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「若い人たちは、そもそも 堀田善衛 とかご存じなのだろうか?」 まあ、大きなお世話なわけで、お読みになって興味をお持ちになれば、他の作品も、というふうでいいわけですが、なんだか妙な老爺心が浮かんできてしまって、
「ああ、あれがいい、あれを案内しよう」 と思ったのがこの本です。
目次 1949年生まれ の 百合子さん の思い出が彼女自身の記憶としてくっきりとしてとしてくるのが 「モスラのこと脱走兵」 のあたりからで、 百合子さん が小学生のころのことです。
「サルトルさんの墓」
「芥川賞と火事」
「モスラの子と脱走兵」
「ゴヤさんと武田先生の死」
「スペインへの回想航海」
「アンドリンでの再起」
「埃のプラド美術館」
「夢と現実のグラナダ」
「バルセロナの定家さん」
「半ばお別れ」
一九六一年。 ちなみに、 「方丈記私記」 の話は 一九七一年 、ぼくにとって長年、懸案になっている 「ゴヤ」 の話題が出てくるのは 一九七二年 です。
「三十余年の眠りから醒め 蘇る幻の原作!」
「えッ、この3人が原作者?安保闘争の熱気さめやらぬなか、戦後文学をだ評する3人の作家たちが、新しい大怪獣つくりにいどんだリレー小説。知る人ぞ知る、映画「モスラ」幻の原作、初の単行本化。遊び心と批評精神あふれる想像力の世界」
これは1994年に筑摩書房から出版された「発光妖精モスラ」の、何とも大げさな帯の文章です。初出は1961年の「週刊朝日別冊」、中村真一郎氏、福永武彦氏、堀田善衛、3人の合作小説(?)です。
映画になりました。砧の東宝の撮影所に、父と見学に行きました。中村先生、福永先生もご一緒でした。モスラが撮影所の真ん中にどーんと鎮座していました。モスラくんは大きな芋虫もどき、ゴジラより私は好きでした。七月、「モスラ」は全国の映画館で封切られ、なかなかの人気でした。夏休みが明け、学校に行くと、休み時間にどこからともなく、「モスラーヤ、モスラー」という歌が聞こえてきます。
私は穴があったら入りたかった。この原作に父も加わっていることを友達に知られたくなかった。この映画が、いかに、どのような意味がこめられていようとも、そんなことは子供にわかるはずがないのです。子供社会は難しい。モスラの子(?)などと、絶対に言われたくなかった。(P43)
一九七二年前半のころ、「朝日ジャーナル」誌より、翌73年からの連載の依頼がありました。「ゴヤ」です。父は、まだ早い、まだ取材が済んでいない、まだ見なければならない絵がたくさんある、と言って連載の依頼をいったん断りました。 と、まあ、こんな感じなのですが、それぞれのトピックは 「モスラ」 の話であれば、ベトナム戦争に従軍するアメリカの脱走兵をかくまう話とか、 「ゴヤ」 であれば、親友 武田泰淳の死 であるとかと重ねて思い出されています。そこに、 堀田善衛 という作家の社会や歴史に対する基本姿勢のようなものが浮かび上がってきて、ぼくには印象深い話になっていました。
母は言います。
「来年は五五歳にになる。「ゴヤ」を書くには体力がいる。今、始めなければ、もう書けない。残りの取材は書きながらすればいい」と、父のお尻を叩きました。
父は色よい返事をしないまま、七三年六月にA・A作家会議常設事務局会議に出席するためにモスクワへ出かけました。帰国後、父は言います。
「来年からゴヤをやることにする。モスクワからの帰りがけ、パリとマドリードへ寄った。何とかなるだろう。半年連載して、半年休み。その間に次の取材をする」
大仕事を開始するときに、父は家族に向かって一大宣言をするのが慣わしでした。そして最後に、「よろしく頼む」と言うのです。
「ゴヤ」のときはもう一言ありました。
「取材費はすべてこちら持ち。朝日には頼まない。それで手枷、足枷がつくのはご免だ」
「今までさんざん自前でやってきたじゃないの」と、母は笑っていました。
この後、母は「ゴヤ」執筆に父が専念できるよう、父の前に立ちはだかりました。編集者の方々は、母の関門を突破しないと、父に原稿の依頼ができません。父が電話に出ることはめったにありませんでしたから。出版界で噂されていたそうです。「披露山のライオン」と・・・・・。(P77)
「せっかく、堀田善衛を読むなら、ここまで付き合ってあげてね!」 とでもいうべきものです。テレビのグルメ番組のようなことをいってますが、若い読書グルメの皆さんが、前菜 「方丈記私記」 に続けて用意されている、メインディッシュに気づいて頂きたい一心の案内でした。 まあ、腹いっぱいどころではすまない量ですがね(笑)。
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