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『 帰 布 二 世 』 の 証 言(2)
ほとんどの帰布二世が幼少期に日本に戻ったのに対し、例外もあった。フミコ カメダさんの例である。
「私は1921年4月16日にホノルルで生まれました。小さい頃、近くにあったお寺に行ってよく遊びました。それもあって、今もお寺のご詠歌などの集まりにもよく行きます」
「それでは今の日本よりよほど日本的生活ですね」
「白人は日本人を陰に陽に差別していましたから、私にとってお寺は、白人たちの目から逃れるのにいい場所だったのです。それにここは、日本の文化に触れるためにもいい所でしたからね」
日本刺繍、茶道、華道、作法もみんな、お寺で習ったという。
「昔の日本の教育は良かったと思います。食事は家族みんなで一緒に摂りました。食事中に話をしないように仕付けられました。今は違いますね。そして今になって日本語学校で習った『父の恩は山より高く、母の恩は海より深い』という修身の教育が、よく分かるようになりました」
フミコさんの父親は、ホノルルで日本式旅館や東北温泉という名の旅館の事業などで成功し、家庭環境は裕福であったという。父はその裕福さからハワイに永住すると決めていたようで、幼いフミコさんに日本の教育を施そうとしただけで、日本に戻すという道はとらなかったようである。フミコさんはエレメンタリースクールを卒業してから、セントラル インターミデァ ミドルスクールを卒業したというから、中学校までの間、ハワイから離れなかったことになる。
「私が日本に行ったのはミドルスクールを卒業した年でしたから、1938年で十六歳の時でした」
「そうですか。大分大きくなってから行ったのですね。どなたか・・・、親ごさんとでも行かれたのですか?」
「はい、父親が連れて行ってくれました。ですから入学する学校の選択などの全部を、父がやってくれたのです。私は東京市四ッ谷六丁目にあったカトリック系国際女子学院へ入学し、そこの寄宿舎に入りました」
「親戚のお家などの世話にはならなかったのですか?」
「はい。そこは全寮制の学校でしたから大丈夫だったのです。寄宿舎での生活を二年しました」
「二年ということは、1940年、戦争の前の年になりますね。その学校は普通の日本人の学校だったのですか?」
「いいえ。ほとんどが海外から戻ってきた人たちが通っていた学校でした。ですから生徒同士が使う言葉もスペイン語やイタリア語の人がいました。当然、共通語は日本語とされましたが日本語を使うのが難しい人もいましたので、英語が多く使われました。しかし授業は日本語でした」
「なるほど、お父さんは言葉の壁もあって親戚に頼らなかったのでしょうか?」
「それは私も分かりません。とにかく日本に行ってから連れて行かれた所がその学校だったのです」
「生活の費用はどうしていました?」
「父が毎月30ドル送金してくれていました。その頃の30ドルは今と違って価値がありました。ですから生活には余裕があり、日本での生活は恵まれていた方だと思います」
「それはよかったですね」
「私たちは、よく友だちと四ッ谷の寄宿舎から新宿へ歩いて遊びに行きました。それは、おもしろかったですよ。私たちは友だち同士で遊びに行く時間などを決めておいて寄宿舎を出るのですが、必ず私服の巡査が『女の子に何か悪いことが起こると困る』と言って警護に付いてくれるのです。まるで屈強な男性を、お供にして歩いているお嬢様のような気分でした。それにしても、私たちが出掛ける時間をどうして知っていたのでしょうね?」
「・・・」
「日本人はなんて親切なのと思い、日本に対しては今でもいい印象が残っています」
「その学校は、女の子だけでしたか?」
「いいえ。男女共学でした。しかし寄宿舎は別でした。卒業の半年前、学校が小田原の学校と合併したので、私たちも小田原に移りました。ここでも私たちが授業を終わってから町に出掛けたりすると、私服のお巡りさんが寄宿舎に戻るまで付いてきてくれました。本当に日本人は親切だと思っていました」
「そうですか・・・。実は夢を壊すようで申し訳ありませんが、多分それは、特別高等警察が、あなた方がアメリカ側のスパイ行為をするのではないかと思って監視していたのだと思いますよ。ですから恐らく、あなた方が出掛けるのを知って声をかけたのではなく、見張っていたところに出て来たから声をかけたのだと思います」
私が、特別高等警察とは、第二次世界大戦以前から日本において設置されていた警察で、各県の警察部長を経由して地方長官の指揮を受ける一般の警察と異なり、内務省から直接に指揮を受ける強い権力を持つ警察組織であったこと、さらには被疑者の自白を引き出すために暴力を伴う過酷な尋問、拷問を加えた記録が数多く残されるなど、当時から一般での略称、特高警察や特高の名は畏怖の対象であったなどということを説明すると、フミコさんは「七十二年後の今になって、初めて知った」と言って驚いていた。
「私は1940年にハワイに帰りました。戦争が始まる一年前でした。その頃、東京から三人の紳士が来て、父の経営する東北温泉に泊まりました。父は、彼らがパールハーバーの写真を撮っていると言っていました。今になって、私は彼が日本のスパイだったのではないか、と思っています」
「う〜ん。多分、そうだったのかも知れません」
「パールハーバーが襲撃された日の夜、私の家に数人で来たFBIは、わが家の銀行預金や財産などを調べ,その上徹底的に家宅捜索をしました。タンスの引き出しはすべて開けられ、母や私の下着まで調べられました。あれは屈辱的でした」
