2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
2018
2017
2016
2015
2014
2013
全38件 (38件中 1-38件目)
1

今朝、不思議な夢を見ました。 海風が吹く、晴天の日だまりの中、桜の花びらがハラハラと散り舞う石畳の細い坂道。 そして、その坂道沿いには、両側に瓦屋根に板塀の小さな家々が並ぶ佇まい。 見覚えのない風景なのですが、どこか懐かしい気持ちになる海辺の町に暮らしているのです。去年他界した祖母が、若く見え、薄紫の矢絣の着物に日傘を差して、私の手を引いています。 子供に戻っている私は、藍染めの着物に藁の草履を履いていました。 祖母と知り合いらしい、赤銅色の体格のいい漁師のおじさんが会釈して通りかかり、近くの石の塚に手を合わせてお酒を備えて立ち去ります。着物にモンペ姿の近所の若いお母さんが、小さな娘の手を引いて塚の前までくると、しゃがんで手を合わせ、娘に小菊と団子を供えさせます。 陽に照らされて親娘が祈る姿に、私は心地良さを感じて見入っていました。今度は、祖母が煎餅を私に差し出して、「早よ、これお供えして、おかえり様に「飛龍」で出撃した叔父さんの武運をお祈りしましょ。」と私を促します。手を合わせながら「おかえり様って何?」と聞くと、祖母は私に語りはじめたのです・・・「おかえり様は、時化で命を落とした人が雨蛙になって還り、二度と悪天候でこの町の人が犠牲にならないように、荒天を鳴いて知らせてくれるんよ。」「こうして三度、おかえり様は役目を果たしたら、今度は天に昇って神様になるんよ。」「だから、おかえり様のことを、アマカエル(天還る)と呼ぶんよ。」「まぁ、船乗りや海軍さんの神さんや。」私は、心の中で「叔父さんは海軍でも零戦乗りやんか・・・」と思いながら、それでも一生懸命、その塚に手を合わせていました。ちょうど、そこで私は目覚め、夢は途切れてしまいました。 おかえり様は、夢の中で若い姿の祖母から聞いたお話で現実にあるとは思いませんが、どこかの海辺の町にあったとしても決して不思議ではありませんね。 あなたはどんな夢をみましたか・・・「アメジストセージ」 :シソ科 サルビア属学名:Salvia leucantha別名:スパニッシュ・セージ※秋に咲く可愛いハーブで、青紫色で綿につつまれたような花が可憐です。人気blogクリックしてくださると幸せです!
2005年10月31日
コメント(41)

沢鵯(サワヒヨドリ)は、藤袴(フジバカマ)の仲間で、鵯花(ヒヨドリバナ)と総称されるこの花は、ヒヨドリが野山に鳴く8月~10月頃に花を咲かせるため、ヒヨドリバナと名付けられ、おもに湿地に生える本種を沢鵯(ハワヒヨドリ)と呼びます。かつて日本の湿地に良く見られた秋の野草ですが、近年分布地の環境悪化や外来種の繁殖により、数が激減している花で、とくに同属の三ツ葉沢鵯は、絶滅が非常に危惧されている希少種です。沢鵯はの花は、30センチから80センチの直立した茎の頂上に、密生した花房をつくり、花はやや個体差があり白から紫色まで色々です。古来、沢鵯の葉は煎じて、産前・産後に引用された薬草としても知られています。「サワヒヨドリ」 :キク科 フジバカマ属学名:Eupatorium lindleyanum DC. 開花期8月~10月別名:サワアララギ、アカマグサ、サワフジバカマ原産:在来種人気blogクリックしてくださると幸せです!
2005年10月30日
コメント(28)

本日はデッサンの発表日。 実は緑のバターカップさんのブログ日記「this.is.バターカップ」の40,000アクセス達成記念として、彼女の提案で実現したデッサン・コンペ。 ちなみにイベント名は"デッサン魂!"で、お題は果物となったのでした。けれども果物といっても、この辺にあるのは柿かミカンくらいのものです。 それじゃあ、あんまり芸が無い!ということで、木通(アケビ)を描くことにしました。 複雑な形は面白いけど、いざ描くとなるとコレが意外に難しく、描き上がったのを見るとなんだかデッサンというよりスケッチって感じ。(苦笑)木通 (アケビ)木漏れ陽が降りそそぐ気持ちのいい朝、照葉樹の中を散策していると、藪椿(ヤブツバキ)に覆い被さるようにして実をつけた木通(アケビ)を見つけました。 アケビはスッキリとした甘さで、日本の秋を代表する野生のフルーツとして珍重されています。 春の新芽はおひたしや茶にもでき、江戸時代頃にはアケビ実の種子から油を採取していたそうです。つるの部分を煎じ薬に用いると利尿作用があるため、漢字で「木通」と「通草」の二通りの当て字があります。 いずれも小水の通じが良くなるという意味で使われたものだと思われます。「アケビ」 :アケビ科 アケビ属 つる性植物学名:Akebia quinata和名:アケビ(木通または通草)この絵がお気に召せばクリックしてやってください!
2005年10月29日
コメント(69)

元旦の夜、縁起良い宝船の絵を枕の下に敷いて寝て、一年の福を得るというのは、どうやら江戸の頃から庶民の間に流行した風習のようです。もともと、宝船というのは正月の縁起物としてはじまり、当初は宝を積んだ船だけを描いたもので、「なかきよの とおのねふりの みなめざめ なみのりふねの おとのよきかな」などと歌が記されたりするものもあったそうです。やがて、宝船は七福神とともに描かれるようになり、縁起物としてよりバーョンアップされて、こんにち私たちが知るスタイルに定着しています。判明したもので、七福神が一緒に描かれた最古の宝船は、大阪で俳諧本の挿絵として描かれた宝永年間(1704~1711)のものだということです。 また、新しい時代になっても、武家の宝船にはなぜか七福神は描かれていません。日本人が、「宝船」を縁起物だとするようになったのは、もしかすると明代の鄭和の宝船の威容が記憶にあったのかも知れません。以前に書いた七福神シリーズのお話しは、下記をクリックすると見ることが出来ますので、よろしかったら是非ご覧ください。大黒様は死に神だったの? 弁天様はセレブな芸術大好きマダム?毘沙門様は仏様の熱狂的Fanだった! 布袋様の正体は、お忍びの弥勒菩薩?恵比寿様は、出生不明の謎のプリンス! なんと!寿老人と福禄寿は同一人物だった・・・七福神総集編(エピソード1)七福神総集編(エピソード2)人気blogクリックしてくださると幸せです!
2005年10月28日
コメント(23)

千葉ロッテ・マリーンの皆さんおめでとう。。。 本当におめでとう。。。(自虐)監督の名前がバレンタイン、そりゃロッテと相性良いハズだよなぁ。。。(苦笑)トミー・リー・ジョーンズみたいな顔してさ。 もう「メン・イン・ブラック」観ねえッ!あぁ~ やっぱりトラは、チョコレートが苦手だったのね・・・さてと、ガーナチョコ買って来よう!人気blogクリックしてくださると幸せです!
2005年10月27日
コメント(24)

浦菊夏草が枯れたあとの里野を歩くと、新たに野菊が彩りを添えています。 ため池の堤の緩やかな斜面に、まるで初雪が降ったように白い、浦菊(ウラギク)の一群をみつけました。 その浦菊は、そよそよと風に舞うたびに、ほんのりと清々しい香りで、私の鼻をくすぐります。野紺菊立ち止まって辺りを見まわしてみると、ちょうど収穫の賑わいが過ぎ、人の気配がなくなった棚田の畦道のあちこちに、薄紫の野紺菊(ノコンギク)や細葉秋乃野罌粟(ホソバアキノノゲシ)が、可憐さを競うように咲き、さながら秋が野菊で薄化粧をしているような光景でした。 細葉秋乃野罌粟まるで、道の向こうで民さんが微笑んでいるような気がするほど、野菊が美しい静かな小道でした。「ウラギク」:キク科 シオン属 2年草学名:Aster tripolium L. 開花期8月~11月別名:ハマシオン英名:Sea Aster原産:日本在来種(関東以西・四国・九州)「ノコンギク」:キク科 シオン属 多年草学名:Aster ageratoides Turcz. subsp ovatus (Franch. et Savat) Kitam. 開花期:8月~11月原産:日本在来種(本州・四国・九州)花は白から淡い青紫で、花後には綿帽子になります。 良く似たシロヨメナの花は、白花で小さく、葉も細いのが特徴です。人気blogクリックしてくださると幸せです!
2005年10月27日
コメント(34)

