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こんにちは古代史妄想くんですやっぱ箸墓が3世紀前半のものあったとしても、その場所が邪馬台国であることはムリがあります邪馬台国に記述されている数万戸の膨大な人口を養うには、奈良の高地では限界がありますだったら、あくまでも箸墓は墓地であり、邪馬台国自体は肥沃な大阪平野のほうが蓋然性が高いと思いましたただ、どうしても矛盾が発生するのは、親魏倭王=卑弥呼の後継者であろう、倭の五王の移動経路なのです讃、珍、済、興、武 で、倭王讃は文字通り讃岐王、珍は「チヌ」で大阪湾、済は「くだら」で大阪地区百済町、興は「コウチ」河内、武は「タケチ」高市で、やっと武の時代に奈良近辺まで侵入しているからです。日本書紀の記述では、神武~開化までは奈良近辺に皇居をおいていますが、残念ながら、現代に史学会では神話上の架空人物とされていますもちろん、日本書紀編纂者も奈良地区古墳のが存在を知ってましたから、初代天皇の活動範囲を奈良地区に求めたと思います。話を戻すと、卑弥呼は当時、日本列島にあまた乱立した古代国家群に機先を制し、対中国外交戦に勝利、親魏倭王の称号を勝ち得たわけで、けして、当時の日本列島のナンバー1だった証拠にはならないと思っているわけです。つまり、倭国は卑弥呼の時代は九州にあり、仁徳天皇(讃)のころ香川県まで進出、履中(珍)以降、近畿地方へ上陸したのです。その証拠に、日本書紀編纂時には銅鐸の記憶がありませんもし、卑弥呼の邪馬台国が奈良にあったのであれば、同時期・同地方に存在した銅鐸の記憶は大和朝廷にうけつがれるものなのですしたがって、箸墓古墳の被葬者は「銅鐸文化」をしっているはずなのです。以上から、箸墓古墳の主は卑弥呼とほぼ同時存在と考えていいでしょうですが、「倭王」ではありえないのです
2009/05/29
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こんにちは古代史妄想くんです今日は、箸墓は卑弥呼の墓!!!で餅切りですね(字がちがいますが餅好きなのでご容赦)ぶっちゃけ私見は、邪馬台国九州説ですが、それではつまらないし、邪馬台国畿内説の立場にたって妄想してみないと、新しい発見はないかな?と思いました。まず、奈良に塚(墓)を造った理由ですが、古来日本国(倭国)には火葬という風習がなく、墓地(埋葬地)には山上がある程度適していたことと、奈良に邪馬台国があったとするのは、魏志倭人伝に記述してあるの膨大な人口を養うにはあまり奈良の地は適さず、邪馬台国が畿内にあったとすればむしろ大阪平野あたりのほうが、都としての立地条件に適します。事実、その後、大仙古墳に代表される古墳は大阪にあり、倭の五王は大阪を首都としていたわけです。日本書紀の記述によれば、史実とされる応神天皇以降は河内王朝として登場し、飛鳥あたりに皇居が置かれるのは斉明天皇ころが最初なのですつまり、そのころまで奈良に都はなかったとしたほうが、史実をうまく説明できますただ、邪馬台国は大阪でも、墓が奈良にあっては困る理由はありません。河内地方は1世紀から3世紀前半ころまで銅鐸文化が栄えていましたから、銅鐸が邪馬台国のものではないとはいいきれない部分もあります。邪馬台国が畿内にあったとすると、魏に使いを送るには、当然九州を経由しますから、近畿から西はすべて邪馬台国の属国もしくは同盟国であることが条件になります。九州北部から瀬戸内海沿岸にかけてはさまざまな古代王国が存在していたはずですから、まさしく卑弥呼の邪馬台国は当時その頂点に君臨していたことになります。ではなぜ中国の史書から4世紀倭国の記述は消えたのでしょう?それだけ卑弥呼個人の影響力は大きく、その死後、壹与(いよ?とよ?)をたてて収まったことになっていますが、中国自身も戦乱がはげしく、もはや中国に使者を送る余裕はなかったのではないかと思います。しかし、倭の五王の記述からして、卑弥呼の倭国は受け継がれたものと考えていいでしょう讃、珍、済、興、武讃は大阪から香川へ領土を拡大した証拠珍は「ちぬ」で大阪湾のこと済は「百済」のセイで、近畿に散在する「百済町」に領土を拡大した証拠興は「河内」のコウチ武は「高市」タケシ?武蔵?ちょっと関東は飛びすぎ?
