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読書案内「BookCoverChallenge」2020・05 16
読書案内「リービ英雄・多和田葉子・カズオイシグロ」国境を越えて 5
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新井高子 編「東北おんば訳 石川啄木のうた」(未来社) 石川啄木が岩手県の出身の歌人であることはよく知られていますが、彼の短歌は「標準語」、あるいは、おそらく、当時、標準的であったのであろう「歌語」で書かれています。 啄木が使う言葉が「標準」的な「日本語」として、実際に彼が生きた時代に使われていた「口語」であったのかどうか、そのあたりにも面白いことがありそうですが、この本は、2011年の東北震災の後、大船渡という港町の仮設住宅に暮らしていた「おんば」たちが、その石川啄木の短歌を東北弁で「訳す」という試みです。 啄木が生きていれば、この試みをどう思うのか、喜ぶのでしょうかね。「東京」へ行きたかった啄木。停車場で故郷のなまりを聞いて泣いたに違いない啄木。春になれば、北上川の岸辺を思い浮かべていた啄木。 いろんな姿を思い浮かべながら、想像すると、やっぱり、泣きそうな気がしますね。いろんな意味で。 有名な短歌の「おんば訳」をここに引用してみます。訳なので、歌の調子は変わってしまっていますが、ちょっと読んでみてください。おだってで おっかあおぶったっけァあんまり軽くてなげできて三足もあるげねがァがったぁたはむれに母を背負いてそのあまり軽ろきに泣きて三歩あゆまず(「三足」は「みあし」・「おだづ」は「戯れる」、「ふざける」の意。)とっどきでも着て旅しでァなぁこどしも思いながら過ぎだどもなぁあたらしき背広など着て旅をせむしかく今年も思ひ過ぎたる(「とっどき」は「とっておき」、「こどし」は「今年」の意。)稼せぇでも稼せぇでも なんぼ稼せぇでもらぐになんねァじィっと 手っこ見っぺはたらけどはたらけど猶わがくらし楽にならざりぢつと手を見る友だぢが おらよりえらぐめえる日ァ、花っこ買って来てががぁどはなしっこ友がみなわれよりえらく見ゆる日よ花を買い来て妻としたしむ猫の耳っこ引っぱって、ネァッと啼げば、たんまげでよろごぶわらすのつさっこ。ねこのみみを引っぱりてみてにやと啼けば、びっくりして喜ぶ子供の顔かな。(「わらす」は「子ども」・「つさっこ」は「顔」の意) 仮設住宅で、交互に口語訳して笑いあっているオバさんたちの顔が浮かびます。ぼくは「稼せぇでも稼せぇでも」とか、「ががぁどはなしっこ」なんていう言い回しが気に入りました。言葉に「勢い」がありますね。まあ、そうなると、もう啄木じゃないような気もしますが、それはそれで、ということでしょうね。 最後のネコの歌は、「おんば」たちが「しあわせな子供の情景」を思い浮かべていらっしゃる様子が、「わらすのつさっこ」という「ことば」に響いていて、とてもいいなと思いました。 おもしろがりたい方は、是非、一度手に取ってみてください。にほんブログ村にほんブログ村
2020.10.24
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石川啄木「石川啄木詩集」(岩波文庫) 「飛 行 機」 石 川 啄 木見よ、今日も、かの蒼空に飛行機の高く飛べるを。給仕づとめの少年がたまに非番の日曜日、肺病やみの母親とたつた二人の家にゐて、ひとりせつせとリイダアの獨學をする眼の疲れ……見よ、今日も、かの蒼空に飛行機の高く飛べるを。 ぼくにとって石川啄木の詩といえばこれです。高校を出て、一年間京都に下宿して予備校に通ったことがありますが、その頃に出会った詩です。