2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
全2件 (2件中 1-2件目)
1
すみません、ご無沙汰しています。潜っていたわけではなく、ネット上にはおりました(笑)。なんとなく全人格的に一つのブログを書くのは好きでないので、現在ブログは三つ持っています。仕事関係と趣味関係とプライベート関係。だいたいそれのどこかにいつも書いていますので、自分の中ではネットから落ちている感覚はないのですが、ちょっと最近仕事ブログをサボりすぎですね。まあブログを義務感で書くようになってはいかんと思っているので、ここに読みにきてくださる皆様には更新がなくて申し訳ありませんが、ネタができたら書きます。ブログって始めたばかりの頃には、「書かなきゃ書かなきゃ」という強迫感と表裏一体のエネルギーがありますよねー。でも、内から出てくるものがないとブログって続かないと最近はつくづく思います。だから、本当に日常的な「今日は何を食べた」とか、「子供の幼稚園の袋を縫った」とかの話題が中心のブログが世の中に多いわけですが、そこに内から出てくるものがなく、ただ日常の備忘録として書くならば、それをネットに公開し続けるのって10年も20年も続かないような気がします。3月に、プライベートが忙しくなると書きましたが、4月の上旬にフラメンコの発表会がありましてね、だいたい私はフラメンコのお稽古の日を区切りに1週間が回り、フラメンコの発表会を区切りに1年が回る生活をしています。ここの読者の方が読んでもしょうがない話題ばかりですが、4月はフラメンコブログに連続して書いていました。全く別ブログですが、さくさく堂のキャラは同じですねー。なんというかマニアックで(笑)。あんなふうにマニアックな方向に追究していく感じは、テープ起こしに対する態度と全く同じです。あれ読んでると、「さくさく堂って本当にフラメンコが好きなのね」とか言われそうですが、別にそうでもないんですよ。いや、好きですけれどね、始めたきっかけってかなり消去法で、「近くのカルチャーに講座があるもの」「手頃な値段でできるもの」「社交ダンスはパートナーの問題が大変そうだな」「クラシックバレエだと基本練習が主になって、作品を完成させるのは無理かもしれない」「エアロビやヨガはただの運動だからつまらなそう」という理由で選んだんですよね。踊りがやりたいとは思っていたし、振りを覚えたり、体を使うのは不得意ではないだろうという漠然とした向き不向きはちゃんと考えましたが、フラメンコの音楽もその頃はほとんど知らなかったですね。そういう意味では、何年かお稽古して、何曲か覚えて、フラメンコの周辺の知識がついてきて、好き嫌いとか、上手い下手の審美眼が若干ついてきて、やっとスタートラインに立った感じがします。こういうやり方は、テープ起こしを職業に選んだのと同じです。文章書くのはそこそこできるだろうとか、パソコンはそれなりに使える、というやはり漠然とした向き不向きは考えましたが、「自宅でできるもの」「転職しやすいもの」などの基準で消去法で選ばれました。だから、これ読んでると、「さくさく堂ってほんとにテープ起こしが好きなのね」と感じられる方もいるかもしれませんが、全然そんなことはない(笑)。周りを見てみると、私が始めた時代にテープ起こしを始めた方はものすごく多いし、カルチャーのフラメンコ講座の数もすごく多いです。表面上は自ら選択している人生に見えるのですが、その時代時代でやりやすいものに手が行っているだけで、単に時代の文脈の中で生きているだけなんだなあと思っています。それで全然構わない。選び取ったのだろうと消去法で選ばざるを得なかったのだろうと、楽しい人生ならいいじゃないの、と思います。私の特質は、始めたことをそう簡単にはやめないことですね。やめなければ、どんなことだろうと面白みが出てきます。面白みが出てくれば、中身をマニアックに追究してみたくなる。追究するから面白くなる。「実はルーツはスペイン人で、フラメンコのリズムにシンパシーを感じる」わけでは全然ないし、「テープ起こしを天職だと思う」わけでも全然ありませんが、こういう見方をすれば、そもそも面白くないものは世の中にないということですね。「始めたことを簡単にやめない」というのは、結構大きなポイントかもしれないですね。就職した会社を2~3年で辞める若者の話がよく話題になりますが、会社の仕事なんて5年もすぎてから面白くなると思うんですよね。2~3年じゃ面白くなくて当たり前かな。世の中はルーツや天職とは関係ないところで生きている人間であふれている。私もそうです。でも、与えられたものを追究して楽しく生きることは十分可能です。そういう日々にはちゃんとブログのネタがあるものでね、「ブログのネタがない=楽しくない日々」ってことかなあ。うーん、ちょっと言い過ぎかな。
2007年04月25日
コメント(0)
ちょっと話がずれるのですが、話題は一応(笑)続いております。例えばこんな文。 やっぱり相手のやっぱり心とか、 そういったものをきちっとやっぱり見ていく、 そういうような視点というのが とってもやっぱり大事になってくるんじゃなかろうかな ということを思っております。「やっぱり星人」さんですね。このたくさんの「やっぱり」は、強いて言えば「大事」にかかるのかなあとも思います。「やはり」は「前々からそういう説があるように」という意味を含んだ言葉です。私はむしろ、この前後の文脈全体を通して、「自分の説は言わずもがなのことだが」というエクスキューズのニュアンスが出ているように感じられます。あるいは自説への肯定感の表れともとれます。個別に「大事」にかかっているわけではない。まあ口癖の部類だと考えると、場合によっては「やっぱり」は全部取ってしまってもいいのかもしれません。一文の中で重複している「やっぱり」のダブリをなくして、一つだけ残してもいいのかもしれませんが、こういう人はたぶん、この前後でも「やっぱり」を連呼していると思われます。そうすると、一つ一つの文に毎回「やっぱり」が出てくることになります。 やっぱり~。 やっぱり~。 やっぱり~。「やっぱり星人」であることに変わりはないのですよ。「やっぱり」なんて全部削除してもいいぐらいです。全部「ケバ」として処理してしまっても、ほとんど文意に影響がありません。← この辺が、私が「思い切りがよすぎる」と言われる所以「やっぱり」をやっぱり残したいと思う気持ちは、この方の心理状態を残したいと思う気持ちですかね。「やっぱり」を多用してしまう人のキャラを立たせたいと思う気持ちです。文一つ一つで「ケバ」かどうかを考えるのではなく、大きな文脈の中で不自然でないところに大事なアイテムとして「やっぱり」を残していく。----この文にはもう一つツッコミどころがありますねー。 心とか、そういったもの「そういったもの」って何を指すの?いやあ、言いたいことはわかるような気もする。「心とか、そういうの」だよね、うんうん。なんとなくモヤモヤ~とイメージされるものはあるけど、それって「心」単体とはどう違うのよ?
2007年04月02日
コメント(2)
全2件 (2件中 1-2件目)
1


