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古代史妄想へようこそ以前、このコーナーで大友皇子の母=伊賀宅子娘について述べました。天智天皇の正式皇后に倭姫王がおり倭=イ、姫=キと読めることから同一人物ではないか?との見解を示しました。その日は宅子(ヤカコ)は?でつまってしまいました。ところがよくよく調べると、大化改新の登場人物のひとりである蘇我倉山田石川麻呂のむすめ、遠智媛(おちのいらつめ、天智天皇妃)の別名が造媛(みやっこひめ)ではありませんか!!!やかこ=>やっこ近江朝における大友皇子の取り巻きに蘇我氏が多いことがこれでつながってきました。しかし、その蘇我氏たちも壬申の乱ではほとんど大海人皇子側に寝返ります。たしかに大海側には妃(のち皇后)のうののさらら(後の持統天皇)がいます。持統天皇の母も遠智媛です。大友vs大海+?野讃良皇女の戦いは甥vs叔父+姉vs弟の戦いだったのでしょうか?
2009/03/31
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こんにちは古代史妄想へようこそ今回は前々からきになっていたこちらの方↓のブログを参考に、倭姫王(私見では=伊賀宅子郎女)のなぞに迫っていきたいと思っています。 確実!舒明天皇から天智天皇までは新羅・金?信の系統の書き換え http://blogs.yahoo.co.jp/manase8775/34071470.html上記の見解は実に興味深いものであり、偶然にしては個々の人の名前が一致しすぎています。古代における「名前」の重要さは現代の比ではありません。うかつに名前を教えれば呪詛される恐れもあったからです。異性に名前を教えろということは、つきあってくれということですから。まして一国の支配者クラスの人物の名前がそうそう一致するわけなく(現代では日本において金さんとか小浜さんとかが総理にな可能性はゼロではないでしょうが)ひとつの記録を各国がその国のことばで記録した程度の差異だと思えるのです。ところで、私見では、天智天皇=金春秋(新羅武烈王)ですから、天智天皇の皇后(倭姫王)は文明皇后(文姫)に符合することになります。ここでも名前が一部一致します。三国史記によれば、文明皇后の父は「舒玄(別名=舒明)」です。日本書紀では倭姫王は舒明天皇の孫ということになっています。日本書紀が正しいか三国史記が正しいかは、うかつに言及できませんが、どちらかが正しいとしても一方の間違いはそう大きくありません。ここで、日本書紀は古人「大兄」皇子を舒明天皇と倭姫の間にはさんでいます。私見は古人皇子を架空の人物とはしませんが、吉野いきのくだりなどは大海人皇子の吉野隠遁の風景と似すぎています。大海人皇子は古人皇子が中大兄皇子に討伐されてしまった縁起の悪い吉野にわざわざ出向くでしょうか?大海人・古人以外で吉野に縁がある人物は吉野真人氏の先祖である百済王(舒明天皇の異母兄)がいます。塚口義信氏の「茅渟王大君伝考」によれば、皇極・孝徳天皇の父とされる茅渟王は百済王と同一人物とみます。ということは吉野にゆかりのあるのは舒明天皇よりもその兄の茅渟王(百済王)になります。もし古人皇子が舒明天皇の皇子でなく兄だとしたら、実に面白いことになります(ほとんど根拠ありませんが・・・・・)古人皇子=茅渟王とすると、皇極・孝徳天皇の父が古人皇子となり、通説より皇極・孝徳天皇の年齢が若くなります。舒明天皇=高句麗の建武王(栄留王)が蘇我入鹿=高句麗のいりかすみ=高句麗の泉蓋蘇文に殺されたあと、兄の茅渟王は息子の軽皇子(後の孝徳天皇)とともに倭国の難波~吉野に逃げたのです。人質として取られた娘の宝蔵王は蓋蘇文のあやつり人形の高句麗王として、都合よく使われたのです。661年に新羅王金春秋が積年の恨みを晴らしますが、やっと自由になったと思った宝蔵王は金春秋の側室にされます。その話は中大兄皇子と遠智郎女、天智天皇と額田王のエピソードなどに分裂増殖していきます。
2009/03/30
