全6件 (6件中 1-6件目)
1

ソラマメ、エンドウの収穫期です。 これらの豆は一度に大収穫ですから、家族総出で取り組みます。 収穫の後は、莢をむきます。 子どもたちが喜んで手伝ってくれるので、助かります。 長男はグリーンピースをむいたしりから、生のまま食べてしまいますが…。 収穫適期のグリーンピースは生でも甘くておいしいです。 娘には昨年から自分の畝を持たせました。もちろん彼女が自分で欲したからです。そして、今回の豆が初めての収穫物です。 自分で畝を立て、種をまき、育つ様子を見守り、時には助け、収穫して、食べる。 野菜、畑とともに、子どもも育っていきます。親ももちろんです。
2014.05.21
コメント(0)
(2)尊重すべき実体のないものを無批判に崇拝すること。 (大辞林) ある種の団体の人が勧誘に来ることがある。 いわゆる宗教関係だ。 その人たちを観察していて、学ぶところがある。 この人たちは、何となく、これは来たな、というのが車の乗り付け方や、ピンポンを押すまでの間、ピンポンの押し方などでわかる。違和感が強いからだろう。何というか、不自然に感じられるだ。 だいたい、そういう人たちは2人から3人でやってくる。雰囲気は当然と言えば当然だが似通っている。皆小奇麗にしているのだが、共通して気になるのは、何といっても全くハツラツとしていない、というところだ。その方の実体がとても窮屈そうで、輝いていないのである。 何でこうなってしまうのだろうか。 一つは画一的な「教え」に従順であること。そして、こっちが大きいだろうが、「教え」が中心になってしまい、その人の現実的な目的から離れてしまっているのだ。 「教え」はあくまで手段、しかし、あの種の人たちは目的と手段が完璧に逆転してしまっている。人生を輝かせるための「教え」ではないのだろうか。「教え」を守ること、あるいは「教え」を人に押しつけること自体が人生になってしまっている。 そういう人の口から出てくる言葉は自分の言葉ではない。意志も自分のものではない。当然、相手(私)には響かない。私からすると、目の前の相手と話している気がしないのだ。目の前にいるのは、のっぺらぼうだから、面白くない。 さて、以上の話は極端な例でわかりやすいのだが、実は身の周りで往々にして起こっている事態だ。先日の日記とリンクするところだが、学校教育がまさにそうだ。何のための勉強か、を大人、先生たちが忘れ、勉強自体に貴重な人生の時間をとられている子どもたちを見るにつけ痛ましい。 先生自体がそうやって教育されてきた人たちだから、疑問にも思わないのかもしれない。先日学校で話した某先生などは見事なまでにのっぺらぼうだった。
2014.05.18
コメント(0)

小学校の参観日、朝顔の種を植える授業。 お父さんの姿は当然少ないが、私の場合、子どもの教育ということが切実に感じられるから、仕事の予約を空けてでも参加する。といっても、一コマだから45分程度だ。 いろいろと驚くことがあった。 まず、市内の一年生の参加日は、どうやら一律朝顔を植える授業をするようだ。しかも、毎年。上からのお達しで決められているのだろうか。なぜ、いつもの授業ではなく、特別な授業を参観させるのか。不思議な学校の構えを感じずにはいられない。 教室の一角に子どもたちの描いた朝顔の種の絵があり、その下に「すいかのかたち」「くろ」「かたい、ちいさい」とあった。観察日記の一枚目になるのだろう。 しかし、ぞっとしたのは、形、色、特徴、が何とどの子のものも同じなのだ。皆「すいかのかたち」「くろ」「かたい、ちいさい」だ。 不思議に思い、夕食時に娘にたずねたところ、先生がそう書くように言ったとのこと。娘は全然すいかの形ではないし、こげ茶っぽいし、ぼこぼこしたところとそうでないところがあった、と言っていた。なぜ、それぞれの感じたことから湧き出るそのままの言葉、即ち自分の言葉で書かせないのだろうか。 そして、朝顔を育てるにあたっては、某種苗会社のキットが配られるのである。プラスチック製の鉢、種、袋詰めにされた土(らしきもの)、そして粒状の化成肥料。至れり尽くせりだ。先生は迷いなく、育つのに必要なもの、として、つち、みず、おひさま、そして、こやし、と教える。世の中の大人でも大半は同じようにして洗脳されているから、こやし、のところでひっかからずに、そのまま通してしまうに違いない。 そして、子どもたちは極めてマニュアル的に机に新聞紙をひき、一様に種をまく作業をこなした。 一貫して、気持ち悪かった。 それはおそらく、一貫して、画一的、という大人の人為の上に授業が成り立っているからだろう。裏には、(間)違いが許されない、という意識が存在する。 違うのが当たり前、といえば、おそらくすべての人が頭で納得するだろうが、実は潜在意識ではそうなっていないことが多い。行動には「違いを許さない」が表れているからだ。違うのが当たり前なのだから、思い通りにいかないことが当たり前なのだが、思い通りにいかないと何かのせいにして腹を立てる。そういうわがまま、自分勝手に端を発する問題・衝突は現在非常に多いだろう。過剰にストレスを感じ、病気になる背景などにもそういう構造がある。 その礎を作っているのが、現在の教育なのだ。小学校、下手をすると幼稚園のうち、親によっては生まれた時から、子どもは違いに対する適応力を鈍くされていく。 客観的に見て非常に恐ろしいことだが、自分もそういう教育を受け、潜在意識に刷り込まれている。如何に親子でこの刷り込みの連鎖から脱していくか…、切実なテーマだ。とはいえ、個性は消そうったって消せるわけではない。マニュアル的な授業でも、子どもたちがそれぞれ取り組む姿は微笑ましく救いだった。
