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マルク・ローテムント「ぼくとパパ、約束の週末」キノシネマ神戸国際 一日前に、同じ映画館で「対外秘」という韓国映画を見たのですが、その時「ああ、そうだ、これ見なくっちゃあ!」 と思い出して、今日はお父さんと少年のサッカー見物の話にやって来ました。少年とオバサン(グロリア)、少女とオネーさん(ルート29)、少女とオジサン(レオン)、弟とオニーチャン(お早う)、まあ、要するに子供が出てくる話が好きなようですねボクは(笑)。 で、今回はマルク・ローテムントというドイツの監督の「ぼくとパパ、約束の週末」でした。 所謂、アスペルガー症候群の少年ジェイソン君とパパのミルコさんがドイツ中のサッカー・スタジアム、とどのつまりはラトビアですから、国境を越えていますが、リガという町のスタジアムまで出かけて行ってサッカーの試合を観戦するという作品ですね。 まず、映画が語る物語とは別に、次々と映し出されるドイツのサッカースタジアムの臨場感、応援歌とか観客の盛り上がりとかがちょっとカンドー的でした。 それから、環境汚染にこだわるジェイソン君に気遣って、ずっと列車の旅なのですが、ヨーロッパの特急列車、それがまたいいですね。 で、お話です。「触られること」、「大きな音」、「ルーティンから外れるできごと」、「協調すること」、みんなダメな少年ですから、学校で友だちと一緒になってサッカーなんてとても出来ないジェイソン君が、どうして、週末ごとにサッカー観戦なんてことになったのか、まあ、そのあたりは見ていただくほかないのですが、まだ赤ん坊の妹と自閉症のジェイソン君という二人の子育てに疲れ果てたママが、仕事を理由に子育てをママに任せっぱなしのパパに迫ったことが、多分、一番大きな理由のように見えましたが、なにはともあれ、パパとジェイソン君との旅 が始まります。 ママもそうなのですが、ジェイソン君と一緒に旅するパパは、電車の中での大騒ぎから、大観衆の中でパニックになるジェイソン君を身を挺して守ります。映像ではコートで抱えこむ姿が印象的です。 でもね、とうとうくたびれ果てちゃうんです。そりゃあ、そうですよね。親だからといってジェイソン君の頭の中はわからないんですから。 先ほどリガといいましたが、実はリガでは試合を見ません。なぜって、ここまでやってきて、とうとうパパとジェイソン君は決裂しちゃうんですね。 で、どうなるか? ここからは勝負ですよね。 まあ、ボクなりの解釈なのですが、ここまでずっと、親だからというので、後ろからかばっていたパパは、ジェイソン君の正面に立つんです! いや、実に納得でした。 で、ジェイソン君は初めて、パパを自分とおなじ「人間」として認めるんです。パパが頼れるやつだとわかるんです。 ジェイソン君の正面に立ったパパの勇気と、それを理解したジェイソン君に拍手!ですね。 映画の中には学校の先生も出てきますが、教員とかしているとジェイソン君のような少年や少女と出会うことがあります。気づかないまま別れる場合もあったのでしょうが、気づいたときに、彼らの正面に立って話すことの難しさは、彼らのせいではなくて、ボク自身のせいだという経験を繰り返してきました。パパが、この記録をネットに載せたことに胸打たれました。拍手!ですね(笑)監督 マルク・ローテムント原作 ミルコ・フォン・ユターセンカ ジェイソン・フォン・ユターセンカ脚本 リヒャルト・クロプ撮影 フィリップ・ペシュロー編集 ハンス・ホルン音楽 ジョニー・クリメック ハンス・ハフナーキャストフロリアン・ダービト・フィッツ(ミルコ:パパ)セシリオ・アンドレセン(ジェイソン:少年)アイリン・テツェル(ファティメ:ママ)ヨアヒム・クロール(ゲルト:祖父)ペトラ・マリー・カミーン(マヌエラ:祖母)2023年・109分・G・ドイツ原題「Wochenendrebellen」英題「Weekend Rebels」2024・11・23・no152・シネマ神戸国際no18追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.11.27
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パブロ・ネルーダ「ネルーダ詩集」(海外詩文庫14・田村さと子訳・思潮社) イル・ポステイーノという映画を見ました。で、映画の中のマリオという登場人物が「詩」と出会うシーンを見ながら、何となくネルーダの詩句が浮かびました。ボクは、今日、案内している、この思潮社版の「ネルーダ詩集」しか知りませんが、帰ってきて棚にあったこの詩集を、まあ、パラパラと読み直しました。 で、映画の主人公の郵便配達人マリオが恋をして、詩的なセリフを口走る様子に重なるのはまずこの詩でした。詩 La poesiaその年齢だった・・・・詩がわたしを探しにきたのはどこからやってきたのかは わからない冬からきたのか 川からきたのかどのようにしてか いつだったのかも わからない声でもなかったし ことばでも 沈黙でもなかっただが わたしは呼びかけられたのだ街角から 夜の枝々から突然 さまざまなもののあいだから燃えさかる火のあわいからあるいは ひとりで帰宅しているときそこに 貌がないままいてわたしをさわったのだわたしはなんていっていいかわからなかったわたしの口は名づけられなかったのだわたしの目は盲いだったしかし なにかがわたしの魂をノックしていた熱病 あるいは 失くした翼かがそれから わたしは孤独を好むようになりあの熱傷の謎を解きあかそうとそして 最初のとりとめのない一行を書いたぼんやりとした 肉体のないまったくつまらないことなんにも知らない という完璧な学識それから わたしは ふと見上げたほどけてひろびろとした天空を惑星鼓動うつ大農場矢や 火や 花々によって穴だらけの闇圧倒する夜 宇宙そしてわたしは ちいさな存在神秘のイメージにもにた星でおおわれた大きな空間に酔いしれながらわたしが深淵の純然たる一部だと感じ星々といっしょに転がり落ちてしまった風の中で わたしの心は解き放たれていた 映画を見たことのない人には、何をいっているのかわからないと思いますが、マリオという、実にどんくさい郵便配達の青年がベアトリーチェという笑顔のとても素敵な女性に、まあ、一目ぼれというストーリーなのですが、ああ、マリオに詩がやってきたんだ とボクは感じたのですね。 で、そこから、彼の口走る言葉で記憶に残ったのが「君のほほえみの蝶」だったのですが、それはこの詩のイメージですね。二十の愛の詩と一つの絶望の歌十五黙っているときのおまえが好きだ うつろなようすで遠くで おれに耳を傾けているのに おれの声はおまえに届かないおまえの目はどこかに飛び去ってしまったのようだ一度のくちづけが おまえの口を閉じさせてしまうかのようだあらゆるものは おれの魂でみちているのでいろんなものからおまえは浮かびでてくる おれの魂でみちて夢の蝶よ おまえはおれの魂に似ているそして メランコリーということばに似ている黙っているときのおまえが好きだ ひっそりしていて嘆いているようで 甘くささやく蝶よ遠くでおれに耳を傾けているのに おれの声はおまえに聞こえないおまえの沈黙で おれを黙らせてくれないかおれも ランプのように明るく 指輪のように素朴なおまえの沈黙で おまえに話しかけさせてくれないかおまえは 星をちりばめた静かな夜のようだおまえの沈黙は はるか遠くにある素朴な星のものだ黙っているときのおまえが好きだ うつろなようすで息絶えたかのように かなたにいて いたいたしくてそんなときは ひとつのことばと微笑みだけでいいすると おれは楽しくなる 楽しくなくても楽しくなる そして、とどのつまりは、ベアトリーチェのおばさんが、マリオの詩の師匠だとネルーダに苦情を言ってくるシーンがあるのですが、そこで「裸がどうだとか、みだらな言葉を口にしてうちの姪っ子を口説いている!」とくってかかるとネルーダが「それはメタファーだ」 と答えます。すると、「そうだ、メタファーが悪い!」 というようなトンチンカンな会話になって、かなり楽しいのですが、浮かぶのはこの詩ですね。100の愛のソネット裸のあなたはあなたの手のように簡単です:滑らかで、陸上で、最小で、丸く、透明です。あなたは月の線、リンゴの道を持っています。あなたは裸で、裸の小麦のように薄いです。裸のあなたはキューバの夜のように青いです:あなたは髪の毛にブドウと星を持っています。裸のあなたは丸くて黄色です黄金の教会で夏のように。裸のあなたはあなたの爪の一つと同じくらい小さいです:日が誕生するまで曲線、微妙、ピンクあなたは世界の地下鉄に乗る長い衣装と仕事のトンネルのように:あなたの明快さは消え、ドレス、枯葉剤そして再びそれは裸の手です。 ネルーダは1973年に祖国チリでなくっています。映画が作られたの、彼の死後20年くらいたった後なので、監督たちは彼の詩についてはよく知っているはずですね。 というわけで、「裸の」とか「蝶」とかいう、まあ、隠喩的表現、メタファー(笑)が映画の中に出てきても不思議はありませんが、映画のお話の時代は1950年代の前半ですから、果たして、ネルーダの詩句に「蝶」はすでに出てきていますが、「裸の」が出てきていたのかは確かめてはいません。 まあ、それはともかく、読み応えのある詩集ですね。 思潮社の作家紹介と訳者紹介を下に貼っておきます。ちなみに、訳者の田村さと子という方は、和歌山県の新宮高校で中上健次と同級生だったそうです。ネルーダ,パブロNeruda,Pablo1904年チリのパラル生まれ。チリ大学在学中に出版した『二十の愛の詩と一つの絶望の歌』により、中南米の有望な詩人として認められる。27年外交官となり、34年赴任したスペインでロルカ等と親交を結び、内戦では人民戦線を支援して『わが心のスペイン』を書く。45年上院議員に選出され、共産党に入党。48年独裁色を強める大統領を非難、逮捕命令が出たため地下に潜伏しながらアメリカ大陸の文化、地理、歴史、世界の階級闘争を包含する一大叙事詩『おおいなる歌』を執筆。49年亡命、52年帰国。70年世界初の民主革命政権の樹立に尽力、同政権下のフランス大使として赴任。71年ノーベル文学賞受賞。癌のため、帰国し療養中の73年9月、クーデター勃発、軍部監視の下、死去。伝統詩、ヘルメス主義、シュールレアリスモ、プロパガンダなど多彩な主張とスタイルが混在する豊かでスケールの大きな作品群により、20世紀最大の詩人と評価されている。田村さと子1947年和歌山県生まれ。2020年逝去。メキシコ国立自治大学、マドリード大学留学後、お茶の水女子大学で学術博士号(Ph.D)。スペイン王立アカデミー・チリ支部、チリ言語アカデミー外国人会員。著書に『イベリアの秋』(現代詩女流賞)など 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.11.26
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マイケル・ラドフォード「イル・ポスティーノ」シネリーブル神戸 30年前のイタリア映画、「イル・ポスティーノ」を見ました。監督はマイケル・ラドフォードという、インド生まれのイギリス人のようです。正確には1994年の映画で、近頃はやりの4K・デジタル・リマスター版とかです。 祖国、チリを追われ、イタリアのカプリ島というところに亡命してきたパブロ・ネルーダという、後にノベール文学賞を受けた詩人と島の郵便配達の青年の物語でした。 久しぶりにチッチキ夫人との「同伴鑑賞(笑)」でした。「どう?よかったな。」「やっぱり、私、こういうイタリア映画がいいわ。」「監督イギリス人らしいけど。」「あら、そうなん。でも、これはイタリア映画やん。」「うん、海も自転車もな。」「酒場のおばちゃんがええやんか。裸とか、みだらなこというって。怒ってはって。」「メタファーでかどわかすなやな。」「最初、こんなどんくさそうな人がどうすんのって思ってたのに、やるもんやね。」「メタファーのおかげな(笑)。」「映画に出てくる人、みんな差別せえへん感じやったやろ。平等の目線いうか。そこが一番やったわ。」「主人公した人、ホントに病気で映画が発表される前に亡くなったらしいで。」「ふーん、そうなんや」「ネルーダ役はシネマパラダイスのおっちゃんやったやん。」「ほら、やっぱりイタリア映画やん。」 イヤァー、二人ともご機嫌ですね この作品の舞台は、史実に照らし合わせるなら、ネルーダが亡命してイタリアにやってきたのが1951年のことですから、今からだと70年、映画制作時だと50年以上昔の、イタリアのナポリ湾だかのカプリ島という、地中海に浮かぶ貧しい島です。 しかし、風采の上がらない郵便配達の青年マリオ君が、よくぞ、こんな笑顔の女性を見つけたものだといいたくなるような素晴らしい笑顔の居酒屋の娘ベアトリーチェと出会ったところから時代を越えていきます。 ネルーダに「詩」という詩がありますが、その始まりにこんな詩句があります。 その年齢だった・・・・詩がわたしを探しにきたのはどこからやってきたのかは わからない そうなんです、映画では恋するマリオに詩がやってきてしまった! です。で、その結果、映画は時代を超えます。「メタファーとか言うふしだらなものが、うちの娘をかどわかしている。これはアンタの責任だ!」 とか何とか、居酒屋のおばさんがネルーダに迫るシーンなんて、もう、拍手喝采!の気分でした。 今、マリオが生きている世界の「美しいもの」。それは、赤ん坊の心音であり、さざなみであり、青空であるわけですが、それを、詩へ導いてくれた親友であるネルーダへ伝えようと、録音しようと追いかけ続けます。で、それこそが「世界への愛」のメタファーである! と見ているボクに教えてくれたマリオのあっけない死を伝える映画の結末に目を瞠りました。すばらしい! の一言ですね(笑)。 世界をこんなふうに素朴で穏やかで哀切に、且つ、美しく描いた映画と出会えたことに驚きました。拍手! 映画に出てきたネルーダの詩について別に読書案内したいと思います。監督・脚本 マイケル・ラドフォード音楽 ルイス・エンリケス・バカロフ撮影 フランコ・ディ・ジャコモ編集 ロベルト・ペルピニャーニキャストフィリップ・ノワレ(パブロ・ネルーダ:亡命詩人)マッシモ・トロイージ(マリオ:郵便配達人)マリア・グラツィア・クチノッタ(ベアトリーチェ:食堂のオネエサン)リンダ・モレッティ(ローザ :ベアトリーチェのおばさん)アンナ・ボナイウート(マチルデ:ネルーダの妻 )1994年・107分・G・イタリア・フランス合作原題「Il postino」英題「The Postman」2024・11・19・no150・シネリーブル神戸no281追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.11.25