明代、永楽2年(1405)から宣徳8年(1433)にかけてのことでした。 中国全土を制覇し、周辺諸国を従わせた永楽帝は、遠く海外に通商航路を開こうと夢を抱きます。 そして、重臣の鄭和に大帝国の明の国力を示して、海の彼方の諸外国に朝貢を促すように命じました。 明史の記録によると、永楽帝の建造させた船は「宝船」と呼ばれる船で、その規模は想像を絶するものでした。 マストが9本、全長が44丈(140メートル)、幅18丈(58メートル)もある超大船で、当時の中国の国力と造船技術は、世界の常識をはるかに凌ぐ優れたものだったといえます。※(明代の常造尺は約31.7~32.1cm)その巨大船の船団は60隻余りの編成で、乗組員の数は1隻あたり450名で、全乗員は実に2万人を越えたということですから驚きます。 ちなみに、100年後のコロンブスの船の乗組員は50名前後でした。その後に登場するガレオン船でさえ300名前後ですから、宝船がいかに巨大であったか、容易に想像できます。第1回の航海は成功に終わり、鄭和は2年後の1407年に凱旋帰国しています。 それ以後、1408~1411年、1413~1415年、1417~1419年、1421~1422年、1430~1433年に合計で7回もの遠洋航海が行われ、30余りの国を訪れます。遠方ではアフリカ東岸や紅海にも向かい、最近の調査によると船団の一部はアメリカ本土にも到達しています。それは、バスコ・ダ・ガマやコロンブスに代表されるヨーロッパ大航海時代の100年も前のことでした。<鄭和という人>鄭和(1371~1433)は、現在の雲南省昆明の回族の出身で本名を馬和といい、燕王朱棣(後の永楽帝)の家奴となり「靖難の変」の功績を挙げます。政権奪取後に内官監太監に任命され宮廷の高級官僚となり、「鄭」姓を下賜されて以後「鄭和」と名乗りました。鄭和は、が皇帝となるきっかけとなった、国政にも関まっています。鄭和は朝貢を諸国に促すだけでなく、本国には無かった珍しい文物を持ち帰っています。 中でも永楽帝を大喜びさせたのがキリンだったということです。 鄭和は、「キリン」の発音が中国の聖獣「麒麟(キリン)」に似ていたため、都に連れ帰り永楽帝に献上ましたが、古代中国の伝説によると、優れた王が善良な治世を行ったときのみ、麒麟が姿を現したそうです。人気blogクリックしてくださると幸せです!
2005年10月26日
コメント(25)

神戸市西区の太山寺(たいざんじ)は、鎌倉から室町にかけて隆盛を極めた天台の名刹としても知られる寺で、藤原鎌足の子 定恵和尚が開基し、孫の藤原宇合によって716年に創建されたといいます。 往時は、後白河、後宇多、崇光天皇が行幸した寺で平家との縁も深く、一族の納経や寄進された甲冑なども多く残されています。 境内の正面に見える本殿は神戸市唯一の国宝で、仁王門は国指定の重要文化財の指定を受けている建築物です。「播磨鏡」によると、寿永年間(1182~1185)、平氏没落の折りは、清盛の弟 平教盛の末子が出家して、この寺に隠れ住んだとも言い伝えられています。この太山寺は、弘安8年(1285)の火災で焼失し、その後永仁年間(1293~1299)に再建されています。 和の様式と唐様式を融合させた優美な折衷様式は、鎌倉時代の天台伽藍様式を今に残すもので、本殿の規模は柱真々間で正面20.82m、側面17.76mと大きく、仏教の大衆化に伴い、仏殿様式が確立しつつあった初期の建造物として、学術的にも極めて貴重な文化財です。神戸の市街地を外れたこの辺りは、自然が豊かに拡がり、参道を歩くと道端にはススキのほか、野紺菊や秋乃野罌粟(ホアキノノゲシ)などの花が愛らしく出迎えてくれます。 人気blogクリックしてくださると幸せです!
2005年10月25日
コメント(22)

良く混同されがちですが、小栴檀草(こせんだんぐさ)は、センダン科の栴檀草(せんだんぐさ)とは、まったく種類の異なる植物です。 葉の様子が栴檀(せんだん)に似ているために付けられた名前でしょう。 また、「栴檀は、双葉より香し」 と讃えられている栴檀とは、香木の白檀(びゃくだん)の別称で、野草の栴檀草や小栴檀草とは関係はありません。小栴檀草(こせんだんぐさ)を見つけて、ツンツンした黄色の花を眺めているとき、蜂が飛んできてとまりました。 妙に大きなミツバチ・・・ 「あれ? 女王蜂?」。秋の陽を浴びて、一生懸命働く女王蜂。 彼女は革命に追われた女王なのか、それとも理想に燃えて、新しき世を築こうとする建国の母か・・・ 自然界は今、生態系が崩れかけていて、それなりに厳しい情況のかも知れません。そういえば人間界も、バブル全盛の頃に、キタの新地界隈で夜な夜な札束積み上げて、綺麗なお姉さんたちに羽振りを利かしたオヤジらも居たけど、今はいったい何処へ行ったのでしょう。 「コセンダングサ」:キク科 センダングサ属学名:Bidens pilosa 開花期:8月下旬~11月※花のあとにできる種は、服にいっぱい付いて困る草です。人気blogクリックしてくださると幸せです!
2005年10月24日
コメント(29)

各地の地名には、それぞれ由来や意味が含まれていますね。 それでも由来の判明していない地名もたくさんあるということです。 「熊野」という地名も、どういう意味を持つのかが、あまりはっきりしていない地名の一つです。無論、諸説が存在するのですが、「熊野」の地名を解き明かす上で、やはり注目されているのが「熊」の一字に含まれる意味のようです。 共通しているのは「熊」の字は、当て字であるとして「音」の解釈によって多くの説が紹介されています。くまは「曲(くま)」であるとして、山や海岸線に阻まれた曲がりくねった交通の難所であることから、人の足ではなかなかたどり着けない、つまり神々や精霊の領域であるという意味も込めて名づけたとする説があります。また「熊」は、本来「隈(くま)」であったとして、「隈(くま)」が隅(すみ)を表すことから、当時の都を遠く離れた辺境の地であるという意味だとする説があります。 同時に、隈は影を示す意味も持つため、闇や影をイメージして死者の霊が集まる霊場であるとし、そのことから恐れ敬って「くまの」と名づけたともいわれています。実際、古語で「くま」は神を意味する言葉としても解釈されるため、神様のおわす場所を表しているとする説や、「くま」は籠もる(こもる)という言葉の源泉であるとして、鬱蒼と茂る山林が、一種の隠れ場所や隠し場所であるとして、神や精霊が隠れる場所であるとする説など・・・いずれの説を見ても、そこには神や精霊、死者の霊にまつわる恐れや敬いの意味が込められていたのを垣間見ることができます。人気blogクリックしてくださると幸せです!
2005年10月24日
コメント(16)

今日は、木枯らし1号が吹いたそうですね。 未明からお昼過ぎまでは眼下の海も、風速15メートルの大時化でした。 洗いたて愛車も、出掛けるときに波を被って、車の塩辛になりました。私は今日、「竿」を一本買いました。 「芋」ではありません!「竿」です。m( _ _;)m夕べは煙に巻かれ、今日も虎はすっかりニャンコに。 やっぱり虎は、チョコレートを食えないらしい・・・(>_
2005年10月23日
コメント(14)

ちょうどこの時期、野山を歩いてみると「細葉秋乃野罌粟(ホソバアキノノゲシ)」が咲いているのを目にすることができます。 ホソバアキノノゲシの花は、秋の日だまりを思わせるような優しい薄黄色の愛らしい花で、日本在来種の野菊のひとつですが、この花も地域によってはその数を減らしつつある野花です。同属のアキノノゲシとホソバアキノノゲシは非常によく似ていますが、両者を区別する上で重要なのは葉の形状を比べることです。 ホソバアキノノゲシの方は、単葉の細葉で葉に深裂がなく、葉の付け根部分も茎を抱き込んでいません。 これから色づき深まる秋を、少し野山を歩いて楽しんでみませんか。「ホソバアキノノゲシ」:キク科 アキノノゲシ属学名:Lactuca indica L. froma indivisa (Mak.) Kitam 開花期:8月中旬~11月原産:日本在来種 全国の山野人気blogクリックしてくださると幸せです!
2005年10月23日
コメント(19)

