『福島の歴史物語」

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2016.07.26
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     日の丸考

 日本では、古代より太陽信仰と国家統治との間に密接な関係があったことから、日輪は天下統一の象徴とされていた。平安時代まで、朝廷の象徴とされてきた『錦の御旗』は、赤地に金の日輪・銀の月輪が描いてあったという。その日本で『白地に赤丸』が日の丸として用いられるようになった経緯は明確ではないが、一説に源平合戦の結果が影響していると言われている。

 平安時代の末期、自ら官軍を名乗った平氏は、錦の御旗の地色である赤旗を使用し、それに対抗した源氏は『白地に赤丸』の旗を掲げて源平合戦を繰り広げた。しかし平氏が滅亡し、源氏によって武家政権ができると、代々の将軍は源氏の嫡流を公言した。その後に江戸幕府を創設した徳川家康もその例外ではなく、源氏の嫡流という系譜によっていたので、最後の将軍・徳川慶喜も源氏の末裔ということになった。そのため、鎌倉幕府の創始者・源頼朝が掲げた『白地に赤丸』、つまり『日の丸』が、天下統一を成し遂げた者の象徴として、江戸末期まで受け継がれていった。

 現存最古の『日の丸』は、天喜四年(1056)に後冷泉天皇より源頼義へ下賜されたものという伝承がある。この旗は、頼義三男の新羅三郎義光から義光の系譜に連なる甲斐源氏宗家である甲斐の武田家に代々伝えられ、家宝とされてきたという。この伝承が事実であれば、遅くとも十一世紀半ばには『白地に赤丸』の『日の丸の旗』が存在していたことになる。

 近世における船旗関連の資料となるものとしては、寛永期(1624~1644)に描かれた江戸図屏風に、『日の丸の幟』を立てている舟の絵がある。そして現実には、寛永十二年(1635)に幕府が建造した史上最大の安宅船『天下丸』に、『日の丸』の幟が使用されている。幕府の所持船の船印としては、徳川氏の家紋『丸に三つ葉葵』を用いられるのが普通であったが、『日の丸』を用いることもあったという。江戸も中期になると、『白地に赤丸』は意匠のひとつとして普及し、絵巻物などには、しばしば『白地に赤丸』の扇が見られるようになる。『御用旗』としての『日の丸』は、正徳三年(1713)、幕府により、大阪から長崎への長崎御用銅の積船につけられたのがはじめてで、その後は南蛮貿易の日本船も『日の丸』を私的に掲げはじめた。(豊田武・児玉幸多共著 交通史)

 十八世紀末から十九世紀にかけてロシアによる南下政策を警戒した幕府は、蝦夷地の天領化や北方警備などのため派遣した御用船(商船・軍船など)にも、『日の丸』を掲げたり『日の丸』を帆に画いて使用していた。

 嘉永六年(1853)、薩摩藩主・島津斎彬は、ペリーの来航後外国船の往来が頻繁になると想定し、これと日本船との区別のための『日本総船印』を『日の丸』とするよう幕府に進言した。その翌年(1854)三月の日米和親条約調印後、外国船と区別するための標識が必要となり、日本国共通の船舶旗(日本惣船印)を制定する必要が生じた。そのため同年の七月九日、老中・阿部正弘により、島津斎彬の進言に基づく『日の丸』を当てることが布告された。安永元年(1855)、薩摩藩建造による昇平丸が幕府に献上された際、大小二旒の『日の丸』を翻して品川港に入ったが、この時が日本軍艦による最初の掲揚であったと言われる。

 安政五年(1858)、幕府目付の岩瀬忠震と下田奉行・井上清直は、『日の丸』を掲げて神奈川沖に停泊中のポーハタン号に乗船し、孝明天皇の勅許がないまま、日米修好通商条約に調印・署名している。翌安政六年になって、幕府は『日の丸』を『御国総標』にするという触れ書きを出した。日の丸が事実上の『国旗』としての地位を確立したのは、これが最初である。

