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私が出会った一冊 いかがでしょうか。文中の 新佃島 というのは 月島 の東の端の方でしょうね。 省電 は、 省線電車 、今の JR の 山手線 のことでしょうか。よく知らない土地なので、 吉本少年 がどの程度の距離を歩いて 夏目漱石 と巡り合ったのか、ぼくには定かではありません。彼は 1924年 、 大正13年 の生まれですから 昭和10年代の東京 です。
夏目漱石「硝子戸の中」
おなじクラスの仲よしと、いつものようにふざけあっているうちに、お前は赤シャツだとはやしたてられた。赤シャツって何だというと、夏目漱石の「坊っちゃん」のなかに出てくるんだという。スポーツ好きのそのクラスメートが小説を読んでいることも意外だったが、自分がからかわれても、何のことかわからないこともショックだった。
早速、日曜日になると、本を買うからと、父親からお金をもらって、神田の本屋街に出かけた。道がよくわからないので、新佃島の家から渡しを渡り、真っすぐ有楽町まで歩き、省電の線路沿いに神田へ出て、本屋街をたずねていったと記憶している。
文庫本の棚が道路から見える本屋さんにいきなり入ると、やみくもに漱石の「坊っちゃん」を探した。見つからず、たまたま並んでいた「硝子戸の中」という背文字の星ひとつの薄い文庫本を買って早々に引きあげた。短文の随筆集みたいなものだったが、印象がつよく、また暗く重たい感じだった。
なぜそう感じたか解剖できたわけではなかったが、この本の最初の印象がいまでも無修正のまま、わたしの漱石についての固定したイメージになっている。とりあえず「坊っちゃん」も、登場人物の嫌みな赤シャツも、すっとんでしまったが、漱石という文学者の暗さや重さと釣り合った文章の力強さは、今まで読んだどんな文章とも異質なものだった。
こんなふうに歯切れよく、悪びれずに自分が日常出会った記憶を書き記す世界があるのだと、はじめて知った。ちょうど十代の半ばごろだったが、わたしが文学書にのめり込んでゆくきっかけになったはじめての本が、この「硝子戸の中」だった。偶然手にした本だったが、後年になって何度も、あのとき「坊っちゃん」に出会えないで「硝子戸の中」に出会えたことは幸運だったと思い返した。(P248~P249)
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