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毎日ブログにて古代史妄想に励んでいます。あくまでも妄想ですから、賛否両論しかるべきで反対ご意見をもらってよりよいものにしていきたいですし、ごらんになった方の知的満足のたしになればと思っています。タイトルの天智・大友 神仏ですが、この親子は神道派ではないかと思われますが、支配者は日本人=神道でも、被支配者層の倭国民の宗教は仏教ですから、天智天皇も数々のお寺を建立してます。大友皇子は神仏どちらかであったかは不明確です。近江朝には百済の取り巻きがおおく、仏教系思想が色濃くはいりこんでいたかもしれません供養ということになると、斉明天皇の観世音寺とかやはりお寺になります。なぜ神社ではだめなのでしょう?偉人は死ぬと神になるという思想は後世のものだからでしょうか?斉明・天智の血縁関係を疑う要因のひとつとして、神道の天智が仏教の斉明の怨霊を恐れて相手側の宗教に合わせたと聞きます。大友は敗者でした。斉明もある意味敗者です。敗者の怨霊を恐れてお寺で供養するのが普通だったのでしょうか?本当は与多王は新羅明神にて供養したかったのではないでしょうか?そのカムフラージュもしくは持統天皇の顔色をうかがいながら三井寺を建立したのでしょう。確かに世渡り上手な葛野王と比較すると、与多王は不器用で実直な好感をを持てる人物に映ります。ところで、このところマイブームになっている倭姫王と古人の謎を少しずつほぐしていきたいと思います。またご高覧お願いします。
2009/03/29
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こんにちは古代史妄想コーナーです。おもいつくまま書き留めています。大兄皇子って倭国の皇子のはずなのに、なぜ高句麗の官職である「大兄」がつくのか疑問でした。よくよく調べると、古代高句麗の壁画にはみずら(あのヒミコさま~の髪型)の男性もかかれていたり、かなり人の交流もあったのではないかと思っています。ですからさすがの私も「中大兄皇子は高句麗人だ」とはいえません。ただすくなくとも高句麗の官位をもらうにはその国へいかなければならないと思います。だから中大兄皇子も聖徳太子の子(とされる)山背大兄王も高句麗に行ったことがあり、当然高句麗の言葉が話せて、なんらかの高句麗への貢献が認められなければ(金をつむだけでもいいのかもしれませんが・・・・)官位はもらえないと思います。
2009/03/28
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こんにちは古代史妄想をごらんいただきありがとうございます。ご意見・ご感想書き込み歓迎です。テーマ以外を書き込みをいただいても削除させていただく場合がありますので予めご了承ください。反対ご意見については、私なりに必ずご回答差し上げます。前置きがながくなりましたが、昨日の続きです。 「倭」の読み方は「わ・い・やまと・したが(う)」とあります。大友皇子の母は「倭姫(いき)」から「伊賀(いが)」に分裂したのではないでしょうか?と述べました。日本書紀上、倭姫王は舒明天皇の息子・古人大兄皇子とされています。「大兄」は古代史上は「おおえの」ですが、以前、「大兄」は「たけい(だいけい)」と読み、高句麗の官職名と言及しました。事実、高句麗滅亡後日本国から「大兄皇子」は消滅し、「皇太子」「東宮」の表現になりました。その後、次の天皇候補を(かりに天皇の弟でも)「皇太子」「東宮」で統一しています。奈良時代以降、天皇の子を「親王・内親王」をよぶこととも深く関係があるでしょう。ところで、「倭姫王」の父親が「大兄」というのもグローバルな感じですが、「倭姫王」の母親は歴史上登場しません。「古人大兄皇子」の子供は記録上「倭姫」だけなのです。ところで、私はあまり「この人は架空の存在である」という意見は述べたくないのです。以前も言いましたが、この時代はまだ「物語創作」という概念が存在しないからです。ということは「伊賀宅子郎女」は「倭姫王」の分裂であって、さらに「倭姫王」も誰かの分裂に違いないということです。もちろん、その誰かがわかれば、「古人大兄皇子」は誰の分裂かのあたりがつきます。
2009/03/27