天気晴朗なれど風強く、手のひらに掬う水はいっそう冷たく、にわかに秋は深まりつつあり。ひらりひらりと風に踊り、かくも誇らしげに咲き連ねる花が、この花をおいてほかにあろうか。たおやかなで優美なるその花の名は秋桜、美しき花なり。秋桜が、涼しい秋風にそよそよと揺れる様子は、眺めていてとても清々しく美しい姿です。秋桜は、メキシコ原産の植物ですが、早くから日本に渡来し、秋を彩る花として各地で愛されています。秋桜は、キク科の一年草ですが、同じキク科の植物よりも風に強いのには理由があります。 茎の部分には、個々の細胞を結合させる働きを持つセルロース類が多く含まれており、さらに縦方向の繊維の結束が強いのが特徴で、硬質であると共にしなやかであるため、キクに比べて幾分折れにくいのです。 この花の名を文字にするとき、私は「秋桜」と書き表すのが好きです。☆☆☆「スキウタ 紅白みんなでアンケート」の締め切りが31日に迫りました。☆☆☆ 明日23日(日曜日)は、いよいよ「くまぷう&YaYoiライブ」です! 詳しくは下記のくまぷうさんの日記にて・・・ツイてる車椅子のミュージシャンくまぷうの日記はココから人気blogクリックしてくださると幸せです!
2005年10月22日
コメント(21)

石投女(いしなげんじょ)石投女は、沖合いを行く舟を見つけては船頭に声をかけて惑わせ、舟を暗礁の岩場に誘い込んで遭難させたり、船縁から石を投げ込んだりして、悪さをしたということです。 まるで、中世ヨーロッパに残るローレライや、ギリシャ神話のセイレーンのようなお話しですね。熊野灘は、直接太平洋に面しており、潮の流れも速く、古くから遭難や難破が絶えない海上交通の難所でした。 このお話しも、そんな熊野灘で漁をする漁師の間で語り継がれ、信じられていた伝説です。熊野では、秋の台風の季節を前にして、海の神様を鎮めるために獅子舞や神楽を奉納して漁の安全を祈る習慣があります。中でも、熊野の高芝地区では杉の巨木を彫り抜いた重さ5kgもある獅子頭で舞う獅子舞いと、稚児が奉納する神楽は見もので、220年もの長い間、海上の安全祈願や豊漁の祈願として受け継がれてきました。*熊野のもののけ伝説は、下記の4作ラインナップされていますので、興味があれば下記からどうぞ。(^-^)カシャンボ 亡者の一つ鐘 牛鬼 ダル人気blogクリックしてくださると幸せです!
2005年10月22日
コメント(22)

臭木(クサキ)は、夏から初秋にかけて、ジャスミンのような芳香の清楚な白い花を咲かせます。 花が終わると、萼は赤く色づいて反り返り、紫紺色の実をつけます。 その姿は、まるで里山に秋を告げてくれるようです。ダシャレではないですが、クサキの実は草木染めに古くから利用されており、蓼藍(たであい)と呼ばれる鮮やかな青を発色する染料となるそうです。 「クサキ」:クマツヅラ科 クサキ属学名:Clerodendron trichotomum紫式部(ムラサキシキブ)は、6月に可愛い小さな花を咲かせますが、鑑賞は花よりもむしろ、秋に美しく色づく紫の実の方が対照となっています。 日本で、庭などに植えて一般に楽しまれるのは小紫式部(コムラサキシキブ)という種で、白い実をつける白式部(シロシキブ)なども庭木として珍重されています。「コムラサキシキブ」 :クマツヅラ科 カリカルパ属学名:Callicarpa japonica 別名:ミムラサキ(実紫)、コメゴメ☆☆☆「スキウタ 紅白みんなでアンケート」の投票締め切りが、10月31日に迫りました。☆☆☆ みんなで、車椅子のミュージシャンくまぷうを紅白へ出場させよう!ツイてる車椅子のミュージシャンくまぷうの日記はココから人気blogクリックしてくださると幸せです!
2005年10月21日
コメント(36)

首筋をつたう、汗の感覚も遠ざかり、野を吹き通る、秋風の冷たさのしばし心地良き候。あの夏の日々、渇きを癒した氷踊る冷茶も久しく遠ざかり、今は、ほのかに香りたち、湯気舞う珈琲へと移りぬ。庭先の虫どもの騒ぎもようよう治まり、なんとも静かな秋、静かな秋。人気blogクリックしてくださると幸せです!
2005年10月20日
コメント(31)

今日は、台風が沖の南海上を通り過ぎたので、北西の風が強く吹きました。天気が良かったので早起きして、久しぶりに里の秋を楽しみました。「ホテイアオイ」 ミズアオイ科 多年草学名:Eichhornia crassipes 開花期:8月~9月別名:ホテイソウ、スイギョク、ウォーターヒヤシンス近くの沼には、今年は遅れて咲いた布袋葵(ホテイアオイ)が満開で、布袋葵のまわりは、沼を縁取るように咲くセイタカアワダチソウの花も綺麗です。海が見える丘に登ると、夏花の赤いサルビアは、秋風に少し寒そうにしていました。「セイタカアワダチソウ」学名:Solidago altissima L 1011別名:セイタカアキノキリンソウ原産:北アメリカ原産※ベトナム戦争の頃に日本に渡来したため、ベトナム草とも呼ばれます。ところで6つの村の村祭りを前にして、またまた日の出村の村長さんが、ちょっぴりおイタをしたので、村々には少々波風が立ちそうな気配です。 肝心の村祭りの方は、言うべきことをビシッと言って、筋は通しましょうね。でないと、ただのおバカさんだから・・・・ お賽銭みたいにポィっと、丸投げするのがあなたの悪い癖。「サルビア」 シソ科 一年草学名:Salvia splendens 開花期:7月~10人気blogランキングへ、クリックしてくださると幸せです!
2005年10月19日
コメント(41)

