PR
カレンダー
カテゴリ
コメント新着
キーワードサーチ
台所と六畳の部屋のあいだに板の間があって、テーブルを隔て、二つの椅子が向かい合っている。そのテーブルで食事をとるが、新聞を読んだり、原稿をかいたりすることもある。 これがこの作品の書き出しです。会話をしているのは、お互いに80歳を目の前にした老夫婦です。小説は 「私」 の一人語りで終始する、いわゆる 「私小説」 の、いわば 生活告白小説 です。
今年の夏は何十年ぶりの暑さというが、九月に入っても残暑はきびしく。昼頃になると、額にあぶら汗がにじみ出た。クーラーが故障して、使えなくなったせいもある。
ところがその日は前日までの暑さが嘘のように秋を感じさせるようなさわやかな風が、朝から吹いた。
「あと五日すると敬老の日だね。いろいろ行事があるようだ。今朝の新聞に出ていた。
昼食のあとで、狭い庭の方へ眼をやりながら、そんなことを言うと、家内が、
「昨年の敬老の日はどうだったのかしら」
「さあ、覚えていないね」
「去年の夏は南瓜をよく煮たわねえ」
「そう言われると、そんな気もする」
「しばらく煮ないから、今日あたりどうですか。南瓜はあなたの身体にいいのよ」
遠慮がちに家内が言い出した。
(p103~104)
どこの八百屋に行くのだろうか。八百屋は駅前にもあるし、そこへ行く途中にもある。何件かあるマーケットでも扱っている。 ページの進行を見ていただければお気づきでしょうが、南瓜の買い物に出かけるまでに、たとえば買い物に出るだけでも気がかりがつのることになった「家内」に関する過去の出来事の記憶が描写され、 妻(家内) と 「私」 の生活の実態が徐々に明らかにされています。
忘れ物をしたり、あとから取りにいったりした家内を、八百屋の奥さんや魚屋の奥さんたちは、どう思っているだろう。言葉がすらすら出ないことがあるし、突然わけのわからぬことを言い出すこともある。そんなとき奥さんたちの顔に浮かぶ表情から、家内はなにか感じているに違いないが、泣きごとを並べたり、愚痴をこぼしたりすることは滅多にない。
それだけに帰ってくるまでが気がかりだ。 (P115~116)
その夜家内が九時ちょっと前にベッドに入るとわたしは座卓の前に座り、テレビの音を低くし、見るともなく見ていた。暫くそうしていた。それから立って家内の様子を見に行くと、寝息を立てている。いつものことだが、家内の寝息を聞くと、なとも知れない安らかなが気持ちになる。 (P120) 美しくも哀しい話なのですが、小説世界には「私」しかいないところが、この作家の真骨頂といっていいと思います。「私」の生活の周囲の出来事は「私」の目を通じてしか描けません。 「家内」 の内面については、その 私小説の原理 に従えばということなのでしょうね、わからないから書きません。
家内を起こし、急いで朝飯をすませることにしたが、食事をしているとき、家内はふと庭のほうに顔を向け、
「昨夜はすみませんでした」
低い静かな声。顔を見て、正常に戻ったことがわかった。一日のうち何回か正常の時間が訪れる。そうでない時間も、そのあいまににやってくる。双方が入りまじってっていることもある。正常な時間が訪れると、その時間が長く続くことを祈らずにはいられない。 (P137)
私小説的な作家の自意識の世界が、たとえば 「家庭」
とか 「夫婦」
とかいう世界を書くときに、相手が自意識を失うことによって、作家が生きている世界、それは書かれている世界だと思うのですが、その世界の底が抜けていくという劇的な展開が、この 「祈り」
を書いた次の作品 「そうかもしれない」
でやってきますが、この作品でも、主人公の 「祈り」
はすでに相手を失っているかに見えるところが、この作品の描く 「孤独」
の凄まじさだと思いました。
40歳を過ぎたころに読んだ時には、まあ、他人事だったのですが、今読み直して、その異様なリアリティにかなりへこまされました。
80歳でこの作品を書いた 耕治人
は、この作品を遺作のようにして、 1988年
に世を去るのですが、姓の 「耕」
は 「たがやす」
と読むのだということを今回知って、胸が詰まる思いを実感しました。
追記2022・12・11
ちほちほ
という人の 「みやこまちクロニクル」(リイド社)
というマンガを読んでいて思い出しました。こちらは生きてきたことと、今、生きていることの 「哀しみ」
が、天井から響く、
透き通った小さな音に重なって聞こえてきて立ちすくむという印象ですが、 ちほちほさん
「哀しい」
小さな事件に、立ち止まり、立ち止まり、しながら、生活の笑顔に戻っていく健気さにホッとする作品でした。そちらも、お読みになってほしいと思いました。
週刊 読書案内 永井荷風「濹東奇譚」(… 2024.02.25
週刊 読書案内 幸田文「木」(新潮文庫) 2024.01.03
週刊 読書案内 野上彌生子「森」(新潮… 2023.07.16