓練所であって。古代の徴兵制では成人男子(二十歳から六十歳まで)の三人に一人が交代で兵役義務を負っていた。

 二行目には「畢番度玉前(たまさき)●還本土会津郡番度還」と内容が記されている。この内容に解釈を加えて現代文に直すと「多賀城で警備や労働に当たっていた安積團の管轄していた兵士のうちの会津郡の兵士が、当番を畢(終)えたので、(多賀城の南の)玉前関を度(こ)えて出身地へ還ることを国府に上申した」というものである。これにより安積軍団には、会津や耶麻の兵も含まれていたことが分かる。この木簡は玉前関を越える時の通行手形の習い書きであった。玉前関は文献や記録には無く、この木簡だけがその存在を伝える。この平安時代初頭の木簡ということは、延暦七年の第一回エミシ征伐や延暦十年の第二回エミシ征伐に関連しての木簡と考えられ、この時期、安積軍団が多賀城に派遣されていたことの証明となる。なお玉前とは、現在の岩沼市南長谷の付近にあったとされる関で、国道四号と六号が分岐する岩沼の竹駒神社付近に「玉崎」という地名が現存する。古代の東海道は勿来関が、また東山道は白河関が終点であったと考えられ、二つの道の延長が玉前で合流し、そこに関所が設置され、その先は一本道となって多賀城に至ったようである。

 この阿武隈川の名が文献として最初に出てくるのは吾妻鏡である、文治五(一一八九)年七月十七の条に逢隈河(おおくまがわ)と記述され、文治五年八月十二日条には『逢隈湊』が見えている。吾妻鏡には、平泉の合戦に際し、千葉介常胤や八田知家が石城海道を通り、東山道を進んで多賀国府に入城した頼朝らのあとを追って『逢隈湊を渡って参上す』とあり、海道軍が亘理郡において阿武隈川の渡河点で川を越えて多賀城に進んだことを示している。その地点は現在のJR常磐線阿武隈川橋梁の北、四~五〇〇メートルとされる。

 この阿武隈川の名の出自を想像させる文献の一つに、後拾遺和歌集がある。その中に陸奥の歌枕として『武隈(たけくま)の松』があり、藤原元善(良)朝臣や藤原実方、橘季通、西行、能因など数多くの歌人に詠まれているのである。現在の岩沼が武隈と呼ばれたことから『武隈の松』と言われたとされるが、これは竹駒神社の語源ともされている。後拾遺和歌集は応徳三(一〇六六)年に作られている。すると阿武隈川の一部を成す『武隈』という文字が吾妻鏡に出てくる逢隈川より一二〇年も前に使われていることになる。また岩瀬郡天栄村にある広戸神社には、藤原鎌足が鹿島神宮参拝の途次、天下三笠松の一つである『武隈の松』を見ようと松本村に立ち寄ったという由来が残されている。

 享保四(一七一九)年に完成した仙台藩の地誌『奥羽観蹟聞老志』に、葉室光俊(一二〇三~一二七一)が作った『風そよぐいなばのわたり霧はれて阿武隈川にすめる月影』という和歌が収められている。『いなばのわたり(稲葉の渡)』とは『逢隈湊』のことである。阿武隈の名の萌芽がここに表れていたことになろう。

 これらから推察するに、この川を上流から下流まで統一した最初の名称は、逢隈川であったと思われる。しかもこの逢隈という名は、現在でも阿武隈川流域に数多く見られる。例えば阿武隈川最上流に架かる雪割橋の次が『逢隈橋』であり、下って来た郡山市からの国道二八八号線の『逢隈橋』。また郡山市へ合併した旧西田村の地域には、旧田村郡『逢隈村』が含まれていた。また福島市の松川町と飯野町を結ぶ橋も『逢隈橋』である。さらに宮城県に入った亘理町にも『逢隈橋』が、そしてJR常磐線にも『逢隈駅』という駅名がある。

 現在、岩沼市二木に、二木の松史跡公園がある。この『二木の松』は、『武隈の松』の別称である。また宮城県出身の知人が、「地元の伝承として『阿武(あぶ)の松』があった」と教えてくれた。口伝えなので詳細は不明であると言われるが、宮城県名取市下増田『大野』にあったという。こうなると阿武隈の三字が揃うのであるが、似たような話が宮城県名取市杉ヶ袋『大野』にもあったというから、同じ大野という地名からしても、何らかの関係があるのかも知れない。ただし杉ヶ袋には、大野という地名は残されていない。

 しかしこうなると『阿武の松』と『武隈の松』が存在する位置から考えて、現在の阿武隈川の西の住民はこの川を『阿武隈川』、東の住民は『逢隈川』と呼んでいたと推測できるのではあるまいか。その論拠として、阿武隈川の西の天栄村、さらには宮城県域での北部に『阿武の松』『武隈の松』があり、東、つまり宮城県域での南部に当たる地に村名、そして橋梁に逢隈の名が残されているからである。

 確かに阿武隈川という大河に橋が架けられたのは近世になってからである。阿武隈川の東に接した田村郡に逢隈村が明治二十四年に、また同時期、現在の宮城県亘理町にも逢隈村が置かれた。いずれも当時行われた町村合併による新村名であった。さらに常磐線逢隈信号場が出来たのが明治三十五年、駅に昇格したのは昭和六十三年と新しい。それであるから、これら橋や駅の名は阿武隈という川の名が定着していく中で、逢隈という古い記憶が呼び起こされて付けられた可能性が高い。

 結局、阿武隈川の命名については想像の域を脱し得ず、単に推論の羅列となった感は否めないが、可能性としては高いものがあると自負している。

              (終)



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最終更新日  2010.11.20 17:36:53
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橘為仲の件ですが  
標葉石介改め砂 さん
雑誌:国語と国文学に「橘為仲集」考として久保木哲夫氏が落丁について論考しています。写しがありますのでよろしければ。 (2010.11.16 12:31:50)

Re:橘為仲の件ですが(11/11)  
桐屋号  さん
標葉石介改め砂様

(2010.11.19 08:01:52)

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