2009/05/29
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こんにちは古代史妄想くんです卑弥呼・神功皇后・飯豊青皇女・推古・皇極・斉明・持統・元明ときましたとりあえず古代史妄想なので、江戸時代の女帝は割愛させていただきます残るは元正・孝謙(称徳)2人になりましたこの2人の共通点は生涯独身だったとされることですはっきりいって、私見は生涯独身には賛成できません私の持論は、古代は女帝と男帝がつねにペアで協力体制で政治を執っていたということなので、男帝は必ず女帝の「婿」であるのが条件だからです。まず、女帝ありきで、婿になれた者が、「大王(天皇)」としてはじめて君臨できたはずなのです。その慣習は卑弥呼の時代から女系で続いてきました。26代継体天皇が皇位につけたのも、先帝の妹(姉?)手白香媛の婿になったからなのです。49代光仁天皇までの皇后は必ず、皇族です。つまり女帝であった事実を日本書紀は、はぐらかしているのです 嘘をついているとまでは言いません。とぼけているのです。現代においても裁判において虚偽の発言が罪になりますが、黙秘は権利として認められています。 では、生涯独身となっている、元正・孝謙(称徳)の婿は誰だったのでしょう?女系という点では、元正の母は元明で妥当性があると思いますが、あの病弱な草壁皇子が父親なのでしょうか?私は68歳まで生き、病弱な甥の聖武天皇を補佐した元正天皇が、草壁皇子の実子と思いにくいのです。母親似と片付ければそれっきりですが・・・・私は、元明-元正-孝謙(称徳)が天武系の血を引かない、母-娘-孫娘であるような気がして仕方ないのです元正は680年生まれ、孝謙は718年生まれなので、38歳差です現代ではなんら不思議でもなでもない母子差ですが、古代では女性が38歳で出産というのはリスクが大きかったと思います元明は661年生まれですから、元正とは19歳差。wikiによると元正天皇養老8年/神亀元年(724年)2月4日、皇太子(聖武天皇)に譲位した。退位の詔では新帝を「我子」と呼んで退位後も後見人としての立場で聖武天皇を補佐した。天平15年(743年)、聖武天皇が病気がちで職務が取れなくなると、上皇は改めて「我子」と呼んで天皇を擁護する詔を出し、翌年には病気の天皇の名代として難波京遷都の勅を発している。文章とおりにとらえて、聖武を元正の実子ととるかは意見が分かれると思いますが、私見では、聖武は元正の娘婿ではないかと思うのですつまり、元正の娘、孝謙(称徳)の婿が聖武であったと思います。え?聖武には有名な藤原光明子(光明皇后)がいるではないか?って?私は光仁天皇以降、さらに勢力を増した藤原氏の歴史改ざんでだと思います孝謙(称徳)は、藤原仲麻呂らとことごとく激突しているので、よくは書かれていませんそうなのです。それなのに、孝謙(称徳)は藤原の血を引いていることになっています。なぜ敵である孝謙(称徳)を藤原一族に加えたのか?鎮魂か、怨霊封じのような深い理由があると思います。最後の女帝、孝謙(称徳)の暗殺に成功した藤原氏はそのたたりを防ぐため、一族に加え、祀ったのではないでしょうか。こうして藤原氏は、倭国伝統の女帝制度を崩壊させることに大成功しました
2009/05/21
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こんにちは古代史妄想くんです連載(?)8回目にして転機を迎えましたそうです今回の女帝は43代元明天皇710年奈良のへ平城京遷都時の天皇ですそれまでは死のけがれを恐れて、天皇が崩御するたびに皇居を変えていましたが、ここから光仁天皇まで都がかわりませんそして元明天皇は皇后ではないのです天武皇太子で、持統溺愛の皇子、草壁の妃なのです息子の文武帝崩御のあと、首皇子(のちの聖武)成長までのつなぎとして即位したことになっています晩年、年には勝てず、首皇子即位前に娘の氷高皇女に譲ります絶対に疑問なのは、この時点でまだまだ天武皇子の舎人・新田部が元気ということなのです父が天武で母が天智のむすめ(つまり天智孫)という文句なしの血統でありながら、舎人・新田部が天皇になれなかったのは謎です。ですから、ここで私が再三申し上げているように、女帝は女帝でめんめんと受け継がれていたと思うのですwikiなどを見ると、元明天皇は皇后未経験の最初の天皇とされます次の元正天皇は皇后未経験+婚姻未経験の最初の天皇ですその新しい伝統は、孝謙(称徳)天皇へと受け継がれ、断絶しますこの時代でそれまでの慣習がいっきに打ち破られ、男帝至上主義の朝廷へのかわっていくのです謎です・・・・また その件の関してはまた検討(妄想)します
2009/05/20
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こんにちは古代史妄想くんです推古・皇極天皇でずいぶんとまっていましたので少し先にいこうかなと思います41代持統天皇で、38代天智のむすめ、40代天武の皇后です。ところで、私の論理ですと、女帝と男帝は並立ですから天智皇后(倭姫王)、弘文皇后(十市皇女)も女帝なみだったことになります。げんに倭姫王は即位説もありますから、私の妄想も全く根も葉もないでっちあげではないということがご理解いただけましたでしょうか?それにひきかえ弘文天皇は明治になって始めて公認されたことと、当然十市皇女が即位したなどという説は聞かないので、その点からみても大友皇子が即位し弘文天皇だったというのは苦しいと思います。ただし、倭姫王も謎が多く、生没年不詳です。かなり以前ここのブログで、倭姫(い・き)=いが=伊賀宅子=大友母 としました。このあたりは妄想の域を出ません。てなわけで、やっと持統天皇ですが、私見では女帝・男帝並立ですから、天武帝と並立であったと思います。天智と並立であった倭姫王の崩御後、女帝が空位となり、(もしかすると十市皇女?)壬申の乱を経て、天武即位と同時に持統皇后=女帝が誕生したのではないでしょうか?こうしてみると、常に女帝と男帝は夫婦であることが条件になっています。するとわれわれの知らない婚姻関係も実は存在していたかもしれません
2009/05/19
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こんにちは古代史妄想くんです前回は35代皇極天皇でした30代敏達天皇の曾孫にすぎない宝皇女(のちの皇極)が聖徳太子の皇子・山背大兄王をさしおいて即位できたのはおかしい。というお話をしました。即位できないどころか山背大兄王は入鹿に攻められ、自殺においこまれます。この事件がさまざまな憶測を呼んだのはいうまでもありません1.山背大兄は架空の人物である2.山背大兄は聖徳太子の皇子ではなし山背大兄実在派の人々はA.新たな蘇我系の閨閥作成のため、古人擁立をはかったので山背が邪魔だった(しかし古人大兄皇子は皇極の皇子ではないので、皇極などというリリーフを送らず、すぐに古人を即位させればよかったのです。若干年が不足していた説もありますが)どうも苦しい言い訳ですですから、この時代は女帝と男帝がペアで統治する、男女平等(いや若干女性上位)だったのです。29代欽明紀などを見ると、欽明天皇は謙遜して、山田皇太后に政治のすべてを任せようとし、皇太后はこれを辞するくだりがあります。つまりこの時代はややもすると、天皇より皇后の地位のほうが高かったかもしれないのです。それをなぜ、あえて推古は敏達の皇后にとどまらず、天皇になったとしたのでしょう?日本書紀は推古期の男帝を書けなかった理由があるのではないでしょうか?聖徳太子?あめのたりしひこ?日本書紀が天皇として認められない人物は?蘇我入鹿?推古期だと蘇我馬子、皇極期だと入鹿あたりが怪しいということになりますしかし、古来より、推古と馬子、皇極と入鹿の関係を疑う学者さんは多いです。つまり、日本書紀は極悪人のはずの入鹿や、その祖父の馬子(崇峻天皇暗殺犯になってるし)を天皇格にはみとめられなかったのではないか?それでやむなく、推古・皇極は皇后のみでなく、シングル天皇とせざるを得なかったのではないでしょうか?
