『福島の歴史物語」

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2024.11.10
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平賀源内は、どこで三春駒を知ったか?③

 落札した三春駒が手元に届くと、私はよく観察してみました。植物でできたとされる『たてがみ』や尻尾はほとんど残っていませんでしたが、その香炉の胸部には、五島美術館の図録と同じく、『奥州・三春大明神・子育之馬』とあり、腹部には『安永三年・正月元旦・平賀鳩渓・謹摹(も)造』とありました。私はここの『謹摹造』に注目しました。『謹』は恐れ敬っての意味であり、摹という字はなかなか見つかりませんでしたが、『摹造』は手本どおりに造る、の意味だったのです。とするとこの香炉は、源内(鳩渓)の指導によって造られたということになります。ですから、私の手元にあるものを含めて複数あることについて不思議はないのですが、よく見ると図録にあった香炉の写真と私の手持ちの香炉とに若干の形に違いがありました。これは、源内の皿などは主に型取りで製作されているようですが、三春駒の香炉に限って言えば、板状にした粘土を成形して形を作る『板作り』によって作られたと思われることから、一体ずつ形に差が出たと考えられます。私はそれを持って、『さくらカフェ』に行ってみました。
「ああ、これが本物なのね」
 オーナーの浜崎明美さんが、繁々とそれを見ていました。私がこれを持って、「これから資料館に行ってみる」と言うと、いかにも残念そうに、「店が休みだったら一緒に行ってみたい」と言っていたのです。

 資料館では、所蔵していた『三春駒の香炉』を出して、私を待っていてくれました。そこで早速、資料館のそれと比較してみたのです。資料館の『三春駒の香炉』は、たてがみや尻尾も残っていて、私のものより少し大きく、特に首の長さに差異がみられました。残念ながら私が手に入れた香炉や資料館にある香炉は、弟子の誰が作ったかまでは確認することができませんでした。それにいまは見つかってはいませんが、もし源内が作った見本的な『三春駒の香炉』が見つかれば、これら『三春駒の香炉』の原型となる筈です。弟子たちが文字列まで正確に『摹造』しているのですから、原型には『奥州・三春大明神・子育之馬』とあったと思われます。いずれにしても、『源内焼』として多くの陶器を残した源内が、その出所を明らかにするこのような文字を刻んだ陶器は、これ1点のようなのです。源内は、なぜこのような文字を刻んだのでしょうか。それを考えると、源内が『三春駒の香炉』を作った前提として、どこかで三春駒を見たと推測できます。しかも本物の三春駒には、『子育之馬』とは書いてありません。『子育之馬』とは、当時の商標として普及していたのでしょうか。もしそうであったとしても、『三春大明神』となれば、そのような神社があることを知らなければ書けない筈です。

 さてここからは私の想像です。奥州秋田の角館へ行った源内は、先祖から伝えられていた話を思い出したのではないでしょうか。例えば、源内の遠祖となる平賀三郎国綱が伊達政宗に仕えており、その政宗の正室が三春出身の愛姫であり、愛姫の家系は田村麻呂の末裔であるとのこと、そしてそれに付随する田村麻呂と三春駒の伝説。その伝説とは、京都東山の音羽山清水寺に庵をむすんでいた僧の延鎮が、田村麻呂の出兵にあたって、仏像を刻んだ残りの木切れで100体の小さな木馬を作って贈ったというのです。延暦十四年(795年)、田村麻呂はこの木馬をお守りとして、奥羽の『まつろわぬ民』を討つため京を出発しました。そしてその途中となる、田村の郷の大滝根山の洞窟に、大多鬼丸という悪人どもの巣窟のあるのを知り、これを攻めたとされるのです。ところが意外に強敵であった大多鬼丸を相手にして、田村麻呂率いる兵士が苦戦を強いられていたのです。そのようなとき、どこからか馬が100頭、田村麻呂の陣営に走り込んできたのです。 兵士たちはその馬に乗って大滝根山に攻め登り、大多鬼丸を滅ぼしました。 ところが戦いが終わってみると、いつのまにか、あの馬100頭の行方はわからなくなっていたのです。翌日、高柴村で、村人の杵阿弥(きねあみ)という者が、汗びっしょりの木彫りの小さな駒を一体見つけて家に持ち帰り、それと同じに99体を作って100体としたのですが、高柴村が三春藩の領内であったので『三春駒』と名付け、100体の三春駒を子孫に残したというのです。後に、杵阿弥の子孫が、この木馬を里の子供たちに与えたところ、これで遊ぶ子供は健やかに育ったので、誰ともなしのにこの三春駒を『子育木馬』と呼ぶようになったというのです。

