『福島の歴史物語」

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2021.07.01
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伽羅先代萩 伊東七十郎重孝

 『樅ノ木は残った』は、小説家山本周五郎による歴史小説で、昭和四十五年一月四日より十二月二十七日まで放映されたNHKの大河ドラマでしたので、ご記憶にある方も多いと思われます。内容としては、伊達家で起こったお家騒動を題材にしたものです。この小説の主人公は、従来は悪人とされてきた原田甲斐で、幕府による取り潰しから藩を守るために尽力した忠臣として描くなど、山本周五郎の新しい解釈が加えられたものです。その中に、伊東七十郎重孝という人が出てきます。

 この重孝の先祖は、文治五年(1189)、源頼朝が平泉の藤原氏を破って奥州を平定した際、その戦功を認められ、安積を安堵された工藤祐経の第二子の伊東祐長から始まっています。そして戦国時代、安積の伊東重信は、仙台・伊達氏の麾下に属し、天正十六年(1588)、郡山の夜討川合戦の際、倍する勢力の常陸の佐竹、会津の蘆名、それに白河、須賀川などの連合軍に苦戦し、伊達政宗の命運も危うくなった時、伊東重信は政宗の身代わりとなって僅か20騎で突撃し、須賀川の家臣の矢田野義正に討ち取られ、壮烈な戦死を遂げた武功ある家柄でした。伊達家では、その討ち死にの地に『伊東肥前之碑』を建ててその武徳を永久に顕彰することとしたのですが、それは現在、富久山町久保田の日吉神社に移されています。この神社は、その合戦の際の伊達本陣であったとされます。

 重孝は、伊達氏の家臣で伊東重信に連なる伊東重村の次男として、仙台に生まれました。儒学を仙台藩の内藤閑斎、京都に出てからは陽明学を熊沢蕃山、江戸にては兵学を小櫃与五右衛門と山鹿素行に学んでいます。その一方で重孝は、日蓮宗の僧の元政上人に国学を学び、文学にも通じていました。また、武芸にも通じ、生活態度は身辺を飾らず、内に烈々たる気節を尊ぶ直情実践の士であったとされます。

 伊達騒動は、江戸時代の前期に伊達氏の仙台藩で起こったお家騒動です。黒田騒動、加賀騒動とともに、三大お家騒動と呼ばれる事件でした。仙台藩3代藩主の伊達綱宗は遊興放蕩三昧であったために、大叔父にあたる一関藩主の伊達宗勝がこれを諌言したが聞き入れられず、家臣と親族の大名の連名で、幕府に綱宗の隠居と、嫡子の亀千代(後の伊達綱村)の家督相続を願い出ました。そこで幕府により、綱宗は21歳で強制的に隠居させられ、4代藩主にわずか2歳の伊達綱村が就任したのです。

 ところが綱村が藩主になると、一関藩主の伊達宗勝と原田甲斐が実権を掌握し、権勢を振るっての専横を嫌って、幕府に上訴することになったのです。ところが清廉な板倉内膳正の裁断により伊達宗勝の側が敗訴したため、もはやこれまでと抜刀した原田甲斐は宗勝の側の伊達安芸を斬ったのですが自らも討たれて結末を迎えました。のちにこの板倉内膳正は福島藩に転封され、福島市杉妻町の板倉神社に祀られています。この伊達騒動において、重孝は伊達家の安泰のために対立する伊達宗勝を討つことを伊東重門と謀りました。伊東重門は、寛文三年(1663)に原田甲斐と家老となっており、藩主伊達亀千代 ( 綱村 ) の後見役である伊達宗勝と田村宗良に誓書を書かせたのですがまもなく重門は病に倒れ、後事を分家の重孝に託して死去しました。しかしこのはかりごとは事前に計画が漏れ、重孝は捕縛されたのです。

