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嫁です。ひっこして、あっという間に穴だらけになった障子。夏の間は特に問題なく過ごしましたが、冬を前に、いい加減には張り替えましょうと重い腰をあげました。朝夕の涼しさが「寒さ」へ変わる前に、いざ張り替えん!(写真、洗う前)…と、意気込んでみたものの、幼い頃に手伝った記憶はおぼろげ(実際は見ていただけ)で、母に聞いてからの作業。んー、これでいいのか???何度かやったことがあるなら、桟を洗うなんて、別にどうということもないのでしょうが、何せ見てただけ(もしかしたら、見てさえいなかったかも)。桟の糊をふやかしては拭う、ひたすらこの繰り返し。これでいいのか…?祖母が、昔は川でおむつも障子も洗った、というような話をしてたなぁ。川って便利。気力が続かないので1日2枚、5日かけて9枚を洗いました。(写真、洗ったあと)障子によって糊のはがれやすさが明らかに違って、まだ洗っていない5枚も、どうか、はがれやすい糊でありますように…と願ってやみません。そして何より、張り替えた直後に破られませんように、と切に切に願っています。とりあえず、9枚にあたらしい障子紙を張ります。続報はまた後日…
2015.10.29
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そういえば、先日、また小学校の授業参観にいってきた。 科目は道徳。 内容は「声かけ」。ある場面での声かけが「ナイスフォロー」(って何やねん?そもそも何で英語やねん)or「おせっかい」に始まり、場面設定をしてこういう時はどんな声かけをするか、ということをしていた。 長女の様子を見ていたが、答えをだすのに、かなり困っていた。 帰宅後、そのあたりを聞いてみると、設定された場面がいろいろに想像できるから、答えることができなかった、とのことだった。 それを聞いて、ホッとした。 親ばか、と言われるかもしれないが、かの授業に対する素直な反応だ、と感じたからである。 私のかの授業に対する感想は、一体何をしてんねん(怒)、だ。 というのが、テーマの「声かけ」というものをまるで深く掘り下げることなく、取り扱おうとしているからだ。 授業で扱われた場面を例にとれば、クラスの子が転んで、「痛いよう」と泣いていた、とする(現実的にはまず「痛いよう」と泣いている人に出会うことは無いだろうが)。 この時、咄嗟に出てくるもの(声に限らず行動)こそ、相手に伝わるのであって、考えて出すものは、相手には伝わらない。もちろん、音として相手の耳には入るかもしれないが、それは生命体にとって不快なものである。形式的、義務的なコンビニ店員の挨拶よろしく、だ。 この時、咄嗟に…、は、相手やその場の状況、今を無意識的に感じ取って無意識的に行っている。 当然のことながら、それは意識的に教えられてできるようになるものではないのだ。 かの授業の如き非現実的なケーススタディは、むしろ咄嗟の行動を邪魔する弊害を生む。 なぜなら、この時はこういうように、という短絡的な思考を植えつけるとともに、何かの状況に直面した時、咄嗟に…、ではなく、考えさせる、という行動パターンを刷り込んでいるからだ。その結果として、応用のききにくい、適応力の低い人、更にはロボットのような人が育っていくことになる。 現実の社会は決して単純ではない。その複雑さは時代とともに極まっていく観すらある。子どもはこれから、そのあくまで現実の社会を生きてゆくのだ。 教育は、現実に生きていけるようにあるものではないか。 決して、家畜の如く、搾取されるため、生かされるためにあるものではない。 どこぞのボケが考えた、非現実を刷り込んでいる暇は無い。
2015.10.26
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幼稚園のバザーで竹トンボづくり。竹を肥後守で削って作る。ふと周りを見ると園児で自ら作っているのは長男だけ。自ら作りたそうな子どもを無視して、大人が必死に竹を削っている…。子どもにとって、出来上がったモノを与えられ、一瞬の楽しみを得る、という教育が進行しているのかな、と空恐ろしく思う。あるいは、そういう教育を受けてきた大人が挽回をはかっているのか…。自分もそういう教育を受けてきているから、わからんでもないが、それが子どもの機会を奪うのはいただけない。時に手本と完成品を見せ、長男を見守っていると、少しずつ工夫をして、進化していく。時間内に完成することは無かったが、その過程で得られたものは大きかったのではなかろうか。その頃、長女はバザーでなぜかビールジョッキ(10円)を購入。父に…などといういい話はなく、帰宅後、いただき物のリンゴジュースをそれでうまそうに飲んでいた。
2015.10.25
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長男の釣り熱未だ衰えず、少しの暇があれば、釣りに行っている。その熱にほだされてか、私の釣り熱も上がっていることは確か。釣果は必ずしもはかばかしくないが、釣れていることは釣れている。(30cm近いアイナメをゲット!大物にけっこうビビッて腰がひけている)1歳半の次男も釣ってきた魚に興味津々の様子。兄弟で釣りに行く日も近い!?