2009/05/18
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こんにちは古代史妄想くんです前回は日本初(本によってはアジア初)の女性天皇、推古天皇について記述しましたその次は皇極天皇でこちらは史上初の2回皇位についた天皇です有名な645年大化の改新も皇極天皇のときですこの天皇は、舒明天皇の皇后ということで即位したことになっていますでなければ、皇極天皇は敏達天皇の曾孫ですから、とても皇位からは縁遠いはずです舒明天皇即位前、先代の推古天皇崩御時、後継を決めておらず(なんかあやしい)敏達天皇の孫、田村王(後の舒明天皇)と用明天皇の孫(聖徳太子の子)、山背大兄王との間で争われました当時の大臣、蘇我馬子は娘の法堤郎媛(ほていのいらつめ)を田村王に嫁がせていましたから、協力に推薦しました 一方、山背大兄王は自分は蘇我氏の血を濃くひいているのにおかしい、と蘇我氏長老格の蘇我境部臣摩理勢に推挙を頼みますしかし蘇我氏内紛は馬子の勝利で摩理勢は敗死しますそうして田村王は舒明天皇になるのですが、その崩御後、なぜ山背大兄王に皇位のはまわらず、皇極天皇になったのか?ですから、推古崩御後、女帝をついだのは皇極ではないでしょうか?(私見はさらに同一人物の可能性をも見出しています)舒明崩御後、男皇についたのは「孝徳天皇」だと思います孝徳天皇は皇極天皇の実の弟ということになっていますが、疑問で、皇極天皇の最初の夫「高向王」は「高(こう)と向(く)」で「こうとく」だと思っています話が横道にそれっぱなしですみません私見では、推古天皇と皇極天皇は同一人物ですが、そうでなくても、皇極天皇が天皇の曾孫という遠縁であるわけがなく、もしかすると、推古天皇の皇女(小墾田皇女)かもしれませんなぜなら、推古天皇は小墾田宮で崩御し、皇極天皇もたびたび小墾田宮に都をおいているからです
2009/05/17
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こんにちは古代史妄想くんですやっと時代をくだり、推古天皇まできましたやりま、やりました、やりま。ところで、日本書紀上は日本初の女性天皇になっています私見では、日本書紀は人物がかなり分裂して記述してあるので、推古天皇の名前は額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)で、額田王(ぬかだのおおきみ)が分裂しているとしか思えないのです。それは天武天皇(天渟中原瀛真人)と敏達天皇(渟中倉太珠敷尊)の名前にも共通点があり、分裂かまぎれこんでいるかどちらかに間違いありません日本書紀上は隋の煬帝にあの有名な「日いずる~」の手紙を送った時代が推古天皇の時代になっていますが、これはおかしい隋書には「ダイオウアメノタリヒヒコ」と男名前でかいてあるからですもちろん、推古天皇を架空とはいいません額田王とかいろいろな人物に分裂しているのです日本書紀上はあたかも「別名」を「別人」のごとく記述しているにすぎないのですが、われわれは「別人」のみならず「別時代」ともおもいこまされていました
2009/05/16
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こんにちは古代史妄想くんです日本の女性天皇!!といっておきながら、第1回卑弥呼・第2回神功皇后でうそばっかといわれそうですが、100%うそでないかもしれないのが妄想の醍醐味です(!?)3回目は、飯豊青皇女です・・・・・・記紀では天皇として認められていないが、後世の史書である『扶桑略記』に「飯豊天皇廿四代女帝」、『本朝皇胤紹運録』に「飯豊天皇 忍海部女王是也」と記される上、偽書の『先代旧事本紀大成経』には「清貞天皇(せいていてんのう)」の諡号まであり、天皇の扱いとなっている。一説には皇統譜でも天皇とされているというが未確認(また別の一説には、前述の生涯1度だけの性交渉ゆえに歴代から外されたのだともいう)。明治時代から昭和20年まで、いわゆる戦前には「歴代天皇の代数には含めないが、天皇の尊号を贈り奉る」としていた。(wiki)よりこの時代は微妙で、倭の五王の武とされる雄略天皇以降、実在すら疑問視する向きがあります。ですから、飯豊青皇女も実在が微妙だったり、2人いたのではないかとかいろいろと・・・・・私見では、日本書紀は混乱している部分(年代&人物分裂)を除き、史実だと思っていますどうも神功皇后のイメージに近いのですが・・・・・
2009/05/15
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こんにちは古代史妄想くんです前回につづき女帝の謎です前回、天皇といいつつ、卑弥呼の話題だったので、今回は神功皇后で、ってこの人も天皇ではないじゃん?諸説によれば、神功皇后即位説とかありますなぜならば、神功皇后の夫は14代仲哀天皇ですが、次の15代応神天皇は父の死後10月10日でうまれていますから、(ちょっとまゆつばものですが)少なくとも10ヶ月くらい天皇は空位だったか、応神天皇が成人即位するまで実質神功皇后が天皇だったのです中大兄皇子も斉明天皇死後、称制として皇太子のまま政務をとったとされます日本書紀は神功皇后の年代と卑弥呼の年代を意識的に合わせ、魏志倭人伝にかかれてある卑弥呼は神功皇后である・・・と暗黙に主張していますところで、神功皇后で有名なのは新羅征伐ですが、そのころ朝鮮半島は三韓時代(馬韓・弁韓・辰韓)で、新羅という国は朝鮮半島には存在しなかったのですでは、神功皇后はなぜ新羅征伐ができたのでしょう?1.神功皇后はもっとあとの時代の人物である(4世紀中盤以降)2.新羅は3世紀は朝鮮半島にはなかった(ではどこ?)日本書紀はすぐにばれる偽りは書かないと思っています。結論をいうと、3世紀ごろに神功皇后が朝鮮半島の新羅を征伐できるわけがないということですつまり、誰が・は正しいとしても、いつ・どこでのどちらかが、ずれているわけです
2009/05/14
