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「卯の花をめがけてきたか時鳥(ほととぎす)」 だった。そしてこれからは 「子規」 と名乗ると宣言する。
「卯の花の散るまで鳴くか子規(ほととぎす)」
子規は「筆まかせ」の中で、"漱石"という名前は今、友人の仮に名前になっていると記している。とある。
子規の口から、自分の将来の時間はさして長くないので、今、自分がやりたいことをしておきたい、と言われたからである。 子規 は大学を辞めて、 陸羯南 が主宰する 新聞「日本」 で働くことになった。そして郷里から 母・八重 と 妹・律 を呼び寄せる。
柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺 等を詠む。そのことから、現在、宿の跡地にできた日本料理店 「太平倶楽部」 と、 子規 の親戚で、造園家で樹木医でもある 正岡明 が2006年に作庭したのが 「子規の庭」 と呼ばれるということらしい。まぁ 「庭」 に関しては、こじつけもいいところではあるが、どうかご容赦を。
秋暮るゝ 奈良の旅籠や 柿の味
独り悲しく相成申候 と 「ホトゝギス」 に書いた。
僕ハモーダメニナッテシマッタ という書き出しの手紙を書く。この手紙が 漱石 の元へ届いたのは 40日後 。 漱石 は 子規 に返事を書く。
「高浜も呼びにおやりや」 子規 が言う。 子規 自身が何か感じている。
糸瓜咲て痰のつまりし仏かな 最後の句が辞世の句になった。へちまの水は旧暦の八月十五日に取るのをならいとする。それができなかった無念を句に詠んだのだった。 子規 は昏睡に入る。その後2度目ざめ、
痰一斗糸瓜の水も間にあはず
をとゝひのへちまの水も取らざりき
「だれだれが来ておいでるのぞな」 と 律 に訊いた。それが最後の言葉になった。
「さあ、もういっぺん痛いと言うておみ」 それは月明かりの中で 「透きとおるような声で響き渡った。」 「 八重 の目には、それまで客たちが一度として見たことのない涙があふれ、娘の 律 でさえ母を見ることができなかった。」
筒袖や秋の柩にしたがはずこれらを 虚子 宛の手紙に書いて送った。
手向くべき線香もなくて暮の秋
きりぎりすの昔を忍び帰るべし
「周囲の期待を一身に背負って育てられてもなお自由に自分の道を探し続ける 子規 と、生まれてすぐに里子に出され、その後も養子にやられ、大人たちのゴタゴタの中でも自分を探し続けようとした 金之助 はまったく相反する環境で育った。」 そしてそんなふうにお互いが随分違うからこそ、二人は惹かれ合った。それはもしかしたら奇跡的なことかもしれない。 子規 がいなければ、もしかしたら 漱石 もいなかった。
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