 重孝は入牢の日より絶食し、処刑の日が近づいたのを知ると

『人の心は肉体があるから、物欲に迷って邪道に陥る危険がある。本来人に備わっている道義の心は物欲に覆われ、微かになっている。それゆえ人の心と道の心の違いをわきまえ、煩悩にとらわれることなく道義の心を貫き、天から授かった中庸の道を守っていかねばならない。』と書き、また、

『人の心これ危し、道心これ微なり

これ精(せい)これ一(いち)まことその中(なか)をとる

古語にいう。身をば危すべし、志をば奪うべからず

又云。殺すべくして恥しめべからず

又云。内に省(かえりみ)てやましからず、是予が志なり

食を断って三十三日め目に之を書なり

我が霊魂三年の内に滅すべし 罪人七十郎』

 こう書き残した四日後の寛文八年(1668)四月二十八日、重孝は死罪を申し渡され、米ヶ袋の刑場で処刑されています。

 重孝は処刑される際に、処刑役の万右衛門に「やい万右衛門、よく聞け。われ報国の忠を抱いて罪なくして死ぬが、人が斬られて首が前に落つれば、体も前に附すと聞くが、われは天を仰がん。仰がばわれに神霊ありと知れ。三年のうちに疫病神となって必ず兵部殿(宗勝)を亡すべし」と言ったというのですが、そのためか万右衛門の太刀は七十郎の首を半分しか斬れず、七十郎は斬られた首を廻して狼狽する万右衛門を顧み「あわてるな、心を鎮めて斬られよ。」と叱咤したと言われます。気を取り直した万右衛門は、2度目の太刀で重孝の首を斬り落としたのですが、同時に重孝の体が天を仰いだといわれます。またこのとき一族は、御預け・切腹・流罪・追放となりました。後に万右衛門は、重孝が清廉潔白な忠臣の士であったことを知り、大いに悔いて阿弥陀寺の山門前に地蔵堂を建て、重孝の霊を祀ったとも伝えられています。

 重孝の死により、世間は伊達宗勝の権力のあり方に注目し、また江戸においては、文武に優れ気骨ある武士と言われていた重孝の処刑が、たちまち評判となりました。そして伊達宗勝一派の藩政専断による不正、悪政が明るみとなり、宗勝一派が処分されて伊達家が安泰となり、重孝の忠烈が称えられたのです。

 重孝の遺骸は、仙台市若林区新寺阿弥陀寺に葬られたと伝えられ、のちに伊東家の菩提所である仙台市若林区連坊にある栽松院に墓が造られ祀られています。また、当時の人々が刑場の近くに重孝の供養のため建立した仙台市青葉区米ヶ袋の『縛り地蔵尊』は、『人間のあらゆる苦しみ悩みを取り除いてくれる』と信仰され、その願かけに縄で縛る習わしがあり、現在も毎年七月二十三、二十四日に、縛り地蔵尊のお祭りが行われています。さらに昭和五年になって石巻市北村に、七十郎神社が創建されその霊が祀られています。 なお重孝には2人の息子がいましたが、兄の重綱は父の重孝の跡を継いで大阪の陣で活躍し、仙台藩成立後は、家老となっています。いずれ伊東七十郎重孝は、郡山とは深い関係のあった人でした。

 この伊達騒動を扱った最初の歌舞伎狂言は、正徳三年(1713)の正月、江戸・市村座で上演された『泰平女今川』ですが、これ以降、数多く伊達騒動ものの狂言が上演されました。特に重要な作品として、安永六年(1777)に大阪で上演された歌舞伎『伽羅先代萩』と、翌安永七年、江戸・中村座で上演された歌舞伎、『伊達競阿国戯場(だてくらべおくにかぶき)』、さらに天明五年(1785)、江戸・結城座で上演された人形浄瑠璃、『伽羅先代萩』の3作が挙げられています。

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最終更新日  2021.07.01 06:30:07コメント(0) | コメントを書く
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