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こんにちは古代史妄想の世界へようこそ今日のテーマは、壬申の乱で大海人皇子に負けてしまった悲劇のプリンス大友皇子の母について考察してみたいと思います日本書紀においては「伊賀宅子娘」とされています。この時代は天皇になる条件として父母ともに皇族であることが不分律でした。つい現代においても今上天皇の皇后が民間から嫁いだとあって大騒ぎになったわけですから1300年も前ではなおさらのことと思います。つまり血統の由緒正しさからいえば、父舒明天皇・母皇極天皇である天武天皇が皇位に近いわけで、たとえ伊賀の大豪族の娘であっても大友皇子のほうが血筋的には劣るわけです(と日本書紀はいいたいわけです)わが子かわいさから大海人皇子を皇太子の座からひきずりおろした天智天皇を糾弾しているともいえます。 ここで、井沢元彦氏の説ですが、「大友」 の由来はやはり大友氏であろうということです。大海人皇子は東国の尾張氏に救援を求めて、伊賀地方を通っています。途中さも伊賀の国は敵国だといわんばかりに駅を焼いたという記述があります。ところが井沢氏によれば伊賀国は抵抗した痕跡はなく(大友方に味方した形跡なく)怪しいとのことです。当時の豪族は娘を皇族に嫁がせて権威を振るうのが常套手段ですから、伊賀国守が先頭にたって大友皇子をバックアップしなければおかしいのです。と、いうことは日本書紀お得意の人物分裂作戦ではないかと思うのです。史家の良心としてウソは書けません。ただ未必の故意というかわざと誤解する方向にもっていくことはウソにならないというギリギリの線なのです。そうです。このように不合理な点を数多くかかえながらお人よしの歴史家は「大友皇子は天智天皇と伊賀宅子娘との子供である」と疑いもしていないのです。とすると伊賀宅子娘は誰から分裂したのでしょう?発音的にいうと、「倭姫」の倭はにんべんと「委」ですから「イ」と読めます。姫は「キ」です(安藤美姫=あんどうみき)「倭姫王=イキノヒメミコ」となり変化して「イカノヒメミコ」になったのでしょう。倭姫王の父とされる「古人大兄皇子」は天皇にはなれませんでしたから、天智皇后になる前は「倭姫郎女(いきのいらつめ)」とよばれていたに違いありません。じゃあ伊賀宅子の宅子(やかこ)は?ですって?う~ん。もう少し調べさせてください。
2009/03/26
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こんにちはしょうこりもなく古代史妄想ですしばしお付き合いください今日は蘇我倉山田石川麻呂の娘で、天智天皇の妃となり後の元明天皇(奈良の都平城京を開都) の母親となる姪娘(めいのいらつめ)です。(前置き長い)以前このブログで、「いったい誰の姪だったのでしょう?」で終わっていました。そして、蘇我入鹿=いりかすみ=高句麗の蓋蘇文ではないか?と疑ううちに、蓋蘇文に殺された高句麗王の栄留王には甥がおり、蓋蘇文はこの甥の宝蔵王を高句麗王にたてて実権を握ったことにたどりつきました。男だとばっか思っていた宝蔵王は宝皇女(斉明天皇)と名前が一致します。 つまり宝蔵王が女帝だとすると、先代の栄留王の姪になります。というと、以前このブログで遠智娘(おちのいらつめ)=斉明天皇説を展開してきましたが、なんと妹とされていた姪娘も当の本人であった可能性があるのです。元明天皇は661年生まれ、斉明天皇は661年薨去ですが、高句麗宝蔵王は682年薨去です。斉明天皇は白村江の前に崩御ということになっています。宝蔵王は蓋蘇文=いりかすみ=蘇我入鹿に伴い高句麗にて再起をはかり、その蓋蘇文が天智天皇=武烈王に討ち取られたあと戦犯としてではなく高句麗=>唐で余生を過ごしたとされていますが、実は日本において額田王として天智天皇の妃となりました。すると元明天皇は665年以降の生まれか、天智天皇の実の娘でなく前夫(高向王=孝徳天皇)の娘かもしれません。となると孝徳天皇は654年崩御でなく、もう少し生きていたことになります。加治木義博氏は、大化改新ではなく大化大戦によって百済&倭が滅亡した説を展開しています。これにより蘇我馬子(有間皇子)が討ち取られ、蘇我蝦夷(孝徳天皇)は逃げたとします。このことが神話の世界に混じりこみ、逃げ速し=>ニギハヤヒになったのだと言います。日本書紀はずいぶん早い時期に登場人物を薨去させていますが、実際は欽明天皇から天智天皇まで100年ではなく20年程度の間のできごとなのです
2009/03/25