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こんにちは古代史妄想くんです今回は、女性天皇の謎を妄想したいと思いますまず、日本の女性天皇(女帝と呼びます)の特徴はほとんど既婚ということですなあんだ英国なんかもそうじゃないか、といわれるかもしれません英国の場合は女王に旦那さんがいるということで、日本の場合はほとんどが皇后経験者であるということですえ?じゃあ卑弥呼は?年長大にして夫婿なく・・・って魏志倭人伝にかいてあるけどって?その時点はいなかったでしょうが、バツ1でないという証拠にはなりませんもちろん、日本の巫女さんは未婚はおろか男性経験もゆるさないわけですから、卑弥呼が巫女的ポジションであったとすれば、考えられなくありませんていうか卑弥呼は女性天皇ではないですけど
2009/05/13
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こんにちは古代史妄想くんです前回は日本書紀に天皇崩御時年齢の記載が少ないため、多くの憶測をよんでいるというテーマでしたではなぜ、中世の歴史書はこぞって65歳と書けたのでしょうか?私は小学生くらいのころ、おおざっぱなイメージで、壬申の乱とは天智天皇の弟大海人皇子と息子大友皇子の皇位継承争いでしたから、大友皇子25歳くらいだから、対する大海人皇子は叔父ですから5歳か10歳くらい上の30歳か35歳くらいかと思っていました。(妄想以前の問題で単なる先入観です)ところが、成人して古代史に興味をもつようになり、諸説本をひもといていくと天武天皇は天智天皇より4歳年上説が幅を利かせているではありませんか!!!!天智天皇は46歳で亡くなったことになっていますから、壬申乱のとき大海人皇子は50歳ということになります。25歳の大友皇子は叔父でなく50歳の伯父に負けたことになりますいかに小学生くらいのしょぼい先入観があてにならないかを痛感した出来事でしたただ、天武帝が天智帝より年上説は学会では公式に認められておらず、65歳は56歳の間違いで、壬申乱のときは41歳ということになりますしかし、天皇位についた後も、天武天皇は皇子皇女を儲けますただし、壬申乱以後誕生したはずの皇子皇女はことごとく生年不詳になっていますこのことは以下いずれかかと思われます1.壬申乱以降の天武皇子皇女の父親は天武ではない・・・65歳(56歳)崩御説に基づく2.天武天皇の年齢は実際はもっと若い、壬申乱以前の皇子皇女の父親は天武ではない大海人皇子は天智天皇の皇弟である(日本書紀の記述)に基づく前回紹介した神谷さんのブログはどちらかというと2.に近いですが、壬申乱以前の皇子皇女の年齢を引き下げ実子としていますhttp://www7a.biglobe.ne.jp/~kamiya1/index.htmここで私が疑問なのは、日本書紀はなぜ壬申以前誕生の皇子皇女の生年を明記し、壬申以後の皇子皇女の生年をぼかしたかなのです壬申以前の皇子皇女の生年がでっちあげであれば、以降もらしくでっちあげればいいのです日本書紀は壬申以降(天武即位以降)の皇子皇女の生年をいいたくなかったのではないでしょうか?それとも書き手が交代し、生年に対し無頓着な書き手になったのでしょうか?もちろん日本書紀には西暦何年誕生という書き方が存在するわけでなく、何々天皇何年という記述になっていますから、その何々天皇の在位期間が通説より引き下げることができれば、種々のつじつまが合う気がしてきましたつまり私見では、女性天皇・男性天皇同時存在ですから、縦につないだ日本書紀よりも時代が引き下がるのですいままで、推古・舒明・皇極・孝徳・斉明・天智・弘文・天武・持統・文武・元明・元正・聖武・孝謙・淳仁・称徳と続いた系譜は推古・皇極(斉明)・持統・元明・元正・孝謙(称徳)とつづいたのであって舒明・孝徳・天智・弘文(非即位説有利)・天武・(高市?)・文武・聖武・淳仁と続くほうがすっきりするのです恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱で敗北した男性天皇陣の代わりに孝謙(称徳)天皇は僧の道鏡をすえようとし、豪族たちから大反発をくらったのではないでしょうか?光仁天皇のときも、皇后は聖武天皇皇女(井上内親王)でしたから、女帝制度はすぐには廃止できず、多少残っていたのですうわ!天武天皇年齢からとてつもなく脱線してしましましたてなわけで、天武天皇の年齢を引き下げるには、壬申乱以前の皇子皇女の年齢の引き下げが必要であり、それには各天皇の御世を通説より引き下げる必要があるのです。
2009/05/12
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こんにちは古代史妄想くんです小学校のとき、教室の年表をみて、天武天皇(?-686)とあって、違和感を覚えた記憶があります。確かに、日本書紀に天武天皇の生年と没時の年齢が記載されていないのです。天智天皇の場合は舒明天皇崩御時「年16にて弔辞を読まれた」とあるので逆算して626年生まれになっています。このように日本書紀は「何年に何歳でなくなられた」記事が少ないのです。天智天皇だって弔辞の記事がなければ、(?-671)になっていたと思います。ところで、中世の歴史書はこぞって天武天皇崩年「65歳」としています。没年が686年ですから逆算すると621年生まれになり、天智天皇より4歳年上になります。しかし、現在の学会では65歳を56歳の誤記とみなし、天武天皇(631-686年)としています。算用数字ならいざしらず、六十五歳を五十六歳と間違えるでしょうか?悪く言うと、このような適当な説がまかり通っているのが現状です。65歳説が本当であれば、すごいことなのですが、現状は56歳説がまかり通っています。私の知己である神谷さんはブログでそのどちらでもない説を展開しています。http://www7a.biglobe.ne.jp/~kamiya1/index.htmこちらは状況証拠の積み重ねなので、説得力はあると思います。ここで天武天皇の年齢が確定すると、私の妄想ネタがひとつ減るので微妙なところですが・・・・
