『福島の歴史物語」

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2016.08.10
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     ハワイ移民一世(1)

 ハワイでの生活は、移民たちが思い描いていたものとは大きく異なっていた。それはまた、富造が思い描いていたものとも違っていたのかも知れない。プランテーションでの労働条件は極端に悪く、生活には厳しいものがあった。頭で考えていたように簡単にカネが得られる仕事ではなく、労働は過酷であった。ハワイの白人農園主は、白人であるポルトガル人をルナ(人夫頭)として雇い、多くの中国人労働者をプランテーションで使っていた。そこへ日本人移民が入ってきたのである。新たな日本人移民が、以前から入植していた中国系移民の職を奪うと考えられ、彼らからねたまれたのである。これらの差別などから身を守るために、日本人移民は、ただただ、黙々と働くのみであった。そのことが、白人農園主から勤勉な日本人移民、との高い評価を受けるのである。

 労働には大別して栽培と粗糖製造があった。栽培は数班ずつに分かれ、ポルトガル人のルナの監視のもと、炎天下の重労働に耐えなければならなかった。機械的なリズムで砂糖キビを切り、手をゆるめれば途端にルナに怒鳴られ、蛇皮の黒鞭が飛んでくることさえあった。切り倒された砂糖キビは、日本人女性労働者が束にして貨車まで運び、さらにナイフのように鋭く尖った葉をそぎ落とすのが彼女たちの仕事であった。粗糖工場の中は、地獄の炎のような暑さと機械の絶え間ない騒音であふれていた。その上若い男たちは一人暮らしのため生活も荒れ、せっかく稼いだ金も、ばくちや売女に使ってしまうという状態であった。

 それから何年かが過ぎて、富造が連れて行った最初の移民団の一人、伊達崎(だんざき)村宮北(いまの伊達郡桑折町)出身の岡崎音治氏が、プランテーションでの苦しい生活を嫌い、思い切ってホノルルに出て独立、洋服屋として大成功した話が福島にも伝わってきた。彼の成功話が刺激となったのか、県内にはハワイ移民の機運が高まっていった。岡崎音次氏の成功を知ったこともあ ってか、福島県からハワイへ移民して行った人たちは"農家の出身者ばかりではなかった。商工業関係の人たちの多くも参加するようになったのである。彼らはインテリとまでは言わないが、肉体労働にそぐわないような身体の人たちであった。しかし彼らもまた、新天地ハワイでの成功を夢見たのである。

「天竺(ハワイ)でひと儲けしよう」
 この高まるムードのもとで、仕事と未来を求めてハワイに多くの日本人が移民となって渡って行った。しかし移民たちにとってのこの夢は、すぐに破れた。特に商工業関係者移民は、ハワイで独立営業をするための資金も無かったし新規営業そのものも難しかった。結局すべての人が不慣れなプランテーションに行かざるを得なかったのである。

 当時のアメリカでは、南北戦争以降、奴隷売買や半奴隷的契約労働者の輸入こそ禁止されていたが、ハワイでは『主人と召使法』があったため、日本人労働
者は契約満了を絶対的に義務づけられていた。それでなくとも、日本とは海を隔てた遠いハワイから、高額の船賃も出せなかったので、逃げ出す方法もなかった。つまりは、ハワイに住むことしかできなかったのである。ハワイ民謡とされるホレホレ節が、それを物語っている。
  注 ホレホレ=砂糖黍の枯れ葉を手作業で掻き落としていく
    作業

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 ハワイ ハワイとヨー夢見て来たが 流す涙はキビ(畑)の中
 ハワイハワイと来てみりゃ地獄 ボース(英語のBoss)は悪魔でルナは鬼
 地震雷恐くはないが ルナの声聞きゃぞっとする
 雨がショボ降るカンカン出鐘 追い立てルナの靴が鳴る
 ゴーへゴーへとせき立てられて ルナを殴った夢を見た
 ルナの目玉に蓋しておいて ゆっくり朝寝がしてみたい
 工場(製糖)勤めは監獄務め 鉄の鎖がないばかり
 雨が降りますヨー洗濯もんは濡れる 背なの子は泣くマンマ焦
 げる
  一回二回でヨー帰らぬ者は 末はハワイでポイ(タロ芋)の肥え
   注 『1回、二回』は、三年契約を一回とするその回数、
     つまり六年。
  醤油飲んだが待つ間に覚めた 果てはコロコロ(裁判) カラボーシ(牢獄)
   注 醤油を呑むと発熱するとの事から、体調が悪くて休み
     たい時に飲んだりしていた。

