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倭の五王(わのごおう)についてしょうこりもなく、日本書紀のあら捜しを続けております。『宋書』倭国伝(西暦425年)に倭の五王と明記されていたことは、日本書紀編纂者にとって舌打ちものだったことでしょう。親魏倭王卑弥呼(魏志倭人伝238年)の件といい、太古のむかしより国号が「日本」であったと主張したい日本書紀にとって、世界的信頼を勝ち得ている中国史書の記述は邪魔であったと推察できます。最近の研究で、倭の五王は15代応神天皇~21代雄略天皇の間のいずれかの天皇であるという説がかなり有力になってきたということはご承知のとおりと思います。そうそう、現在は学校では仁徳天皇陵ではなく大仙古墳と教えるそうですね。はくすきのえといい、だいせんこふんといい、頼朝像や尊氏像やら、昭和のころ習った歴史がことことぐ塗り替えられています。お父さんお母さんもたまったものではありません。話を戻すと、倭王武は雄略天皇に比定されることは多いと思います。稲荷山古墳の年代とほぼ合致するとか、大泊瀬幼武尊に武が入っているとかで異論と唱える方は少ないと認識しています。(違っていたら教えてください)武=雄略天皇を定点として展開すると(物理か?)「興没し、弟の武立つ」ですから、日本書紀の系図が正しいとすれば(またトゲのある言い方です)興は20代安康天皇でほぼ間違いないと思います。日本書紀においても安康天皇の治世はながくなさそうですし、宋書の記述も少ないからです。このように内外の記録が一致して初めて信頼おける記録と認められると思いますが、いかがでしょうか?武と興はほぼ比定したとして、済の世子の興を安東将軍倭国王とする。(『宋書』孝武帝紀、倭国伝)で「世子」というまたまた聞きなれない語句がでてきました。ここでは実子・養子どちらかは断定できません。やみくもに疑い続けても先に進まないので「済」は安康・雄略の父とされる允恭天皇としましょう。倭王讃没し、弟珍立つ。珍を安東将軍倭国王とする。済 宋に朝献して、安東将軍倭国王とされる。珍と済の関係は明記されていません。珍没し、弟済立つ。となぜ書いていないのでしょう?反正天皇との関係を宋書は把握していなかったとしか言えませんけど・・・・讃の弟は珍ですから、日本書紀は履中天皇=讃、反正天皇=珍としたわけでしょうか?それにしては、讃=仁徳説がいまだに根強いのは、やたら日本書紀が「聖帝」とか褒め称えていることにも由来すると思います。応神天皇や仁徳天皇の華やかな事績に比べ、履中天皇・反正天皇の特筆する事績がみうけられないことも要因と思います。『古事記』に年次の記述はありませんが、一部天皇の没年干支を記してあります。『古事記』の没年干支を正しいとすれば讃=仁徳、珍=反正、済=允恭、興=安康、武=雄略となります。私見では古事記は日本書紀に対抗する「倭」の書紀ですから、「倭」の記述は正確なものを伝えていると思えてなりません。で、ここでしめくくりにひとこと。仁徳天皇から雄略天皇までは「倭」の王だったという可能性がかなり高いですが、まだまだ「日本」という国が全く存在していなかったとは思っていません。当時中国に対し、外交戦に勝利し、「倭王」の称号を勝ち得た「卑弥呼」や「五王」が存在したというだけで、日本列島がすべて「倭国」であった証拠にはならないと思います。なぜなら、朝鮮半島には高句麗や新羅や百済が割拠していたわけですから日本列島も「倭」や「日本」が割拠していてもおかしくはないはずです。
2009/02/27
