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ハ ワ イ と の 接 点
私がハワイに足繁く行くようになり、ハワイの人たちとこのような関係になったのには理由があった。
以前に私は、郡山図書館で『三百藩家臣人名事典2 三春藩』に目を通していた。そこにあった加藤木直親(なおちか)の項に『三男富造は獣医学を修めてホノルルにわたり、移民局に勤め、ハワイ移民の父と称された。菩提寺不明』とあったのである。興味を引かれた私は、彼についての資料がないかと三春図書館の担当者に聞いたが、知らないと言う。次いで行ったのが三春歴史民俗資料館であった。しかしそこにも資料がなかった。ところがそこの藤井典子学芸員が、次のようなことを話してくれた。
「私、この休みにハワイに行って来たのですが、空港で住所氏名を書くようにいわれました。傍で見ていた現地の添乗員に、『あなたは三春の出身ですか? ハワイの日系人の多くが彼の世話になりました。ありがとう』と言われたのです。そのとき私、何も知らなかったので何も言えなかったのですが、この方だったのですか」
そんなとき、私たちの話を隣の部屋で聞いていたのか佐久間誠資料館長が現れ、「実は私の隣家が富造の自宅だった。もしよかったら、彼の兄の重教(しげのり)が書いた本をもっているから、貸してあげよう。それから富造の姉が三春の湊家に嫁いでいるから、湊家を訪ねてみたらいい」と教えてくれた。
私は早速、湊家を訪ね、富造についての小冊子と、彼の死去の際の記事の載ったホノルルの新聞を借りることができた。それによると、富造はユタ州のソルトレイクで末日聖徒イエスキリスト教(通称・モルモン教)に入信している。私はそこから何かのキッカケが見つかるのではないかと思い、郡山にある末日聖徒イエスキリスト教教会に行ってみた。応対してくれた教会員の高橋亮さんは、「残念ながら、彼については何も知らない」と言う。ただ富造が郡山の隣町の三春出身であったということについては、大分興味をそそられたようであった。しばらくして、彼から電話があった。富造の孫のトーマス カツヌマさんがハワイ島ヒロに住んでいるという。どうしてそれを知ったのかと聞いてみると、「自分はユタ州ソルトレイクにある末日聖徒イエスキリスト教のブリガムヤング大学(BYU)を卒業していたことから、恐らく富造が日本人最初の教会員であったのではないかと推測し、『それなら』とBYUハワイ校に連絡を取り、ハワイの電話帳からカツヌマ姓を選び出して片っ端から電話をし、トーマスさんを探し当てたのだという。そのトーマスは、ユナイテッド航空の乗務員なので「毎月二度、成田〜ホノルル間を飛んでおり、彼とは成田で会える」ということであった。私はその話に飛びついた。ハワイとの関係は、このような協力を得たことからはじまったのである。
成田で会った時のトーマスさんとの通訳は、高橋亮さんがしてくれた。しかし残念ながら、トーマスさんには祖父・富造の記憶があまりなかった。その代わり素晴らしい話がもたらされた。トーマスの父の姉、つまり富造の娘のキヨミ スズキさんが、いま100歳を超えてホノルルに住んでいるというのである。私は富造の詳細を知る最後のチャンスと確信し、考えてもいなかったホノルル行きを決行した。これがハワイへ行く最初となった。妻と娘を連れての先の分からない三人での旅であった。しかし高橋亮さんがBYUハワイ校東アジア史のグレッグ グブラー教授を紹介してくれていたので、まったく当てのない話ではなかった。ホノルルでは、ハワイ島ヒロからわざわざ来てくれたトーマスさんの運転で、オアフ島カフクにあるBYUを訪問し、富造に関する多くの資料の提供を受けたのである。
残念ながら、病床にあったキヨミさんに会うことはできなかったが、私はキヨミさんの長男 ジョージ スズキさんからも多くの資料を得ることができた。別れの晩に、富造がよく使っていたという『柳亭』という料亭での夕餉に招かれた。私はこの料亭の名前から言って、てっきり日本式料亭と思っていたが、今はウィローズ(柳)というハワイ式のレストランになっていた。多分この時に、ホノルル福島県人会長であったロイさんの紹介を受けたのであったのではなかろうか。その後は彼から、大きな協力を得ることになる。
その後も富造の足跡を追って、取材の旅を続けた。サンフランシスコ、ソルトレイク、デンバー。行く先々で、多くの方々の協力を得ることができた。特にソルトレイクは末日聖徒イエスキリスト教の総本山であり、またBYUの本校がある。そこの日本学のバン ゲッセル教授、それに大学付属の家族系図博物館には特にお世話になった。それらのことがあって、勝沼富造を主人公とした小説、『マウナケアの雪』を出版できたのは2004年12月のことであった。
この本の出版後も、私は『郡山の種痘事始』、『小ぬかの雨』、『寂滅』、『大義の名分』、『遠い海鳴り』、『源頼朝に郡山を貰った男』など、私の住む地方を取材して書き続けていたが、実は、『マウナケアの雪』を書いたときから気になっていたことがあった。それは、太平洋戦争中ハワイで結成された日系人部隊第100大隊でありアメリカ陸軍第442連隊であった。それらを追って、2001年、私は再びハワイを訪れることになる。今度もロイさんとホノルル福島県人会が動いてくれた。第100大隊記念館、日本文化会館。第100大隊記念館ではイタリア戦線で戦い、生き残りの中の25人ほどの勇士たちに会わせてくれたのである。すでに彼らは、80歳を超えていた。長い取材を終えると、そのうちの一人が私に聞いてきた。
「その本、いつ出来る?」
「えっ!」
私は絶句した。今、取材をはじめたばかりなのである。ゴールなど見えるはずがなかった。彼は真面目な顔で私の目を見ながら続けた。