  つらい条約逃げよかここを 今日も思案の日が暮れる
  条約切れるし頼母子(たのもし)おちた 国の手紙にや早う戻れ
   注 頼母子=少額のカネを出し合って積み立て、病気や
     緊急の事が起きた人に貸し出す組織。『おちた』は、
     そのカネを一番高い利子で入札するか、または抽選
     で当たって借りること。

  行こかメリケンヨー帰ろか日本 ここが思案のハワイ国

     ♢  ♢  ♢

  今日のホレホレ辛くはないよ 夕べ届いた里便り
     ハヤシ=そのわきチャッチャでヌイヌイハナハナ
                     (以下同じ)
  花嫁御料でヨー呼び寄せられて 指折り数えて五〇年
  頼母子落として妻呼び寄せて 年子年子で苦労する
  自由になるなら今宵の月に 故郷の便り頼みたい
  横浜出るときゃ涙で出たが 今は子もある孫もある
  雨が降りゃ寝るヨー日和なら休む 空が曇れば酒を飲む
  旅行免状のヨー裏書き見たが 間夫をするなと書いちゃない
  明日はサンデーじゃヨー遊びにおいで カネ(夫)はハナワイ(黍畑仕事)
  わしゃ家に
  宅で朝から首尾してお待ち きっとバンバイ(その内)行くわいな
  頼母子落としてワヒネ(女)を呼んで 人に取られてベソをかく
  ぶらぶら育ちのパパイヤさえも 色づく頃には売られ行く

 しかしこの歌詩でも分かるように、初期のホレホレ節は労働の辛さ生活の苦しさを歌っていたが、年月を経るに連れて、後半の唄のように娯楽的になっていく。これは本当の意味での労働歌が、生活が落ち着くにつれお座敷などの酒宴の唄に変わっていったことを意味している。
  注 たまたま車を運転中に聞いたこの歌の合いの手に、
    「烏なぜ泣くの」のメロディが入っていた。ただ歌い継
    がれる間に、歌詞ともども変化して行った部分かとも思
    われる。ただ私には、ホレホレ節が群馬県草津温泉で歌
    われる『湯もみ唄(高温の湯を板でかき回して適温にす
    る共同作業で歌われる作業唄)』に似ていると思えるので
    あるがどうであろうか。

 すでに亡くなられたが、ハワイ島ヒロ市の移民資料館長をされていた一世の大久保清氏は「昔はどこに行っても日本語で用事が済んだのに、この頃は日本語が通じないことがあって困るなどと言う一世がいた。彼らは確かに海を渡っては来たが周囲は日本人ばかりで日本語が話され、日本的感覚のみで事が済むとなれば、それを捨てろと言っても無理な話だとは思う。しかし彼らは、ハワイへの移民が貧乏な日本を救うための民族の大移動であったということを理解すべきであった。『郷に入らば郷に従え』という諺がある。ここに来た以上、英語を学ぶべきであった」と語っておられた。新潟県出身であった彼は、「ここではタガイニ(新潟の逆さ読み)助け合って生活することが大事だ」と話していた。
  注 大久保清氏は、2003年に九十八歳で亡くなった。

 そのハワイでの劣悪な労働条件の中にあっても、カネを貯めて日本へ戻って行った者も少なからずあった。その反面、彼らが自分たちの苦労を隠して話す成功談を聞いて、新しくハワイへ移民をしようとする者も少なくなかった。最終的に、移民会社の斡旋で四万人あまりの日本人が移民したのであるが、やがて時が経つに連れ、帰国せずにハワイに留まる者も増えていった。日本の郷里で仕送りを待つ親や小さな兄弟のためを思い、あるいは郷里での困窮した生活に比べれば、ここでの苦労は仕方が無いと諦めて働き続けた者も多かった。しかし戻らなかったのはそれだけの理由だけではなく、悪質な移民会社もあったため、労賃を搾取された上に半奴隷的労働に荷担されて身動きできない状況の者も多かったのである。
  注 日本人移民4万=当時のハワイの総人口は、白人入植者
    の持ち込んだ病疫のため、約15万4千人に激減してい
    た。
    2010年現在のハワイの総人口、約136万人。ハワ
    イ系約8万人。白人36万人。日系19万人。ヒスパニ
    ック12万人。上記混血32万人。



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最終更新日  2016.08.11 00:39:20
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