2009/05/11
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こんにちは古代史妄想くんですお越しいただきありがとうございますタイトルは古代史ファンならご存知ですね隋の2代目皇帝の煬帝(ヨウダイ)に倭国(わこく?ダイコク?)のアメノタリシヒコがあてた、結構失礼な手紙です何回か前に(小野妹子のときかな?)アメノタリシヒコに該当する天皇がおらへんという話をしました。(なんで急に関西弁?)日本書紀上、このとき601年?に在位中の天皇は日本初の女帝である推古天皇だったので、隋書とのつじつまが合わないのです。まして、隋側は「小野妹子」の読みを「蘇因高(そいんこう)」と記述していますから、こちらのほうが「推古」に近いと。アメノタリシヒコは「キミ」という名の妻がいると明記してありますから、どう考えても男です(おなべ?いうよね~)冗談はさておき、苦し紛れに1.アメノタリシヒコとは聖徳太子のことであるとか2.聖徳太子は実は天皇になっていたとかその割りに、3.聖徳太子は蘇我氏の業績を代表した架空の人物であるとか(大幅にくるってはいないと思うんですけど・・・・) ある本に、隋の使者は四国までしかきていない。当時の倭国の首都は「宇和島」だったという説が載っています。これは実に的を得た意見で、どう読んでも、近畿地方に上陸するのは旅程的に無理があり、瀬戸内海の西方であるほうが、蓋然性が高いのです。実は聖徳太子はちょうどこのころ体調を崩し、道後温泉で療養しているのです なあんだ、やっぱり聖徳太子じゃないか!!といわれそうですが、ちょっと待ってください体調崩して温泉療養にきている人が「中国の皇帝」に外交の手紙書けますか?ということは、聖徳太子は少なくとも、当時は「倭国王」ではなかったと思われます。じゃあ誰?女性の推古天皇では外交上不利だから、性別を偽った?ここは自然に、推古天皇の配偶者格くらいがふさわしいのではありませんか?となると、推古天皇は30代敏達天皇の皇后ですから、アメノタリシヒコは敏達天皇?残念ながら敏達天皇の名前は「沼名倉太珠敷(ぬなくらふとたましき)」です。ところで、推古天皇の次の34代舒明天皇は「和風諡号は息長足日広額天皇(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと)。」です。たぶん「足」がタラシですが、「足日広」で「タラシ・ヒ・コウ」になるんですけど。じゃあ「アメ」は?「天」=アマです。順番が違うとおっしゃりたいのでしょうが、天皇舒明、舒明天皇 どう違います?(カレーライスとライスカレー?古。)かたや、天皇足日広(アメノタリシヒコ)、一方、息長足日広額天皇(オキナガ・タラシ・ヒ・コウ・ヌカ・テンノウ)で、これは私の想像ですが、古代息長氏と関係があり、推古天皇(額田皇女)の血縁であったとすれが埋まりますただ問題なのは、このとき舒明天皇(幼少期は田村皇子)は8歳。平安中期の藤原氏全盛期の傀儡天皇ではあるまいし、計算があいませんつまり、日本書紀の年代は隋書と食い違っているのです。舒明天皇は601年ごろの天皇であり、推古天皇は同時存在か、違う年代の存在ということになります。
2009/05/10
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こんにちは古代史妄想くんです前回、古代の女帝が生前譲位した事実は疑わしいと述べました。上皇やら院政やらが全盛となるのは平安中期以降で、南北朝の争いというのは、「俺が天皇」「じゃ俺その次ね」「その次俺。早くまわしてね。」が発端だと思うのです。事実、それ以降、生前譲位・上皇という呼称はなりを潜め、明治になって完全撤廃となり、天皇終身制が復活したわけですが、その平安中期以前はほとんど生前譲位は女帝が行っているので、とても怪しいと思いました。いにしえの卑弥呼の時代は、女王たる卑弥呼を男弟が助けたとされています。卑弥呼亡き後、男王がつきましたが、国民の不満は爆発し、宗女壹与(臺与?)をたてて収まったとされます。これは私の妄想ですが、当時国民の心をつかむには巫女的要素が不可欠であり、実際のまつりごとは、軍事力のある男王と役割分担されていたのではないかと考えます。つまり、卑弥呼の時代からシャーマン的な女王とそれを軍事力で補佐する男王とがペアとなる男女平等の国家だったのではないかと思うわけです。ですから、古代より皇后という地位は、外国の王妃とは別物の存在だったのではないかと思います。日本書紀や続日本紀などは、その並立していた男王と女王を何らかの理由で、縦に並べたのです。例えば、飛鳥から奈良時代だと、舒明(欽明)-孝徳(用明)-天智(崇峻)-天武(敏達)-文武(弘文)-聖武-淳仁-光仁-桓武・・・・・・と実際は続いており(カッコ内は私見同一人物っす)女帝(皇后)の系譜は推古-皇極-斉明-持統-元明-元正-孝謙-称徳 で女帝は断絶ということになります。極論をいえば、推古以前の歴代皇后は地位的には男天皇と同格もしくは上の立場だったと思うのです。ではなぜ、推古~称徳は歴代天皇として代数に加えられたのでしょう?お隣中国では、女帝というのはほとんど存在しません。お国がらなのでしょうか。その中国にならって男性社会を作ろうとしたのではないでしょうか?よくよく日本書紀とかを読むと、女帝のことをあまりよく書いてはいません。古事記とかを読んでも、天皇や皇子のお妃はさんざんな目に会っている人が多いです。むしろ誹謗中傷の類を記録し、「だから女性天皇は廃止しました」といわんばかりです。結論をいいますと、卑弥呼の時代から奈良時代まで、女王と男王がペアで政治を執っていた。日本書紀やそのあとの史書は、作為的に男王を持ち上げ天皇とし、女王は皇后として諸外国にならってただの「おきさき」におとしめた。奈良時代は、その女帝の記憶が生々しかったので、隠蔽しきれずに、素直に天皇と加えたが、あくまでも単独で皇位についていたとした。そして、女帝は贅沢ばかりして、皇居を立て替えたなどという記録のみを大げさに書き、だから女性天皇はやめにしたことにした。以降、江戸時代に幕府へのあてつけで皇女を天皇にした以外、女性が天皇につくことはなかった。
