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こんにちはです。古代史妄想くんです。前回、日本書紀の最高責任者=舎人親王は父=天武天皇・母=天智天皇の娘であるにもかかわらずなぜ天皇になれなかったのかを妄想しました。今回は、舎人親王の第七皇子=大炊王=淳仁天皇側から種々の妄想を展開したいと思います。淳仁天皇は明治になってから初めて【淳仁天皇】と呼ばれるようになったわけで、壬申乱敗者の大友皇子【弘文天皇】と同じで当時は天皇と認められていませんでした。ところで、大炊王の生没年は733-765舎人親王の生没年は676-735です大炊王は3歳のときに父親が死去していますところで、57歳のときの子供です。平均寿命50年の時代に57歳で子供?舎人親王自身、通説では天武天皇が45歳のときの子供です巷でおおはやりの天武天皇>天智天皇 年長説にたてばさらに天武天皇54歳のときになります日本書紀はこの時期の皇族(男子)は異常な高齢で子供を作っている記述をする傾向がありますあれだけ側室を多く抱えていた豊臣秀吉も秀頼を同時期に他の側室に子がいないのは、さまざまな憶測を呼ぶことになります。中世ですら50代で父親になることがしんどいのですから、まして古代です。つまり1.年齢がウソ2.実子というのがウソどちらかなのですこのケースも1.舎人親王の年齢はもう少し若いか2.大炊王は舎人親王の実子ではないかどちらかだということです大炊王の母親は皇族でなく(当麻山背)とされていますから、すくなくとも父親が皇族でないと天皇になれなかったことになります逆に、母親は皇族の場合ですが、当時の婚姻関係からみて、内親王は必ず皇族に嫁いでいるのです。大炊王のプロフィールは父母どちらも違うでは、妄想にもなりませんとなると、大炊王の戸籍上の父母は舎人親王・当麻山背ですから、舎人親王の年齢を疑うしかなくなります。または、親族の子を舎人親王が引き取った可能性もないわけではありません私は天武天皇と舎人親王の親子関係を疑っています。もし、舎人親王が天武天皇の実子であったなら、たとえ中継ぎでも天皇になるシチュエーションは数多くあったからです。しかしなれなかった。それは単純に持統天皇の血をひくかどうかだけの問題ではないような気がするのです。そうです。舎人親王は天智天皇の孫であったけれど、天武の子ではなかったのではないでしょうか?皇族の長老として最期まで権威をたもてたのも、天智女系の血をひくからだと思います。いまも淡路に残る淳仁天皇陵には母親の当麻山背が合葬されていることから、こちらの親子関係は間違いないでしょうつまり当時の舎人親王が57歳で子をもうけたとするより、他の皇族の未亡人であった当麻山背を子とともに引き取ったほうが、より現実的だと思うわけですではその皇族とは?そして舎人親王の実の父親とは?
2009/07/10
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こんにちは古代史妄想くんです。めんめんと女性天皇について妄想しまくりだったので、ちょいと目先を変えて、日本書紀の編集総責任者である、舎人親王について妄想したいと思います。以下参考urlですhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%8E%E4%BA%BA%E8%A6%AA%E7%8E%8B父親を天武天皇にもち母親は天智天皇娘の新田部皇女です。血統的には文句なく天皇候補なのですが、通説では持統天皇が自分の血統からのみ天皇を出そうとしたので、舎人親王は天皇になれなかったとされます。舎人というネーミングも皇族らしからぬものです舎人(とねり、しゃじん)皇族や貴族に仕え、警備や雑用などに従事していた者。その役職。内舎人、大舎人、東宮舎人、中宮舎人、帳内、資人などの種類があった。古代シナノの国の行政府跡と見られる遺跡からは金刺部舎人、他田部舎人と言った記名のある木簡が出土している。 よく聖徳太子はなぜ天皇になれなかったは取りざたされます日本初の勅撰歴史書の編集長がなぜ天皇になれなかったことは、なぜ取りざたされないのでしょう?私の知己である神谷さんはその研究ブログにおいて以下のように言及していますhttp://www7a.biglobe.ne.jp/~kamiya1/mypage461.htmのちの光仁天皇(白壁王)がアル中のふりをして、皇位に執着がないように装い、称徳天皇の粛清を逃れていたというエピソードは古代史ファンであれば有名ですが、それより早く舎人親王は天皇の位(権力)よりも、存命の道を選んだのではないのでしょうか?それは反藤原氏の急先鋒で、粛清されてしまった長屋王(長屋親王?)とは対照的です。それどころか、舎人親王は長屋王糾弾に連座しているわけです。文武天皇崩御後、元明天皇は老齢を理由に即位を固辞したとされます。そのときは舎人親王即位のチャンスだったわけです。しかしなれませんでした。ここで、聖徳太子の例を思い出すと、聖徳太子が天皇になれなかったのは、推古天皇が長生きだったからだとされます。真偽のほどはさておき、その例が舎人親王にも当てはまるのではないかと思うのです。つまり男性天皇がいたのです。ごく単純な話で、天皇が生きていれば天皇になれないのは当たり前です。私は以前のブログで文武天皇の在位時期はずれていると言及しました。文武天皇の在位時期は日本書紀の記述より遅く、孝謙天皇は文武天皇と元正天皇の娘であるとしました。つまり、天武(皇后=持統)・草壁(妃=元明)・文武(皇后=元正)・聖武(皇后=孝謙)・淳仁(皇后=称徳)と切れ目なく続いたために舎人親王の出番はなかったのです。一時期、私も舎人親王の血統はあまりよくなく、日本書紀編纂のほうびとして天武皇子の地位を捏造できたのだと思っていました。ただそうすると、舎人の子・大炊王(淳仁天皇)即位の理由づけが苦しくなりますが、新田部皇女が舎人の母で間違いなければ、淳仁天皇は天智女系曾孫になるので、かろうじて資格を保有します。すると?舎人親王が即位できなかった理由は1.天武実子ではない2.男の天皇が切れ目なくいた3.権力争いから離脱し、長命たらんとした 1.は、父親が藤原氏だと仮定すると、極端な親藤原的行動に説明がつきます。 2.は、奈良女帝は天智系という妄想が根拠です 3.は、のちの白壁王に受け継がれます。ただ皮肉にも白壁王は光仁天皇になります。
2009/07/08
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こんにちは6月は本当に怠けていました先月まで敢然と奈良時代の女性天皇の通説に挑んできた古代史妄想くんです平安京創始者の桓武天皇は、自分の即位正当化を図るために、必要以上に「自分は天智の曾孫」を強調しました奈良時代は最後の光仁天皇を除き、元明・元正・聖武・孝謙・淳仁・称徳と「天武系」のひとことでかたづけられてきましたもちろんそれは「男系」重視の視点からみたもので、実際は元明は天智娘ですし元正は元明の娘ですから天智の孫、私見では孝謙=称徳は元正の娘で天智曾孫というわけです通説に準じても、聖武も淳仁も女系からみた天智曾孫になりますですから奈良時代は「天智女系時代」といえます通説では、後世の記録は必要以上に天智を英雄化し(藤原鎌足を英雄化する必要があったため)実際は天武の功績であることが、必要以上に過去(大化改新)にもっていかれているとされます。この説は私見ではかなり正しいと思います。その理由は藤原氏が始祖である鎌足を英雄化する必要があったことに加え、当時の女帝がこぞって「天智系」だったからではないでしょうか?
2009/07/01
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