「お父さんはどうなりました?」
「父は家宅捜査の間中FBIの車に乗せられていましたが、家から持ち出された幾つもの大きな段ボール箱と一緒に、着の身着のままで連れて行かれました。怖かった・・・」
「お父さんはどこへ連れて行かれましたか?」
「最初はサンド アイランドでした。ホノルル港内の・・・。それからメーンランド(本土)の強制収容所に連れて行かれました」
注・強制収容所=日本軍のアメリカ本土上陸を恐れたアメリカは、大統領令により十二万人
(うちハワイから千人以上)を辺地の強制収容所に送った。
・マンザナー、カリフォルニア州(Manzanar、1942年6月開設)
・ツール・レイク、カリフォルニア州(Tule Lake、1942年5月開設)
・ポストン、アリゾナ州(Poston、1942年5月開設)
・ヒラ・リバー、アリゾナ州(Gila River、1942年7月開設)
・ハート・マウンテン、ワイオミング州(Heart Mountain. 1942年8月開設)
・ミニドカ、アイダホ州(Minidoka、1942年8月開設)
・トパーズ、ユタ州(Topaz、1942年9月開設)
・ローワー、アーカンソー州(Rohwer、1942年9月開設)
・ジェローム、アーカンソー州(Jerome、1942年10月開設)
・アマチ、コロラド州(Amache、1942年8月開設)
・クリスタル・シティー、テキサス州(Crystal City、1942年11月開設/
司法省が管轄する拘置所)
「どこの強制収容所でしたか?」
「父は二ヶ月おきに各地を転々と移されていたと言っていましたから、私たちとは連絡が取れませんでした。ですからどこにどう動いていたかは、分かりませんでした。ただ父がアーカンソー州ジェロームの強制収容所にいたとき、ヒデオ トウカイリン(後述)が第100大隊の制服を着て面会に行ってくれたそうです。ヒデオの軍服姿が眩しく見え、自分の囚人服での姿を曝すのがとても惨めであった。ただ、これが最後の別れになるかも知れないと思うと涙が先にたち、両手で彼の手を握りしめるのが精一杯だった。と言っていました」
「東北温泉に泊まっていた三人の紳士は、どうしていましたか?」
「よく憶えてはいませんが、その時はもう居なかったように思います」
「そうですか。やはり日本のスパイだったのかも知れません。アメリカ海軍の軍艦の動静などを、報告していたのかも知れませんね」
「そうですね。危険を感じて、逃げ出したのかも知れません」
「このことに関して、お父さんは厳しく調べられたのでしょうか。何か聞いていませんでしたか?」
「ええ、そのことについては聞いていませんが、父はこの戦争で、『日本が勝った方がいいと思うか、アメリカが勝った方がいいと思うか』、などとFBIにしつこく聞かれた上、アメリカへの忠誠を確かめるため、天皇陛下の写真を踏ませるということもあったようです」
「え〜っ。そんなこともあったのですか? まるで江戸時代のキリシタン弾圧のようでしたね。それでは、戦争中のあなたがたの生活はどうだったのですか?」
「それでも父はいくつかの会社を持っていたからか、そう生活に困った記憶はありませんでした。ただ戦争中は日本語の使用が禁止され、日本の教科書を使っていた日本語学校も閉鎖されました。とにかく生きるために、日本的な神様も仏様も、そして長押(なげし)に飾っておいた天皇陛下のご真影から日本語の本までのあらゆるものの一切を投げ捨てました。私たちが持っていた日本の全部を捨てたのです。とても辛い思い出です。食べなければ明日はないと思い、何でも食べました。もう後へは戻れないと思っていました」
「後へは戻れない?」
「はい。私はとにかく一生懸命だったよ。どこでも差別されるものだから頑張るしかなくてね。自分に言い聞かすの、私もアメリカ人じゃないかとね。でもパパは言うの、おまえは日本人だとね。それで私は、このハワイの海の先に日本がある、そう思って毎日のように西の海を見に行っていました。行けるか行けないかは問題ではありませんでした。それは強い望郷の念でした。ただそれだけだったのです。日本に行けば、こんなことは起きないだろうと・・・」
「そうですか。それは辛く、寂しい気持だったでしょうね」
「それでも私は、1944年に山口県の人と結婚しました。まだ戦争中でした。戦後になってからようやく父が帰り、営業を再開しました。戦後のことですが、父の旅館には長谷川一夫や京マチ子などが宿泊しました。父は失った物を取り返そうとするかのように、皇室と名の付く写真は何でも集めて保存しようとしていました」
「今までで一番嬉しかったことは何ですか?」
この質問に時間を置いて、彼女が答えた。
「悪いことは何もなかった、いいことばかり・・・」
しかし私は、彼女が周囲の人に気遣ってそう言ったのではないかと思った。ハワイでの日系移民の様子を知れば、そのようなことはあり得ないことだし、彼女の生活もまた大変であったからである。
「私は、祖国を失った日系人でした。しかし私は大ファミリー(多くの子どもたち)を育て上げました」
彼女の自負の言葉を聞きながら、ハワイでは何も悪いことは起こらなかったと言わざるを得ないようなハワイの社会状況の中での日系人の本心の底を、垣間見たような気がした。確かに彼女が日本に戻った年齢が他の帰布二世と同じ幼児期ではなかったが、紛れもなく、帰布二世の一人であると感じた。
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