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こんにちは古代史妄想へようこそ前回は大化改新が665年であった説を展開しました。ではなぜ日本書紀は天智天皇(金春秋)が蘇我入鹿(いりかすみ=泉蓋蘇文)を討った年を645年にもっていったのでしょう?まず、665年に天智天皇は存命ですが、金春秋は薨去していたこと。それからいきなり妄想ですが、645年には持統天皇が生まれています。ただし日本書紀は持統天皇を645年誕生としておきながら、何月何日かは記録していません。まさに編纂中時代の天皇の生月日を伏せるってなぜ?ここで持統天皇の生年月日が明確になっていれば、持統天皇の母である遠智娘が大化改新直前に天智天皇に嫁入りしたことに符合します。仮に、持統天皇が645年うまれでなくても、665年生まれにはむりがあるというもの。なぜなら天武と持統の息子である草壁皇子は、662年うまれですから、17歳でぎりぎりかもしれません。ほんとうは持統天皇はもう少し前の生まれか、草壁皇子を大津皇子より年長にするためにむりくり662年生まれとしたかです。いずれにしろ、金春秋が蓋蘇文を討った665年の事件の説話を持統天皇誕生前にもっていくには645年以前にする必要があったでしょう。それより前にすると、641年には蓋蘇文が栄留王を殺害した年、643年は入鹿が山背大兄王を死に追いやった年になったしまいますから、その後である必要があったと思います。
2009/03/24
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古代史妄想へようこそ昨日の続きで異説大化の改新です前回、天智天皇=新羅武烈王(金春秋)で蘇我入鹿=高句麗の淵蓋蘇文(いりかすみ)説を結合させて、大化妄想しました。大化改新は645年でなく、665年のことではないかと思ったわけです。当時の日本列島は(663年)白村江の大戦に敗北しており、どう考えても高句麗の最高権力者(王様は宝蔵王ですけど実権は蓋蘇文)がのこのこ日本にいるとは思いにくいです。 新羅は武烈王(金春秋)が661年亡くなり、次の文武王の治世になっています。ところで、三国史記によれば、金春秋と蓋蘇文との確執は深いのです。wikiによると宿敵・百済に対抗するため、また国際的に孤立しつつあった状況を打開するために、金春秋は盛んに外交活動を行なった。642年8月に百済に大耶城(慶尚南道陜川郡)を奪われ旧伽耶諸国地域を占領されると(大耶城に居住していた 金春秋の長女古陀?が百済の兵士らによって殺害されると金春秋は百済を憎悪するようになった)、金春秋は高句麗に赴いて百済に対抗するための援軍を求めた。援軍は得られず逆に高句麗の淵蓋蘇文に監禁されることとなったが、高句麗の家臣に金春秋に同情するものが現れて、脱出することができた。このとき金春秋を迎えるために、金?信は3千の兵を率いて高句麗との国境付近まで出陣しようとした。高句麗への救援要請が失敗した後、647年(大化3年)には倭国(日本)へ使者として赴き[2]、倭国の動向を見極めるとともに百済への牽制を図ろうとした。とあり、金春秋はなにより百済を憎み、自分を監禁した蓋蘇文を憎んだはずです。661年の薨去後、日本で天智天皇に変身したかどうかはさておき、蓋蘇文は新羅王(武烈王か文武王)に暗殺された可能性が高いと思っています。 その暗殺を正当化した記録が日本書紀においては大化改新と記録されたと思います。日本書紀において蘇我入鹿は聖徳太子の子、山背大兄王を攻め自害させたとします。大兄というのは高句麗の官職名なのです。ですから蓋蘇文=いりかすみは、時の高句麗王=栄留王(建武王)や穏健派貴族を殺害しますが、山背大兄王が栄留王でなかったとしても、殺害された穏健派貴族である可能性は高いです。ちなみに大兄皇子を呼ばれる皇子は7人いますが、中大兄が最後の大兄です。これは高句麗滅亡時期と符合します。もし中大兄皇子=天智=金春秋だとすると、新羅王金春秋は若いころ高句麗の官職についていたということになります。いままで、私をふくめほとんどの方は、高句麗・百済・新羅は朝鮮半島だけの国、倭は日本列島だけの国と思っていたと思います。しかし、こうして検証してみるとこの4カ国は半島と列島に入り乱れていた気がしてなりません。きっと蓋蘇文も金春秋も朝鮮半島と日本列島をまたにかけて活躍していたに相違ないのです。
2009/03/23