 万延元年(1860)、幕府軍艦・咸臨丸は、日米和親条約批准の使者を乗せ、『日の丸』を掲げて太平洋を渡った。この頃から軍艦だけでなく、『日の丸』は事実上の国旗として使用されはじめた。幕府海軍に続き、文久二年(1862)に創設された幕府陸軍も、軍旗として『日の丸』を採用している。

 戊辰戦争に際して、岩倉具視の腹心・玉松操のデザインの『錦の御旗』を元に、大久保利通が京都市中で大和錦と紅白の緞子を調達して京都薩摩藩邸で密かに造らせ、その半分は、数日後に品川弥二郎が材料を長州に持ち帰って『錦の御旗』に仕立てたという。慶応四年(1868)正月、薩摩藩の本営であった東寺に、この『錦の御旗』が掲げられた。

 鳥羽・伏見の戦いの二日目の慶応四年一月四日、薩長を中心とする軍勢が朝廷から正式にこれらの『錦の御旗』を授けられて官軍とされたのに対し、それ以降の徳川幕府軍は賊軍とされた。この『錦の御旗』が、戦局に決定的な影響を与えることとなるのであるが、その一方で『日の丸』は、幕府側つまり奥羽越列藩同盟側での使用頻度が高くなったのは、否めない事実である。幕府側の彰義隊、会津藩、さらには奥羽越列藩同盟の一部などは、自分たちの共通の旗として『日の丸』を掲げて戦っていたのである。ここで興味のあることは、賊軍とされた幕府側が『日の丸』を旗印として使用していたことである。

 その後、『錦の御旗』は戊辰戦争の各地での戦いで薩長両軍を中心に使用されることになる。この新政府軍(官軍)の証である『錦の御旗』の存在は新政府軍将士の士気を大いに鼓舞することになった反面、賊軍の立場とされてしまった幕府側の将兵に大きな打撃を与えた。 当時、土佐藩士として戦いに参加し、のちに宮内大臣や内閣書記官長などを歴任した田中光顕は、「『錦の御旗』を知らしめただけで前線の幕府兵たちが、このままでは朝敵になってしまう」と言って青ざめて退却する場面を目撃したという。

 明治二年(1869)、戊辰戦争での最後の賊軍と言われた榎本武揚は、函館の弁天台場や運上所に『日の丸』を掲げ、『錦の御旗』と戦火を交えた。賊軍の『日の丸』と官軍の『菊』とが、戦場で正式に対峙したのである。

 明治三年(1870)、明治政府は、太政官布告第57号で『日の丸』を商船に掲げるよう通達した。ちなみにこれ以後、軍艦も銃も、つまり戦争用具のすべてに菊紋が付されることになるが、これは軍が、天皇直属であること意を表そうとしたためなのであろうか。

 以後、『日の丸』は国旗として扱われるようになったが、それは太政官布告のままであり、法令としては裏付けはなかった。そこで昭和六年(1931)二月、第59回帝国議会において全11条及び附則からなる『大日本帝国国旗法案』が衆議院議員・石原善三郎により提案され、同年三月二十六日の衆議院本会議において可決された。しかし貴族院送付後の三月二十八日、会期終了に伴う帝国議会閉会により審議未了のため廃案となり、続く第60回帝国議会に再提出されたものの衆議院解散により再び廃案となり、成立することはなかった。

 昭和二十年(1945)、日本の敗戦により、連合国軍総司令部(GHQ)の指令に基づき、『日の丸』の掲揚が原則禁止とされた。この間、日本船籍を表す商船旗として、国際信号旗のE旗が代用された。しかしGHQの許可を得ることで、祝日に限定した特例としての『日の丸』の掲揚が可能となった。『日の丸』の自由掲揚が認められたのは、昭和二十四年(1949)になってからである。なお国際信号旗のE旗は、『本船は右に針路変更中』の意味であるが、なぜこれが国旗の代わりに使わされてきたかの理由は不明である。

 一時は賊軍の旗と認識され、その後も紆余曲折を経ながら、うやむやのうちに日本の国旗とされた『日の丸』は、平成十一年(1999)の『国旗及び国歌に関する法律(国旗国歌法)』が公布されることにより、はじめて法的な根拠を得た正式な国旗となったのである。



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最終更新日  2016.07.26 10:20:35
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