見よ、今日も、かの蒼空に 退職して数年がたちましたが、何もすることがない日々、ヒマに任せて「徘徊老人」を自称して歩いていますが、垂水の丘の上から海に向かって歩いている坂道で思う浮かぶのは、この詩句か、空の青さを見つめていると私に帰るところがあるような気がする という谷川俊太郎の詩の文句です。 どちらも、有名過ぎるくらい有名ですが、65歳を過ぎた老人の心を、今でも揺さぶる何かがあります。 先日、インターネットの動画を見ていると、作家の高橋源一郎さんが石川啄木について話をしているのに出くわしました。 彼は啄木の短歌を取り上げて話している番組でしたが、その中で、「生きていること、そのことが一寸悲しいことですよね。」 と語っているのを聞いて、急に、たった26歳でなくなった啄木を思い浮かべました。「ちょっと」どころではなかったに違いない、「悲しさ」の塊だった青年の、あまりにも早すぎる「死」のことをです。 啄木の詩が、馬齢を重ねる66歳の老人を「青年」時代に引き戻し続けるのは、当然といえば当然のことかもしれません。 ところで、彼が最後に残した「短歌」はこんな歌でした。庭のそとを白き犬ゆけり。ふりむきて、犬を飼はむと妻にはかれる。(悲しき玩具) そういえば、子どもの頃、犬が飼いたかった。そんなことを思い出させる歌です。この歌で詠まれている男と、詠んでいる啄木は恐らく同一人物でしょうが、詠んでいる男の「老成」には、やはり、とてつもなく哀しいものを感じます。 久しぶりに啄木を読み返したりしたのは、高橋源一郎さんの「日本文学盛衰史」を読み直しているからだろうと思います。それについては、いずれまた「案内」しようと思っています。にほんブログ村にほんブログ村
2020.10.18
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石川啄木「ローマ字日記」(岩波文庫) 夏目漱石と正岡子規の「往復書簡集」(岩波文庫)の話を、この「読書案内」に書いていて、昔、石川啄木の「ローマ字日記」(岩波文庫)という日記のことがテレビのバラエティというか、当時はやっていた、「へ-」の回数を競う番組で取り上げられた時のことを思い出しました。 「ローマ字日記」というのは、全編ローマ字で記されている日記なのです。旧制の中学校を中退してしまった石川啄木は英語やフランス語はできませんでしたが、ローマ字は書けました。だからと言って、どうして、わざわざローマ字なんかで書いたのかと思ってしまいますね。 いろんな説があるのでしょうが、すぐに思い浮かぶ理由の一つは「隠し事」ですね。日記を読む可能性のある人がローマ字を読めなければ隠し事を書き込むことができます。 先ほどの番組では啄木が妻や家族に隠れて「悪所」通いをしていて、その様子が、日記の中で、かなり赤裸々に告白されていることを笑っていました。「へー」のタップを繰り返すタレントたちの表情に、ぼくはわびしいものを感じました。 実際に、お読みになれば、わかっていただける方もいらっしゃると思いますが、この日記が隠したかったことは、妻や家族には言えない裏切りや不道徳行為だったのでしょうか。 日記は貧困と病気と空回りする野心の中で苦しみつづけていた25歳の青年の「苦悩の告白」なのですが、彼が隠したかったのは「絶望」そのものだったようにぼくには思えます。 ロ―マ字で書き始めたことには、むしろ、洋行など夢のまた夢であった極貧の文学青年の「明日」に対するかなわない期待が込められていたのではないでしょうか。 彼が明治の文豪の一人と数えられるようになるのは、死んでから数十年もあとのことです。「石川啄木全集」などという書物が、100年後の図書館の棚に、全八巻箱装で並んでいるなんて、青年「石川一」は夢にも思わなかったでしょう。 