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「三島といえばウナギ!だそうです。」 徘徊日記 2024年10月20日(日)三島あたり その4 富士の湧水で有名な柿田川湧水群を見物した四人組の、本日最後の目的地は「うなぎ」だそうです。「ここからなら歩いて行けそうやからね。ウナギ屋に行きましょう。」「どっち?」「あっち。」 指差される方向が、どっちなのかわかりません。実はシマクマ君は、北には山、南には海が、かならず見える街で日々暮らしています。 で、三島大社の鳥居前からタクシーに乗ったあたりから、自分の今いる場所がわからないという日ごろ経験しない、まあ、土地勘ゼロなわけで当然ですが、不思議というか、不安というかにとらわれていたのですが、まっ、いっか という気分で歩き始めました。 30分ほども歩いたでしょうか、なんだか繁華な場所にやって来ました。道ばたの看板に気を取られて写真を撮っていると「なんの写真撮ってんの?!」「なんか、凄くないですか、ここ?」「寄りたいの?夜にならないとやってないよ。」「美魔女パブですよ。ここだけの話ですよ。ここって三島ですよ。」「はいはい、先に行くよ」 どんどん繁華になっていって、人通りがふえてきました。行き交う人がヘンな格好をしています。 駅が見えてきました。「三島広小路」だそうです。伊豆箱根鉄道だそうです。始発の三島駅から二つ目の駅のようです。時刻表と路線図を見ると伊豆半島の西側、修善寺というところまで行けそうです。修善寺といえば夏目漱石ですねえ。一度は、行ってみたいな。 半島とか岬とか好きなのですね(笑) 三人を探すと、駅横の踏切りの向う、行列のあるお店の前で待っていました。桜屋さんというお店のようです。「ここや。」「えー、すごい行列ですやん。」「まあ、折角やし、並ぼうか。」 お店の前に行列整理のオジサンがいらっしゃって、名前を書けば並ばなくてもよいそうです。 実は、シマクマ君は「うなぎ」を専門のお店で食べるのも、食べ物に限らず店前の行列に並ぶのも人生初体験でした。 その上、さっきから、このあたり、お店の前の通りを行きかう人が皆さん変装というか、コスプレというかなので「なにごと?」 と訝しんでいると、「今日はハローウィン祭りだから。」 と行列の人の話し声が聞こえてきて、ようやく納得というか、「なにそれ?」というか、だって、ここは三島ですよ(笑)。で、ハローウィンですからねえ。 お店の横に小川が流れていて、その奥に小さなお社がありました。三石神社というそうです。ザンネンながら神社の名前の石柱は撮り忘れました。 境内に人はいません。まあ、折角ですからお参りです。 何だかスゴイ鐘撞堂です。 鐘撞堂の下でたむろしていらっしゃるのはサクラ屋さんの行列というか、順番を待っていらっしゃる方たちです。 小一時間、あたりをうろうろして時間をつぶして、人生初うな重!でした。 そのことを口にすると、まあ、三人からは呆れられたりもしたんですが、うな重の注文が、一匹、二匹、というのに驚きました。当たり前のことながら、さすが評判の名店、おいしくいただいて、もちろん写真は撮り忘れて(笑)、さて帰り道です。 広小路駅から、一駅ですけど、伊豆箱根鉄道初乗車! 三島駅で東京組のMさんとお別れして、三人は西に向かって新幹線です。 車内ではこの前まで総理大臣をしていた人が、警備の人だかを引き連れてトイレに行くのとすれ違ったりしました。こういうのも初めてですね。 新大阪でM君とN君のお二人ともお別れして新神戸です。 富士霊園、三島市内、二日にわたる徘徊旅行記、これで終わりです。ご一緒させていただいた方々とも、もう、お出会いすることもなくなるのかもしれません。 旅の目的が亡くなってしまった先生ご夫妻のお骨納めだったわけですからいろんな方々とのお別れになるのは致し方ありませんね。皆さま、楽しい旅、ありがとうございました。にほんブログ村追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです
2024.11.24
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イ・ウォンテ「対外秘」キノシネマ神戸国際 サンデー毎日のいい身分で、することがないので映画館徘徊を始めて7年くらいたちました。通算すると、そろそろ600本ぐらい見たことになります。20代の学生時代から30代のはじめくらいには、そこそこの映画狂いだったものの、1990年代から2010年代の30年間ほとんど見ていないということもあって、普通の映画好きの方とは話が合いません。読書でも映画でも、まあ、質より量に傾くタイプなので、自分の、本当のところの好みもよくわかっていないのですが、2024年の秋の時点では、なにはともあれ、ここのところ「なんだ、これは!」 と面白がっている韓国映画を見て、韓国小説を読もう。という気分です。 で、目に付いた新作には出かけることにしていますが、今回見たのはイ・ウォンテという監督の「対外秘」でした。「対外秘」ってなに? ですが、要するに、都市計画に関する公的な内部文書のことでした。公開される前に知って、こっそり土地とか買えばお金が儲かるという、あれです。 地元への利益誘導を叫んで国会議員とかになろうとしている人物。で、そういう議員さんとかになりたがる人物たちから「センセー」とか呼ばれている黒幕というか、フィクサーというかの人物。利益誘導にからんで寄ってくるヤクザや、ヤクザまがいの不動産業者。まあ、そういう人たちの「お金儲け」をめぐるお話でした。 アメリカあたりでも、2000年になったころから、所謂「公共性」が、真っ向から批判され、社会全体における「エゴイズム」というか、私的な利益誘導を正当化する風潮が、露骨に表面に出てきていて、たとえば、まあ、トランプみたいな人が大統領になったりしているわけですが、おそらく、中国とか韓国とかのアジアの諸国、もちろん日本も含めて、そういう社会へ向かいつつあることに対することを予感して作られている映画だという気がしました。 主要登場人物は「悪人」ばかりで、最終的に、悪人性が否定されていない! まあ、冷笑という感じなのが、この映画の特徴で、ボクが唸ったところです。映画が描く欲望追及形態が、選挙がらみの話ということもあって、少し古いのですね。なんだか、70年代の終わりころの日本のヤクザ映画みたいな空気がありましたが、設定が90年代くらいで、軍事独裁から民主化へのプロセスを撮った作品ではあるのですが、やっぱり、これは韓国の現代映画なのですよね。 ボク自身は、そういう世界にほとんど関心がありませんし、私的な利益誘導に奔走したあげく、自己肯定するタイプのものの考え方自体が嫌いですから、見終えて「アホか!」 なのですが、映画製作者の意図が、状況報告=こんなもんやで、なのか、状況批判=これでいいのか!なのか、どのあたりにあるのかということだけは気になりました。ボクが見る限り「こんなもんやで!」だった気がするのですが(笑)。 アメリカではトランプの伝記映画が出来ているそうで、近々、日本でも公開されるようですが同じ意味で、少し興味がありますね。 まあ、それにしても疲れる話でした(笑) 監督・脚本 イ・ウォンテ原案 イ・スジン撮影 キム・ソンアン編集 ホ・ソンミ チョ・ハヌル音楽 チョ・ヨンウクキャストチョ・ジヌン(へウン)イ・ソンミン(スンテ)キム・ムヨル(ピルド)ウォン・ヒョンジュン(ハンモ)キム・ミンジェ(ムン本部長)パク・セジン(ソン記者)キム・ユンソン(パク課長)ソン・ヨウン(サンミ)2023年・116分・G・韓国原題「対外秘」英題「The Devil's Deal」2024・11・22・no151・キノシネマ神戸国際no17追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.11.23
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笠井千晶「拳と祈り 袴田巖の生涯」元町映画館 東京のほうで先にご覧になった方から勧められて見ました。実は、この映画が撮っている袴田事件について、冤罪事件であるらしいという、その経緯というか大筋というかについて、かなり昔に関心を持ったことがありましたが、忘れていました。 今回、見たのは笠井千晶という監督が、2024年9月26日の再審無罪という判決を機に公開した「拳と祈り 袴田巖の生涯」というドキュメンタリー映画でした。 映画は2014年、東京拘置所から釈放された袴田巌さんが乗る自動車のシーンから始まりました。そこから、彼自身と彼の無実を信じ続けてきたお姉さんの袴田秀子さんの生活が映し続けられていますが、ボクの脳裏に刻まれたのは彼の歩く姿!でした。 はじめは、故郷、浜松に帰ってきて暮らし始めた秀子さんのマンションの部屋の中でした。部屋から外に出ることが出来ない袴田巌さんは、部屋から部屋へ、行ってはかえり、また、行ってはかえり、歩き続けます。 やがて、なんとか外に出られるようになると、帽子をかぶり少し猫背で、がに股、半歩づつ前に進むかのようによちよち歩き続けます。その、袴田巌さんの後をカメラがついて歩き、彼の後姿を撮りつづけます。 ボクは、その後姿に見入りながらことばを失いました。 目の前のスクリーンを歩いているその男は80歳を越えていて、まだ、死刑囚なのでした。 で、死刑囚の姉という境遇を58年間生き抜き、弟の無実を信じ続け、ついには弟の冤罪を晴らした袴田秀子という女性の笑顔に圧倒されました。最後に「もう、死刑囚じゃないよ。」 と弟さんに笑いながら語りかけられた時、彼女は90歳でした。 言葉を失うとはこういうことですね。正直、全編を見終えた今も言葉を失ってしまっている映画でした。 ボーっとして見るしかない映画の迫力ということに思いを致すならば、このお二人の生活をカメラとマイクをを持って20年以上もの年月、徹底的に追い続けた笠井千晶という監督にも唸るような気持ちがこみ上げてきます。 繰り返しになりますが、見ているあいだも、見終えた後も、なんと言っていいかわからない、なにを言えばいいのかわからない、ただ、浮かんでくるのは彼の後ろ姿なのですが、その後姿をボンヤリと思い浮かべながら、人間という生き物がこの世に生まれて生きるということがどういうことなのか? ボクも、もちろん、その一人であるところの人間というものについて、漠然とした思いが浮かんでくるのでした。 帰ってきて、2024年10月8日の検察庁の控訴断念の記事をネット上で探しました。そこで検事総長が語っていることを読んで、唖然としました。ボクが読んだNHKの記事の一部を写してみます。 本判決では、いわゆる「5点の衣類」として発見された白半袖シャツに付着していた血痕のDNA型が袴田さんのものと一致するか、袴田さんは事件当時鉄紺色のズボンを着用することができたかといった多くの争点について、弁護人の主張が排斥されています。 しかしながら、1年以上みそ漬けにされた着衣の血痕の赤みは消失するか、との争点について、多くの科学者による「『赤み』が必ず消失することは科学的に説明できない」という見解やその根拠に十分な検討を加えないまま、醸造について専門性のない科学者の一見解に依拠し、「5点の衣類を1号タンク内で1年以上みそ漬けした場合には、その血痕は赤みを失って黒褐色化するものと認められる」と断定したことについては大きな疑念を抱かざるを得ません。 加えて、本判決は、消失するはずの赤みが残っていたということは、「5点の衣類」が捜査機関のねつ造であると断定した上、検察官もそれを承知で関与していたことを示唆していますが、何ら具体的な証拠や根拠が示されていません。 それどころか、理由中で判示された事実には、客観的に明らかな時系列や証拠関係とは明白に矛盾する内容も含まれている上、推論の過程には、論理則・経験則に反する部分が多々あり、本判決が「5点の衣類」を捜査機関のねつ造と断じたことには強い不満を抱かざるを得ません。 このように、本判決は、その理由中に多くの問題を含む到底承服できないものであり、控訴して上級審の判断を仰ぐべき内容であると思われます。 しかしながら、再審請求審における司法判断が区々になったことなどにより、袴田さんが、結果として相当な長期間にわたり法的地位が不安定な状況に置かれてきたことにも思いを致し、熟慮を重ねた結果、本判決につき検察が控訴し、その状況が継続することは相当ではないとの判断に至りました。 語っている人は自分を何様だとお考えなのでしょうかね。 検察がしなければならないことは、まず、裁判においては一人の人間を死刑にするに十分な説得力を持ちうる証拠物件を示すことであり、その証拠物件の正当性を証明することですね。で、もしも、その証拠について捜査過程での捏造が裁判所に疑われたのであれば、その疑いを晴らすことだとボクは思いますが、エライ人たちというのは自分は振り返らなくてもいいようにできているのですね。 「無実」の人間を68年間も「死刑囚」として、まあ、法的地位だか何だか知りませんが、取り扱ってきたことについてどう考えていらっしゃるのですかね。 映画の中で、袴田巌さんが「検察庁」という看板を見て「ここには用がないから帰る。」 といって、踵を返されたシーンがありましたが、そこには誰も笑うことのできない袴田巌という一人の人間の人生の姿を、ボクは感じたのですが、彼を死刑囚として「取り扱った」人たちは、そのあたりについてどんなふうにお考えなのでしょうね。 描写されている世界に圧倒されて、どうしていいのかわからないのですが、やっぱり拍手!ですね。すごい作品でした。監督・撮影・編集 笠井千晶整音 浅井豊音楽 スティーブン・ポッティンジャーナレーター 中本修 棚橋真典タイトル題字 金澤翔子キャスト袴田巖袴田秀子2024年・159分・G・日本2024・11・18・no149・元町映画館no267追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.11.22