 そして同じような話を、源内が仕えていた博物好きの高松藩主・松平頼恭(よりたか)から聞いていたと思われます。頼恭(よりたか)は正徳元年(1711年)五月二十日に、陸奥国守山藩主・松平頼貞の5男として誕生しました。その守山藩領には、田村麻呂の生誕に関わる伝説もあったのです。高松藩の第4代藩主・松平頼桓(よりたけ)の養子となった元文四年(1739年)に、頼桓(よりたけ)が死去したため、頼恭(よりたか)は29歳での高松藩の家督を継ぎ、第5代の高松藩主となっていたのです。源内は、自身の先祖から伝えられてきた話と、高松藩主の頼恭(よりたか)から聞く話とを融合できたことなどから、自分の仕える松平頼恭(よりたか)の出里である守山を経て江戸に戻ろうとしたのではないでしょうか。そして守山の北にある三春に入って町を見聞したときに聞いていた三春駒というものに遭遇、その謂われを聞いて土産に購入し、その姿を『奥州・三春大明神・子育之馬』という来歴とともに焼いたのではないかと考えています。このように来歴を記した作品は、数多くある源内焼のなかでも、これ一個と思われるのです。ともかく異常なほど多くの事物に関心を持っていた源内ですから、考えられないことでもないと思っています。

 そもそも地元にある三春駒には、『奥州・三春大明神・子育之馬』などとは書かれていません。それなのに、源内が『三春駒の香炉』の胸に『三春大明神』と刻み、さらに『子育之馬』と刻んでいるのです。これは三春に『大明神』があり、町では三春駒を『子育之馬』と言っているのを知ったからではないかと私は思っています。なぜなら源内と言いども、これらのことを、江戸や四国に居ては知ることができなかったと思われるからです。つまりこの文字こそが、源内が三春に来て、町の佇まいや三春駒を見て知って書いたということを示唆する証拠ではないかと思えるのです。ちなみに、元禄二年(1689年)に、3代三春藩主の秋田輝季が、三春の貝山字岩田より神明宮として現在の神垣山に遷し、以来、三春ではシンメイサマと呼ばれるようになりました。これは神明宮の通称ですが、尊んで言う称号が『大明神』なのです。源内はこの称号である『三春大明神』と刻んだものと推測できるのですが、この文字こそが、源内が三春に来たということを示唆するものと思っています。なお現在の三春大神宮は、明治に入ってからの改称です。ともあれ、『三春駒の香炉』が作られたのは、今からほぼ180年前になります。そんな古い時代に、平賀源内はどこで三春駒を知ったのでしょうか? 私はこれらのことから、平賀源内は三春へ来たと想像していますが、皆さんはどう思われますか。

 ところで、平賀源内の時代から約100年後の天保九年(1838年)に書かれた臼杵藩(大分県)の江戸藩邸日記に、『秋田様御国ニて出来候由三春木馬、此度左衛門尉様御手ニ入候由、右ハ左衛門尉様より御奥様ヘ差シ上ゲ候』とあります。ここに出てくる左衛門尉は、中津藩(大分県)の前藩主の奥平昌高のことで、臼杵藩主の稲葉幾通の正室の父親になります。この記録から、父親が娘に三春木馬、つまり三春駒を贈ったことから、その頃には三春駒が江戸で販売されるなどしていたであろうことがうかがえ、同時にそれが贈答品として意識されていたことが知られます。この頃には、三春駒は全国的に知られるようになっていたのかもしれません。





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最終更新日  2024.11.10 06:00:12
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