七転八倒しながら新しい表現に挑み、夭折した若き天才の不幸な人生を、俗悪で馬鹿なテレビ番組に、仕事とも言えない雛段出演して、食い扶持を稼いでいるテレビタレントが笑うのか。そういう、気分になったことを、今でも覚えています。 ついでですがテレビ局も啄木が浪費したお金は当時の朝日新聞社で筆をふるっていた夏目漱石の原稿を校正する給料の前借だったという事あたりまでを「へ-」の対象にしていれば、少しは認めてあげてもいい感じがしました。 大体、勉強不足なんじゃないですか、テレビなんてモノは。ぼくはその頃から見ないからわかりませんが、今はもっとひどいかもしれません。 啄木は26歳でこの世を去りました。死んでから、友人によってまとめられた歌集『悲しき玩具』の歌をひとつ紹介します。新しき明日の来たるを信ずという自分の言葉に嘘はなけれど (悲しき玩具) 冷え切った夢や希望を懐に抱きながら、苦闘する青年歌人について、同じ時代を生きた、ニ十歳年上の漱石がどんな眼差しを向けていたのか。実は、どなたもが教科書でお出会いになる「こころ」という作品の登場人物の「先生」と「私」の年齢の差は、漱石と啄木のそれとぴったり一致しているのですね。 そのあたりを小説家の高橋源一郎が「日本文学盛衰史」(講談社文庫)という小説で書いています。この小説は面白かったですね。 もっとも、この小説では、啄木はポケットだかフトコロだかにポケベルを忍ばせており、貧しいだけの下宿にはビデオを再生できる、多分、テレビ受像機があるという設定になっていますから、お読みになることはお勧めしますが、くれぐれも癇癪を起こさないようにしていただきたいとは思いますが。 追記2022・06・09 何となくネットを検索していて驚くというか、ちょっと笑いましたが、今や、石川啄木も「5分でわかる」時代になっているようです。「5分ですよ、5分。」あんまり簡単にわかり過ぎて、何がわかったのかわからなくなりそうですね。 最近、「100分でわかる」というのがハヤリのようで、それにしても、たとえば「カラマーゾフの兄弟」を100分でわかってどうするのでしょうね。物知りタレントらしい伊集院某は「カラマーゾフの兄弟」全編を読んだことがあって、その感想と、今、100分でわかったらしいことを比べるということはしているのでしょうかね? まあ、なんでもわかりたい時代なのでしょうね。「之を知るを知ると為し、之を知らざるを知らずと為す。これ知るなり」とかいうエライ人の言葉があったと思いますが、そのあたりは、どうなっているのでしょうね。 なんか、当初の目論見と全く違う追記になりましたが、ジジくさくていいなと思うので、このまま載せることにします(笑)。 ボタン押してね!ボタン押してね!【中古】 日本文学盛衰史 講談社文庫/高橋源一郎(著者) 【中古】afbこれは傑作だと思います。今夜はひとりぼっちかい? 日本文学盛衰史 戦後文学篇 [ 高橋 源一郎 ]まだ単行本ですが、図書館ででもどうぞ。面白いですよ。
2019.08.02
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北原白秋「五十音」・西條八十「金糸雀」 北原白秋の童謡が気にかかって調べていて、こんなのを見つけました。ご存知でしたか。 「五十音」 北原白秋 水馬赤いな。ア、イ、ウ、エ、オ。 浮藻に小蝦もおよいでる。 柿の木、栗の木。カ、キ、ク、ケ、コ。 啄木鳥、こつこつ、枯れけやき。 大角豆に酢をかけ、サ、シ、ス、セ、ソ。 その魚浅瀬で刺しました。 立ちましょ喇叭で、タ、チ、ツ、テ、ト。 トテトテタッタと飛び立った。 蛞蝓のろのろナニヌネノ。 納戸にぬめってなにねばる。 鳩ぽっぽ、ほろほろハ、ヒ、フ、ヘ、ホ。 日向のお部屋にゃ笛を吹く。 蝸牛、螺旋巻、マ、ミ、ム、メ、モ。 