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谷川俊太郎「はだか 谷川俊太郎詩集」(佐野洋子絵 筑摩書房)「さようなら」谷川俊太郎ぼくもういかなきゃなんないすぐいかなきゃなんないどこへいくのかわからないけどさくらなみきのしたをとおっておおどおりをしんごうでわたっていつもながめているやまをめじるしにひとりでいかなきゃなんないどうしてなのかしらないけどおかあさんごめんなさいおとうさんにやさしくしてあげてぼくすききらいいわずになんでもたべるほんもいまよりたくさんよむとおもうよるになったらほしをみるひるはいろんなひととはなしをするそしてきっといちばんすきなものをみつけるみつけたらたいせつにしてしぬまでいきるだからとおくにいてもさびしくないよぼくもういかなきゃなんない 詩人の谷川俊太郎が亡くなったそうです。2024年の11月13日のことだそうです。 11月19日、月曜日の朝起きるとチッチキ夫人が寝ぼけまなこのボクにいいました。「谷川俊太郎がなくなったって。」 で、その日のフェイスブックで、友達が詩人の死を悼んでいました。谷川俊太郎さん「さようなら」ですね。 谷川俊太郎が、もう、30年以上も昔にだした「はだか」(筑摩書房)という詩集をチッチキ夫人が大切にしていたことを思い出しました。 上の写真が、箱装の外箱です。で、これが中の姿です。醜いかもしれませんが、何かの包み紙でカバーしてあって、真ん中にはだかと谷川俊太郎という文字が赤エンピツで書かれています。 ホコリを払って「はい、これ。」といって渡すと「ぼくもういかなきゃなんない、でしょ。」「うん、挿絵は佐野洋子さん。彼って、いったさきで大変ちゃうの?」「そうねえ、少なくとも三人は確実に待ってるからねえ(笑)」 で、これが皮をむいた姿。 美しい詩集ですね。1988年の出版です。挿絵は佐野洋子さん、装幀は平野甲賀さん、最初の詩が「さようなら」です。懐かしいですね。 で、これが、この詩集のオシマイの詩「とおく」のページの写真です。 佐野洋子さんの挿絵ですね。読めますか?読みにくいので、詩は書き写しておきますね。とおくわたしはよっちゃんよりもとおくへきたとおもうただしくんよりもとおくへきたとおもうごろーよりもおかあさんよりもとおくへきたとおもうもしかするとおとうさんよりもひいおじいちゃんよりもごろーはいつかすいようびにいえをでていってにちようびのよるおそくかえってきたやせてどろだらけでいつまでもぴちゃぴちゃみずをのんでいたごろーがどこへいっていたのかだれにもわからないこのままずうっとあるいていくとどこにでるのだろうしらないうちにわたしはおばあさんになるのかしらきょうのこともわすれてしまっておちゃをのんでいるのかしらここよりももっととおいところでそのときひとりでいいからすきなひとがいるといいなそのひとはもうしんでてもいいからどうしてもわすれられないおもいでがあるといいなどこからかうみのにおいがしてくるでもわたしはきっとうみよりももっととおくへいける 「うみよりももっととおく」へ行ってしまった谷川俊太郎の声が、やっぱり聴こえてくるようですね。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.11.21
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荒勝俊「日本狛犬大全」(さくら舎) 徘徊暮らしを始めて7年ほどたちました。自宅を出るときはホンダのスーパーカブです。で、最寄りの駅の駐輪場に止めて電車に乗ります。JRの神戸線です。いや、本当は山陽本線と呼ぶのが正しいのかもしれませんね。垂水駅から電車で出発です。で、まあ、気が向いたところ降りて歩き始めます。元町駅あたりで降りて、映画館を目指して、というのが一番普通のパターンです。 で、最寄りの駅から歩き始めて、小さな神社の境内とか小さな公園、JRの高架下、時には道端とかで座っておにぎりとかを食べたりタバコを吸ったりします。もちろん、お茶は自宅から持参したペットボトルが必須です。寒くなると保温水筒にコーヒーがある場合もあります。 徘徊ですから、道端も、格別、苦にすることはありません。神社に立ち寄る時には、まあ公園とかでもですが、写真を撮ることがあります。神社の場合の場合の被写体はたいてい狛犬です。 あの、狛犬に共通した、「やる気」があるようで、実は「やる気」が固まってしまっているように見える、まあ、たいがい石ですから固まって当然なのですが、なりというか、風情が好きなんです。 で、市民図書館の新入荷の棚にこんな本を見つけました。「日本狛犬大全」(さくら舎)です。狛犬の図鑑です。世の中には狛犬が好きな人がいるのですね。著者の荒勝俊という人は、早稲田の理系、バイオなんちゃらの教授らしいのですが、まあ、すきがこうじてということだと思いますが、すでに、同じさくら舎というところから「江戸狛犬図鑑」という、文字通り図鑑を出版されているようです。ほとんど研究者です(笑)。 ページを繰ると、狛犬の解説があって、北は北海道から南は沖縄まで狛犬の所在神社、写真、および解説です。 何が面白いといって、みんな違う顔なのです。狛犬といえば、一応、対で座っていて、それぞれが「阿」と「吽」という口の形をしているものだと思っていました、そうと決まったわけでもなさそうです。動作には、型はあるようですが、一匹というか一頭というか、それぞれの個性が溢れていて写真を見ているだけで笑えます。 適当に開いたこのページは山梨県です。見にくいかもしれませんが、かなりユニークというか、個性があるというかですね。山梨とか長野の狛犬は、この図鑑を見る限りやる気のかたまり方に独特の愛嬌があって、とりあえず、一度お出会いしたい! という気になりますね。こういうのが近所にいると思うと、徘徊も精が出ますよね(笑)。 ちなみにこちらが兵庫県です。何と地元の海神社の子連れ狛犬が出ています。もちろん、知っていますが、チョット嬉しいですね。 とりあえず、神戸市内の狛犬探索徘徊を始めるしかありませんね。東灘から西区まで、ウロウロして、どれくらいの狛犬さんと出会えるんでしょうね。そういえば、北区もありますよね。そう考えると、神戸市は広いですね(笑)。まあ、そうはいいながら、そのうち狛犬写真帳かなんかを、このブログに載せ始めるかもですよ。がんばります!(笑) 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.11.20
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「三島市の柿田川公園って知ってました?」 徘徊日記 2024年10月20日(日) 三島あたり その3 三島市を徘徊しています。駅前のホテルを出発して三島大社、それから三島暦師の館と、ウロウロして三島大社の鳥居の前からタクシーです。「あんな、シマクマ君、三島に来たらこれを見ないと、という場所が柿田川公園やねん。」「何、それ?来たことあるんですか?」「うん、学生時代の友だちと箱根を散策して、連れてきてもらった。」「その友だちって、やっぱり…」「いや、男性やで。」「えー。いつもと違ますやん。で、なにがあるの?」「富士の湧水や。」 で、到着したのが柿田川湧水群のある柿田川公園です。 鬱蒼とした木立の中を歩いていくと、向こうに大きな川が流れているようです。柿田川なのでしょうかね。ボクは三島大社からタクシーに乗ったせいで、どちらが北でどちらが南かわからなくなっていたのですが、どうも、右手が富士山のある北、左手が駿河湾のある南のようです。 川の手前の展望台になっているところから真下を覗きこみます。 ありました。井戸のようにまわりをコンクリートで囲った湧水池です。この向こうに川が流れていますす。「すごいやろ!」「すごいです!」 青みがかった深い色の底から、もこもこ水が湧き上がっています。スゴイです(笑)。モコモコ感がうまく写真には写らないのが残念です。 小さな、浅く、細い流れにも、少しも濁ることなくわらわらと水が湧き出しているところがあります。下の写真がそれですが、ボクの写真では単なる小川にしか見えません。ザンネンです(笑)。 さっき、木立の向うに見えた流れがずっと見通せる場所に出てきました。ボート遊びもできるようです。大きな流れです。みんな湧水でしょうか? 大木が林立している森の道があって、その大木のふもとにワラワラ、もこもこ、湧き出しているのが見えます。 あちこちにある湧水を次々と見て歩きながらM君が面白い事を言いました。「シマクマ君、こういう森の中を歩いていると、なんだか、ムラムラしてこないかい?」「ムラムラって何ですか?」「だから、ムラムラだよ。」 もこもこと湧きあがる「生命力」が巨木化するイメージからの発言ですかね? 一緒に歩いていた東京から来ていたMさんが「私はしませんね。」「うん、意味不明やんな。」 M君はたしか75歳、Mさんはもうすぐ70歳でシマクマ君と同い年。「いつまでも、若いねえ(笑)」 と、隣で歩いていたNくん、ちなみに、彼も確か75歳が仲を取り持っていましたが、 これが、看板です。 で、こちらが「柿田川公園」の入口です。 確かに、一見の価値がありましたね。富士といえば、樹海を想像していたのですが、すそ野の広さというか、すそ野の地底を流れる水流群がこうして吹き上がってきていて、湧水群をつくっているんですね。地底の流水群を想像すると、ちょっと興奮しません? で、それが駿河湾へということらしいです。「だから、駿河湾の水はきれいやねん。だから、ここのウナギがおいしいねん。」 というわけで、次はウナギ屋さんまで歩くそうです。にほんブログ村追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです
2024.11.19
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「高倉台の夕焼け!ピンボケ(笑)」 徘徊日記 2024年11月14日(木)須磨・高倉台あたり 週に一度だけのお仕事が終わって、校舎から出てくると夕焼けです。帰りを急ぐ女子大生さんも立ち止まって見上げていました。 もっとも、写真はピンボケです(笑)。 先々週は、ここに鞄を置き忘れました。この日は教卓に老眼鏡を忘れていることにも気づかず空を見上げてため息をついていました。「おおー、・・・」夕焼けが、やけに身にしみる年になりましたね(笑)夕焼うつくしく今日一日はつつましく 種田山頭火 さすが、山頭火ですね。何もいうことはありませんね(笑)にほんブログ村追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです
2024.11.18
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イリヤ・ポボロツキー「grace グレース」元町映画館 まあ、なんといっても、出だしのシーンで鷲摑みでした!(笑) 風景がすごいんですね(笑)。小さな滝というか、湧き水の水口で若い女性が水を飲んでいるのか、手を洗っているのか、いや、水を汲んでいたらしいのですが、彼女が水の入ったポリタンクを持って歩き始める、その動きに沿ってカメラが引いて行って、小さく細い水の流れが、ものすごい谷の底を流れていく川になっていって、崩れた崖の谷間の上の大きな山々、その山の麓に点在する集落が遠くにあって、彼女が歩いていく先には立ち木なんて一本もない、なんだか荒涼とした丘の上に赤いキャンピングカーがとまっていました。おおー、スゴイ! 見たのはイリヤ・ポボロツキーという、ロシアの若い監督の作品、「グレース」でした。 キャンピングカーで移動して、野外映画会を興行している父親と娘の旅 のお話のようです。現代ロシア版ニューシネマパラダイスやん(笑) とか、なんとか、お気楽に見ていましたが、どうも違うようです。現代ロシア版地獄めぐりというのとはちょっとちがいますが、現代ロシア版辺境めぐり という風情のロード・ムービーでした(笑)。 老眼のボクには、なんというか、画面のトーンが暗くて、眠くて仕方がない映像だったのですが、にもかかわらず、面白かったですね(笑)。 まず、主役の娘さんが、まあ、彼女も暗いっちゃア暗いんですが、実にいいんですね。それから少年、親父さんも、親父さんとわけわからん関係になる、観測所とかで一人暮らしのおばさん、まあ、みんなよかったですね。会話らしい会話はほとんどなくて、どの組み合わせも、たがいにずっと喧嘩しているようにしか見えない関係なのですが、父と娘、少年と少女、旅の興行師と観測所の女、それぞれの描き方が、絶妙なのですね。人間同士ってのはこういうもんでしょ。 まあ、監督さんがそうおっしゃっている感じで、納得しちゃうんですね。 それから、先日、ゴンドラという映画で気に入った、多分、コーカサスあたりの山岳風景、都市のアパート群、ショッピングモール、娘が海に行きたい というので、そうはいってもロシアですからねえ、どこの海に行くんだろう? と思っていると、多分、北極海に面した北方地域の海ですね。で、そのあたりの空き家ばかりのお屋敷群、遠くに見えている海、何も通らない道路。ドキュメンタリィータッチでジーっと、だからロングショットで映し出される風景があって、その画面のどこかを走る赤いキャンピングカー、何もない山の間からフッと出て来たり、目を凝らしていないと見えないと思っていると消えてしまったり、アカン、寝てまう! で、まあ、とどのつまりに、寒そうな海にじゃぶじゃぶ入っていった娘がすることを見て、ようやく、ああ、そういうことか! と腑に落ちて、納得でした。 いや、いや、この監督、この映画の娘の描き方もちょっとしたものですが、今後に期待しちゃいますね。拍手!です。 この映画で、印象深いのは現代ロシアの社会の描き方 ですね。都市と辺境、男と女、子供と大人、要素はたくさんあるのですが、なんだか、とてもアンバランスで、そこがとてもリアルなんですね。 それから映画のトーンですね。画面のトーンじゃなくて、お話の筋立てですが、暗さとしか受け取られかねない展開なのですが、最後にたどりついたところに「希望」というか、未来への可能性を暗示しているとボクは思いました。拍手!です。監督・製作・脚本・編集 イリヤ・ポボロツキー製作 イバン・ニチャエフ 撮影 ニコライ・ゼルドビッチ音楽 ザーカス・テプラキャストマリア・ルキャノバ(娘)ジェラ・チタバ(父)エルダル・サフィカノフ(少年)クセニヤ・クテポワ(観測所の女性)2023年・119分・ロシア英題「Grace」2024・11・17・no148・元町映画館no266追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.11.18