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つれづれなる古代史妄想へようこそいままで日本書紀のあら捜しばかりしてきたような気がしますが、けして全否定しているわけではありません。もちろん古事記も全否定していません。両者を比較検討することにより、各々の編纂者がいったいどんな命令でどんな方針で編んでいったかがみえてくれば、真実に近づくのではないかと思っています。1.「卑弥呼」という記述はなぜ日本書紀に登場しないのか? いろいろあると思います!!!(天津木村風に) a.「卑」という字を嫌った b.すでに8世紀には本当のことがわからなくなっていた c.神武天皇を辛酉即位に(紀元前660年)にし、ここから奈良県に日本の大和朝廷があったことにしてあるので、 240年ごろの倭国の女王とは関係がないので無視した。実は、私が大学1年の時の担任教授が安本美典先生でした(ゼミでなく担任です)実は先生の著書も私はオークションに出品してますhttp://my.auction.rakuten.co.jp/rms/mya/mb/profile?uno=JmL5S0hoRg3CMはこのくらいにして安本先生は心理学の権威であるとともに「邪馬台国」研究の第一人者でもあります。安本先生は卑弥呼を天照大神とし、神武天皇はその政権を受け継いだ後裔としています。ところで、卑弥呼を倭迹迹日百襲姫命とする説も多いです。以前日本書紀はことごとく「日本」にした。古事記は反発してことごとく「倭」 に置き換えなおした。と記述しましたが、「倭迹迹日百襲姫命」に関しては日本書紀が「倭迹迹日百襲姫命」 古事記では「夜麻登登母母曾毘賣命」としておりめずらしく日本書紀が「倭」と認めている人物です。古事記が「倭」を使わないのもそこも逆らわずにはいられない精神なのでしょうか?とすると日本書紀は「卑弥呼」を「倭」の人物としましたが、女王とは認めず、一皇女、一巫女としたところにこだわりを感じますhttp://ja.wikipedia.org/wiki/卑弥呼#.E5.80.AD.E8.BF.B9.E8.BF.B9.E6.97.A5.E7.99.BE.E8.A5.B2.E5.AA.9B.E5.91.BD.E8.AA.ACまたまたところで、神功皇后説前述wikiより引用 『日本書紀』の「神功皇后紀」において、「魏志倭人伝」の中の卑弥呼に関する記事を引用している。このため、江戸時代までは、卑弥呼イコール神功皇后だと考えられていた。この説にたてば、邪馬台国はヤマト王権が拠った畿内にあったことになる。 ちょっとこちらはきついですね。神宮皇后には男弟がいたという話を聞かないのできびしいと思います。武内宿禰を弟にこじつける説もあるかもしれません。むしろ卑弥呼の宗女台与に近いような気がします。wikiではその説はありませんhttp://ja.wikipedia.org/wiki/台与たぶん、日本書紀編纂チーム内でももめたのではないでしょうか?倭迹迹日百襲姫命派と神功皇后派で、そして魏志倭人伝の時期と神功皇后時代を符合させるために、魏志倭人伝を神功紀に挿入し、倭迹迹日百襲姫命派はあえて「倭」に文字を使い、こちらこそ「卑弥呼」であるといいたかったのだと思います。あなたは誰だと思いますか?ご意見いただけたら幸いです。全部という意見もあると思います!!! (ふたたび天津木村風です)
2009/02/26
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こんにちはまた古代史妄想にお付き合いください今日は百人一首です http://ja.wikipedia.org/wiki/百人一首古代史妄想ですから、1番天智天皇と2番持統天皇といきたいところですが、「秋の田の・・・」が本当に天皇の作?を疑うときりがないのですけれど、ちょっと冷静に考察すると、日本書紀の記述を信じれば(う、とげのある言い回しだ・・・)天智天皇=中大兄皇子=葛城皇子=開別皇子(しつこい)は、父舒明天皇・母皇極天皇ですから生まれながらにして何不自由なく育っているはずです。(いくら蘇我入鹿が専横だったとしても)でもこの歌はいかにもほったて小屋で雨漏りを嘆いている歌です。山上憶良は上級官僚でありながら貧窮問答歌などをいかにも創作風に残していますから、天智天皇のこの歌はそのはしりじゃないの?