2009/05/09
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こんにちは古代史妄想くんです現代の天皇は、終身制なので、生前譲位はありません。ある意味、天皇の健康状態を考慮したら、「上皇制度」を復活させてもいいと思うのは、私だけでしょうか?もちろん、鎌倉時代末期のように、ころころと皇位が代わっていては、各式典は税金で行われるわけなので、国民の賛同を得ることは難しいかもしれません。ところで、「上皇」という呼称は平安時代中期始まりだと思いますが、それ以前にも生前譲位はあったことになっています。それは、大化改新後の皇極天皇から弟孝徳天皇への譲位です。さらにさかのぼると、26代継体天皇はその死の前日に27代安閑天皇に譲位したことになっています。ちょっとこれはこじつけのような気がしますが。あの聖徳太子が天皇になれなかったのは、33代推古天皇があまりに長寿(75歳)だったため、生前譲位システムがなかったこの時代においては、聖徳太子は運が悪かったことになっています。その後も、飛鳥~奈良時代の女帝は持統・元明・孝謙と生前譲位のオンパレードです。われわれは、便宜的に「持統上皇」や「幸謙上皇」などの尊称を用いますが、正史にはないことですから、かなり違和感を覚えます。そうです。私が言いたいのは、「上皇&生前譲位システム」が確立したのは平安時代の院政期以後であると思うのです。逆に、その例外期を除くと、古代から現代に至るまで、天皇制とは基本的に終身制をさすのではないかと思うのです。それは冒頭でも申し上げた、経費削減・権威維持(最近のどこかの国の首相はころころ代わるので、権威が失墜していると思いませんか?)種々の理由から、世界中を見渡してみても、国王は終身制が一般的だと思うのです。つまり、皇極天皇に始まる「生前譲位」は、他の事実を隠すためのカムフラージュなのではないでしょうか?次回妄想に発展させたいと思います。
2009/05/08
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こんにちは古代史妄想くんです前回は「武」のつく天皇とアドバルーンうをあげておきながら、奈良の女帝に問題がそれてしまったので、軌道修正します。初代「神武天皇」はじつは明治時代以降メジャーになった天皇らしいのです。それが、太平洋戦争後、天皇が神格から象徴に代わったのを機に、学者先生たちは「神武天皇架空説」をいいだしました。ただ、繰り返し申し上げます。フィクションの概念が成立するのは平安時代以降です。「神武天皇」は紀元前660年にはいなかったかもしれませんが、その記録のベースとなるモデル人物がいるはずなのです。やっぱ分裂かな・・・いろいろな説があります。10代崇神天皇と同一とか、15代応神天皇だとか、日本書紀の編纂者が天武天皇の事績をはるか1300年前に分裂させたためだとか。おそらくどれかです(うわ。無責任モード)25代武烈天皇ですが、こちらは知る人ぞ知る悪王です。日本書紀編纂時の少し前に、新羅王(武烈王)が存在しましたから、新羅憎しの感情が、悪王イコール武烈という図式になったのかもしれません。武烈王は勇敢だった話が多く残っています。だから「武」を贈ったのでしょう。私見では天智天皇=新羅王金春秋=新羅武烈王ですから、この当時は天智天皇の評判は最悪だったのではないでしょうか。
2009/05/07
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こんにちはまたまた長い標題ですいま、すいませんでした、すいま。天皇のおくりなで、神武・武烈・天武・文武・聖武・桓武 についてです。みんな「武」がつくので、なにか共通点があるのでしょうか?初代・神武天皇については実在・非実在説が喧々諤々ですから、ちょっとおいといて25代・武烈天皇についても26代継体天皇の即位を正当化するための架空とか、21代雄略天皇の分裂だとか、いろいろな意見があるので、こちちらも保留。残りの実在が疑いない「武」つき天皇について考察してみます。天武天皇は英雄視されていますから「武」が良く合います。桓武天皇は平安京遷都やら、古代最後の帝王といっていいでしょう。「武」が合います。失礼ですが、「文武」「聖武」両天皇はどちらかというと病弱なイメージがつきまといます。天武-草壁皇子-文武-聖武 とつづく系譜には病弱なイメージがつきまとうのです。私と親交のある神谷さんはブログ上にて「天武天皇は不老不死を求めて劇薬を服用していた」と述べています。その子孫たちが、そろいもそろって病弱なのは、そのせいかもしれません。最後の称徳天皇は突然変異のヒステリックな女帝として記録されています。ちょっと突然変異すぎませんか?ていうか、女帝に系譜はパワフルでダイナミックなイメージがつきまといます。天武妃の持統-草壁妃の元明-元明皇女の元正-聖武皇女の孝謙(称徳)持統・元明は天智天皇の皇女とされていますから、元気でしょう。しかし、元正・称徳は天武-草壁-文武-聖武ラインの血をひいています。女性には病弱な血は受け継がれなかった?ここで妄想ですが、天武-草壁-文武-聖武-(淳仁) と続く系譜と、持統-元明-元正-称徳 とつづく系譜は別系統なのではないでしょうか?もしかすると2朝並立とするとまた古代がかなり楽しくなるのですが・・・・
2009/05/06