「もう我々には先がない。退役兵たちも少なくなった。是非、生きているうちに読みたい」
注 第100大隊は、300%を超える戦死、戦傷者を出
した。これは30%の間違いではない。最初の隊員数
への補充を次々に行った結果、その三倍の数字になっ
たのである。彼らはその功績により、アメリカ軍最多
の報賞を受け、トルーマン大統領から直接授与された
栄誉を持つ。第442連隊(第100大隊および
第522砲兵大隊)は日系二世のみで構成された
アメリカ陸軍部隊で、アメリカ軍史上、唯一、単一の
民族で構成された部隊であった。アメリカに於いて、
同一民族による部隊は、これが最初で最後である。
私には返す言葉がなかった。ただ書くことへの責任感だけは、ズシリと肩にのしかかってきた。ともかく彼らの悲劇は、日系二世であったというだけのポジションによるものであった。このときの小説『我ら同胞のために〜日系二世アメリカ兵』を書き上げたのは2008年5月のことであった。
ところで、2011年に、ロイさんにキベイニセイの執筆を要請されて日本に帰った私は、ネットなどでキベイニセイについて調べはじめた。しかし調べるにつれ、それについての著述の例が、非常に少ないことが分かった。知り合い(日本人)に聞いてもキベイニセイについて知っている人は全くいなかった。しかも私の言うキベイニセイを、日本語ではないと思ったという人も少なくなかった。これが帰米二世を、あえてキベイニセイとカタカナで書いてきた理由である。
ーーこれは何らかの形で記録しておくこと自体に意味があるのかも知れない。
そうは思ったが、書く切り口が見つからないでいた。しかもどう考えてみても、その内容から言って、暗い結末になることは分かり切っていた。
ーーどうしたものか・・・。
あと考えられるのは、直接取材をしてみることのみであった。取材を重ねる中で切り口が見つかるかも知れないと思ったからである。しかし国内ならともかく、事はハワイである。すぐ取材に飛び出すには余りにも遠すぎた。
2012年になってチャンスが訪れた。三月二〜四日に開かれるホノルル フェスティバルに来ないかとの誘いを受けたからである。私はそれに合わせて、アロハ イニシャティブに対するお礼と、富造の孫のジョージ スズキさんの病気見舞いと『帰米二世』の取材の四つを兼ねることにして妻の美智子とホノルルに向かった。
ホノルルに着いた私と妻は、ロイ夫妻と一緒にジョージさんの病気を見舞った。重い病のため自宅で闘病生活をしていた彼であったが、私たちのために、何事もないかのようにキチンと服装を整え、彼の妻のエスターさんとともに応接室で待っていてくれた。その応接間の壁には、日本政府からジョージさんに贈られた表彰状と勲章が飾られていた。彼は医師として、広島の原爆病院に長年に渡り、深く関与していたのである。彼は私たちと話すのさえ辛い身体であったと思えるのに、第二次大戦後、日本がソ連の進駐を受けなかった理由など、大戦後のアメリカの日本に対する対応について静かに話してくれた。
その後に予定していた帰
米
二世たちへのインタビューにおいて、英語が得意ではない私はどう取材したら良いだろうかと言葉について心配していた。しかし、ロイさんと現ホノルル福島県人会会長のジェームスさんが通訳をしてくれたのでその心配はなくなった。しかも帰
米
二世たちと会ってみると、私の取材に応じてくれた全ての人が、英単語を加えながらも、流暢な日本語で私の相手をしてくれた。彼らのほとんどが幼児期に来日、日本の国民学校を卒業し、さらには中学校など上級の学校で学んだということを考えれば、このような日本語を話せたのは当然のように思われる。しかし戦後も70年、しかもハワイの英語社会に溶け込もうと努力をしながらの生活により、ある程度の日本語の忘却は、やむを得ないことなのかも知れないが、その正確な日本語に驚かされた。むしろ取材に同席してくれた子(三世)や孫(四世)との会話で、本人自身が通訳の労をとってくれていたのである。
注 国民学校=昭和16(1941)年に設立され、6年
の初等科と2年の高等科からなり、初等科はそれまで
の尋常小学校などを母体とし、高等科は高等小学校な
どを母体としていた。国民学校は同盟国であるナチス
党政権以降のドイツの初等教育に起源をもつと言わ
れ、「子供が鍛錬をする場」と位置づけられ、国に対
する奉仕の心を持った「少国民」の育成が目指されて
いたともいわれている。兵士の数が不足するにつれ、
国民学校の子どもたちも、訓練という形で戦争に参加
させられ子どもたちに兵士になるための訓練が行われ
るようになった。名称は同盟国であるドイツの初等教
育に起源をもつと言われ、ドイツ語のVolksschule
(Volks・フォルクスが「国民・民族」、schuleシュ ーレ)が「学校」)からの翻訳であった。
(NHK・For schoolより)
取材中、私は帰米二世という歴史の証人が、自ら声を上げなかったのは何故だったのであろうかと考えていた。答えは出なかったが、彼ら帰米二世たちが、自分たちの生まれたアメリカで、『敵性日系人』として悩み抜いたあげく自らの選択を信じ、あの時代を懸命に生きようとしたことは間違いのない事実である。この国籍の選択が二世たちの明暗を分けることになり、結果とて、戦争と国家に翻弄されたことになる。そして彼らが選んだどの道も『いばらの道』であったことに、変わりはなかった。
私たちが帰国して間もなく、重い癌に侵されていたジョージさんは、八十三歳で亡くなった。彼の死は、ハワイの各紙に大きく報道された。
——ああ、あのときお見舞いに行っていてよかった。
私たちは本当にそう思った。見舞いに行ってから、わずか一ヶ月後の別れであった。
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