かごめ かごめかごの中のとりは いついつ出やる夜明けの晩に 鶴と亀がす~べったうしろの正面だぁれ♪時々、気がつくと口ずさんでいるのがこのかごめの歌です。 幼い頃、熊野にいたときには毎日耳にした子守歌。 けれども、とても不思議な歌だと感じたことはありませんか?「かごめ かごめ」これは、素直に「籠目」と考えています。 籠の編み目は、上向きの正三角形と下向きの正三角形を重ねた形で、ちょうど籠目紋になります。不思議なことに伊勢神宮の紋がこの籠目紋ですね。 籠目紋は、六芒星の形にもなることからダビデの紋章ともいわれています。「かごの中のとりは、いついつ出やる」不可思議な言葉ですが、いくつかの解釈が考えられます。歌の節回しからは「籠の中の鳥」、あるいは「籠の中の鳥居」とも聴き取ることができます。「鳥」の場合、少々カルトな一説によれば、失われたアーク(天使が前後についたお神輿)を意味しているとか・・・「鳥居」と解釈する場合、なんらかの理由で隠された神の存在を予感させます。 「夜明けの晩に」なんとも不思議な言い回しですが、こういう現象は実際にありますよね。 明け方、あるいは夕方、太陽と月がともに空にある状態。日食を表していると主張する研究者もいるようです。 また、新時代との境目だとする抽象的な説もあるようです。「鶴と亀がすべった」これも謎めいた表現です。 「すべった」と、節回しに合わせた「すうべった」では、導き出せる答えも随分と違いがあることにお気づきでしょうか。古い表現で「すべる」は「統べる」つまり統治や支配すると解釈できます。少し捻った考えをすると、鶴は空を舞い、亀は地上の動物であることから、天と地を支配するもの、もしくは鶴亀に代表されるイメージは寿命、つまり命を支配するという考えもできます。また、同じく古い表現で「すうべる」という言葉は、数え並べる配列という意味があります。「うしろの正面 だあれ」この文章が指している誰は、陽と陰のを表していると考える説があります。日食現象においては太陽をうしろにして月が表に見えるので、「日」のうしろの正面が「月」であると考えるのです。 また、冬至では昼の時間よりも夜の時間の方が長いので、「昼」のうしろの正面が「夜」であるという発想もできます。これらを神格化した象徴と見るならば、「天照大神」のうしろの正面が「月読尊」であることを表しているとも推測できるというのです。私は、この歌の真意が知りたくて仕方がありませんが、色々調べて推測すればするほど、謎は深まるばかりです。 あなたは、この歌の意味を知っていますか?ところで、今夜は月食がありましたね。 月を眺めながらこんなこと考えてました。(^-^)こんなのはじめてみました!人気blogランキングへ、クリックしてくださると幸せです!
2005年10月18日
コメント(46)
1933年、ドイツにヒトラーを首班とするナチス政権が誕生します。 政権の成立直後の1935年、ヒトラーは、ドイツ民族の純潔性を尊きとしてユダヤ人排斥に情熱を注ぎ、「ニュールンベルグ法」を制定します。 ニュールンベルグ法とは、たとえユダヤ教徒でなくても祖父母4人のうち3人がユダヤ人であった場合、ユダヤ人とみなし、ほぼ例外なく市民権を剥奪され、生活に制限が加えられるというものでした。 1938年11月、これに反発するポーランド系ユダヤ人の過激派の青年が、ドイツ大使館員を襲撃する事件がパリで発生。 この事件によって、更にドイツはユダヤ人への人種迫害をエスカレートさせ、ユダヤ人難民が大量に出るのでした。 当時のヨーロッパの多くは、このドイツの非人道的行為を非難しつつも、迫害を受けるユダヤ人に救いの手を差し延べる国は無いに等しく、ユダヤ人に同情的だったイギリスやアメリカでさえも、自国へのユダヤ人の入国を厳しく制限し、いわば見て見ぬ振りを決め込んだのです。ユダヤ難民のドイツ脱出が続発した1939年、ユダヤ人難民930人を乗せたセントルイス号が、英国への入港を拒否され、次いでアメリカでも沿岸警備隊の武力行使により受け入れを阻まれる事件が起こります。 セントルイス号のユダヤ難民たちは、ドイツに引き返すしかなく、結局は強制収容所で残酷な運命を辿ったのでした。こうした世界情勢の中で、日本政府はユダヤ人難民に対する方針を打ち出すにあたり、「語族協和」の精神に則した樋口将軍ら陸軍高級将校らの実例を検討し、昭和14年1939年12月、5相会議で「ユダヤ人対策要綱」が策定されます。実際に、この要綱はアメリカとの開戦まで適用され、日本占領下の上海が、世界で唯一のビザなしの渡航者を受け入れる都市として機能し、シベリア鉄道で満州のハルピンを経由して陸路を上海に向かうか、ハルピンで日本通過ビザを取得し、神戸を経由して多くのユダヤ人難民が上海を目指しました。 彼らにとっては、唯一の合法的「命の道」だったのです。残念なことに、1942年、この「ユダヤ人対策要綱」は日米の開戦後によって事実上運用が不可能となったために廃止されました。 上海には、常時3万人近いユダヤ人が滞在しており、1942年には、ドイツのゲシュタポが上海で調査をしてこの事実を知り、日本政府に対してユダヤ人強制施設を建設する働きかけをしたともいわれています。 これに対する日本側の対応はユダヤ人居住区の監視でしたが、身分証明書を示せばユダヤ人は自由に出入り出来るという”雰囲気と体裁だけの対応”で、上海のユダヤ人難民は、戦後無事にアメリカやイスラエルに移住しています。 私は、先頃大連の日本領事館に保護を求め、中国当局に連行された脱北者家族に対する領事館職員の対応に、未だ激しい怒りを消せないでいます。 くしくも、大連はフィリピンで果てた祖父が、昭和13年当時に憲兵将校として赴任していた土地でした。 母の幼い記憶によると、祖父はユダヤ難民に食事をご馳走していたそうです。 明日は、そんな祖父の命日を迎えます。現在の日本政府なら、そして現在の在外勤務の公務員たちならば、どんな対応が出来たのでしょうか・・・
2005年10月17日
コメント(24)
昨日のつづきです。陸軍中将 樋口李一郎(1889~1970) 兵庫県南淡町(現南あわじ市)に生まれ、18歳のときに、岐阜県大垣市の樋口家の養子となります。1909年 陸軍士官学校、 1918年 陸軍大学校を卒業した彼は、判で押したようなエリート軍人でした。樋口の見送りには、カウフマンとロシア人の代表のロザノフとも姿を見せていました。 ハルピンではユダヤ人とロシア人の間では以前から抗争が続いていたのですが、樋口は彼らの和解の橋渡しをするため、親睦クラブを設けて世話をしていたのでした。ロザノフは、樋口の前でカウフマンの頬に接吻をし、樋口の仲裁に謝意を述べ、今後我々はユダヤ人とは平和的に付き合いすると樋口に固く誓います。定刻、アジア号の警笛が鳴り響き、樋口を乗せた列車はゆっくりと動き出しました。 樋口が列車後部のデッキに立つと、「ジェネラル・ヒグチ!」人々はそう叫び、プラットホームの切れ間まで手を振りながら遠ざかる列車を見送りました。昭和14年12月、日本政府部内で総理大臣、外務大臣、大蔵大臣、陸軍大臣、海軍大臣で会議が開かれ、日本は人種平等の精神を以てユダヤ人を排斥せず、公正に処遇する旨を国策として明確に示した「ユダヤ人対策要綱」を定めたのでした。軍人としての樋口は、北方守備の指揮官として1943年7月、海軍と連携して、待ち伏せる米国艦隊の裏をかき、木村昌福少将の駆逐艦部隊によるキスカ島撤収作戦を成功に導いて5,000余名のキスカ守備隊将兵を無事に生還させます。 また、停戦後の8月19日においてもなお、大挙して北千島に攻め込んできたソビエト軍部隊には、戦車隊を投入して激しく応戦し、ソビエト軍側に大損害を与え、結果的に北海道上陸を断念させました。終戦後、樋口李一郎中将はソビエト側から「戦犯」の指名を受けたのでした。連合軍総司令部には、ソビエト極東軍司令部から、樋口の身柄を引き渡すよう要求が出されます。 その時、ニューヨークに総本部を置くユダヤ協会が動きました。 ユダヤ協会の幹部には、オトポールで樋口に命を救われた人々も多く、恩を返したい一心で樋口救出運動を展開します。 ユダヤ協会は、合衆国政府に働きかけ、マッカーサーは樋口を擁護することをソビエト側の通告し、引き渡し要求を拒絶しました。樋口季一郎中将は、かつて日本政府が掲げた民族平等の理想を具体化し、実践した軍人だといえます。 また、樋口のみならず当時の日本軍部も、三国同盟を固持しつつも、その一方ではユダヤ人問題についてドイツの圧力に妥協することなく、終始一貫して彼らユダヤ人を擁護する姿勢を崩すことはありませんでした。 現代の、日本人に蔓延する日本軍部へのイメージと認識は、総括して中国同様「軍国主義・加害者・侵略者」という一面にしかシフトされていないように感じます。 しかし、当時の日本軍部にも確固たる信念と良識が息づいていたことも、語られていない史実として知って欲しいのです。 それは、何よりもオトポールの後、軍部の樋口に対する処遇が雄弁に物語っています・・・~ 完 ~オトポールの涙(前編)オトポールの涙(中編)杉原千畝という人