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こんにちは古代史妄想にお立ち寄りくださりありがとうございます。前々回、おさらいぽく、「小野妹子」は男である的な記述をしました。当時は「蘇我馬子」と「中臣鎌子」とか、「子」は男子への尊称でしたが、平安期以降、特に皇室に嫁いだ藤原氏の女性の名前の最後尾に軒並み「子」がついているので、「子」は女性につくものに変化していったようです。私見では、女性の名前に「子」がつくのが一般的になったのは明治になってから、平民にも苗字がつくようになってからだと思いますがいかがでしょうか?ところで、古代中国には「孔子」とか「孟子」とか「子」のつく偉人がおおいので、日本もその真似をしたのではないかと思っています。くどくど言いましたが、もうタイトルからお気づきだと思いますが、壬申乱で敗れた「大友皇子」の母は「伊賀宅子」です。われわれの現代感覚からすれば、なんの疑問もなく女性なのですが、この当時「子」は男性であって母親が「子」がつくことはどうも腑に落ちないのです。もちろん、「子」のつく女性がそれまで全く皆無かというとそうではありません。26代継体天皇の妃で27代安閑・28代宣化両天皇の母親の目子媛(めのこひめ)は子がつきます。その宣化天皇の妃は稚子媛(わくごひめ)です。でもそのくらいです。ということは、古代の女性で「子」がつく女性はなにか訳ありではないかと思うのです。当ブログで盛んに述べているのでが、「分裂説」です。あとは、貴人の場合、父親の名前+媛(つまり、だれだれのひめ)の場合もあります。伊賀宅子実在説の方の言い分は、「いがの造(やっこ=知事)のひめだからだ」ということになると思います。しかし、だったら、「伊賀造媛」でいいではありませんか。なぜ「宅子」にしたのでしょう。つまり、「伊賀造」は、当時の三重県伊賀地方に実在した知事だから書けなかったのではないでしょうか?くどくどすみません。おさらいですが、やはり大友皇子は卑母のうまれではなく、蘇我倉山田石川麻呂の娘で、持統天皇の母でもある、遠智媛(おちのいらつめ、別名造媛=やっこひめ)だったんです。そうです。持統天皇こと「うののさららひめみこ」は実の弟と夫大海人皇子が壬申乱で争い、夫に最初から最後まで付き添ったのです。通説では持統天皇は、天智天皇と遠智媛の娘。大友皇子は天智天皇と伊賀宅子郎女の皇子になっています。しかし計算が合わないので、私見は持統天皇は孝徳天皇と遠智媛(乳媛=ちのいらつめ)の娘。大友皇子は天智天皇(金春秋)と再婚遠智媛(造姫=やっこひめ)との皇子。です。ですから、大友近江朝には蘇我氏のブレーンが多かったのではないでしょうか?(しかし、半分以上蘇我氏は大海人皇子に寝返ってますけど)
2009/05/05
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こんにちは古代史妄想にお立ち寄りくださりありがとうございます。小学生の時、教室に歴史年表があり、(いまでもあるのでしょうか?)飛鳥時代(小学生のころはひちょうじだいと思っていました)聖徳太子17条憲法の前に「任那の日本府滅びる」とあり、読み方もわからんし、日本がこんな昔に滅びていたことはショックだし、?????だった記憶があります。「任那」の「那」が「郡」に見えて、「ひちょうじだいににんぐんのにほんふほろびる」と思っていました。その後、朝鮮半島に任那(みまな)という国が存在し、日本の出張所(日本府)があったという事実に「ふーん」くらいの感じでした。これも白村江と同様、謎の記事で、日本書紀上は29代欽明天皇の時とされますが、私見では34代舒明天皇の記事が29代欽明天皇に分裂したと考えていますので、任那が滅びるのはもう少しあとではないかと・・・・しかも、29代欽明天皇の時に、任那は日本府もろとも新羅に滅ぼされたとかいてあるのに、33代推古天皇8年の記事で、任那と新羅が戦ったとさらりと書いてあります。時代が前後しています。たぶん年代的に正しいのは推古紀で、(推古紀も記事は今昔混在していますが・・・・)舒明時代の記事が欽明紀に混じったのだと思います。 余談ですが、その新羅に併合された伽耶(任那の後身とされる。韓国の学者には任那の存在を認めない者が多いが)の王族の末裔があの金ユ信(金春秋と蹴鞠を通じ親しくなった忠臣)がいるのです。ちなみに、金ユ信の父親が舒玄で、そのネーミングから舒明天皇と同一人物説を説くひともいます。人物分裂説を説くのは私だけではありませんよ。
2009/05/04
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こんにちはGWへたれモードですが、おさらいモードで軽めにいきます。前回は34代舒明天皇=>29代欽明天皇分裂説で、家族総一致を展開しました。敏達天皇=天武天皇、推古天皇=額田王、莵道貝蛸皇女=十市皇女・・・・・そういえば以前、小野妹子について書きました。おさらいします。隋の記録には「使者・小野妹子」をその読みから「蘇因高」と記録しています。これは「そいんこう」で、「すいこ」、時の天皇と取り違えていると片づけられてきました。 しかし、隋の記録には使者の名前を聞いて「蘇因高」と記録したとあります。われわれは「おののいもこ」と読んでいた(読まされていた)「小野妹子」は当時隋においては「そいんこう、そのいんこ、そのいもこ」と紹介されていたのです。そしてその読みは「そのうまこ」と混同するくらい似ています。 推古天皇は女性ですが、古代で「子」が名前の語尾につくのは男子と限定されていますので、「蘇我馬子」も「小野妹子」も男です。(ただし、時代が下り、奈良時代から平安時代にかけて女性の名前に子がついてきますが・・・)小野妹子も「ベルサイユのばら」みたく男装の麗人だと面白いんですが。それが口火となって奈良時代以降女性の名前の子がついたとなるとさらに面白いです。 当時、中国から「倭王(ダイオウ)」と認定されていたのは、伊予国のあめのたりしひこでした。日本書紀は「あめのたりしひこ」の存在を無視しています。いかにも倭の大王は「推古」だといわんばかりに。後世の学者先生はこぞって「あめのたりしひこ」は摂政だった聖徳太子のことだとしています。とてもちぐはぐです。 たしか以前、言語学者の加治木義博先生の本に、あめのたりしひこを舒明天皇に比定する説が載っているのを見ました。後日検証します。
2009/05/03
