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ミツエ タカハシさんの父母は福島市出身である。彼女は姉のシズエ、兄のタダオ 次兄のタダヒロの四人兄弟の末っ子として、1923年にハワイで生まれた。ミツエさんが四歳か五歳のころ、家族全員で福島に戻ったという。
「家族全員ということは、何か理由があったのですか?」
「私は直接親に聞いていませんでしたが、後で姉や兄に聞いたのは、両親は日本に戻ってそのまま生活する積もりだったらしいということでした」
「ハワイでの生活が大変だったのでしょうかね?」
「私にそれは分かりませんでしたが、両親は実家の農業を手伝って生活をしていました。ですから子どもたち全員が佐倉国民学校を卒業し、私は福島成蹊女学校に通いました。姉のシズエと日本の兵役を逃れようとした二人の兄は、両親と一緒に私と別れてハワイへ帰って行きました。ハワイでは叔父の世話になったのです」
「それではあなたは、福島で一人になった訳ですね?」
「はい。私は十八歳まで福島にいました。だから福島弁なんか上手ですよ。『おらぁ、シンニェ(私は知りません)』『しょうしくて(恥ずかしくて)』(笑)
「十八歳ということは、1941年ということになりますね それでどうなされていました?」
「それから私はハワイに帰りました。日本の学校の卒業は三月でしたから、帰ったのは戦争のはじまる前でした。ハワイで花作りを始めていた姉や兄たちが、一人で福島にいる妹の私を呼び寄せてくれたのです」
「よくお爺ちゃんたちが許してくれましたね」
「ええそうですね。とにかく姉や兄たちがハワイに行っているのだから、仕方がないと思ったのかも知れません。まさか日本とアメリカが戦争をするとは思いもしなかったでしょうからね」
「ハワイでの生活に、何か不都合なことはありませんでしたか?」
「そうですね。ハワイに帰った私は、ハワイ報知新聞の文選工として働きました。ここは誰かに話しかけさえしなければ、黙っていても出来る仕事だったからです。私は日本語で成長しましたから英語が話せませんでしたし、何か地元の人と話をしても不愉快なことが多かったからです。しかしハワイには多くの人種がいましたから、特にそれで困ることはありませんでした」
「ミツエさんはホノルルに住んでいたのですよね。戦争がはじまった時のことを覚えていますか?」
「そうね。真珠湾が攻撃された時、私は家の庭にいました。そうしたら、低空で飛行機が飛ぶのよね。それで、『ママ(叔母をママと呼んでいた)、今日はどうしてこんなに低く飛行機が飛ぶの?』そう聞きながら空を見たら日の丸が付いていたのです。『あっ、日本から来た飛行機だ!』と近くにいた叔父と叔母に言ったら、『なーに日の丸など来るはずがない。星(アメリカ軍機のマーク)でも見間違いたんだろう』と気にもしなかった。そしたらね、港の方で爆発音はするし、ヒッカム飛行場ね。あの方向から煙があがるのね。あとで叔父と叔母に聞いたら、ドリル(訓練)だと思ったと言っていました」
「じゃ、本当に突然の出来事だったのですね」
「そうね。多くの日系人は日本が攻めて来るなどとは考えられませんでしたから、本当のこととは思えなかったようです。それにしても、戦争中はやはり大変でした。まるで息を殺すような生活でした」
取材に同席していたミツエさんの息子の嫁が言った。
「母は面白いの。とにかく誰とでも仲良くしなければと言って、いろんな亀の置物などを集めて玄関に置いていたのね。分かる? そう、誰でも家へいらっしゃいって。そう、Come in 。つまり亀よ」
「とにかく大変だったから、私は敵国人だと思われたくなかったし、誰とでも仲良くしなければと思っていましたからね」
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