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パブロ・ベルヘル「ロボット・ドリームズ」シネリーブル神戸 久しぶりに洋物のアニメの新作を見ました。パブロ・ベルヘルというスペインだかの監督の「ロボット・ドリームズ」です。 思いのほかよくできていましたね(笑)。人間は出てきません。犬とかアライグマとか、熊とか犀とか、動物大国のお話でした。名前はわかりませんがワンちゃんが主役で、で、相方がロボット君です。 ワンちゃんは生きものですがロボット君は、ワンちゃんがネットショッピングで購入した作りものの生きものです。でも、どこか生きものでした。 「スペインの監督が、なんでニューヨークなの?」 と思いましたが、サラ・バロンという人の原作があるようで、それの舞台がニューヨークのようですね。時代は、少しだけ昔という感じです。1990年代かな?ネットショッピングはありますがスマホはありません。 で、笑ったのは「セリフ」と「ナレーション」がない事でしたね。所謂、サイレントではありません。音楽とか効果音はあるのですが、音としてのことばがありません。 今週、このタイプの映画、これで「ゴンドラ」に続いて2本目です。 だからかどうかわかりませんが、登場する動物君たちが人間に見えました。そういう人っているね(笑) という感じです。 ニューヨークの古びた小さなアパートで暮らすワンちゃんが働いていないのがちょっと気にかかりましたが、友だちがいない孤独な学生さん、あるいは、ニートの若者のイメージです。 その昔、いると思って訪ねると、卒業したんでしょうか、空き部屋になっている6畳だけがあって、消息はまったくわからなくなっていて、それから50年、何の音信もない友だちがいたことを思い出しました。 まあ、ボクのような老人が見ると頭のどこかにあった記憶が揺さぶられる印象の作品で、結構、リアルでしたが、今ごろの若い人がどんなふうにご覧になるのか、ちょっと興味がわきました。 なにはともあれ、全編、素直な展開で、いいヤツだよな!もちゃんと出てきて納得でした。拍手!監督・製作・脚本 パブロ・ベルヘル原作 サラ・バロンアニメーション監督 ブノワ・フルーモン編集 フェルナンド・フランコ音楽 アルフォンソ・デ・ビラジョンガ2023年・102分・G・スペイン・フランス合作原題「Robot Dreams」2024・11・11・no145・シネリーブル神戸no280追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.11.17
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ファニー・ブロイニング「旅路」元町映画館 神戸の元町映画館だけで、先週の11月9日の土曜日から1週間、ヘルヴェティカ・スイス映画祭というスイス映画上映の企画をやっていました。気になっていたのですが、何故か、ちょっとお忙しの1週間で「まあ、いいか」 とか思っていたのですが、映画館の前を通りすがると「なぜ来ないんですか?」 とか声をかけられたりして、「まあ、最後の1本はお愛想して行けそうだ。」 というわけで、最終日の11月15日の金曜日にやっと出かけました。で、これがチラシですね。 見たのはファニー・ブロイニングという女性の監督の「旅路」という作品でした。 イヤーぁ、ビックリ仰天! 拍手!拍手! でしたね(笑)。 映画は1頭のイルカが海を泳ぐシーンで始まりました。スイスなのにイルカかよ? まあ、何の知識もないこともあって、そんなことを考えならが見始めましたが、最後に同じシーンが映し出されて、で、暗転した時にはそうか、全身を躍動させて、水しぶきをあげて泳ぐイルカか。そうだよな、それが、生きることだよな! と、つくづく納得したのでした(笑)。 おそらく30代で、所謂、多発性硬化症と呼ばれている症状を発症し介護的補助なしではベッドから起き上がることもできない女性と、写真家だった仕事をやめ、その女性の介護のために24時間付き添い続ける男性という夫婦が、キャンピング・カーでギリシア旅行をする様子を、二人の娘であるファニー・ブロイニングという監督が撮ったドキュメンタリー映画でした。 二人は美術大学の同級生で、この旅をした2018年当時、68歳だったかという老夫婦です。 イラストレイターだった妻アネッティが若いころに描いた1枚のイラスト、縦横にたくさんの、多分、同じ女性の姿が繰り返し描かれていて、足が消えていたり、手が消えていたり、クイズのようなその絵が娘のファニーのお気に入りだったというナレーションとともにクローズアップされて、続けて夫婦の日常生活の様子が映し出されます。 で、夫のニッギが寝たきりの妻アネッティに美しいギリシアの自然を見せようと旅に出る決意をし、キャンピング・カーを改造しはじめます。アネッティは旅にそなえて洋服や下着、化粧品の用意を介護士の女性に頼みます。 で、旅が始まります。助手席がアネッティの定位置です。後ろに改造ベッドがあって、車中泊です。フェリーに乗り甲板に出たり、遺跡を訪ねたり、海辺や市場、噴煙を上げる山、沈む夕日、自動車を止め、とにかく車椅子で行ける場所へアネッティを運ぶのはニッギの役目です。 親指が痛い・・・ とニッギが顔をしかめ、もっと、大勢の人と出会える家に帰りたい・・・ と娘に甘えるアネッティのつぶやきが聞こえてきて旅も終わりのようです。イルカが泳ぐシーンが映り、画面は暗転しました。 ここまで、触れませんでしたが、旅のシーン、シーンには娘が母に問い、父に問う会話と、若かりし日の二人と家族の写真が挿入されます。それが、もう一つの「旅」を描いていく印象です。 ドイツ語ではIMMER UND EWIGと題されているようで、まあ、「ずっと永遠に」くらいの意味だと思いますが、映画が描いている二人が生きてきた、そして生きていく旅の姿は、二人の境遇のものすごさを超えて、映画を見ている70歳の老人を励ますのでした。イルカのように全身で泳いで生きる姿は、病身のアネッティの希求であるのは勿論ですが、世話をしているニッギの希求でこそあるのだというファニー・ブロイニングの穏やかな声が聞こえて来るかの作品でした。 映画に映るすべての人と美しい世界に拍手!でした。 これが、今回のヘルヴェティカ・スイス映画祭のラインアップです。来年以降もやるようです。来年は頑張って見たいですね(笑)。監督 ファニー・ブロイニング 原題「IMMER UND EWIG」 2018年・85分・スイス ・スイスドイツ語2024・11・15・no147・元町映画館no265追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.11.16
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森井勇佑「ルート29」シネリーブル神戸 なんとなくですが、スクリーンに出てくるとうれしいという方が、何人かいらっしゃって、まあ、そのお一人が綾瀬はるかさんなんですね、ボクの場合(笑)。だから、まあ、封切り初日に駆けつけることになるわけで、駆け付けました。森井勇佑監督の「ルート29」です。 で、どうだったか????!! ?マーク三つで、!マーク二つです。!マークは綾瀬はるか演じるトンボと大沢一菜演じるハルちゃんの存在感です。 ?マークは、映画の筋立てから結末、シーンの作り方、まあ、全部ですね。映画製作者、だから監督ということになりますが、彼が準備した結末がボクには「そうだったの???」という印象だったのですが、そこまでの、まあ、謎に満ちた、それなりに意味深で面白かった、あれこれのシーンが一気に色あせていくというか、うっかり気づかないまま見ていましたが、それじゃあ、たとえば、トンボがずっと着ていた掃除婦の衣装は囚人服だったということなんですかねというか、「あんた、なにしたの?」 途中、お姉さんにそう訊かせましたが、トンボとハルは何をしたんですか? と、やっぱり問い直したくなる結末でしたね。 せっかくの綾瀬はるかさんだったのですが、まあ、結末を見て、こんなふうにイラつくのは、見ているボクの映画を見る目なのか、人を見る目なのかがないからなのでしょうかね。 この監督の作品でキレるのはこれで二度目ですね。前作の「こちらあみ子」でも、ほぼ、同じようなキレ方をしたと思うのですが、理由が共通していることは自分では感じますが、では、その理由は何なのかがよくわかりません。ただ、映画を見ながらの印象ですが、あんたら、人のこと、わかったふうな目で見てへんか?なんか、ちがうんちゃうか? まあ、意味不明ですが、そんな感じですね。 最近の日本映画に、イマイチ乗り切れないというか、見ていてシラケることの多い徘徊老人ですがついにいってしまったという感じですね(笑)。 いやはや、老人の繰り言なのかもしれませんが、なんとも後味の悪い作品でしたね。ちょっと、拍手する気になりません(笑)監督・脚本 森井勇佑原作 中尾太一撮影 飯岡幸子編集 早野亮音楽 Bialystocksキャスト綾瀬はるか(中井のり子・トンボ)大沢一菜(木村ハル)伊佐山ひろ子(赤い服の女)高良健吾(森の父)原田琥之佑(森の少年)2024年・120分・G・日本2024・11・08・no144・シネリーブル神戸no279追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.11.15
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アンダース・エンブレム「ヒューマン・ポジション」元町映画館 今週で終わってしまうというので、焦って駆け付けました。元町映画館でやっている「ヒューマンポジション」というノルウェーの映画です。監督はアンダース・エンブレムという人ですが知らない人です。「ノルウェーか、気になるなあ。題名も気にかかるしなあ。」 まあ、そういうノリでしたが、見終えて納得でした。「これは、いいやん!」 でしたね(笑)。 出てくるのは、上のチラシの女性二人です。ああ、それから猫ね。白い服の一人は新聞記者をしているアスタ(アマリエ・イプセン・ジェンセン)で、黒っぽい服の、もう一人は、劇中の発言を聴いていて、「どこかから難民とかできた人かな?」 というニュアンスが感じられるライヴ(マリア・アグマロ)ですが、彼女は二人で暮らしているアパートでイスのリニューアルをしたり、英語の歌を作って歌ったりする女性です。 何だか古い建物の窓が繰り返し映ります。どうも、二人が暮らしている隣の建物のようです。二人は、同性の恋人同士のようで、何となくゴロゴロしているチラシのシーンも繰り返し映ります。部屋には、なかなかいい雰囲気の猫もすんでいます。それから、町の坂道、丘の上から見えるフィヨルドだなあと感じる海。並木道が繰り返し映し出されます。 先日見たゴンドラという作品が、この映画と似たような年頃の女性二人の映画で、風景にしろ、室内の描写にしろ、人物の撮り方にしろ、映像の雰囲気が何となく似ている気がしてええー、ひょっとしてこの映画もしゃべらないの?と、ちょっと焦って見ていると、ちゃんと会話がありました。それも、たとえば新聞記事に出てきた難民の処遇を巡っての結構シリアスな会話だったりします。 まあ、アスタという女性の仕事が新聞記者で、町の出来事について、現場で取材して記事を書くわけで、違和感やわざとらしさはありません。何だ、これは? と思ったのは、最初のあたりのシーンでノルウェー家具を巡って日本での評判の話が出てくるのですが、そのあたりが始まりで、二人の関心が日本に向けられている描写が続くのですね。箸を使った食事に始まって、柔道着や着物を着ていたり、わけのわかららん碁石並べのシーンがあったり、とどのつまりには、多分、小津の映画だと思いますが日本映画のセリフまで聴こえてきて笑っちゃいました。 でもね、なんだか雑然とした若い二人の女性の暮らしの描写なのですが、背後に題名になっているA Human Position、まあ、ボク的には「人として暮らすこと」 くらいの意味にとったのですが、それに対する登場人物二人のしずかな意思というか、態度というかが揺るがないのですよね。 で、そこのところに、作り手、だから監督の意識の誠実さがキラキラしていたと思いますね。まあ、その結果ですかね、毎朝の歯を磨いている二人のシーンを撮るのですが、その様子のコミカルというか、ちょっとづつ違うというかの描写とかが光っているんですよね(笑)。「人間としての在り方」 を真摯に実践する時には、やっぱり、歯磨きは必須なんです(笑)。 ふたりの女優さんのくずれない演技に拍手!でした。それから監督の猫と人間に対する思いやりに共感の拍手!でしたよ。 ここのところ、立て続けにみてきた若い人たちの「生きる姿」を描いた作品 の中では、頭一つ抜けていると思いました。もう一度、拍手!ですね。 監督・製作・脚本・編集 アンダース・エンブレム製作 スティアン・スキャルタッド 撮影 マイケル・マーク・ランハム音楽 エイリク・スリニング・コルネスキャストアマリエ・イプセン・ジェンセン(アスタ)マリア・アグマロ(ライヴ)2021年・78分・ノルウェー原題「A Human Position」2024・11・12・no146・元町映画館no264追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.11.14