2005年10月16日
コメント(26)
昭和13年3月、凍てつく早春のハルピン。 このお話しは、杉原千畝がリトアニアでユダヤ難民を救う、2年前の出来事ことです。昨日のつづきです。オトポールは、満州との国境にあるソビエトの街でした。満州国から入国を拒否された20,000人のユダヤ人難民は、オトポールで食料も底を尽き、激しい吹雪の中で命の危険にさらされていたのです。樋口は、この緊急事態に一人苦慮していました。 樋口には、満州国外交部が下したユダヤ人難民の入国拒否という判断に納得できない怒りを感じておりました。 「五族協和」の理想を掲げた建国理念に基づき、難民を受け入れる対応をすべきであることはいうまでもなく、樋口自身、事前に満州国外交部とはユダヤ難民問題についても再三意見を交わし、合意を得ている問題だったからです。 「自分が動くわけにはいかない!」それは、樋口にとっても明かに越権行為となる重大な問題でもありました。 本来ならば、満州国外務部が自国の対応として受け入れを決断すべき問題で、いかに樋口が権限のある地位であるとはいえ、日本陸軍の軍人である自分が介入すれば、これまで日本が主張した満州国主権を日本自ら否定することにもなりかねないのでした。 しかし、こうしている間にも、酷寒のオポトールで、20,000人ものユダヤ難民の命が潰えようとしているのでした。 駆けつけて仲間の救出を懇願したカウフマンでしたが、今は祈るような目で樋口を見守ることしかできませんでした。「もう、一刻の猶予もならない!」 樋口は、遂に直接救援を決意します。 満州鉄道総裁には救援列車を手配するよう依頼し、カウフマンには心配せず難民の受け入れ準備をするよう伝えました。 こうしてソビエト領オポトールで危機にあったユダヤ難民は無事に国境を通過することが出来ました。 決断から2日後の3月12日、オトポールのユダヤ難民全員は無事ハルピンに到着し、保護されたという知らせを受けます。後日、ユダヤ人難民の大半は上海を経て、アメリカへ渡航していますが、樋口らは難民に対して、食料のほか、金銭的な相談や居住場所など、生活面についても様々な形で、ユダヤ人たちに援助の手を差し延べたということです。勿論、このオポトールの一件によって、樋口はドイツ側の激しい怒りをかい、日本の外務省や軍部にも目をつけられるのでした。後編につづく・・・
2005年10月15日
コメント(28)
イスラエルの首都エルサレムの丘に、「ユダヤ民族の幸福に力をかした人々の恩を永久に讃えるために」と銘が刻まれたゴールデンブックと呼ばれる黄金の碑があります。 そのモニュメントには、モーゼやアインシュタインなど、ユダヤの英雄に混じって「偉大な人道主義者」として日本陸軍の樋口李一郎中将と彼の部下だった安江仙江陸軍大佐の名前が刻まれています。「二万人を救った将軍の決断」昭和12年(1937年)12月、この物語の舞台となったのはハルピン。 それはある吹雪の夜の出来事でした。この年の夏、ハルピンに特務機関長として赴任してきた陸軍少将 樋口季一郎のところへ、深刻な顔をした初老の外国人が訪ねて来ます。 男は内科医のカウフマン博士と名乗り、流暢な日本語で突然の訪問の非礼を樋口に詫びたあと、驚くべきことを口にしたのでした。カウフマンは、自分もユダヤ系ドイツ人で、ヒトラーのユダヤ人にたいする残虐な迫害を世界に訴えるため、ユダヤ人の大会を開く許可が欲しいということだったのです。 樋口自身、このハルピンに赴任する前は大使館付武官としてベルリンに駐在し、各地を巡ってはユダヤ人に何が起こっているのかを良く理解していました。 当時のハルピンは、白系ロシア人とユダヤ人の対立が深刻化し、各地で流血事件が頻発している情況でした。 また、日本は日独伊三国同盟に調印しており、ユダヤ問題は日本にとってもデリケートな問題だったのです。 しかし、樋口はためらいもなく、カウフマン博士の願いを快諾し、力になろうと約束をしたのでした。 樋口が許可したユダヤ人の集会は、極東ユダヤ人大会として昭和13年1月に開催され、樋口に身の危険が及ぶことを心配する部下の反対を押し切って樋口は招きに応じ、壇上から挨拶します。 このとき樋口は、ナチスによるユダヤ人迫害を厳しく非難し、彼等の庇護の必要性を示唆するなど、日本陸軍の軍人としては極めて異例のスピーチを行ったのでした。 樋口のスピーチが終わった途端、場内には割れんばかりの拍手と歓声が響き、ユダヤ人たちは壇上詰め寄って樋口の前にひざまずいて涙を流したといいます。大会の終了後、樋口のもとに各国特派員や記者が、詰め寄りました。樋口は皆の前に笑顔で、「~~ユダヤの民族に同情的であるのは、日本人の古来からの精神~~日本人には、義を以て弱きを助ける気質を持つ~~世界が祖国のないユダヤ民族に一国を与え、幸福を真剣に考えない限り、この問題は解決しないだろう。」そう声高らかに答え、この発言は各国に報道されました。樋口のもとに、「満州と国境を接するソ連領のオトポールに、ナチスのユダヤ人狩りから逃れた大量のユダヤ難民が、吹雪で立往生している。」という、部下からの緊急情報が入ったのは昭和13年(1938)3月8日の未明のことでした。 シベリア鉄道でやって来たユダヤ人の集団が、満州入国を拒否され、立ち往生して飢餓と寒さの中、約2万人が生命の危機に瀕していたのです。この日を境に、樋口李一郎は軍人として極めて希な運命を歩むことになるのですが、このときの彼には、まだそんなことを知ることは出来なかったでしょう。つづく・・・
2005年10月14日
コメント(22)
中国は12日、「神舟(しんしゅう)5号」の打ち上げ成功から2年振り、2度目の有人ロケット「神舟6号」の打ち上げに成功しました。 これにより、いよいよ中華料理は宇宙で味わう時代の幕開けです!日本時間の12日午前10時、内モンゴル自治区の酒泉衛星発射センターから、宇宙飛行士2名を載せて発射。 前回に次いで2度目の成功により、その技術の確かさを世界に証明した形となった中国は、今後「宇宙技術大国」として軍事、民需の両面で開発をさらに推進させるものと思われます。私が、今回何よりも関心を寄せているのが、神舟6号の「宇宙食」の豪華さです。神舟6号はこれから約5日間、地球の軌道上を周回しますが、宇宙に滞在する間の彼等の食事は、中国航天食品研究室が発表するところによると、前回と比べて格段に進歩しており、そのメニューは、アワビ、イカ団子、肉団子、豚肉を砂糖と醤油でじっくり煮込んだ「紅焼豚肉」、肉とカシューナッツを炒めた「宮保鶏丁」などのほか、主食類として白飯、カレーに五目チャーハン、中華丼をセレクトできるなど、中華料理が主流で、大エビなども含まれる豪華な内容だそうです。宇宙から、地球を眺めながらフカヒレと麻婆豆腐を食べてみたい・・・(妄想!^.^;)中国政府当局は、自国の宇宙開発を平和目的と位置づけて強調していますが、その言葉通り、この快挙が今後アジア経済の平和的発展に貢献するよう祈りたいものです。
2005年10月13日
コメント(45)