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古代史妄想へようこそ誇大史妄想ともいうかもしれませんが・・・以前当ブログで蘇我入鹿=いりかすみ=泉蓋蘇文=淵蓋蘇文説を支持しました。ところがその説の弱点は蓋蘇文の没年が665年であることでした。だとすると、小学生でも知っている大化の改新(有名中学入試ではこんな易しすぎる問題は出ないと思いますが、かと思うといい大人が知らない・・・ああ格差社会・・・)は645年でなく、665年ではないかと妄想をいだくようになりました。結局高句麗という国は、蓋蘇文死後、息子たちの内紛で唐・新羅連合軍に滅ぼされます。なんか今のどこかの国と似てませんか?ということは蓋蘇文は後継者の指名もできず急逝したのではないでしょうか?私の勉強不足かもしれませんが、蓋蘇文は665年に死んだとしか記録がありません。まして弟が新羅に亡命しているのです。蓋蘇文=入鹿は新羅王金春秋=天智に暗殺されたのではないでしょうか?え?金春秋の没年は661年だって?ばれたか・・・・でも天智天皇は671年崩御です(苦しい)ともかく、金春秋が蓋蘇文を暗殺した事件が、日本人の手によって「大化の改新」に脚色されたのではないでしょうか?日本書紀の編者は665年でなく、645年(乙巳の年)にする必要があったのでしょう。
2009/03/22
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天智天皇崩御説の根拠についてです。たしかに施基皇子の誕生の年齢からして58歳崩御説には無理があります。現代でも50歳代で子供をもうける人は少ないほうですから(古代と比較すればグンと増えたでしょうが)ではなぜそのような説が誕生した経緯はなんなのかという私の仮説ですが、 開別皇子を天智天皇としていないか16歳を崩御時の年齢とせず、舒明天皇即位時の年齢としている。 という従来の通説に加えて、 新羅武烈王(金春秋)の崩御年齢が58歳であるということが挙げられます。 もちろん金春秋は(602年? - 661年)になっていますがここでも602年?がつきます。 ちなみに661年は斉明天皇崩御の年で、中大兄皇子の称制が始まった年です。 このあたりが天智天皇=金春秋説を後押しする傍証になっているとは思います。 逆に三国史記の編者は金春秋宝年58歳だけをしっていて、その治績がぷっつりきれる661年を崩御年としたために 602年を逆算したのかもしれません。 私は種々の考察は天智=>施基の親子関係が崩れると総崩れになるので、ここは譲れません。 となると671年に58歳で亡くなった説は否定せざるをえなくなります。 川島皇子が657年生まれですから、やはり天智天皇は626年生まれが妥当だと思います。 626年から58歳まで生きると682年くらいになり、天武天皇崩御年686年に近付きます。また妄想のネタが増えました。
2009/03/21
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こんにちは古代史妄想へようこそ昨日の続きを記述します。まず、天武天皇65歳崩御とすると、舎人親王は天武天皇55歳のときの皇子になります。栄養のゆきとどいた現代ですら、55歳で子供を作るのは大変なことだと思います。(中には楽勝という強者もいるでしょうが)つまり天武天皇崩御時、舎人親王10歳ということになります。そのせいか、どうも舎人親王は親不孝な行動が多いのです。まず生涯、徹底的な藤原氏派だったこと。天武天皇は藤原鎌足に恩義を感じていたのが通説ですが、息子不比等のことは無視です。日本書紀の編纂責任者でありながら、あえて父天武の年齢を記載していません。とどめは長屋王を死においやったことです。長屋王は壬申の乱時に天武の心強い味方であった、高市皇子の息子です。舎人親王の最期は流行病の天然痘です。この病気は、長屋王を死に追いやった藤原4兄弟も死に至らしめています。当然、長屋王の祟りとして恐れられました。そうまでして、なぜ舎人親王は藤原氏に味方したのでしょうか?ただの保身にしてはリスクが高すぎたような気がしてならないのです。父天武を裏切り、甥長屋を裏切り、もしかしたらすべての皇族を敵に回してしまうかもしれなかったのに、そこまでして味方した藤原氏とは?舎人親王には藤原氏の血は入っていないのです。父は天武、母は新田部皇女でその父は天智母は阿部氏・・・・それともその系譜は偽りなのか?55歳の時の子というのも無理があるかもしれないし、ただ、65歳崩御説もあまり根拠のないことらしいです。詳しくは、こちらの神谷政行さんのブログご参照ください。舎人親王の謎を解くことが日本書紀の謎を解くことにつながると思います。
2009/03/20