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キルメン・ウリベ「ムシエ 小さな英雄の物語」(金子奈美訳・白水社) キルメン・ウリベという1970年生まれのスペインの作家がいます。バスク語で書いている作家だそうです。だいたい、ボクは、ヨーロッパにどれだけの言葉があって、どんなふうに分布しているのか、全く想像できない、まあ、バスク語とか言われても何にもわからないジジイですが、スペインとフランスの北の国境付近がバスクという地域で、そこには、言語をはじめとして、スペインとかフランスとかいうふうに単純にレッテルを張るわけにはいかない独自の文化空間があるようだというくらいの理解はなんとかあるのですが、ウリベという人はそこの作家で、そこの言葉、バスク語にこだわって書いている人のようです。 今回、ボクが読んだのは白水社のエクスリブリスシーズの翻訳で、もちろん原書を読む力など毛頭ありませんので、そこの言葉で! ということは、残念ながら実感することはできません。 で、こんな書き出しでした。 ゲルニカ爆撃のあと、スペインのバスク自治州首班であったホセ・アントニオ・アギーレは、ついに子どもたちを疎開させる決意を固めた。一九三七年の五月から六月にかけて、一万九千人の子供たちがビルバオの港からヨーロッパ各地に向けて出発した。彼らの多くはフランス、ソ連、イギリス、そしてベルギーへ逃れた。たった数名の教師に付き添われて、親元を遠く離れ、子供たちばかりで異国の地に向かったのだった。 語っているのは、作家自身です。冒頭のゲルニカ爆撃という記述を読んでピカソの壁画を思い浮かべる人もいらっしゃるでしょう。 一九三七年四月二六日、ナチスとイタリアのファシスト党がフランコを支持し、バスク地方の町ゲルニカを爆撃して数百人の市民を殺害した。これに対するピカソの抵抗が、この非人間的な様子を描いた《ゲルニカ》である。幅八メートル近いモノクロの絵は、さながらニュース映画の映像だ。キュビズムの手法を使い、炎と泣き叫ぶ女性や動物、死んだ子供、倒れた兵士という悪夢のような情景で爆撃の様子をあらわしたこの作品は、壮大な反戦メッセージとして、後にヨーロッパとアメリカを巡回することになる。(「若い読者のための美術史」Chapter32 政治化する芸術P365すばる舎) 偶然、同時に読んでいたシャーロット・マリンズという方の「美術史」(すばる舎)という本で出合った記述ですが、ピカソのゲルニカは、1937年のパリの万博のスペイン館に展示された作品だそうです。 案内している「ムシエ 小さな英雄の物語」に戻りますね。題名になっているムシエというのは、上の引用の疎開でバスクのビルバオという港からハバナ号という船に乗せられた3278人の子供たちの一人としてベルギーに送られたカルメンチュという、1937年当時、8歳だった疎開少女を引きとった、ベルギーの作家ロベール・ムシェという人の名前です。 上の表紙写真がロベールと、その妻ヴィック、娘のカルメンの家族写真ですね。 で、簡単に言ってしまえば、そのロベール・ムシエというベルギーの作家の短い生涯を「小さな英雄の物語」として描いたのがこの作品です。ただ、まじめに紹介するとなると、ちょっと大変なんです。 バスクの青年作家キルメン・ウリベが、1940年代のベルギーで生きていたロベール・ムシエという名を知るのは当人の死から60年後です。で、そこから、反ナチ活動家として収容されていたノイエンガメ収容所が1945年のナチスの敗戦を機に解放された後に消息を絶ったロベール・ムシエというベルギーの作家の、まだ、生きていた姿を小説として描ているわけですが、バスクの青年が彼が書くことになる作品の主人公にたどりつくまでの「すべて」 が、この小説の世界です。 バスクの作家を、戦時中ベルギーで生きたロベール・ムシエという作家の小さな英雄としての短い生涯に案内するのはカルメン・ムシエというロベールの娘です。上の写真で、お父さんにだっこされている赤んぼうですね。 1937年、ロベール・ムシエが、バスクから疎開してきた少女を里親として預かります。で、彼はカルメンチュウというその少女の名を、その後生まれた自分の娘に名づけます。 そのあたりの、バスクからの疎開児童たちその後の経緯は、当時のスペイン市民戦争の顛末、あるいは、ナチスによるベルギー侵攻という社会状況に蹂躙されていくわけですが、そこは、まあ、本書をお読みください。 で、名前をもらった、カルメンという娘が、父の死の50年後、ノイエンガメ収容所解放50周年を機に調べた事実、彼女は、自分の名前になったバスクの少女カルメンチュウのその後も調べつくしたようですが、その内容がキルメン・ウリベという若い作家に語られ、「小さな英雄の物語」というこの作品が生まれたようです。「英雄はそこかしこにいる、昔も今も、ここにだって、世界中のどこにでも。人のために身を捧げる小さな英雄が」 2010年、キルメン・ウリベの友だちが彼に言った言葉だそうです。その結果、1940年代、ファシズムのあらしが吹き荒れる時代、逃げてきたバスクの少女を救い、自らはナチスの収容所で命を落とした生涯を、忘れ形見として50年の戦後を生きた女性をはじめ、カルメンチュウとともにベルギーに送られて、何とか生き延びている人々を繰り返し取材することで書きあげた作品です。 静かで、穏やかな印象の作品ですが、久々に傑作だ! と実感しました。 私たちは2020年代という時代を生きているわけですが、現代という社会の歴史を見つめ直し、人間の社会で生きていくときに何が大切かということを穏やかに語っている作品ですね。歴史をたどるとは、今生きている場所、言葉、考え方、感じ方を問い直すことなのですね。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.11.13
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「三島暦師の館」 徘徊日記 2024年10月20(日)三島あたり その2 三島大社を東の裏口から出て金木犀が匂う住宅地を、ほんの数分歩くとなんだか立派なお屋敷があって、玄関にはカンカンと叩く板木(ばんぎ)が置いてあります。 ちょうど、庭あたりで掃除をしていらっしゃったオジサンがお声をかけてくださいました。「その、板、叩いてごらんなさい。」 で、4人組の二人が交互にカンカンと叩くと、中からセンセー!という雰囲気のおじいさん が出ていらっしゃって、お屋敷の案内が始まりました。三嶋暦師の館の主(ぬし) のようです。 お屋敷は、昔の代官所の建物を移築保存していらっしゃるようで、玄関の正面には三島の宿の古地図です。というわけで、ご講義が始まりました。 そもそも「三嶋暦」とは何かに始まって、三島の地理、歴史、三島暦の歴史、ああ、それから中国の暦と日本の暦の歴史、イヤアー、ベンキョーになります(笑)。 で、これがパンフレットです。「三嶋暦師の館」というのは三島市が管理運営している公共の場のようです。 こちらが、今も作り続けていらっしゃる三嶋暦です。大判とポケットサイズとあります。購入を希望すると、「いやあ、来年の暦の時期になってましてね。新しいのが来週届くのですが、これでいいですか?」「もちろん!です。」「じゃあ、ポケットサイズはサービスです。持ってってください。」 お年は、平均年齢70歳越えの4人組の一回り上という雰囲気で、頑固なオジーさんの雰囲気でしたが、とても御親切で丁寧な方でした。 これが、三嶋暦です。大きい方は見開きで吊り下げられるカレンダーです。一年間の月の形の変化が印刷されているのが、まあ、あたり前ですが特徴です。 壁掛けタイプが500円でしたよ。 開いてみるとレイアウトというか、デザインというかはこんな感じ。 お伺いした日の2024年10月20日を調べて見ると、縦向きに「九月十八日・月は十八夜・ひのとみ・日・友引・秋の土用の入り・19:07~09:16」 でした。最後が月の出、月の入りの時刻でしょうね。 庭には小さなお社があります。お祀りしてあるのは加茂神社の神さんらしいです。 で、その前の庭に何気ないのですが日時計です。暦は月齢の旧暦ですが、一日の暮らしは日時計という感じでしょうね。なんか、いい雰囲気でしたね。 これが、建物の看板です。三島市の歴史的風致形成建造物だそうです。 もしもですが、三島の町とか徘徊なさることがおありでしたらおススメですね。もっとも、シマクマ君は、たとえば二十四節季とかが、結局、「太陽暦」なのか「陰暦」なのか、まあ、よくわからないままなので、必ずしも、かしこくなれるとは限りませんけど(笑)。 さて、いったん三島大社に帰って、次はどこでしょうね。にほんブログ村追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです
2024.11.12
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今福龍太「霧のコミューン」(みすず書房) 今日の案内は、まあ、学者さんの評論集ということもあって、なかなか、こんな本というふうには案内しづらいのですが、ボク的には、かなり引き込まれたことは事実なわけで、とりあえず案内しておこうと思います。 今福龍太「霧のコミューン」(みすず書房)。2024年7月の新刊です。 著者の今福龍太という人は、まあ、文化人類学というあたりがご専門の学者さんで、「群島」とか、「クレオール」とかいう言葉に惹かれて、あれこれ齧り読みさせていただいてきていて、お名前とお仕事の輪郭だけは存じ上げていたのですが、この夏、何となくパレスチナが気になっていた時に、市民図書館の新刊の棚にこの本があって、ちょうど読んでいたゴンティソーロというスペインの作家の「パレスチナ日記」(みすず書房)が、この本の中のいくつかの文章でジャスト・ミートしていることに気付いて借り出しました。 ボク自身と、ほぼ、同世代の方であることを、再認識しながら、その思考の方向性に、強く誘惑されました。 で、まあ、思考の方向性とかいってもなんのことだかわかりませんが、「現代」という時代を生きていくうえでの考え方の構えのような事ですね。 それを、彼は「霧」という自然現象を象徴的なイメージとすることで語っています。 まあ、説明しようがないので緒言のなかの一節を引用しておきます。 「霧のコミューン」とは何か。この謎めいた符牒のような言葉に私があるときからこめようとした意味。それは第一に「予兆」をめぐるものである。霧は、霧の向うに見え隠れする何かをつねに暗示する。来るべき何かを。しかしその「何か」を明らかにすることが重要なのではない。むしろ何かわからないものがそこにあり、それが私たちの真実を撃つためにいつか顕れてくるかもしれないと感じるときの、その兆しを繊細に感じとる間隔こそが、霧の本性であるように私には思えた。その意味で、霧のコミューンとは予兆を予兆として感受し、そこに希望を認め、その予兆を大切に育もうとする共同体(コミューン)のことである。 第二にそれは「秘密」を暗示する。権力による隠蔽の対極にあって、人類の知が「隠される」ことによってむしろ守られてきた歴史を深いところで諾う意思である。なぜ秘密が必要か。それは、可視化され利用されることなく、霧に隠れることで力をためる何かが存在するからである。霧とは、真実なるものの至高の隠れ蓑にほかならない。この点でそれは、ナチス・ドイツが政権に反対する者たちを夜と霧に紛れて隔離・投獄・殺害した「夜と霧」の指令によって真の意味を剥奪された「霧」を、むしろ抵抗者たちの拠点として復権させる共同体でもある。夜闇も霧もそれ自体の横溢と主張を持っていることを歴史は証明してきた。 第三に、それは「偶有性(コンタンジャンス)」へと開かれてゆく共同体である。「私は自分自身を世界のなかに混合し、世界の方もまた私に混合している」(ミッシェル・セール「五感」)。皮膚を界面として、私たちは世界とやすみなく接触し、お互いを混合させている。すべての事物にそなわった皮膜は、内と外を隔てる分断面ではなく、むしろ世界そのものが触れ合い愛撫しあう混合面なのだ。そんな揺らぐインターフェースこそ、固定化を離れて「世界」をつねに別様なものへと更新しつづける「偶有性」の現場であり、時間と空間を超えて「共-接触(コン・タンジャス)」が果たされる界面である。皮膚というヴェールにまつわりつく霧のような偶然性、偶発性のヴェール。ヴェールの向うに隠された真実があるのではなく、真実自体がヴェールの複合体なのである。その霧、その波形模様やギャザーや糸屑やほつれのなかで、私たちは無限の「出会い」の可能性を持つ。非接触テクノロジーの日常への浸透によって断たれつつある真の「接触タンジャンス」を奪還し、それを分有する共同体。それが「霧のコミューン」にほかならない。 えらく長い引用になりましたが、ボク自身は、当分、この今福龍太の道案内で、霧のなかを彷徨う ことになりそうです。いずれ、彷徨い先については、折りにふれて報告することになると思いますが、今日はとりあえずここまでです。 ついでなので目次と出版社がまとめている来歴を載せておきます。目次緒言Prologue小鳥もカタルーニャ語でさえずる街で バルセロナ 叛コロナ日記I負のメフィストフェレス 広島のバラク・オバマ〈対岸〉からの思想的挑発 フアン・ゴイティソーロ追悼II遠漂浪(とおざれ)きの魂、震える群島 石牟礼道子の億土からアジアのなかの沖繩 川満信一への手紙III微気象のくにで すべてのグレタ・トゥーンベリにマスクの時代の仮面 問いつづける身体のためにIV霧のなかのルイーズ・グリュック 寡黙な声のコミューン〈白い日〉と歴史 戦火から遠く離れてEpilogue霧のコミューン 生成と予兆Coda希望の王国 今福龍太(いまふくりゅうた) 1955年東京生まれ。文化人類学者・批評家。東京外国語大学名誉教授。メキシコ、カリブ海、アメリカ南西部、ブラジル、奄美・沖縄群島などで広範なフィールドワークを行う。国内外の大学で教鞭をとり、2000年にはサンパウロ大学客員教授、2003年にはサンパウロ・カトリック大学客員教授などを歴任。2002年より、奄美・沖縄・台湾を結ぶ遊動型の野外学舎〈奄美自由大学〉を主宰。奄美では唄者、沖縄では吟遊詩人としても知られる。詩誌『KANA』同人。主な著書に『ここではない場所』『ミニマ・グラシア』『薄墨色の文法』『ジェロニモたちの方舟』(以上、岩波書店)、『レヴィ=ストロース 夜と音楽』(みすず書房)『ヘンリー・ソロー 野生の学舎』(みすず書房・讀売文学賞受賞)『ブラジル映画史講義』(現代企画室)『宮沢賢治 デクノボーの叡智』(新潮選書・宮沢賢治賞/角川財団学芸賞受賞)『ボルヘス「伝奇集」 迷宮の夢見る虎』(慶應義塾大学出版会)『原写真論』(赤々舎)『言葉以前の哲学 戸井田道三論』(新泉社)など多数。主著『クレオール主義』『群島-世界論』を含む著作集『今福龍太コレクション《パルティータ》』(全五巻、水声社)が2018年に完結。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.11.11
