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連休中、長男(4歳)と二人で釣りへ。 相変わらず長男の釣り熱は衰えるところを知らない。 今回で長男は、餌をつけ、(仕掛けを)投げ、釣って、更には魚をさばくまで、一人でこなせるようになった。 リールを操作して投げることに、一番てこずっていたが、それも今回マスターし、終盤には随分遠くまで仕掛けを飛ばしていた。 できるようになった、はもちろん喜ばしいことなのだが、重要なのはそれまでの過程にある。 まずは手本をよく見る。まさに食い入るように。 それからは、見よう見まねで、失敗を繰り返す。 時々、手本を見なおす。 そして、また繰り返すのだ。情熱の向くままに。 この間、私自身は、というと、説明は最低限にとどめ、丁寧にやってみせることと、後は様子を見守ることに氣をつけている。 できる、できない、にとらわれるのではなく、彼の熱意、意志の向かうところを妨げないように注意する。 もっと手を加えれば、確かにもっと早くできるようになるかもしれない。 しかし、それは「仕掛けを投げる」ということのみが、である。 その過程にある、情熱を傾ける、自分で工夫する、などといった、何にでも通ずる、生き抜くうえで本当に大切なところは育たない。 当然だが、仕掛けを投げれたところで、生き抜いていくことはできないのだから。 「仕掛けを投げる」を通じて、彼そのもの、中身が育っていくところを私は見守っている。
2015.09.26
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先日落ち込みやすいのだがどーしたら…といったような相談を受けた。 落ち込んでいる、ということの実体や如何に。 結論から言えば、実体はない。 落ち込んでいる、と思っているだけだ。 落ち込んでいる、と思っている間は、落ち込んだ原因に対して行動は起こらない。 行動を起こさない自分に対して正当性が成り立つ…と、これまた自分では思っている。 そのことは周囲にとっては、何の関係もない。 落ち込んでいる(と思っている)結果として、例えば仕事がうまく回らないのであれば、仕事のできんやつ、で片づけられる。つまり当たり前だが正当性は認められない。 落ち込んだ事柄に関して、本当に自分の問題ととらえているならば、落ち込むことはない。 いや、一瞬落ち込むのかもしれないが、それは、行動し、どうしたら解決に向かうのか、考えていくスイッチのようなものだ。 いつまでも、だらだらと落ち込んでいる、などということはありえない。 例えば、公衆便所に入って用は足したものの紙がない!というような場合、いつまでも落ち込んでいるより、何か他のもので拭くか、あるいは拭かないか、選択して行動しなくては、いつまでも便所をでられない(もちろん、便所を出ない、というのも一つの選択肢ではある)。 だらだら落ち込んでいる状態に陥る(いや自分から作り出す、というのが実は正しい)というのは、実は直面したことがたいした問題ではないか、あるいは自分の問題としてとらえることができていないか、どちらかではないか? 後者の言い方を変えると、逃げ癖、とも言える。 自分で問題を解決するのではなく、誰かが解決してくれるのを待つ、という構えだ。 それはそれで、何とか生きているゆるい世の中なのだが、自分自身が育つことはないから、依存傾向を強くしていくことになる。 落ち込んでいる人に甘い言葉をかけることは簡単だ。そして無責任である。 相手とどういう関係を作っていくか、自分の役割は何か、そういうことでかける言葉はもちろん変わる。 ただ、私からすれば、無駄に落ち込んだ氣になって、貴重な人生を潰していくのはもったいないな、と思ってしまう。
2015.09.14
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週末、家族と、ここ数年恒例となったキャンプへ。 場所は、例年通り、日本海沿いのキャンプ場。 今回の目玉は釣り。 長男の釣り熱がここのところものすごい。 狙いは主にアジ。サビキ釣りだ。 サビキ釣りとは、餌(アミやエビ)をばらまいた中に、疑似餌を忍ばせ、釣る、というもの。 あまり好きな釣り方ではない(ざっとしているから?)が、アジには確かに有効だ。 おかげでマメアジがようけ釣れ、子どもは大喜び。 釣れた後のシゴまで、長男は自分でやりとげた。 その成長が嬉しい。 長女の希望で泳ぎに浜まで行ったものの、さらわれかねない波の激しさに、泳ぎは断念。波打ち際で水遊びにとどまった。 (ファイト!一発!) キャンプ場は夏休み終了直後、ということもあってか、私たちともう一家族だけ、ガラガラだった。 あんまり混んでいるのも嫌だが、ガラガラも寂しい(わがまま)。 いつの間にか、長女がもう一家族のスイカ割りに参加して、スイカを割ったと言って、1/4近いスイカをもらってきた。 大人的には、お前が割るなや、空気読め、というところだが、一人で交流できたことは素晴らしい。 人とすぐ仲良くなれる、というのは何ものにも代えがたい、生きていくために大切な要素だ。 それさえできれば、何とかかんとか生きていける。 天気が出発時から怪しかったのだが、何とか一日目、夕食のバーベキューが終わるまではもってくれた。バーベキューが終わらんとする時になってポツポツ降り出し、夜中は、激しい雨風と雷をテントの中でしのいだ。相当激しかったのだが、子どもたちはよく遊んで疲れたのだろう、目を覚まさなかった。いざとなったら逃げなくては、と思わせるぐらいの雨風だったから、私はおちおち眠れなかったのだが。 ともあれ、無事帰ってきた。 祭りの後よろしく、少し寂しい感は否めない。 (帰宅後、キャンプで残ったプリンを頬張る…平和)
2015.09.07
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夏休みが終わり、子どもたちは学校・幼稚園。 自宅で自営業の私にとっては、意外と大きな環境の変化である。 夏休み中は仕事の合間、手が空いたのを見計らい、子どもたちは「遊んで~」とせがんでくる。 なかなか鍛えられたひと月であった。 それも終わってしまうと少し寂しい。 もう勘弁してくれ~、と正直思う時もあったものだが、子どもと遊べる時間というのも、人生においては貴重な一瞬なのだ、と再確認する。 終始、仕事に追われ、子どもと遊ぶ時間はわずか、という人もいる世の中で、恵まれている。 もっとも、それも自分で選んでつくっている現在の生活なのだが。 人生という限られた時間の中で、何に価値をおくか、何を選ぶか。 何がいい、悪い、ではなく、自分の人生である、という認識が常に大切だ。(夏休みの最後は花火で)
2015.09.02
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