2015.10.22
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先日、私の主催する健康体操教室で、会員の方が、「体操教室に行っているなら、腹筋とかすごいんでしょうね」と言われる、という話を聞いた。 先日書いたジム通いの話に通ずるところであるが、健康のためにはともかく筋肉をつけろ、といった風潮がどうやら世間にあるようだ。 だから、会員さんに腹筋の話をした人も、体操教室と言えば、筋肉をつける運動をするところ、と思い込んでいたのだろう。 ところで、うちの体操教室は、というと、別に筋肉をつけることを目的としていないので、当然会員さんの腹筋も別段すごくはない(もっとも、胴回りがしまった、という報告は受けている)。 体操、というぐらいだから、自分の体を操ることに主眼をおいている。結果、筋肉の量ではなく、質に変化は起きる。それもまた付随した結果であり、どうということはないが。 ここで重要なことは、肉体、というのはあくまで結果である、という事実だ。 肉体は、目的や考え方、それに伴う行動によって日々作られ続けている、ということだ。 つまり、今していることに必要な筋肉、そして動きは、今していることによって育まれているのである。 筋力トレーニングをするのに必要な筋肉と動きは、筋力トレーニングをすることで確かに養われる。 しかしながら、その筋肉が即日常的な動きを滑らかにするか、というと、そうではない。 いくら筋肉があっても、例えば、家事を嫌々やったのであれば、体は重く、故障もでやすい。といった精神的な要素も多分に加味される。筋肉が無いから疲れる、故障する、ではなく、意志や意欲の欠乏が根底にあるのだ。 それを本人たちも氣づいている節はあるのだが、隠すために、体(てい)の良い「筋肉の欠乏」という隠れ蓑、ジムに身を寄せるのだろう。客観的に見れば、巧妙に撒かれた餌に見事に釣られる図式なのだが。
2015.10.16
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新聞を読んでいて、一面に表れた上記の見出しが氣になった。 それは、「高齢者 ジムが社交場」という大見出しの中にあった小見出しだ。 職業柄、こういう見出しは目にとまりやすい。 さて、タイトルにあるように、「?」が浮かんだのは、それは「逆」だと考えたからである。 即ち、日常動作の衰えていない人が、+αの運動をしている、と考えるのが自然ではないか、ということだ。 もっというと、+αの運動をする氣力がある、ということだ。 この記事でもそうだが、運動、というと、ジムでやるような、特別な運動を指すことが、昨今では普通になりつつある。 しかしながら、本来、仕事や家事、日常動作こそが運動そのものである。 便利になった結果、日常の動作は、運動として見た時に、確かに昔に比べ激減・変化している。 簡単な例では、自動車を使うために、歩く量が減ったように、だ。 その延長線に、上記のような見出しの記事も表れるのだろう、と思う。 記事は、統計がグラフで示され、如何にももっともらしい。 これで、ジムに通うお年寄りが増えることは目に見えている。 が、その裏側で、ジムで歪めている体を見るのは悲しくもある。
2015.10.13
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