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岸田奈美「傘のさし方がわからない」(小学館) 小学館からシリーズ(?)で出ている岸田奈美さんの3冊目です。ついでに「もうあかんわ日記」(ライツ社)も読みましたから、ボクとしては4冊目ですね。ちょっと、飽きてきた!ゴメン。 というのが正直な感想ですが、理由ははっきりしている気がします。困ったことに、売れっ子の「作家さん」の文章 になりつつあるんですよね。 要するに、商品としての文章といえばいいのでしょうか。 彼女の文章の持ち味は、ボクのようなボンヤリ人生では気づかない、まあ、ナイーブな感受性の持ち主である岸田さんだからこそ直面する「突然の危機」があって、そこで彼女が、「いかに開き直るか」の体験のスリルとサスペンスなのでしたが、身の回りから、ひょっとしたら面白いかもというエピソードを探し始めていらっしゃる、まあ、そういうニュアンスを、何となくなのですが感じてしまうのですね。着地点は、彼女らしい柔らかな感受性、おおらかさ、というのは変わらないのですが。 ネット上に記事を書きつづけるという難しさもあるのでしょうね。題名になっている「傘のさし方を忘れてしまったお母さんの話」なんて、相変わらず、だいじょうぶ! と声をかけたくなる話なのですが、「作家」としての岸田さん、最初の正念場に差し掛かっていらっしゃるようですね。 まあ、しかし、新しい本が出れば、ボクは読みますね。ボクにとってはそういう方です、彼女は(笑)。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.11.10
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「立冬の日の須磨の海」 徘徊日記 2024年11月7日(木) 須磨・一の谷あたり 2024年、11月7日、木曜日、ちょうど正午です。今日は立冬だそうです。ここは須磨、一の谷の丘の上です。海には西へ行く船、空には東にながれるクジラくんたちが群れています。 ここに座ると、柄にもないことを思いつきます。熊掌は、形勢不利になると碁盤をかきまぜる困った奴に碁ガタキがつけてくれた名前です。もう、30年以上も昔のことです。霜月やクジラ群れ飛ぶ須磨の空 風強し今日は立冬須磨の海 熊掌 そういえば、最近、目の前の海にクジラくんが迷い込んで保護されたというニュースがありました。 一の谷の丘の上では、まだ、朝顔が咲き続けていました。朝顔の季は秋だと思いますが、まあ、そうはいっても、今日は立冬ですからねえ(笑)。 さて、一服して、今から高倉台です。にほんブログ村追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです
2024.11.09
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ファイト・ヘルマー「ゴンドラ」シネリーブル神戸 ここのところ、高校生の男の子同士とか、若い男女三人とかの作品を立て続けに見ていたので、おっ、女の子二人の映画か、面白ろそうやん! というノリで見ました。ドイツの映画らしいということには気付いていましたが、監督がどんな人で、どこで撮ったのかというようなことは全く知らないで見て、驚きの連続でした。 舞台はドイツだとか思っていたら、まあ、ドイツの田舎との違いがわかるわけじゃないんですが、グルジアだか、コーカサスだかのド田舎だし、その上、この映画、いつまでたっても登場人物たちがしゃべらないんですね。セリフがないんですよ!!(笑) 見たのはファイト・ヘルマーというドイツの監督の「ゴンドラ」でした。 見終えて、一番率直な感想は「なんや、作りかけみたいやったなあ。」 でした。 理由はハッキリしていて、登場人物にセリフがないからですよね。 最初、なんだか偉そうにしている、ゴンドラ、要するにロープウェイの運転係というか、駅長というかのオッサンが乗りにやってくる車椅子のオッサンに邪険にしたり、どうも亭主が死んだらしいオバはんが新入りの乗車員の女の子に、やたらニラムだけで、愛想も何もない様子に「なんでやねん?!」 だったのですが、結局、最後まで誰もしゃべらない映画 なのでした。 言ってしまえば、みんな見る人任せなわけですからね、「なんで?」「何してんの?」 の連発で、いつもと勝手が違ったのですが、一方で、やたら面白かったりしたわけです。 まず、ゴンドラからというか、ゴンドラをというかの風景がいいですね。 ゴンドラは山の下から上へではなくて、上から上へとしか思えない様子で、俗世を下に見ながら天空を渡るんです。下に谷あいの村があって、牛とかヒツジとかがいて、あと、ズーと山です。そこを渡っていくんです。 誰かが亡くなったんでしょうね。ゴンドラから棺桶の前と後ろがはみだしたまま運ぶのですが圧巻でした。「えー、落としたらどうするん?!」 棺桶が空を渡っていく様子が映って、で、それを見上げる村の人や子供やが下に見えて、帽子をとったり、中には手を振る子供もいたりして、なんともいえないというか、心に刻まれるというか、そういうシーンで始まるんです。 それから、天空を日に何度もわたり続けるのがお仕事のはずの二人の娘さんがゴンドラをおもちゃにしてというか遊び場にしてというか、まあ、いろいろやってくれるんですが、そのやることなすことの痛快さとか、毎朝乗ってくる二人の子供のイノセンスな仲良しぶりとか、牛や鶏を運ぶ村の人の生活ぶりとか、欲張りでエラそうな駅長のがんばって意地悪な表情とか、何故か映っている画面の中で搭乗するのはほんの数人なのに一日が終わると小銭がジャラジャラ出てくる料金鞄とか、みんないいですね。 先日、中国のド田舎の山の上の湖をワクワクして待ってすかされたんですが、こちらはヨーロッパのド田舎の天空を、実際に車椅子がゴンドラにぶら下がってが渡っていくのです。ボク的には、まあ、こっちに拍手!でしたね(笑)。 まあ、ストーリーがあるにはあるんですが、で、若いお二人の関係とか、とどのつまりの悪役駅長の天罰とか、それぞれ、「そんなんせんでええやん!」 という気もしたのです。だって、明日もノンビリというか、平和にというか、天国暮らし、いや、天空渡りか、続けてほしいじゃないですか。セリフもないんやから、ドラマもいらんで(笑)。 まあ、そういう勝手な気分でしたね。でも、拍手!ですよ、やっぱり(笑)。 監督・製作・脚本 ファイト・ヘルマー製作 ツィアコ・アベサゼ ノシュレ・チュハイゼ撮影 ゴガ・デブダリアニ美術 バチョ・マハラゼ編集 イオルダニス・カライサリディス モリッツ・ガイザー ニコロズ・グルア音楽 マルコム・アリソン ソーレイ・ステファンスドッティルキャストマチルデ・イルマン(イヴァ:新入り)ニニ・ソセリア(ニノ:多分、転職思案中)ズカ・パプアシビリ(駅長)ニアラ・チチナゼ(未亡人)バチャガン・パポビアン(車椅子の男)ルカ・ツェツクラゼ(少年)エレネ・シャバゼ(少女)合唱ダレジャン・ゲペリザ合唱ニノ・パチコリア合唱ペリデ・カランディア2023年・85分・ドイツ・ジョージア合作原題「Gondola」2024・11・03・no142・シネリーブル神戸no277追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.11.08
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ローレン・ハダウェイ「ノーヴィス」シネリーブル神戸 予告編を見ててめんどくさそうなので、かなり躊躇したんですが、まあ、見てみようか・・・ という程度の気分で見ました。 実は、ちゃんと気付いたのは見終えてからなのですが、チラシで「あの「セッション」のクリエーターが挑んだ狂気の物語」 とか仰々しく謳っていて、クリエーターって監督だったチャゼルのことかな? とか、相変わらずボケたことを考えていたのですが、あの映画の音響係の女性が自分で脚本を書いて、自分で作った作品だったとわかって納得しました。 別に、狂気の姿を描いたりした作品じゃなくて、至極まっとうにアメリカ社会、まあ、日本もそうだという気がしますが、を、正面から批判して、かなりよくできた作品だったと思いました。 見たのはローレン・ハダウェイという、多分、女性の監督の「The Noviceノーヴィス」、訳せば「初心者」だそうです。 エリートの集まっているらしい大学に入って、クソしんどそうなボート部とかに入部して、なんとしてもレギュラーポジションを手に入れたいと、徹底的に自分を追い込んでいく主人公のたどり着いた様子を「狂気」というような言葉で宣伝する感覚がまかり通っている社会こそが、彼女を追いつめているというのがボクの率直な感想ですね。 「成果主義」というのでしょうか、結果を、経済性や社会性における、成功とか失敗とかのためだけに子どもを躾たり、努力を讃えたりすれば、徹底的に素直な子供はこうなりますということで、だからといって、そうなった子どもは、別に病気でも何でもありません。素直なだけです。ただ、たどり着いた地点で表彰状を手に入れられなかった素直な子供は行き場を失うだけですね。 別に、ライバルだったジェイミーちゃんが悪いわけでも、コーチの配慮が足りなかったわけでもないのです。要領が悪いとか噂して、まあ、映画でも口走る子がいましたがサイコとか陰口を聴いて、いなくなったらホッとするわけです。 メンバー表から自分の名前を消したダルちゃんは、チームからも大学からも去るでしょう。で、どこに行けばいいのか、彼女は答を持っていませんよね。 そこが、見ていて、辛くてしようがないところなのですが、どなたか答えられる人はいるのでしょうか? この監督は、そのあたりについて、かなり頭にきているようで、ボクは好感を持ちましたね。こういう、まあ、癇癪持ちの映画監督って好きですね。拍手! ただ、70歳の老人には、見終えた印象が暗いのですね。そのあたりが、何とかならないかとも思うのですが、大統領とかの選び方とか見てても、しようがない感じですね。まあ、次の作品に期待ですね(笑)。監督・脚本・編集 ローレン・ハダウェイ撮影 トッド・マーティン美術 エバ・コズローバ編集 ネイサン・ヌーゲント音楽 アレックス・ウェストンキャストイザベル・ファーマン(アレックス・ダル:新入生)ディロン(ダニ)エイミー・フォーサイス(ジェイミー・ブリル:ライバル)ジョナサン・チェリー(ピート:コーチ)ケイト・ドラモンド(エドワーズ:コーチ)シャーロッテ・ウベン(エリン)ジェニー・ロス(ウィノナ)2021年・97分・G・アメリカ原題「The Novice」2024・11・05・no143・シネリーブル神戸no278追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.11.07
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「大蔵海岸から明石大橋!」 徘徊日記 2024年10月30日(水)明石あたり秋の空! ですね。 誰もいない秋の大蔵海岸です。明石と朝霧の間くらいの国道2号線沿いにある公園です。夏の間は水遊びをする人たちでにぎわいます。近くに、何とか温泉とかもあります。目の前に明石大橋が一望できます。 淡路島側から舞子まで、スマホで一遍に撮ることが出来ません。やっぱり、大きな橋なのですねえ(笑)。 こちらが、舞子側です。ちょうど飛行機が橋の上を飛んでいましたが、もちろん、それを写す技術はありません。船だって、さっきからたくさん通過しているのですが・・・💦。 これが、大蔵海岸です。さっきから繰り返し公園の放送が禁煙を促しています。受動喫煙防止にご協力ください! とか何とか、「あのぉー、誰もいないんですけど・・・」 愚か者で小心者のシマクマ君はタバコがやめられません。こういう風景を見ながら・・・、なのですが、放送が気になってお茶だけです。 松林の中に、こんな彫刻(?)がありました。片方がこけたまま放置されているのかとかおもいましたが、まあ、あたりまえですが、違いました(笑)。 写真の表示は読めないかも、ですが、「明日」という彫刻だそうです。1995年の震災のモニュメントのようです。30年、あっという間というか、ボクは、相変わらず「明日」とか、「希望」とかいう言葉が好きですが、時間はどんどん経つのですね。にほんブログ村追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです
2024.11.06
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「三島大社」 徘徊日記 2024年10月20日(日)三島あたり その1 昨日、2024年10月19日は三島に泊まりました。ドーミン・インとかいう人気のホテルでした。夜泣きソバのサービスと展望風呂が売りですが、久しぶりの旧友交歓の一夜でバタンキューの宿泊でした。(笑) 朝起きると窓から見える目の前は工事中でした。JRの三島駅の駅前広場が新しくなるようです。 で、東京組のMさんと大阪組のMくん、Nくん、そしてシマクマ君の4人で三島徘徊に出発です。先導は、一緒にどこに行っても、たいていの観光地を知っている、まあ、三島の町も初めてではないらしい、Mくんです。「まずは三島大社に行こう!」 の掛け声、一声、ホテルから歩いて行けるらしい三島大社とやらに向かって出発です。 10分ほど南に向かって歩くと鎮守の森が見えてきました。 由緒正しい神社のようです。東海道を歩いてくると、次は箱根越えという最後の宿場にある神社です。 北東の方角から歩いてきたので、正面ではなくて東側の通用門というか、裏口というかから入りました。植樹は鬱蒼としていて、いい雰囲気ですが、絵馬の祀ってある手前に何かあります。 向うに写っているのは神楽殿ですが、面白そうなのは手前の石です。 千年ほど昔、源頼朝と北条政子が座った石だそうです。ナルホド!というか、ホントかよ?というかですが、源頼朝が源氏再興を祈った由緒正しいお宮で、大山祇命を祀っている伊豆一宮だそうで、そういえばここから南に向かえば伊豆半島ですね。 神楽殿ですね。とりあえず撮った写真はのせようかなということで(笑)。 きんもくせいが天然記念物だそうで、大変な古木なのですが、季節なのに花が咲いていません。そういえば、昨日の富士霊園も、この季節の名物は金木犀だとか、何処かに書いてありましたね。オヤ、神社の一画に鹿がいます。周りは柵で囲まれているようで、入って行くことはできません。 神鹿園だそうです。どこかに縁が書かれているのでしょうが、思い浮かぶのはお酒の名前ですが、あれは白鹿でしたかね。そんなことを考えながらのぞき込んでいると、大阪組のNくんが何かいい始めました。「あんな、この鹿の向こうに、三島暦の館かなんかいうて、暦つくってるとこがあるはずやねん。」「三島暦?」「暦ってカレンダー?」「ああ、昔のな。」 早速スマホかなんかでM君が調べています。「ああ、あっちや。」 というわけで、鹿園の向うの神社の裏口からウロウロ出て行く4人組です。 で、三島暦の館(仔細は「三島暦師の館」の記事でどうぞ)でお勉強した4人組が再び三島大社に戻ってきました。 南の、正面の鳥居です。神社の境内は休日ということもあって、かなりな人出だったのですが、4人組は、だれ一人、本殿に参拝した形跡がないのが、まあ、そういうお友達ですね。かくいうボクも、「何が祀ってあるのだろう?」 の興味はありましたが、行列してお参りしていらっしゃる人たちの列に入る根性はありませんでした(笑)。 神社の前の道が、昔の東海道だそうです。 さて、これからどうしようなのですが、やっぱり、Mくんです。「じゃあ、次は柿田川公園に向かうよ!」 というわけで、三島徘徊は続きます(笑)。にほんブログ村追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです
2024.11.06
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いしいしんじ「いしいしんじの本」(白水社) いしいしんじの文章が好きなのですね。 で、市民図書館とかの新入荷とかの棚で見つけるとかならず借りるんです。横着なので日本の作家の「イ」の棚に行ったりはしないんです。 で、今回も新入荷の棚で見つけたのですが、ほぼ10年前、2013年の一刷の本で、???だったのですが、やっぱり楽しく読みました。 書評とか、まあ、流行の言葉でいえばブックレビューとか、文庫本の解説とか、新聞の文芸欄の記事とかを集めたエッセイ集でした。 いしいしんじのなにがどう好きなのかと問われると返答に困るんですね。好きだから好きだというしかないところが、多分、彼の文章の特徴だと、まあ、ボクは思っているわけで、たとえばこんな本の紹介があって、よしよしなのです。『ペルソナ』鬼海弘雄鬼海弘雄が今日も写真を撮りつづけているというのは、おおげさでなく、人類の希望だと思う。このように人間を見、人間の姿をこの世に残すことが、ひとりの人間にできるというのは、この現代においてほとんど奇跡。『ペルソナ』は、写真集はもうこれ一冊でいいという本。ときどき、本はこれ一冊あれば、という気持ちにもなる。(P201ふたば書店選書リスト2011「おすすめの30冊」) で、そのとなりに斎藤道雄の「悩む力」、もうちょっと先に「海街dairy」だったりします。「海街dairy」吉田秋生よくいわれていることかも知れませんが、小津安二郎の作品を想起させます。けれども、ある意味小津を超えている。日本漫画にしかできないことが、ここでは易々と、あらゆるページ、あらゆるコマのなかで魔法みたいに達成されている。鞄に入れて持ち運べル、ポータブル鎌倉。波音や蝉時雨、谷をわたってくる風音つき。(P204) まあ、書きかたもですが、ラインアップがいいですね。手元に置きたい本ですが、やたら買いの結果の積読の山の再来に陥るのが怖いので、市民図書館です。 とりあえず、目次を載せておきます。一つ一つの文章が短いので、ちょっと、大変な量ですが、後ろに、そこで話題になっている作品名、書名、をつけました。作家の名前も付ければいいのですが・・・、一応クイズということで(笑)。 まあ、ボンヤリ眺めていただければいいかなと。ボクは新しい本と出合うのが嬉しくて、こういう本を読むことが多いですね。目次はじめに ティーンエイジャーのいしいしんじ 「婦人画報」韓国のひとたちへ 「トリツカレ男」本を読んで大きくなる 「漱石・太宰・賢治」みさきのすきま 「エクソフォニー他」浮遊する世界 「パンク侍」アメリカの幸福 「世界のすべての八月」林芙美子の庭 背中のなかの巨大な手 「もうおうちへかえりましょう」問いかける言葉 「自分と自分以外」ケストナーさんへ 軽々と歩くひと 「恋するように旅をして」サイン本の絵柄 旧制高校の必読書 「愛と認識との出発 他」詩の起源 「おわりの雪」舞い降りる物語の断片 「おわりの雪」「わからないもの」のかたち 「ハミザベス」主人公の気持ち 「梶井 他」うみうしのあわい 「ポーの話」ふたりの旅人 「200X年文学の旅」本が置かれる棚 「アメリカの鱒釣り」仕事をしていない人間はひとりもいない 「流刑地にて」他円、矢印、方形 「残光」わからなさの楽しみ 「こどもの一生」本は向うからやって来る 「ジャコメッティ」収縮する距離 「海」ことばをドリブルする 「聖女チェレステ団の悪童」イリノイの夏 「レイ・ブラッドベリ大全集」「もの」にまつわる「ものがたり」 「古いものに恋して」寄席に入ってきいてみる 「圓太郎馬車」巡礼路の光景 「たいようオルガン」「めくり終える式」読書 「天才バカボン」他洞窟ツアー 「たいようオルガン」中原中也の詩を読む、という出来事流れていくに委せる 「ノルゲ」自分でハワイをやる 「金毘羅」他多数文章が「揺れ動く」 「土星の環 イギリス行脚」闇の中の物語 「灯台守の話」書くということ 「大竹伸朗」霧のなかの本 「きりのなかのサーカス」透明な穴に飛び込む 「中島らも」動物ばかり 「白痴」(ドストエフスキー)中国という感覚にのみこまれる 「転生夢現」時間に遅れる子ども 「走れメロス」他ページのむこうの特別な時間 「原っぱと遊園地2」笑える本 「吾輩は猫である」他開かれた小説 「ボディ・アンド・ソウル」とっておきの秘密の沼で 「四人の兵士」ボロボロになった背表紙 「デカルトからベイトソンへ」多次元のスポロガム 「大洪水」広大な宇宙の暗み 「見えない音、聴こえない絵」ふたつの北極 「極北で」大正時代の聖書 ハマチとの子 「夏の水の半魚人」金木町のブルース 「津軽」他厚い本に手が伸びる 「魔の山」他西脇順三郎という水を飲む 「葦」見えないけどそこにある 「冥途」他鬼海村と戌井村 「まずいスープ」「夢」と「ロマン」 「真鶴」他小説を「生きる」時間 「坊っちゃん」他様変わりする風景 「がらくた」本はSP盤のように 「メイスン&ディクソン」他乱反射するいのち 「馬鹿たちの学校」トーマス・マンの菩提樹 「魔の山」おすすめの三十冊 「灯台へ」他目がさめるまでの時間 「火山の下」他寝ているあいだに小説は育つ 「ジュージュー」名指ししたことのない光 「星へ落ちる」たちのぼり、流し去る 「ウォーターランド」大坂で笑い、のたくることば 「あめりかむら」人間を拡げる心地よい違和感 「野生の探偵たち」他まどろみの読書 「失われた時を求めて」ともに歩いていく仲間 「野蛮な読書」妄想の花 「円朝芝居噺 夫婦幽霊」猫の卵 「ふしぎなたまご」たくらみと、自然なふくらみ 「持ち重りする薔薇の花」まわりつづけるノイズ 「一一一一一」戦うボニー 「ぶらんこ乗り」みんなと「ともだち」 「サブ・ローザ」目で読む音楽 「注文の多い料理店」他ブラジルから響く、遠い新しい声 「遠い声」(松井太郎)「はじめて」の作家 「ブラッドベリ」ふくらみの物語 「許されざる者」恋愛の幾何学模様に風が吹いて 「ひらいて」小説を書いているあいだ 長新太の海 塗師のうつわ 「名前のない道」 いや、ホンマに膨大になりました。ここまでお付き合いご苦労様でしたね(笑) 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.11.05
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「10月も末の夕顔 その2 」 ベランダだより 2024年10月31日(木) ベランダあたり 2024年、10月30日、水曜日の宵の夕顔です。神無月もあと2日です。2日経てば、11月、霜月ですが、我が家の夕顔は毎晩、一つか二つづ咲き続けています。 咲く限りは、写真に残してやろうというのがシマクマ君の気持ちです。 おんなじような写真ばかりで芸がないので、俳句を探しました。夕顔に女世帯の小家かな 正岡子規 夕顔やかつて手捲きの蓄音機 森澄雄明日のこと口には出さず夕顔に 稲畑汀子 夕顔といえば、正岡子規の句の感じですが、森澄雄のユーモアセンスと、稲畑さんの心の姿の描写がいいですよね。 で、こちらが、10月31日の朝、咲き残っていた花です。普通、朝日が当たると萎れるのですが、気温が20度を切って、少々寒いということもあるのでしょうね、朝になっても咲き続けています。 さて、いつまで咲き続けるのでしょうね。 チッチキ夫人は春の鉢植えの準備がしたいようですが、夕顔と風船カズラ、まだ、お元気で、植木鉢を譲ってくれそうもありませんね(笑)。にほんブログ村追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです。
2024.11.04
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アンソニー・チェン「国境ナイトクルージング」シネリーブル神戸 見終えたのは、まだ三日前なのですが、なんだかずっと昔に見て、思い出したような気がする映画を見ました。 最初、スクリーンに写った風景は湖か川なのでしょうね、凍り付いているようで、そこから氷の塊を切り出して、どこかに運んでいるシーンでした。 どこなんだろう? そう思いながら見ていましたが、中国の吉林省、延吉という町の、だから、北朝鮮との国境に流れている川の風景なのでした。 アンソニー・チェン監督の「国境ナイトクルージング」です。 それぞれ、20代かな、という印象の男2人、女1人の3人の若者の出会いと、まあ、よくいえば、新しい出発のお話でした。 広い、中国の最北部の町で、そこに、事情はそれぞれでしたが、3人の若い男女が流れ着いていて、「ナイトクルージング」するのですが、まあ、見ながら、こういう設定のお話ってたしか・・・、 と、ボンヤリ浮かんだのはフーボーという監督の「象は静かに座っている」という映画でしたが、夜中の動物園に忍び込むわ、とどのつまりは熊まで出てきたのには、ちょっと笑いました。 フーボーの映画は満州里でしたから、ロシアとの国境ですが、こちらは延吉で朝鮮との国境です。こちらの国境には、中国名は長白山というらしいですが、朝鮮では白頭山と呼ばれている、まあ、信仰の山があって、高校の世界史では高句麗という名で覚えた地域ですね。朝鮮族の町で、映画の中で白頭山を歌うアリランの歌が歌われて、話の筋と何の関係もなような気もしたのですが、ボクには違和感どころか、妙な感動が湧き上がってしまって、うーん、これって何の映画なん? という気もしました(笑)。 北京や上海に暮らす中国の人たちにとっては最果ての地の一つなのでしょうね。もっとも、見ているボクは、さっきも言いましたが、そこが面白くて、たとえば、白頭山の天池について、「天池に行こう!」 と主人公の一人が口にした時に、「エッ?天池?!」 と、またしてもボクの頭に浮かんできてしまったのですね。 日野啓三という贔屓の作家の晩年の作品に「天池」ってあるんですよね。そも小説の「天池」が、この映画の「天池」だったのかどうか、まあ、小説の内容はまるで忘れていたのですが、それが浮かんできて、「天池って?」 という興奮なのですが、映画の3人は途中で挫折してしまって、引き返しちゃってガッカリなのでしすが、まあ、2700メートルはあろうかという冬の白頭山に、あの格好で登るのはさすがに無理でしょうね。 興味津々だった天池ですが、最後の方で、ちょっとだけ出てきただけで、あんまりピンときませんでしたね。残念! まあ、そうはいいながらですが、出ている3人の役者さんが、それぞれ印象的でよかったですね。 観光ガイドをしていて、やたらタバコを吸うナナを演じていたチョウ・ドンユイ周冬雨さんという女優さんは、中国ではかなりな人気俳優さんらしいですが、確かに気に入っちゃいましたね。拍手! でも、残りの二人の、上海から来たらしいハオフォン役のリウ・ハオラン劉昊然くん、四川から流れてきたシャオ役のチュー・チューシャオ屈楚蕭くん、二人ともよかったですね。こっちも拍手!。 日本の若い俳優さんの演技って、何となくシラケてしまうのですが、同じ東洋系の顔なのに、中国とか韓国の俳優さんの振舞いはシラケないのはなんででしょうね。まあ、一つは日本語をしゃべらないからだと思うのですが、どうも、それだけじゃないですね。 そういえば、監督のアンソニー・チェンさんですが、つい昨日見た「HAPPYEND」のプロデューサーに名を連ねていましたね。若い人たちの、大人との距離感が似ているテイストの青春群像映画だと思いましたが、こっちの方が自然な印象をうけたのは外国の話だからでしょうかね。 ただ、この映画について、よくわからないことが一つあったんですね。話の端々に「指名手配」の犯罪者の存在が暗示されていて、とどのつまりには逮捕されるシーンまであるんです。上海から来たハオフォン君、当人か、彼がらみの何かがあるのかと思いましたが、どうも違うようです。だとしたら、あのエピソードは何なんやったんや? なのですが、やっぱり、最果ての国境の町、という設定と関係があるのでしょうかね。監督・脚本・製作 アンソニー・チェン製作 メン・シェ撮影 ユー・ジンピン編集 ホーピング・チェン スー・ムン・タイ音楽 キン・レオンキャストチョウ・ドンユイ周冬雨(ナナ)リウ・ハオラン劉昊然(ハオフォン)チュー・チューシャオ屈楚蕭(シャオ)2023年・100分・PG12・中国・シンガポール合作原題「燃冬」英題「The Breaking Ice」2024・10・26・no138・・シネリーブル神戸no276追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.11.04