2014.05.15
コメント(0)
どうでもよい、と思っていたことが、何かの問題を機に、気になることは多々ある。 個人情報保護が最近のそれだ。 先日の娘行方不明?騒動で、けっこう重要なポイントにあったからだ。 まずは個人で娘を探そうと思っても、個人情報保護を理由に生徒間の連絡網が作られていないため、探しづらい。 結果として、連絡を中継する学校、というか先生方の負担は大きくなる。 自業自得といえばそれまでなのだが、個人情報保護の順守は上(文科省やら教育委員会やら)からのお達し、上からと保護者との板挟みで気の毒にも思える。 子どもは、そのせいもあり、友達の家に直接遊びに行きにくくなっている。 親にとっても、学校にとっても、子どもにとっても、有益ではない。 個人情報保護は、果たして一般の人々にそれ程有益だろうか。 今回のことが全てではないが、人のつながりを切り離してしまう側面が見える。 それに個人情報など、これだけネットが発達し、普及していれば、裏でダダ漏れであることは想像に難くない。悪用する人が必要とすれば、わりかし簡単に手に入るのではないだろうか。 保護があろうと、なかろうと、悪用する人は悪用するのだ。耐性菌は、進歩する抗生物質をあざ笑うかのように対応変化して、はびこり続ける。それと同じだ。 問題にたいする人為的対症療法は、体でも社会でも、時に事態をややこしくする。
2014.05.15
コメント(0)
学校では、下校途中で友達の家に寄ってはいけない、ということになっているらしい。娘はそれを見事に破った。結果、先生にはだいぶ絞られたわけだが。しかし、下校途中になぜ友達の家によってはいけないのか。一つには先の日記のような騒動(?)が起こることがあるからだろう。それを未然に防ごうと管理をはりめぐらせている。それは誰のためにだろう?少なくとも子どもの成長のためでは無いように思える。同じ校区内とはいえ、いったん帰って遊びに行くには、子どもにとって遠い場合もある。何より、機、というのは大事なのだ。すぐに友だちと遊びたい、という気をなぜ尊重できないのか。何だか、大人の理不尽な都合に縛られて、今日、子どもたちは窮屈そうだ。大人の都合で管理がうまくいかないから、子どもを怒る、というのはおかしいだろう。それは、子どもが自分の思い通りにいかないから怒る、というのと同じレベルだからだ。娘が先生方に連れてこられて帰りがけ、教頭が「帰ってから遊びに行こうね」と娘に言った。続けて私は「直で遊びに行ってもいいから、必ず電話よこせ。電話のかけ方教えたるから。」と言った。どういう反応があるかな、と思ったのだが、先生方は苦笑いしただけだった。そして、それから、すぐに子どもは電話のかけ方をマスターした。遊びに行きたい、という素直な欲求があれば、覚えるのは速い(こういうことが、生きていくのに必要な実践的学びではないか?)。何か問題が起これば、それは成長のチャンスなのだ。怒ったふりをして本質を誤魔化してはもったいない。
2014.05.12
コメント(0)
先日のこと。学校に入ったばかりの娘が、下校時刻から2時間ぐらいたつも帰ってこない。嫁は途中まで迎えに行ったのだが、見当たらなかったという。いつもはのん気にかまえている私ら夫婦も流石に心配に。寄り道しそうなところに電話をかけてみる。手応えなし。しゃあなしで学校に連絡。途中友達の家に寄っていることが一番怪しかったから、同じ組の子の家に電話をかけたいところだったが、何と今の時代、個人情報保護の関係で学校では連絡網を作ることができないのだという。だから、まだ親どうしのコミュニケーションがとれていない現在、学校をいちいち経由しないと連絡がとれないのだ。何度か話中の後(こういう時間はやたらと長く感じられる)、やっと学校と連絡とれるも、情報収集開始。いてもたってもいられないので、自転車で方々まわらんとしたその時、学校より目撃情報ありとの連絡。やはり同級生の子といっしょに下校し、その子の家に寄っていた。かつて大阪でよく目にした行方不明の張り紙が頭をよぎっていただけに、ほっと胸をなでおろした。しばらくして、学校の担任と、なぜか教頭までが車で娘を送ってきた。どうやら、娘、車内で相当絞られた様子。まったく気の毒。しかし、私たち親の前では先生方は如何にもにこやか。やっぱり波風たてず平穏無事に済ませたいのだろう。それにしても、大根役者なのだが。いくらにこやかを装っても、体の緊張、かもしだす雰囲気は誤魔化せない。なぜ、親の顔色をうかがうようなことをするのだろう。今回のことは先生方に落ち度があったわけではない。現代では、こういう場合でも、学校のせいにする親があるのだろう。そして、対応マニュアルが作られ、それに則った対応、ということになる。先生方も気の毒だが、それでは子どもに示しがつかないのではないか。今回のことに関しては、先生方の尽力に率直に感謝していただけに、向き合っていただけないことを改めて残念に感じた。ともあれ、子どもが無事であったのは何より。
2014.05.12
コメント(0)
全6件 (6件中 1-6件目)
1
![]()