梅の実落ちても見もしまい。 焼栗、ゆで栗ヤ、イ、ユ、エ、ヨ。 山田に灯のつく宵の家。 雷鳥は寒かろ、ラ、リ、ル、レ、ロ。 蓮花が咲いたら、瑠璃の鳥。 わい、わい、わっしょい。ワヰウヱヲ。 植木屋、井戸換へ、お祭だ。 漢字表記が読めない人も多いでしょうね。クイズにしたいようなものですが答えを書きます。 水馬(あめんぼ)・ 浮藻(うきも)・小蝦(こえび)・啄木鳥(きつつき)・大角豆(ささげ)・喇叭(らっぱ)・蛞蝓(なめくじ)・納戸(なんど)・日向(ひなた)・蝸牛(まいまい)・螺旋巻(ねじまき)・灯(ひ)・蓮花(れんげ)・瑠璃(るり)・井戸換へ(ゐどがへ) 全部かな書きにしてみると下のようになります。皆さん声に出して読んでみてください。今でも小学校では読まれているのでしょうか。 あめんぼあかいな。ア、イ、ウ、エ、オ。 うきもにこえびもおよいでる。 かきのき、くりのき。カ、キ、ク、ケ、コ。 きつつき、こつこつ、かれけやき。 ささげにすをかけ、サ、シ、ス、セ、ソ。 そのうお、あさせでさしました。 たちましょらっぱで、タ、チ、ツ、テ、ト。 トテトテタッタととびたった。 なめくじのろのろ、ナニヌネノ。 なんどにぬめってなにねばる。 はとぽっぽ、ほろほろ、ハ、ヒ、フ、ヘ、ホ。 ひなたのおへやにゃ、ふえをふく。 まいまい、ねじまき、マ、ミ、ム、メ、モ。 うめのみおちても、みもしまい。 やきぐり、ゆでぐり、 ヤ、イ、ユ、エ、ヨ。 やまだにひのつく、よいのいえ。 らいちゃうはさむかろ、ラ、リ、ル、レ、ロ。 れんげがさいたら、るりのとり。 わい、わい、わっしょい。ワヰウヱヲ。 うゑきや、ゐどがへ、おまつりだ。 なんか、いいでしょ。ぼくが思い出によっかかる年齢だからじゃなくて、音の響きが、まずいい。こういうのを見るとまたすぐ「美しい日本」とか言い出す人がいるのでかないませんが、ここで使われている言葉、語彙も素晴らしいですよね。 話は変わりますが、前回の案内で触れた「金魚」ですが、発表当時、子どもにはどうかと批判したのが西條八十。戦後は歌謡曲の作詞家として有名ですが、「青い山脈」とか「王将」ね、戦前は北原白秋・三木露風とともに、「赤い鳥」の詩人。「カナリア」は「赤い鳥」の詩の中で、童謡として曲がつけら、歌われた最初の詩だそうです。童謡は、ここから始まったというわけです。 「カナリア〈金糸雀〉」 西條八十 唄を忘れたカナリヤは 後ろの山に捨てましょか いえいえ それはなりませぬ 唄を忘れたカナリヤは 背戸の小藪に埋けましょか いえいえ それはなりませぬ 唄を忘れたカナリヤは 柳の鞭でぶちましょか いえいえ それはかわいそう 唄を忘れたカナリヤは 象牙の船に銀の櫂 月夜の海に浮べれば 忘れた唄をおもいだす どうですか、「金魚」の残虐性はオブラートにくるまれてはいますが、ないわけではありませんね。イノセントな人間の中にある「残虐」なものが、ちゃんと表現されています。 トンボや蝶の羽をちぎったり、カエルを解剖と称して切り裂くような経験は、ある世代までの子供には、特に田舎で少年時代を過ごしたぼくくらいの年代の人にとっては、不思議でもなんでもない記憶です。 それが、どこかで、禁止され、「残虐」だと否定され始めたのは、つい最近のことかもしれませんね。子どもたちのありさまとして、大人から恐ろしがられる行為に変わったことの経緯と、その後の子供たちの抑圧については、もう少しキチンと考えるべきことではないでしょうかね(笑)。にほんブログ村にほんブログ村北原白秋詩集改版 (新潮文庫) [ 北原白秋 ]北原白秋 (新潮日本文学アルバム)白孔雀 訳詩集 (岩波文庫) [ 西条八十 ]
2019.06.18
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