とか、白村江に負けて新羅に拘束されていた時の歌だとか(それは死刑にされているだろ?)とか、いろいろな解釈があります。あまりくどくどもなんなので、整理しましょう。1.日本書紀が正しく、天智天皇の父母は天皇である。とすると百人一首は他の人の作品でしょう。2.百人一首は正しい。とすると、天智天皇は若いころかなり苦労していた(日本書紀の記述とは一致しない)選者とされる藤原定家は鎌倉時代の人ですから、奈良時代の日本書紀のほうが正しいに決まっているという意見もあるでしょう。だとすると、なぜ定家はこの歌を天智天皇作とし、一番にもってきたのか?さあ妄想が始まりました。以前、京都の泉涌寺はまず平安京の始祖桓武天皇をたたえ、その父光仁天皇、そのまた祖父天智天皇を始祖として祀っていると書きました。それは私の妄想する「日本国の初代王は天智論」に合致します。そうです。百人一首 も、いの一番に「天智天皇」です。そして奇しくも99番後鳥羽天皇と100番順徳天皇は、その時代の最後の日本王かもしれません。承久の乱で初めて、天皇経験者が臣下によって島流しにされたのです 。それは天智天皇に始まった「日本国天皇絶対王権」の終焉を示唆するものです。その後、建武の中興で復権の兆しを見せたものの、現在に至るまで天皇は国民の象徴(お飾り?神輿?)になっています。え?明治の大政奉還?あれは、薩長土が・・・・・(今日はやめときます)つづきはまた
2009/02/25
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こんにちは今日は「白村江」についてです。私はそろそろ50の坂にさしかかります。人生50年といわれたのは織田信長の時代だとしても、やがてくるだろう「お迎え」 を意識することが多くなりました。年の話をしたのはほかでもありません。私は歴史で「白村江」を「はくすきのえ」と習いました。今は違うそうですね????http://www.nhk.or.jp/sonotoki/2001_06.htmlそれからこちらの方のはじさらしな日記も面白いですhttp://yaminabe-bugyou.cocolog-nifty.com/blog/2008/04/post_b761.htmlなんか、権威ある 山川出版とNHKが口を揃えて「はくそんこう」にするといわれれば、従わざるを得ないのでしょう・・・・読み方の話はこのくらいにして、私が今日言いたいのは、地名の読み方ひとつにもメスがいれられ、従来からの説がことごとく否定されているという現実です。近年、研究がさかんになるにつれ、記紀はもとより、中国・朝鮮半島の歴史書も研究比較対象になり、権威的な観点より現実的な観点が重視されてきているということです。それから、663年の「白村江」の戦いは朝鮮半島で起こったできごとではないという説もかなりの方が展開されています。http://blogs.yahoo.co.jp/matmkanehara/28218626.html確かに「百済=くだら」という地名は大阪・奈良・宮崎・滋賀・熊本・山口・・・・西日本のいたるところに存在します。従来これは、渡来人の集落のひとことであっさり片付けられてきました。しかも、「白村江」の敗戦後どどっとやってきたとされます。物理的に可能でしょうか?たぶん多くの方は長い時間をかけて、少しずつ華僑のようにやってきたのだ!!と言うでしょう。それって日本列島のあちこちに「百済」という集落が昔から存在した!!!と認めていることになりませんか?いや、集落という言い方は非常に失礼かもしれません。例えば、邪馬台国の時代は九州に多くの国々が存在し、その連合体の長が卑弥呼だったわけで、当時の「国」とは現在の「市区郡町村」程度の規模だったと思われます。ずばり、古代から日本列島には「倭」や「百済」やらの小さい国々が多数存在していたはずです。え?朝鮮半島の2世紀から4世紀は「馬韓」で「百済」という国はそれ以降だぞ!!ですって?