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岩井圭也「われは熊楠」(文藝春秋社) 岩井圭也という人の「われは熊楠」(文藝春秋社)という、南方熊楠という人物の生涯を描いた伝記小説を読みました。 岩井圭也という人の作品を読むのは初めてですが、直木賞の候補に選ばれた作品のようです。南方熊楠という、明治から昭和にかけて生きた人物の生涯を追った作品でした。南方熊楠って誰?なんて読むの? 若い人たちには、まあ、そういう感じで受け取られる人物であり、名前なんじゃないかと思いますが、実は、かなり有名な方で、伝記を小説化した作品では、ボクが読んだことのある作品だけでも、かなり古いのですが、1980年代の終わりころの作品で、神坂次郎の「縛られた巨人 南方熊楠の生涯」(新潮文庫)、津本陽の「巨人伝」(文春文庫上・下)という、それぞれかなりな大作(内容は覚えていませんが)がすでにあります。 それから、たとえば、1990年ころですが、当時、ニューアカの旗手の一人だった中沢新一というような人も「森のバロック」(せりか書房・講談社学術文庫)とか、「熊楠の星の時間」(講談社メチエ)とかで繰り返し話題にしていて、多分、ある種の熊楠ブームだったんでしょうね。 ボク自身は興味を持っていて、結構、読んだ人ですが、ああ、そうそう、坪内祐三という方に「慶応三年生まれ 七人の旋毛曲り 漱石・外骨・熊楠・露伴・子規・紅葉・緑雨とその時代」(講談社文芸文庫)という面白い評論?エッセイ?にも名前が出てきますね。 ちょっと話がそれますが坪内祐三のこの本は「明治」という時代に興味をお持ちの方にはおススメですね。司馬遼太郎の「坂の上の雲」(文春文庫・全8巻)が、到達点からの振り返りだとすれば、こっちは、慶応三年というのは、翌年が明治元年ですからね、明治と同い年の人物たちの生きざまを始まりからの視点で追ったという意味で面白いですね。 というわけで、南方熊楠、みなみかたくまぐす、くまくすと読む場合もあるようですが、慶応3年生まれの一人である彼が何者だったのか? というわけですが、慶応3年、1867年5月18日に生を受け、昭和16年、1841年12月29日に亡くなるまでの74年間、坪内風にいうならつむじを曲げ続けて、学問だけを生きた人です。天才とか、奇人とか、孤高の巨人とか、大博物学者とか、まあ、いろいろの呼び名がありますが、ボクには、その正体を一言でいう根性も知識もありません。だって、粘菌とか、曼荼羅とか、大英博物館とか。だいたい、粘菌って、わかります?(笑) でも、やっぱり気になるんですよね。で、まあ、目の前にこういう本があると読んでしまうわけです。 もし、ウキペディアとかで調べてみて興味がわくようなら、この「われは熊楠」を読むと、熊楠の生涯のあれこれが、まあ、年齢に沿ってとても分かりよく描かれていて、ああ、そうか、面白い人だな! と腑に落ちます(笑)。 本書は、それぞれ、第1章「緑樹」から第2章「星花」、第3章「幽谷」、第4章「閑夜」、第5章「風雪」、そして第6章「紫花」と題し、6章立てで、南方熊楠の生涯を追っています。 和歌浦には爽やかな風が吹いていた。 梅雨の名残りを一掃するような快晴であった。片男波の砂浜には漁網が拡げられ、その網で壮年の漁師が煙管を使っている。和歌川河口に浮かぶ妹背山には夕刻の日差しが降りそそぎ、多宝塔を眩く照らしていた。 妹背山から二町ほどの距離に、不老橋という橋が架かっている。紀州徳川家の御成道として、三十数年前に建造されたものであった。弓なりに反った石橋で、勾欄には湯浅の名工の手によって見事な雲が彫られている。 その雲に、南方熊楠はまたがっていた。(P5) これが書きだしです。で、ネタバレみたいですが下が結句です。 人魂となった熊楠は、夏野原を駆けていく。熊楠は世界であり、世界は熊楠だった。沖の方角から、爽やかな海風がふわりと吹いた。 それは、熊楠がこの世に生を受けた日の風であった。(P128) 生まれたときから、魂となって飛び去って行くまで「爽やかな風」に吹かれて生きた男というのが、この作家の南方熊楠です。だからでしょうね、希代の奇人の生涯を気持ちよく読み通すことが出来ます。 まあ、そこがこの作品のよさでもあり、物足りなさでもあるのでしょうが、ボクは、この若い作家が、今時、南方熊楠なんぞに挑んで「こんな人がいた!」 と世にさしだしている姿勢というか、態度に好感を持ちました。なんとなく、一つの時代が終わりつつあることをボクは、実感というか、肌合いというかでは、かなり、リアルに感じています。新しい時代が、新しいはじまりの時代なのか、破滅の時代なのかはともかくとして、とりあえず、南方熊楠なんていう、変人に関心を持つ人がいることに、何となくな期待と希望を感じます。若い人に読んでほしい作品ですね。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.11.03
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「10月も末の夕顔。その1」 ベランダだより 2024年10月29日(火)ベランダあたり もう10月も末だというのに夕顔です(笑)。 ここのところ、毎晩、一つか二つづつ咲いています。夕顔のホントの季節は知りません、でも、やっぱり、夏の終わりのけだるい夕暮れ をイメージしますが・・・(笑)。 で、最初の上の写真が10月26日(土)です。 こちらが10月27日(日)。どれも同じに見えるかもしれませんがちがいます(笑)。 で、これが10月28日(月)。2枚あります。下の写真も10月28日の花です。 で、この下の写真が10月29日(火)です。 玄関の花瓶には山茶花です。歌にもありますが、初冬から、冬にかけての花ですよね。そういえば、町を歩いていてたき火がなつかしい季節 を実感し始めています。 40年ほど前の団地では、1年に何度か、たき火をする風景もあったのですが、町でもそうですが、見なくなりましたね。 まあ、火事が起こってはという安全の配慮と洗濯物がすすけるという煙の苦情によるのでしょうかね、焚火はいろんなところで禁止されています。但馬の田舎だってたき火したら叱られるんですからね。 安全と安心が大事なの時代ですが、夕顔が11月になっても咲いてる時代でもあります。 たき火でお芋を焼く楽しさを知らない子供たちが「落ち葉焚き」の歌なんて、歌うはずがないですよね(笑)。寂しい時代になりましたね。にほんブログ村追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです
2024.11.02
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キム・ドクミン「DOG DAYS 君といつまでも」キノシネマ神戸国際 予告編で見かけて、封切りを待っていました。雨の金曜日でしたが出かけて見ました。はい、文句ありません!(笑) 登場人物は皆さんいい人ばかりで、出てくるワンちゃんはみんな芸達者、子役のユン・チェナちゃんも、お話の展開にはいなくてはならないとてもいい役柄で、演技もあどけなくてしっかりしていて、大健闘でしたね。いや、ホント、ほのぼのとさせていただきました(笑)。 ああ、そうそう、見たのはキム・ドクミン監督の「DOG DAYS 君といつまでも」でした。 わが家では「三食ごはん」とか、「ユン食堂」とかいう、韓国のテレビ番組が人気なのですが、映画「ミナリ」で拝見して以来、「ユン食堂」の店主さんとして応援させていただいているユン・ヨジョンさんが、ワンちゃんのワンダくんとの二人(?)暮らしの女性建築家で、筋の通ったインテリとして登場し、三食ごはんとかで、魚の扱いが苦手なおじさんとして笑わせていただいているユ・ヘジンさんが、犬嫌いで、その場しのぎで、見るからにモテない不細工オヤジで、でも、ホントは、人のいい不動産屋を演じていて、まあ、安心して見ていられる作品なのですが、ボクが気に入ったのはアルバイターのジヌ君を演じるタン・ジュンサンくんと動物病院の先生をやっていたキム・ソヒョンさんですね。 まあ、また、すぐに忘れてしまうのでしょうが、それぞれ、たたずまいというか、いい雰囲気の俳優さんだと思いました。拍手!です。 それにしても、これだけホンワカ罪のない話 で2時間楽しませてくれるのですから、やっぱり韓国映画おそるべし!(笑) 何がやねん(笑) ですね。拍手!監督 キム・ドクミンキャストユン・ヨジョン(ミンソ:建築家)タン・ジュンサン(ジヌ:ミンソと犬を探すアルバイト)ユ・ヘジン(ミンサン:不動産屋)キム・ソヒョン(ジニョン:ミンサンに家を借りている動物病院DOG DAYS院長)キム・ユンジン(ジョンア:ソニョンの妻)チョン・ソンファ(ソニョン作曲家)ユン・チェナ(ジユ:ジョンアとソニョンの養女)ダニエル・ヘニー(ダニエル)イ・ヒョヌ(ヒョン:男前のバンドマン)2024年・120分・G・韓国原題「도그데이즈」英題「Dog Days」2024・11・01・no141・キノシネマ神戸国際no16追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.11.02
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岸田奈美「もうあかんわ日記」(ライツ社) 今日の読書案内は「だいじょうぶ!」 の掛け声が気に入って立て続けに読んでいる岸田奈美さんのエッセイですが、なんと、こんどは「もうあかんわ日記」(ライツ社)です。 彼女が中学生だったころお父さんが亡くなって、心臓病で大手術の結果、下半身不随、車椅子生活を余儀なくされているおかあさんと、身の回りのことはなんとかできるけれど、やっぱりダウン症ということで、あれこれ心配な弟との三人の生活を、「だいじょうぶ!」の掛け声のもと、なかなかユニークなエッセイを、多分、ネット上で発表されて、それが書籍化された本なのでしょうね、それぞれ、同じような装丁で小学館から出ている「国道沿いでだいじょうぶ100回」、「家族だから愛したんじゃなくて愛したのが家族だった」と、発表順は逆ですが、読み続けている岸田奈美さんの三冊目は、「もうあかんわ」 でした(笑)。 ネット世代の新しい作家として大忙しの岸田さん自身の生活と、作業所やグループホームでの暮らしで、日々変貌を遂げる弟良太くん、車椅子生活者として、積極的に社会的活動を始めたお母さんのことを語る岸田節が面白くて、すっかりはまっていたのですが、「もうあかんわ」でした。 危機の始まりは、お母さんを襲い始めた日々の発熱で、まあ、お読みになればすぐにわかりますが、かつて手術なさった心臓の部品の老朽化のために、再度の命がけの手術が必要だという大事件の勃発でした。 多忙な東京生活から、神戸への帰省を余儀なくされた岸田さんですが、新たな関門は、コロナの騒ぎのなかでのお母さんの病状確認、通院、入院の経緯もさることながら、おバーちゃんでした。お母さんのおかあさんということで同居が始まっていたおバーちゃんは老化によるタイムスリップが常態化していたのでした。 母の大病の心配、入院までのあれこれ、手術の経過、言葉によるコミュニケーションが、今一つ成り立たない弟と祖母との生活、その上、ベランダの鳩(笑)まで、そりゃあ、「だいじょうぶ」とも言っていられませんよね。 本書はお母さんの発病から、退院まで、ほぼ二月間の日記的エッセイです。前半の数日は、ちょっと可哀そうで見てられませんという気分でしたが、手術が成功して、帰宅という頃になると、やっぱり「だいじょうぶ!」という感じで、ハラハラドキドキしますが読ませます。いやー、聖火リレー、大丈夫でよかったね(笑) 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.11.01
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