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「明治34年11月6日 ( 水 ) 子規・正岡常規より在ロンドン漱石へ
僕ハモーダメニナッテシマッタ、毎日ワケモ無ク号泣シテ居ルヨウナ次第ダ、ソレダカラ新聞雑誌ヘモ少シモ書カヌ。手紙ハ一切廃止。ソレダカラ御無沙汰シテスマヌ。今夜ハフト思イツイテ特別ニ手紙ヲカク。イツカヨコシテクレタ君ノ手紙ハ非常ニ面白カッタ。近頃僕ヲ喜バセタ物ノ随一ダ。僕ガ昔カラ西洋ヲ見タガッテ居タノハ君モ知ッテルダロー
―中略―
僕ハトテモ君ニ再会スルコトハ出来ヌト思ウ。万一出来タトシテモソノ時ハ話モ出来ナクナッテイルダロー。実ハ僕ハ生キテイルノガクルシイノダ。僕ノ日記ニハ「古白曰来(古白曰く、来たれり)」ノ四字ガ特書シテアル処ガアル。
書キタキコトハ多イガ苦シイカラ許シテクレ玉エ。
明治三十四年十一月六日 燈下ニ書ス。 東京 子規拝
倫敦ニテ
漱石兄(註 古白とは、先年自殺した、二人の共通の友人、藤野古白のこと。)
この手紙を書いた 正岡子規
という人が短歌・俳句の革新という近代日本文学史に残る歌人で、相手がロンドン留学中の 漱石・夏目金之助です
。
正岡子規
はこの手紙の十ヶ月後の 明治三十五年九月十九日
、
糸瓜咲いて痰のつまりし仏かな と詠んで、 永眠 しました。 享年35歳 でした。彼の命日は 「糸瓜忌」 、 「獺祭忌」 とも呼ばれています。今、思えば、若い、あまりにも若いですね。
痰一斗糸瓜の水も間に合わず 漱石 が倫敦で、 子規 の訃報を聞いて詠んだのが次の句です。
をとヽひのへちまの水も取らざりき
倫敦にて子規の訃を聞きて
筒袖や 秋の棺に したがわず
手向くべき 線香もなくて 暮れの秋
霧黄なる 市に動くや 影法師
きりぎりすの 昔を忍び 帰るべし
招かざる 薄(すすき)に帰り 来る人ぞ
何とも言いようがない哀しい句がならんでいますね。ちなみに 「きりぎりす」
は、野原で野球に戯れていた 子規
の若かりし日の風情の表現と取るのが、一般のようです。
二人は 明治と同い年
の同級生です。話が、横にそれたっきりですが、こういう事もこの 岩波文庫
でみんなわかるといいたかったわけです。
どうぞ手に取ってみてください。ただ、 子規
の辞世の句は、 「病床六尺」(岩波文庫)
には載ってないようです。
ちなみに、 正岡子規
は 本名「常規」、通称「升(のぼる)」、号が「子規」
です。 獺祭書屋主人
とも名乗りました。また、 漱石
の命日は 1916年、大正5年12月9日
です。こちらは 「漱石忌」
と呼ばれているようですね。
岩波文庫
についておすすめを書くつもりが横道にそれました。あしからず、ご容赦ください。(S)
追記2019・07・31
伊集院静「ノボさん(上・下)」(講談社文庫)
は、 正岡子規
の伝記小説といっていいと思いますが、出色の出来栄えです。彼の世話を、献身的に続けて、最後を看取った母 「八重」
と妹 「律」
を描いたところがこの作品の肝でした。
八重が子規の臨終の場で発する、最後のセリフ
は、ここには書きませんが、今思い浮かべても涙が出ます。
この母と妹あっての、
子規
だったことを、つくづくと感じさせられました。気に留められた方はどうぞ、お読みください。
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