昨年1月に、92歳で他界した祖母は、最期に「ヤ・タ・ガ・ラ・ス・・・」と一言発して、息を引き取りました。 49日の法要の際、集まっていた一族の年寄り連中にその話をしたところ、不思議な話を聞かされました。それは、ちょうど私が生まれた時間(午前2時22分)だったそうです。 まるで、そのことを知らせるかのように、祖母の家の庭と数軒の一族のところに八咫烏が姿を現して、真っ暗な空を本宮の方角へ飛んで行ったそうです。 何より不思議なことは、父と駆けつけていた親戚数名は、母の病状の都合で手が離せず、誰にも連絡が出来なかったのですが、私の誕生は、すでに親戚中が知っていたというのです。この話を聞いたとき、私は内心思いました。「コイツら、イカれてる・・・^.^;」牟婁の真砂(まさご)といえば、以前書いた清姫の故郷ですが、この真砂に千代包(ちよかね)という猟師がいました。 山で猪を追っている途中、彼は道に迷い、どうしたものかと思案していたところへ、八咫烏が現れます。疑いながらも、漁師は八咫烏が先に立って、静々と歩くあとをついて行くと、八咫烏は金色に姿を変えまました。 驚きながらもさらについて行くと、曾那恵(そなえ)というところに出て、漁師が一日中追っていた獲物の猪も、そこに倒れていたといいます。気がつくと、いつの間にか八咫烏の姿は見えなくなり、辺りを見回して探していると、少し離れたところにあるイチイガシの巨木の上に光る物を見つけます。 猟師は恐ろしくなり、大きな鏑矢をつかんで、発光物を射落とそうと狙います。すると、光は3枚の鏡に別れ、猟師に向かってこう言いました。 「我らは、この地に代々伝わり、王や万人を守る者なり。 熊野権現として現れるのも我等らなり。 此度は宿縁によって汝に姿を見せたり。」猟師は弓矢をうち捨て、地面に伏して無礼を詫びました。そして、イチイガシの下に3つの祠を用意しました。 すると鏡は、その3つの祠に移ったといいます。狩りの途中で、山中に迷っているところに八咫烏が現れ、猟師を神のもとへと導いたというお話しは。 バックボーンに「古事記」や「日本書紀」に記された神武東征説話に登場する八咫烏が天から下り、神武天皇を先導して熊野から吉野への道案内をする逸話に由来すると思われていますが、八咫烏は熊野の神の使いとされ、もともと熊野地方の狩猟する人々が信じていた守護霊だったということです。八咫烏は熊野本宮大社の紋章で、古来、重要な約束を記した証文は、この八咫烏の紋章の証文で交わされ、八咫烏の紋章のもとに交わされた約束を違えることは許されず、と血を吐いて死ぬとされています。そういえば、現代でも有名なものでは、サッカーの日本代表のシンボルマークが八咫烏ですよね。もしかすると、祖母の臨終の床には、八咫烏が迎えにきていたのかも知れませんね。 私が死ぬときもきっと、八咫烏が迎えに来てくれると信じたいです。 何? お前は死んだら「火車」が連れに来るって?・・・ 恐ぇ~!^.^;
2005年10月12日
コメント(24)
このブログをはじめた頃にも、この日本人のことを私は特別な思いで書きました。 それは、1940年ナチス・ドイツのポーランド侵攻作戦をきっかけに、第二次大戦が勃発した直後のことです・・・彼の名は杉原千畝(すぎはら ちうね)・・・ 杉原は、独・ソ協定に呑み込まれようとしている小国、リトアニアに駐在していた外交官でした。 ナチス・ドイツは、ポーランドに侵攻し、ユダヤ人への迫害をはじめます。 杉原が勤務する領事館には、ソ連とナチスの両方から追われ、逃げ場所を失ったユダヤ人が連日のように救いを求めて殺到し、領事館の外までが人で溢れていました。 この頃になると、市内のどの通りでも、ユダヤ人の死体を見ることが出来たと言われています。 「彼等をなんとか救いたい!」そんな思いに駆られた杉原は、何度も本国の外務省にかけ合いましたが、日・独・伊三国同盟を重視する外務省内部には、そんな彼の訴えに耳を貸す者など誰も居ませんでした。 やがて、本国からはビザ発給を許さないという電文が届きます。 彼は悩んだ末に覚悟を決め、遂に独断でビザを発給することを決心します。そして彼は、本国からの命令に背き、残された僅かな時間の間に、救いを求めるユダヤ人難民たちに対して、2,139通もの日本経由ビザを発給し、家族を含めて約6,000人の出国を助け、その命を救いました。 やがて終戦の日を迎え、捕虜として抑留されたのちに、日本へと帰国した杉原を待っていたのは賞賛の声ではなく、外務省本庁から通告された、懲戒処分の通告という厳しい現実でした。 それだけではなく、戦後30年もの長い間、彼がリトアニア時代にとった人道的行動は、半ば組織に対する反抗的行為として、外務省から黙殺され続けていたのです。杉原が、リトアニアでビザ発給に尽力した時代は、有名なセントルイス号事件など、あのアメリカでさえも、ユダヤ人難民の入国を固く拒否して、追い返してしまうような頃です。私が彼のことを知ったのは、もう随分昔のことでしたが、孤立無援の状況下で、人はかくも勇敢に行動できるものかと、強い感銘を受けるとともに、今日失われつつある日本人の美徳を感じたものです。今夜、杉原千畝を題材にしたドラマ「六千人の命のビザ」が放映されるそうですので、ご覧ください。 当時、多くの国々さえも見て見ぬ振りをしていたユダヤ人に手を差し延べ、自らの危険をも顧みずに、真義を貫いた人間がいたことを記憶に留めてください。折しも今年は、戦後60年経った今、ベルリン市の中心にホロコーストで犠牲となったユダヤ人を追悼するモニュメントが序幕された年でもあります。※ちなみに、ホロコーストとはギリシャ語で「丸焼きの供え物」の意。
2005年10月11日
コメント(43)
ダルダルは、森に棲むもののけで、山中に迷い餓死した者が悪霊となって人に取り憑くのだといわれています。 ダルの伝説は他の地域にも残され、「ダル」、「ヒダル」、「ダレ」などと呼ばれていますが、紀伊半島では、とくに数多く語られているそうです。 このダルが憑くと、急に脱力感に襲われて意識も混沌とし、歩くことも立つこともままならなくなるとわれています。 熊野の山師たちの間では、山でダルに憑かれることが未だにあるということです。ダルは、空腹のときに憑きやすく、ダルが取り憑いたときには、米を少しでも食べるとダルが退くと熊野ではいわれているそうです。 また、ダルはおおむね決まった場所で人に取り憑くと言われていますが、これには理由があったのです。<ダルの科学的根拠>森林では、落葉などの有機物が腐食することにより二酸化炭素は発生します。通常、発生した二酸化炭素は空気の流れによって拡散します。 しかし、窪地などガスの溜まりやすい場所では比重の重い二酸化炭素は拡散せずに溜まり、濃度を維持することがあります。そんな場所に人間が入り込むと、二酸化炭素を吸い込み、心拍数が増加し、脱力感、意識障害などの中毒症状が出たりすることがあるのです。 つまり、ダルは炭酸ガスなのです。この他にも、シリーズで「カシャンボ」、「亡者の一つ鐘」、「牛鬼」などを書いておりますので、興味があればどうぞ・・・カシャンボ 亡者の一つ鐘 牛鬼
2005年10月10日
コメント(28)
[伊弉冉尊/伊邪那美(いざなぎ/いざなみ)]の神の名前には由来があります。「おのころ伝説」に登場する国生み、神生みで名高い夫婦神。その名前は、当てられている漢字こそ違いますが、その神の名の「いざ」の部分は、共に誘う(いざなう)という言葉に由来し、誘う凪と誘う波という意味を持つのです。 つまり、誘う凪が男神、誘う波が女神で、お互いに誘い合って夫婦の契りを結んだことになります。「日本書紀」によれば、夫婦神は力を合わせて日本の国土を生み、大勢の神々を生みましたが、伊邪那美が最後に火の神軻遇突智(カグツチ)を生んだとき、陰部に大やけどを負って死んでしまうのでした。 伊弉冉尊は、あまりにも無惨な伊邪那美の死に我を失い、生まれて間もない火の神軻遇突智を斬り殺してしまいます。 伊邪那美と軻遇突智の親子の遺体は、紀乃国熊野の有馬村に葬られたといいます。その伊邪那美が眠る墓所が、花の窟といわれる岩壁で、現在の三重県熊野市有馬町にある花窟神社です。 素敵なブログ紹介・・・きじとら2000さんの日記きじとら2000さんは、猫専門のプロカメラマンで、10/9日の黒猫の写真の美しさには絶句します。※映像は、松帆の夕景です。
2005年10月09日
コメント(15)