そうなのです。じゃあ、「百済」は4世紀以降に初めて 誕生した国としましょう。わずか200年くらいに西日本中にぞろぞろ渡来してきたとしましょう。これって侵略になりませんか?そんな記事、どこにもないですよね。記事にないことを証明しようとするのはかなり難しいと思います。素直に考えると、日本列島に点在していた「百済」人が朝鮮半島に移民し、馬韓と入れ替わったとしたほうが、時系列的に無理なく説明できます。 それから、朝鮮半島にはすでに「百済」という地名は絶滅しています。もちろん勝利国「新羅」にとって敵国であり、景徳王は地名を改名していますから絶滅したのでしょう。日本は近代の「江戸=>東京」を皮切りに頻繁に行われていますが、(平成の大合併)以前はあの織田信長の「安土」を除き例を見ません。くどくど言いましたが、西日本各地の「百済町」は最初から「百済町」であって、歴史の重みがあるからこそ、いまだに残っているのです。話が大幅にそれました。「白村江」は朝鮮半島である可能性より「日本列島」にあったと考えるほうが現実性があるのです。ではまた
2009/02/24
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本題に入る前に、当拙い日記にリンクをはっていただきました。自分が前に勤務していた時、同じ部署だった方のブログです。 http://www7a.biglobe.ne.jp/~kamiya1/index.htm こちらのほうは私の妄想と違い、大胆な仮説を正攻法にて検証されていますので、おすすめです。私のほうは、まだまだ妄想の域を出ていませんので、どんどん修正します。ご意見待ってます。 ところで本題古事記と日本書紀ですが、自分なりの比較見解を述べてみたいと思っています。1.紀伝体と編年体 ざっくりですが、古事記には紀伝体の名残、日本書紀は編年体の代表という分け方ができると思います。古事記が日本書紀と比べ、史書として取り上げられる機会が少なめなのは、年代表記がないに等しいからかもしれません。このわけ方にはお叱りをうけそうですね2.日本と倭日本書紀は「日本」の歴史ですから、「倭」という表記はあまり見受けません。(例:日本武尊)一方、古事記は 日本書紀に反発するがごとく、「倭」の表現を多用しています。(例:倭建命)私見ですが、これは双方意地の張り合いのようなもので、どちらにも弱点があり、どちらにも正当性があると思っています。つまり双方比較して、ここの表記は「日本」が正しいのか「倭」が正しいのか吟味する必要があると考えます。 3.なぜ古事記は推古天皇で終わっているのか?古事記は日本書紀に8年先立つこと712年成立とされます。 片桐樹童氏という方の書いた「古事記呪術変」では、こずるい舎人親王が元明天皇の様子を伺うためにわざと責任者を太安万侶に譲り、これはいけると判断した段階で日本書紀の責任者を引き受けたとしています。これは閑話休題ですが、日本書紀は天武天皇の事績を大々的にクライマックスとしているのに対し、古事記は80年以上前の推古天皇でとどめています。(ちなみに私見は推古天皇はもう少し後の年代だと考えます。皇極・斉明天皇と同一人物だと思っているので、660年くらいまで生きていたはずです・・・まあそれでも50年前ですね) このことが、「倭国」は推古天皇で終わったことの有力な根拠のひとつになると思います。4.古事記はすべて「倭国」の記録か?と、いいきれるでしょうか?ヤマトタケルは「日本武尊」と「倭建命」とどちらが正しいのでしょうか?http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1421216084http://ja.wikipedia.org/wiki/ヤマトタケルどうもこうして検証すると、この件に関しては「日本」に分がありそうですね。だからといって、ヤマトタケルが2世紀に実在し、そのころから「日本」という国が存在したということにするのは、かなりムリがあるような気がします。 5.じゃあ「日本」っていつから?旧唐書にはhttp://ja.wikipedia.org/wiki/旧唐書「小国日本が大国倭国を併合した」 とあります。賛否両論あります。ただ「魏志倭人伝」は大騒ぎして鵜呑みにしていますが、旧唐書はあまり大々的にはとりあげられません。国家の成立というかなりナーバスな部分で、難解だからでしょうか?今日はこのへんで