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こんにちはGW中でも古代史妄想です。ようこそ。やっぱGW中特有のへたれモードなので、自分へのおさらいをかねて軽く行きたいと思います。 前回は新羅武烈王・金春秋と天智天皇(天命開別尊)が同一発音としました。日本書紀上は38代天智天皇(葛城皇子)は34代舒明天皇(息長足日広額天皇)の皇子です。ところで、29代欽明天皇(天国排開広庭天皇)には葛城皇子がいます。私見では、舒明天皇が欽明天皇に分裂しているので、二人の天皇にそれぞれ「葛城皇子」がいることになっているのです。それだけじゃあねえ・・・おっしゃる通りです。ではもう一人30代敏達天皇(渟中倉太珠敷尊)と天智天皇の弟の天武天皇(天渟中原瀛真人天皇)の共通点です 。天武天皇の皇子大津皇子は訳語田(おさだ)の自邸で死を賜った。とされます。一方敏達天皇の皇居は訳語田幸玉宮(おさだこうぎょく・・・オサダクグリョ)です。敏達天皇の2人めの皇后はのちの推古天皇で、額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)です。 天武天皇は大海人皇子時代、有名な万葉歌人額田王を妃にして十市皇女をもうけたとされます。敏達天皇と推古天皇の皇女には菟道貝蛸皇女(うじのかいたこのひめみこ)がいます。 この媛は「うじ」とよばれますが、「莵」は「と」と読めます。「十市」は「とじ」と読めます。しつこいかもしれませんがもう一人、舒明天皇の皇女に間人皇女(はしひとのひめみこ)がいます。wikiとかでは欽明天皇皇女の穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)・・・用明天皇妃で聖徳太子の母・・・と区別しています。これだけ家族が一致して、それでも他人の空似という方のご意見をうかがいたいです。「だって年代が違うじゃないか」といわれるかもしれません。日本書紀の年代は何々天皇の何年ですから、同一人物が分裂していれば、証拠になりません。それから壬申とか乙巳とかで年代を指定しています。これは60年周期できますから60年昔へもっていくことができます。これは私の推測ですが、「倭国語」で記録された「舒明紀(このころ漢風諡号はないので息長足日広額天皇紀」と「高句麗語」で記録された 「欽明紀(天国排開広庭)」を別々のチームが編纂したののが原因だと思います。
2009/05/02
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こんにちは古代史妄想中です。以前の当ブログをお読みになった方は、私が「天智天皇」=「新羅王・金春秋」説の立場にいることをご存知かと思います。結構、この説支持者が多いんです。1.名乗りの一致 天命開別尊=てんひらわけ、金春秋=キンハルアキ2.蹴鞠における出会いのエピソードを2人とも持つ3.妃にした女性のエピソードも一致4.661年に新羅にて武烈王(金春秋)崩御と同時に日本列島に同じ名乗りを持つ、天智天皇が出現 などなど、たくさんの傍証があがります。ただ、ここでクリアにしておかなければならない課題があります。日本書紀上、天智天皇は狂気じみた百済びいきであることです。それに対し、金春秋は長女と婿を百済の兵士に惨殺されていますから、百済への憎悪は人一倍であったはずです。じゃあちがうじゃん。といわれそうですね。そうです。以前私も「名前」なんか他人のそら似に決まっていると思っていた時期あります。しかしよく冷静になって考察すれば、国家元首クラスがそれも隣国同士で似通った名前をつけるわけがないのです。または、天皇という名称が世襲制であるように(だれだれジュニアとか)、天智天皇と金春秋は同一人物ではなく、中大兄皇子が武烈王(金春秋)の死に際し、その名乗りを受け継いで天智天皇になった。という考え方もできなくはありません。ただし、金春秋は文武王をはじめ優秀な王子が数人いましたから、その子らを差し置いて、赤の他人である中大兄皇子が名乗りを引き継げることは不可能に近いと思います。ですから、中大兄皇子と金春秋は少なくとも親子か同一人物かどちらかなのです。親子であれば、父の百済憎悪に対し、子の百済びいきという図式もなくはないでしょう。それでも、私は同一人物の可能性は捨てきれないと思っています。しつこいなあ、といわれそうです。壬申の乱のときも単純に旧百済とか旧倭国だからという図式でなく、蘇我氏も分裂した、唐につくか新羅につくかの戦いだったわけで、大友皇子は父の遺志を継ぎ唐につこうとし、大海人皇子は兄の遺志に逆らい、新羅につこうとした激突だったわけで。問題はなぜ、金春秋(天智天皇)が、娘夫婦を惨殺した百済難民を受け入れたかです。じゃあ、別人じゃない?しかし、よくよく考えると天智が憎悪したのは、「半島百済」の兵士です。近江朝にての大友皇子の取り巻きはいかにも「半島百済」の難民かのごとく記述があります。天智が重用した「元百済ブレーン」とは、大阪百済の人だったのではないでしょうか?武寧王の時代は5世紀ですから、このころは古墳技術の交流等あったでしょうが、7世紀くらいまでになるとお互いがそれぞれの道を歩むようになり、金春秋は大阪百済と半島百済の仲たがいを成功させ、分裂させたのではないでしょうか?この逸話は大化の改新で蘇我入鹿を討ち取るために同属の蘇我倉山石川麻呂を味方に引き入れた話に反映されているのではないでしょうか?いままでわれわれが「百済」というものは建国当時から朝鮮半島に存在し、不動のものであり、唯一の存在であったと思い込んできた「百済」が、実は日本列島にも存在し、むしろ日本列島大阪に存在した百済のほうが本家だとすれば、この疑問は解決しそうな気がするのです。昨日も述べましたが、古墳ひとつ例にしても、大阪の古墳のほうが古く、大きいという点からして、「大阪百済」が本家であったということになると思います。
2009/05/01
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