不思議なもので、ブログというものがなかったら、こんな人には出会わなかった・・・ 出会うはずもなかったと思う素敵な人とたくさん出会いました。 それは、本当に不思議な縁だと思います。ブログというものをはじめて5ヶ月。 そして、楽天を通じてたくさんの素敵な人たちと出会いました。 これはまさに、ブログのチカラなのでしょうね。訪れて下さった皆さん、コメントを下さる皆さん、ありがとう! 本当にありがとう!車椅子のミュージシャンくまぷうも、このブログで出会った一人です。多発性硬化症という難病と闘う、彼の生き方はいつも前向き。くまぷうは、歓びを見つける天才。くまぷうは、いつも笑いを忘れることなく、毎日を楽しく生きる達人。そして、そんな彼が歌う歌は、魂の歌、天からの贈り物。彼は、これからも歌い続けます! 彼の夢である、紅白の舞台のスポットライトを目指して・・・くまぷう&YaYoiライブのお知らせ・・・ ○10/23(日) 横浜・みなとみらい「animi」にて17:00~ ☆☆車椅子のミュージシャンくまぷうを、紅白へ出場させようプロジェクト展開中! ☆詳しくは、下記の「くまぷうのブログ日記」へ☆☆ ツイてる車椅子のミュージシャンくまぷうの日記にて
2005年10月09日
コメント(14)
私は、5歳まで母を知りませんでした。というのも、母は私を産む直前に、肝萎縮という昭和30年代当時の医療では命の危険が大きい重篤な情況に陥ったからだそうです。私は、産まれて1時間後には両親のもとを離れて暮らすこととなり、それからは本宮、新宮、龍神村、那智勝浦と、紀州熊野一帯に点在する一族の家を転々とし、一族によって手厚く育てられます。 そして、奇跡的に元気を取り戻した母と対面したのは5歳の時でした。1歳になるまでは、本宮で医師をしていた父の伯父に託され、伸び伸びと育てられます。 その後、1歳半から2歳までは、新宮の母の実家が私を預かり、3歳の頃には、龍神村へ移動し、その昔紀州藩剣術指南役だった祖母の里で、武道を学びはじめます。また、4歳からは那智勝浦の祖母の妹の家に預けられ、一族が氏子総代を務めていた関係で、那智大社が私の遊び場となりました。この幼少期の5年に及ぶ熊野での時間が、私の心の骨格形勢に、大きな影響をもたらしたのはいうまでもありません。
2005年10月08日
コメント(35)
熊野は、私の一族の地で、私は生まれて間もなく両親から離れて、この熊野の一族のもとで幼少期を過ごしました。 いわば私の故郷なのです。奥の細道、中仙道、熊野古道を文化庁指定の三古道と呼ばれます。 熊野古道とは、三重の伊勢路、和歌山の中辺路町から本宮へ続く中辺路、紀伊半島の海岸筋を縫うように通る大辺路、高野から奈良十津川村を経て本宮に至る小辺路などの総称です。熊野詣の一般的な順序を挙げると、まず京都の下鳥羽から淀川を下り、現在の大阪天満橋辺りに上陸して熊野九十九王子の第一王子 「窪津王子」に参拝します。このあと南下して、和泉の国から紀伊の国へと入り、紀伊田辺から中辺路を通って「熊野本宮大社」に参詣し、本宮から川船で熊野川を下って「熊野速玉大社(新宮)」に詣で、「熊野那智大社」に詣でる経路でした。 「熊野本宮大社」、「熊野速玉大社」、「熊野那智大社」は熊野三山と呼ばれ、熊野詣の中でも最も重要な聖地とされ、三山詣というのも別に存在します。帰路には、那智の妙法山に登り、大雲取(那智勝浦町・熊野川町)、小雲取(熊野川町・本宮町請川)の険しい道を辿り、再び本宮に戻って、来た道を戻るというのがスタンダードだったそうです。京都からの往復距離は約600kmあり、昔は1ヶ月ほどの道程だったということです。
2005年10月07日
コメント(16)
先月、整備のお兄さんに気持ちいい対応をしてもらったオートバックス。 今度はオイル会員の更新の案内葉書が届いたので立ち寄りました。 ついでにオイルとオイル・エレメント交換とATフルードの交換もカウンターのお姉さんに依頼すると、「ちょっと作業が混んでますので、1時間程度お時間がかかりますが・・・」と、申し訳なさそうにいいます。 そういえばパーキングもほぼ満車状態。 でも別に急ぐ用もないので「そう、じゃあ、書店でも覗いて来ますのでお願いします。」と答え、車のキーを預けました。空は今にも泣き出しそうな表情、でも近くの本屋だからとそのまま歩いて本屋へ・・・すると、その直後にスゲェ~雨。 「濡れてやらぁ~」と開き直り、大好きなアメ車雑誌「○~cars」を手にとってのめり込むこと1時間。背中に、自動ドアが開く気配と「あの~ お客様・・・」という遠慮がちな声。振り向くと、服は違ってましたが、さっき受付してくれたオートバックスのお姉さんでした。 「ご利用ありがとうございます!作業の方、間もなく終わりますので・・・コレ、私の傘ですからご遠慮なく・・・」腕時計を見ると7時40分、このお姉さん、仕事帰りにわざわざ傘を持ってきてくれたのです。 私は礼をいってピットへ戻り、作業済みの車を受け取りました。「帰り道なので・・・」その言葉に反して、彼女の車は逆の方向へと走り去りました。見上げた心使いにちょっと感動! 秋雨が嬉しいような日でした。傘は干して、明日にでも返そう。(^-^)今月のくまぷう&YaYoiライブは、2回楽しめるゾ~!! ○10/8(土)新横浜「横浜ラポール」にて12:15~12:45 ○10/23(日)横浜・みなとみらい「animi」にて17:00~ お近くの方は是非!m(_ _)m
2005年10月06日
コメント(27)
今夜は、かつて百恵ちゃんが出演した「赤い運命」のリメイクドラマを観ていました。CMの間に、ナビスコのビスケット5枚に苺ジャムを塗って皿に載せ、次のCMの間に台所で紅茶を入れて戻ると、無い!ビスケットが2枚しか無い! 居間には老犬の御家老と私だけ・・・容疑者の御家老は壁にもたれて、またしても全面否認。でも、近づくとジャムの匂いがプンプンします。 どうやら、今回は水を飲んで、証拠の匂いを消す時間がなかったのでしょうねェ~。ジャムだけに、さしずめ赤い疑惑(苦笑)見てやってください! 御家老の見事なトボケ顔。 これは5月の「モナカ失踪事件」当時の映像ですけど、いつもこうなんです。
2005年10月05日
コメント(52)
この物語は、mac417さんと、今は火車となった彼の愛猫に捧ぐ・・・ お話しの舞台となったのは、江戸の両国界隈。 魚屋利兵衛は、両国の米沢町に住まいしており、トラは、日本橋の大店(おおだな)の主人に飼われていたトラ猫でした・・・「利兵衛とトラ」魚屋の利兵衛は、女房もおらず気ままな独り暮らしでしたが、根っからの正直者で、あまり商売上手とはいえない不器用な男でした。 そんな利兵衛でしたが、その実直な人柄を気に入られ、贔屓のお得意客も何軒かあり、日本橋の両替商、喜三郎の店も、そんな彼の得意客の1人です。喜三郎の家には、1匹のトラというトラ猫が飼われていました。 利兵衛はこのトラをたいそう可愛がり、喜三郎の家に行くときはトラの顔を見るのが何よりの楽しみでした。 トラはトラで、利兵衛が魚を持って行商にやって来る頃になると、決まって勝手口の辺りでソワソワしながら待っているのでした。 「魚屋でござ~い!」利兵衛が勝手口から一声かけると、トラは真っ先に出迎えて、「ニャ~」とひと声あげて、利兵衛を出迎えるように鳴くのでした。 利兵衛の方もトラを見つけると、目尻も下がり、優しい笑顔で小魚を一匹差し出し、トラはゴロゴロと喉を鳴らして嬉しそうに魚を喰わえて行きます。そんな様子をいつも見ているこの家の女中が、利兵衛のお人好し振りをからかっても、利兵衛はいつも笑って照れるばかりでした。ある冬の日、利兵衛は流行りの風邪をこじらせて寝込んでしまいます。宵越しの銭を持たないのが江戸っ子の常で、貯えもなかった利兵衛。 せんべい布団に横たわり、空腹と何日も稼ぎのない心細さに、ぼんやり物思いに更けるうちに寝入ってしまいました。ちょうど寺の鐘が、暮れ六を打った時でした。あまりの空腹に利兵衛は目を醒まし、水で空き腹を満たそうと布団から這い出した時、指先に何か硬いものが触れます。 手に取って確かめてみると、それは2枚の小判でした。「有り難い!」自分が眠っている間にこんな2両もの大金を、いったいどこの誰が置いて行ったのか、利兵衛にはそんなことに気をまわすゆとりもありません。 利兵衛は小判を握りしめると、どうにか歩いて飯屋に入り、やっとのことで食事を口にできたのでした。数日後、利兵衛はなんとか元気を取り戻すことができ、商いの支度も整える事が出来ました。 利兵衛は早速、トラ猫の顔を思い浮かべながら喜三郎の家へと急ぎます。 