2009/02/23
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1.東宮開別皇子とは天智天皇で間違いないのでしょうか?この人が舒明天皇崩御時626年16ですから、天智崩御年671が数え46という計算です。天智天皇の和風諡号が天命開別天皇だから、同一人物であるとは短絡的すぎませんか?諡号に生前と全く同じ名を付けるのはあまり記憶にありません。15歳まで葛城皇子、16歳ころだけ開別皇子、20歳ころから即位まで中大兄皇子・・・開別時代が短すぎるような気がします。普通幼少葛城皇子、古人亡きあと大兄皇子を引き継ぐのが妥当ではないでしょうか?開別皇子の記述はほかには出てこないと思いました。(漢皇子もですけど、諸説は漢皇子のみ大袈裟に取り上げて開別は天智同一と頭から決めつけています。それって日本書紀の記述を一部自分につごうよく解釈し、自分の都合にそぐわない部分のみ否定する、ご都合主義ではないでしょうか?)ここからは私の妄想ですが、軽皇子(かるのみこ)と開別皇子(かいわけるのみこ)むしろこちらのほうが近いと思っています。日本書紀編纂者はわざと天智天皇と混同させるためにすりかえたのではありませんか?言語学者の加治木義博氏は軽いの音便系はカイで、蝦夷はカイと読み蘇我蝦夷=孝徳天皇であるとの説をうちたてています。地名や言語は遺跡に匹敵する生き証人ですから、加治木氏の理論展開には、説得力があると思っています。(ただし私はすべてを賛成は致しかねますが) それはともかく、舒明天皇の東宮を義弟の軽皇子、天智天皇の東宮を弟(義弟?)の大海人皇子とするのはこじつけがすぎるでしょうか?ただここで軽皇子を舒明天皇崩御時16歳とすると孝徳天皇即位が20歳となり当時としては若すぎる即位になるのが超弱点です。正体不明の蚊屋皇子とかるのみこ・・・発音が似ています。いったい真実はどれなのでしょう。ところで宇治谷孟氏の日本書紀の下のP174に、あたかも2人の天皇が並立しているような記述があります。これをもとに、皇極帝は最初から譲位しておらず、難波に孝徳天皇が並立していたとする説もかなり見受けます。とすると大化の改新で難を逃れた蘇我一族が軽皇子を奉じて難波宮をたてて対抗したとすると意外と、以外に矛盾なく日本書紀を説明できるとかもしれません。 これはあくまで私の妄想ですから、ご意見いただければと思います。 2.京都の泉涌寺になぜ天武系の天皇は祀られていないのか? 天智-光仁-桓武・・・・ とくに桓武帝は父光仁と妃井上内親王(聖武帝の娘)の娘酒人内親王(つまり異母妹)を妃にしているので、天武系をあえて敵視する理由が見つからないのです。 まして桓武にとって天武が曾祖父の天智の実弟であれば特に除外する必要はないし、仮に桓武が天智系を強調したとしても、そののちに泉涌寺にて菩提を弔う人たちまでが無視しつづける理由がないのです。やはりここは、昔からそのように信じてきたからこそ泉涌寺を守る人々は 、天智が当時皇室の直系先祖であると伝えてきたのだと思います。権威的裏づけがないからといって、信じないのは泉涌寺を代々守ってきた人たちに失礼だと思います。 ところで、逆に吉野の会盟では天武以降の皇位継承者に草壁・大津・高市につぎ天智の子である河島・施基両皇子の下位ながら名を連ねているくだりに、実の甥思いの気持ちが伝わってくるという見方もできます。このことが天智天武が、実の兄弟説に味方しています。ただ、真実はもっと違うところにあるのかもしれません。