『福島の歴史物語」

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2016.07.21
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     移 民 の 親

 富造の生まれた幕末は、移民となって北海道や国外に出る世代の親たちが幼児期を過ごした時期である。ではこれらの親の次の世代が、何故、移民という手段をとるようになったのであろうか? 私は、社会的理由と環境的理由の二つがあったのではないかと思う。彼らの生活の地であった福島県域は東北地方の南端とはいえ、冷害、凶作が常習的に襲う寒冷山間地の多い土地柄であった。江戸期にも天明、天保の大凶作をはじめとして中小規模の風水害が毎年のように続き、寛延一揆や浅川騒動のような一揆も相次いでいた。

 明治元年(1868)、福島県全域が戦場となった戊辰戦争が終った。しかし明治に入ってからも、凶作は明治二年(1869)、明治三十五年(1902)、明治三十八年(1905)と相次ぎ、餓死する者さえあった。特に明治三十八年と大正二年(1914)の凶作は被害が大きく、天保以来の大凶作に匹敵するものであったと伝えられる。




 このために急がれたのは一般農民の北海道への入植であった。入植者には政府により、種々の奨励策が施された。農耕用の土地を優先的に与えられ、その保有権を保証されたから、本土で土地を持てなかった農民層には極めて魅力的で希望を与えるものではあったが、なにせ寒冷の地である。今までの農耕の技術では役に立たず、何を植えるかも試行錯誤の状態であった。当時を揶揄する言葉に『しっちょいからげてどこさ行(ゆ)く、行くとこ無いから北海道』というものがあったが、当時の世相を表していると言えよう。
    注 しっちょい=着物の裾。

 政府は他国へ移民させるよりも、北海道を実効支配し、日本の領土と確定する意味においても、ここへの植民を優先させていた。明治七年(1874)、政府は屯田兵の制度を実施した。この制度は若い入植者を北海道に送り込み、開拓にあたらせながら北海道防衛のためとの理由で兵士としたものである。しかし民間の自由意志に任せておいては定住が進まなかった上、寒冷地である北海道開拓の苦しさからそこの土地を捨てて流亡する者も多かった。その流亡しようとする先に、ハワイが見えていたのかも知れない。ハワイは北海道と違って常夏の国であり、しかもすでに、『元年者』と言われる日本人が移民していたことも知られていたからと思われる。それに何と言っても北海道入植の困難さを伝え聞いた人たちにとって、暖かな気候と、伝えられる高額な賃金が、誘い水になったのではあるまいか。
    注 元年者=白人入植者の持ち込んだ病疫により、明治
      期以前に、ハワイの人口が激減した。カメハメハ5
      世は、日本人労働者の招致を徳川幕府と交渉するよ
      う、在日ハワイ領事のユージン ヴァン リードに指
      示、300人の渡航許可を得た。しかし幕府が明治
      政府と入れ替わったため、明治政府はこの交渉結果
      を無効化した。明治元年、リードは、153名の日
      本人労働者を、無許可でハワイに送り出した。その
      ためこの人たちは、『元年者』と言われるようにな
      った。なおホノルルのマキキ墓地の丘に、元年者の
      記念碑が建立されている。

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 このような事情にあったから、移民となって日本を出たのは、農家の次・三男が多かった。しかも相続の情況は商家や職人の家でも同じであったから、彼らの子どもたちによる移民も、少なからずあったのである。ハワイへの移民となった商家や職人の子どもたちは、ソロバンを鎌に持ち替え、プランテーションで働くことになる。手につけた職に就くことは難しかった。いずれにせよここでの労働は、辛酸の連続となった。
    注 プランテーション=近世植民制度から始まった前近
      代的農業大企業およびその大農園。熱帯、亜熱帯の
      植民地で、黒人奴隷や先住民の安い労働力を使って
      世界市場に向けた単一の特産的農産物を生産した栽
      植企業。(デジタル大辞泉・小学館)

 明治十八年(1885)一月、日布移民条約が締結され、第一回の移民九百四十六名が『東京市号』でハワイへ出航した。この条約は1894年に両国の合意の上で廃止されるのであるが、この間に二万九千人の日本人がハワイに渡っていた。これ以後は、日本国内の民間移民会社を通じた私的移民時代となる。

 明治三十一年(1898)二月、キューバの暴動に備えて派遣されていたアメリカの戦艦メイン号が、ハバナ港で突然爆発炎上して沈没し、二百六十名もの水兵の犠牲者を出す事件が起こった。「リメンバー メイン」のスローガンの下、アメリカはスペインと戦うことになった。米西戦争である。
   注 戦争に入る前のアメリカでは、何故か『リメンバー』
     という言葉を使う。『リメンバー パールハーバー』も
     そうであった。

 そして将にその年の五月、ハワイ共和国移民官となっていた勝沼富造が三春へ戻り、熊本移民会社の支店を福島市の稲荷神社の傍に開設して県内でのハワイ移民の募集をはじめた。これをはじめとして勝沼富造は、その後も何度かに分けて福島県から多くの移民を連れて行くことになる。しかし米西戦争は、ハワイから遠い大西洋での戦いであったにもかかわらず、当時、一般の人が持っていた稚拙な地理感覚では、それがよく分かっていなかった。移民希望者たちは、富造に世界情勢の説明を受けたが、それでもやはり、先行きは不安であった。そのハワイへ移民として出て行こうとする若者たちやその親たちにとっても、決断に至るには相当の葛藤があったに違いない。親たちとしても、度重なる不作や新政府による旧士族厚遇への不満があり、しかも日清・日露戦争へ子どもたちが徴兵されて戦死した者も多い上、またその戦争遂行のための重税にあえいでもいた。そしてさらには、特に福島県で巻き起こっていた自由民権運動とそれに対する弾圧などを目の当たりにし、せめて子どもたちにはよい社会生活をと思う気持ちが沸き上がってきたとしても不思議ではなかったと思われる。

 このような状態の中で、親たちは不承不承ではあっても、子どもたちのハワイへの移民を承知せざるを得ない状況にあったのであろうと思われるし、親の苦労を見て育った子どもたちにしてみれば、不安があったしても自分の努力で何とか家運を盛り立てたいと考えたのも無理はないと思われる。それであるから、移民をしようとする多くの若者たちは、いずれカネを貯えて『故郷に錦』を飾る気概で家を出た。彼らには、ハワイに永住する積もりなどは、最初からなかったと思われる。親の元に帰り、家業を続けて資産を護り、それを次の世代に譲りながら家名を存続させるということは、当たり前のことであった。当時の倫理観は、このようなものであったのである。これから老いるにもかかわらず送り出す親の側も、それを期待していたのではあるまいか。それにしてもハワイ移民の募集者が同じ福島県出身の勝沼富造であったことが、移民することへの安心感を与えていたのかも知れない。移住をして行く子と残る親との間に、別離の寂しさはあったであろうが、親は子を心配して早く帰ることを望み、子もまた早くカネを稼いで親に楽をさせたいという、暗黙の了解があったのであろう。むしろ親子ともに責任と義務を負い、悲壮な覚悟で別離をして行ったのではないだろうか。移住をして行く若者たちは、身軽な単身者が大半であった。これら移民一世とその親との心情的関係については、すでに想像の域に入ってしまっている。移民となって行った人たちの親に、当時の心境を聞く術(すべ)は、ない。




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最終更新日  2016.07.21 18:30:45
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