勝手口まで来ると、利兵衛はトラ猫にやる小魚を手に持ち「魚屋でござ~い!」と声をかけました。すると、戸口から顔をだしたのは女中でした。 利兵衛は風邪をひいて伏せっていたことなどを女中に話ながらも、姿が見えない猫のことが気になり尋ねました。「ところで、・・・あのぅトラは?」すると女中は、眉に皺を寄せて利兵衛に耳打ちします。それは6日ほど前の出来事でした。 喜三郎が部屋に置いた小判が2枚盗まれる騒ぎ起こり、すぐさま主人は店の者から奉公人まで調べたのでしたが、金はとうとう出てこなかったというのです。 わずかな時間目を離しただけだったので盗人が入ったとは考えられず、そこで翌日、喜三郎はわざと部屋に小判を1枚置き、廊下隅の方から様子を見張りました。すると、そこへ現れたのはこの家のトラでした。 トラは、スーっと器用に障子を開けて部屋に入ると小判を口にくわえ、そっと部屋を出ようとしました。 「なんと、お前だったか!」普段は温厚な喜三郎でしたが、あまりに不審な猫の様子に、気味悪さも感じたのでしょう、思いあまって喜三郎は、その場でトラを斬り殺してしまったというのでした。驚いたのは利兵衛でした。「まさか・・・! そんな・・・」「もしや盗まれた金は2両じゃ?」そして女中に、利兵衛はある日の夜の出来事を話し、主人の喜三郎を呼んでくれるように頼みます。 直接、利兵衛から一部始終を聞いた利兵衛は、涙を流してため息を漏らしました。「そうでしたか・・・ トラの奴、可愛がってくれたお前さんの難儀を知って・・・ なんとかしようと思ったんだねぇ・・・それなのに私は、なんと可哀想なことを・・・」喜三郎は悔やみました。利兵衛は、使ってしまった2両の詫びをいい、必ず返すので待って欲しいと頼みました。すると喜三郎は利兵衛の手を握り、「それは無用にしようじゃないか・・・その代わり、どうかトラのことを忘れないでやっておくれ・・・」喜三郎の言葉に、利兵衛は泣きながら何度何度もうなずきました。その後、喜三郎は利兵衛を盛り立て、利兵衛は利兵衛で懸命に商いに専念して、やがて表通りに「魚寅(うおとら)」という店を構えたということです。 そして、文化13年(1816)、利兵衛はトラのために回向院に塚を建て、その菩提を弔ったそうです・・・
2005年10月04日
コメント(42)
牛鬼の伝説は、近畿の各地にも残っているようですが、 ここ熊野地方では海山、御浜などで語られていました・・・牛鬼その昔、奥熊野のとある小さな山村でのことです。村は、ここしばらく夜な夜な田畑を荒らされ、家畜や人にまで被害が続いておりました。そんなある日、村の炭焼きの五兵衛が、木立の中で化け物を見たと、血相をかえて逃げ帰って来ます。村の衆は、化け物を退治することにし、火縄や弓などを持って山奥へと入って行きました。 半里ほど入ったところに滝が見え、しばらく歩くと深い谷があり、化け物は谷に潜んでいるに違いないと思った村の衆は、ありったけの矢と玉を谷底めがけて討ち込みました。 すると谷底から、何やら神楽の笛が聞こえてくるので谷を覗くと、驚くことに見たこともない岩のように大きな牛が、山小屋を背負って這い登って来るのでした。 村の衆は、あまりの恐怖にとうとう逃げ出しました。 すると今度は雷鳴が轟き、大雨が彼等に襲いかかるのです。皆、大雨に打たれながら、命からがら逃げ帰りましたが、山を振り返ると空は晴れ渡り、雨の気配すらありませんでした。その夜、鶴吉という村の古老の枕元に、化け物が現れます。 その化け物は古老に牛鬼と名乗り、「我は山の神なり、もし山を敬い、山の掟を守るならば、村を守ろうぞ。」牛鬼は、そう言い終えると目の前から雲となって消えてしまったそうです。 古老の話を聞いた村の衆は、谷の上に小さな神殿を築き、牛鬼を祀って牛王神社と名づけました。 それからこの村には牛鬼は姿を見せず、豊作が続いたと言います。
2005年10月03日
コメント(26)
それは、自宅でクレヨンしんちゃんの劇場版を見終わった直後の事でした。ちょっと小腹が空いたので、何を思ったのか血迷ったのか? それとも何かに憑かれたのか? 私は高速道路を疾走して、二つの県を越え高松へGO~♪お目当ては、たった1杯の中華そば。この店との出会いは昨年の冬。 行きつけのお店というには余りにも遠い道のりですが、正真正銘の行きつけなのです。 鰹と昆布のダシがきいた深い味わいとコク、あっさり系塩味の透き通ったスープに、歯応えのある細麺がモー絶品。一度食べるとクセになり、代官的には二つ星。サタデーナイトの道中(暴挙?)のお供はマイルス・デーヴィスのメロウな、トランペット。 自宅に戻ったのは明け方5時頃でした・・・(疲れて死にそう)冷静に考えてみると、高速代とガソリン代を考えれば・・・なんとも高価なラーメン・・・ここまで食い意地が張れば、それはもう限りなく武勇伝に近いって? アリガトウ!「大正そば」 高松市太木町3-1849-3 営業時間18:00~02:00 定休日は月曜月曜。
2005年10月02日
コメント(20)
紀州の南端に位置する妙法山には、黄泉の国への入口があり、死者の霊魂が集まる山として信仰を集めています。 妙法山 阿弥陀寺は、この山に弘法大師が開いた寺です。亡者の一つ鐘熊野では、古くから集落に死人が出ると、夜更け頃、死者の霊魂が枕元のシキミを持って妙法山に飛んで行き、手に持ったシキミの枝で寺の鐘楼の鐘を一つ鳴らして、黄泉の国へと旅立って行くと言われています。阿弥陀寺の奥の院の辺りには、死者たちが鐘をついて、旅立つ際に残したシキミが根づいて群生しているため、妙法山は別名をシキミ山とも呼ばれています。今でも、周辺の家々で死人が出ると、身内の者が一つ鐘を鳴らして、死者を送る風習が残されています。 いにしえの言い伝えによれば、熊野詣の際には熊野古道から富士山が見えたと言われていました。 また、地元の山師のあいだでも妙法山からは富士山が見えると言われていました。 実際、1997年1月には妙法山から富士山が撮影されています。1999年元旦には、日本テレビの「ズームイン朝」でもこの話題が取り上げられ、322.6km先の富士山の映像が放映されました。このシリーズは不定期で続きます。
2005年10月02日
コメント(23)
ゴーライ、カシャンボは・・・ ともに河童のことを指す、熊野地方の呼び名です。 これは、現在の和歌山県 西牟婁郡 富里に残された民話です。カシャンボゴーライは、夏には川の中に棲み、溺死者の肛門から尻子玉を抜くと伝えられています。 ゴーライは、秋から冬にかけての頃には、川から上がって山中に入り、カシャンボになるといわれます。 カシャンボは、馬の荷積みを邪魔したり、夕暮れに樵(きこり)たちを道に迷わせたり数々の悪戯をしたそうです。 今でも、熊野地方の林業従事者はお昼の弁当を全部食べず、少し残しておくそうです・・・つづく・・・
2005年10月01日
コメント(24)
最近、めっきりと夢が欠乏症の悪代官45才、せめてバトンでも良いからと、K&Non様より、わけて頂いた夢バトンです。夢は夜ひらく? 代官の夢は幻? それとも妄想?Q1,小さい頃、何になりたかった?大納言! (小豆かお前?)Q2,その夢は叶いましたか?ほんの少~し、お勉強するにつれ、小学1年生にして夢は儚く消えました・・・(当たり前だろ!)それでも今は、「妖怪小豆洗い」くらいには成れました・・・(確かになったかも!)Q3,現在の夢は?両親が生きている間に、悪代官一族の御家再興を謀ること。 (謎)Q4,宝くじ3億円当たったら?ブログのお仲間の有志募って、きび団子食べながら隊商組んで、いざシルクロードの旅へ! (先生、お注射!)Q5,あなたにとって夢のような世界とは?商店街の因業米屋が回覧板に判子ついて。。。今、やたらに賑わう五つ星の餃子屋と、焼肉屋「三八」のエロおやじが戒心して。。。悪代官は町はずれの砂場のチンピラ束ねて、砂の上にわくわく植物ランドを建設し、初代国王陛下に。 (意味不明!)Q6,昨晩見た夢は?もしかすると今が夢の世界で、目覚めれば現実は億万長者なのかも・・・(重度の妄想!)Q7,この人の夢の話を聞いてみたいという5人は?有志はどうぞ! (やはりバトン殺し!)お粗末でございました! m( _ _; )m
2005年10月01日
コメント(16)
全38件 (38件中 1-38件目)
1