たとえば草壁を除き全員天智の子とか。そうすると持統天皇が草壁の血筋にこだわった理由にもなります。(淳仁天皇が舎人親王の子ですから舎人・新田部は天武の子かもしれません)(大津皇子の母は大田皇女だから近親XXになるって?実は私は持統と大田の父は孝徳天皇、母は遠智娘=乳娘だと疑っているのです。大江の皇女、新田部の皇女も・・・・それは次の機会に譲ります。)話は後世にとびますが、たとえば室町将軍足利氏先祖は源義康ですね。その兄は源義重で新田氏の先祖です。たとえ義康の兄でも足利氏は先祖として祀りませんよね。ですから泉涌寺に祀られないからといって天智天武は非兄弟である!!という井沢元彦氏をはじめとする説はちょっと短絡的過ぎるとおもっています。(もちろん兄弟であるとの裏付けにもなりませんが)そして、ひっかかるのは、皇室は斉明天皇以前も「近稜」でなく「遠稜」としてきたことです。また足利の話ですが、足利家時は「足利氏には、先祖に当たる平安時代の源義家が書き残したという、「自分は七代の子孫に生まれ変わって天下を取る」という内容の置文が存在し、義家の七代の子孫にあたる家時は、自分の代では達成できないため、八幡大菩薩に三代後の子孫に天下を取らせよと祈願し、願文を残して自害」したという伝説(偽作説もあります)があり、当然足利氏にとって新田氏は傍系ですが義家は共通の直系先祖になります。つまり天智と斉明の血が繋がっていれば斉明・舒明・押坂・敏達・欽明・継体・応神・・・・・・と近稜になるはずではないかと思っています。『旧唐書』では日本国が倭国を併合したと書かれています。これを正とする私見は、初代日本国王が「天智」最後の倭国王が「斉明」ということになります。・・・・詳細は後日に譲ります。(『新唐書』では日本国が倭国に併合されたと書かれていますがそれは奈良時代女帝が復活した時代と符号すると思います)3.葛野王について長々となりましたので、詳細はまた後述したいのですが、私は大友皇子と天智の親子関係を疑っています。大友の子とされる、葛野王が生き伸びさらに持統帝時期に出世したのですから、葛野王は天武の血を引いているか、持統の母方の蘇我氏の血をひいているものと思われます。または藤原の血?ここはもう少しよく調査します。また おこしください
2009/02/03
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こんにちはhiroyasuの古代史妄想コーナーへようこそ思いつき、妄想、おもいつくままに記しますので、どんどんご意見ください。今回は天智・天武の疑問(1)です。1.天智天皇先々代(34代舒明天皇)崩御時に東宮開別皇子が16歳でしのびごと(弔辞)を読んだと・・・・なので641年に16歳だから626年生まれということになっています。ここで私の疑問を披露します。これは天智天皇の和風諡号が「天命開別尊」だから、通説は問答無用でイコールになっています。しかし、日本書紀ではここでしか開別皇子は登場しません。なんか怪しいと思うのは私だけでしょうか?大化の改新の後、中大兄皇子の母、皇極天皇は息子に皇位を譲ろうとしますが、忠臣中臣鎌足は、「古人大兄皇子はあなたの兄君、軽皇子はあなたの叔父君です。ここは叔父君に譲るのが人としての道・・・」とあります。当時、大兄皇子は皇太子(東宮)をさすのではなく、あくまで一族の皇子の中で年長という位置づけでした。そうなのです。突然、ここで皇太子という概念が発生するのです。皇太子という概念にこだわったのは、私は持統天皇が最初と思います。ですから日本書紀の作者はここで(舒明天皇崩御時)わざとか、うっかりか東宮という概念を持ち出したと、疑うのです。ここで※妄想 開別皇子は軽皇子を当て字した。 カイベツミコ=>カイワカレルノミコ=>カイルノミコ=>カルノミコ ちょっと苦しい・・・
2009/02/02
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