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『 帰 布 二 世 』 の 証 言(7)
ウェリアム ゴトウ氏の場合、彼の父が余目村で生まれた後、祖父が単身でハワイに渡っている。
「お爺さんが先に一人でハワイに来たというケースは珍しいですね」
「そうですか。父は小学校卒業後にハワイに呼び寄せられました。その後父は余目村近くの黒岩村出身の母とハワイで結婚しました」
「ピクチャーブライドだったのですか?」
「いいえ。福島の親同士で決めた結婚だったと聞いていますが・・・、まあピクチャーブライドと同じようなものだったのかも知れません」
「で、あなたが生まれたのは?」
「私は1920年に五人兄弟の三人目として生まれました。後藤家は一家をあげてプランテーションで働き、百万長者と言われるほど豊かになったそうです。そのため余目村では後藤家への仕送りの多さに驚き、ハウオリ(幸福)後藤と噂されていたそうです」
「それじゃ生活は楽だったのですね?」
「それは子どもの時でしたからよく分かりません。しかし好事魔多しで、1925年、私が五歳の時、父が亡くなってしまい、そのために家族全員で余目村に戻りました。帰国に際しては、相当の資産を持って来たと言われています」
「それはよかったですね。帰国したのが五歳の時と言いますから学校はどうされました?」
「私は1927年に福島師範付属小学校に入学し、1933年に卒業しました。その後の1938年、福島中学を卒業しました。ハワイに帰ったのは1949年、戦争が終わってからです」
「福島中学を卒業したのが十八歳のようですが、日本軍に徴兵されなかったのですか?」
「それがどうしてであったかはよく分かりませんでしたが、徴兵はされませんでした。多分、アメリカ国籍であったということが関係したのでしょうか。とにかく人口希薄の土地でしたから、兵隊に行かない若い男の私に対する周囲の目は、厳しかったような気がしました。人の目が気になって、農作業だけに没頭していました」
「それからハワイに帰られた?」
「そうです。私は帰れたのですが、何も知らないで日本の国政選挙をした二人の姉は、そのためにアメリカ国籍を失ってしまったのです。一人でハワイに帰って来た私は、夜学で英語を必死になって学びました。結局姉たちは、日本で生活することになってしまったのです」
「姉弟はバラバラになってしまったのですね。それでハワイでの生活はどうなりました?」
「私は1952年にアメリカ軍に徴兵され、情報部へ配属されました。そして1954年、勃発した朝鮮戦争に従軍しました」
「ああ。朝鮮戦争に行かれたんですか?」
「はい。通訳兵となったのですが、それが面白いのですよ。当時の韓国軍は旧日本軍の焼き直しのようなところがあったのですが、韓国語から日本語に訳す韓国兵通訳と組み、日本語から英語に私が訳したのです。除隊後は以前勤めていたアロハシャツファクトリーに勤めたのですが倒産してしまい、農業を手伝いながら阪急トラベルに再就職しました」
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