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古代史妄想コーナーへようこそ日によって妄想したり、しなかったり、ラジバンダリですが、今日はどんな妄想へとどりつくことやら・・・・昨日は弘文天皇こと大友皇子の側近(亡命百済学者たち)について妄想しました 。今日は大友皇子のライバルであり、壬申の乱の勝者である大海人皇子こと天武天皇について考察したいと思います。常々私は記紀において過失か故意か同一人物がいかにも他人のように分裂していると言及しております。例をあげればきりがなく、天武天皇の兄とされる天智天皇も葛城皇子・東宮開別皇子・中大兄皇子、記紀だけでもこれだけで、最近ちまたをにぎわしている金春秋説は天命(ティン)開(ヒラ)別(ワケ)でキンハルアキであることから起因しています(もちろん661年に武烈王=金春秋薨ずととも日本にて天智天皇が即位していますから、傍証はかなりあります。鎌足との蹴鞠の出会いも同じエピソードが金春秋と金ユシンとの間であります。)蝦夷征伐を行った将軍、阿倍比羅夫も天(アマ)命(メイ)開(ヒラ)別(ベツ)で、アメイヒラベツ=アベヒラブ同一人物説もあります。 てなわけで、じゃあ天武天皇はほかに誰に分裂しているの?と検証してみると、いない・・・・ 先日敏達天皇と「渟中」 が一致していると指摘しました。あと斉明天皇は舒明天皇に嫁す前に用明天皇孫の高向王に嫁して漢皇子をもうけたとし、この漢皇子こそ大海人皇子(天武天皇)という説もかなりの支持をうけています。ただ、この説は圧倒的有利というわけでなく、天武天皇が天智天皇より年長だということが確定した場合、初めて有利になるというだけの説です(いいすぎ?)もちろん、日本書紀は天武天皇が編纂指示しているわけですから、当の本人を分裂させるわけにもいかないということですね。反日本的(倭より)思想の古事記は33代推古天皇で止まっており、天武天皇の記述はありません。日本書紀の成立は720年ですでに44代元正天皇の時代になっていましたが、元正天皇は天武天皇の孫(しかも皇太子草壁の娘)ですから、 祖父の編纂方針を大きくは変えなかったかもしれません。が、天武朝の側近は蘇我氏がメインでしたが、元正朝になると、あの鎌足の息子の藤原不比等が台頭し、圧力をかけたと想像できます。となると蘇我氏メインの天武朝廷では「大化の改新」のような悪役=蘇我入鹿のような記述を許すはずがなく、天武天皇時代には「大化の改新」の話はタブーだったのではないでしょうか?もちろん実際のできごとが、正義の味方=中大兄皇子、悪の帝王=蘇我入鹿で、正義が勝った・・・という図式は藤原不比等が父鎌足を英雄にするために捏造したという説もあります。実際に殺されたのは蝦夷・入鹿親子でなく、蝦夷・馬子(聖徳太子)という説もあるくらいです。関裕二氏は蘇我入鹿=聖徳太子とし、大化の改新で暗殺されたという説を唱えています。その入鹿=聖徳太子=高向王の子が漢皇子=大海人皇子だとします。私はこの説を100%賛成ではありませんが、かなり近いところをついていると思います。なぜ100%賛成できないかというと、関裕二説では天武天皇はピュアな蘇我系です。そのようなシチュエーションでは、藤原不比等は入り込めませんし、川嶋・施基の両皇子や葛野王は皇族として残れません 。通説では天武皇后の持統天皇が天智天皇の娘なので大友皇子以外生き残れたとします。いいでしょう。ただ、そうすると、桓武以降の泉涌寺に持統・元明が祀られないのは合点がいかないのです。持統天皇が天智天皇の娘なので大友皇子以外生き残れたとすれば、そのおかげで即位できた光仁・桓武両天皇は天智天皇よりむしろ持統天皇を第一に祀らなければならないのです。(アマテラスは持統代替?)(これが、持統非即位説につながり、長屋親王から高市天皇説に発展するのですが) 天武天皇についてはまた考察します。
2009/03/19
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こんにちは古代史妄想コーナーへようこそ 最近、ブログ上を天智天皇=新羅武烈王(金春秋)説がにぎわしていますが、とすると大友皇子は新羅王子?という妄想が当然頭をよぎります。あまり大友皇子=新羅王子を言及した説をみかけないので、大友皇子は天智天皇の皇子ではないのではないか?との疑惑ももっていました。以前このブログで大友皇子墓と最有力視される滋賀の園城寺(三井寺)に新羅明神が鎮座するので、大友が新羅人だからの鎮魂であると言及しました。断片的には蓋然性のある意見だと自分でも思いますが、弱点もあります。天智天皇死後、近江朝における大友皇子(通説では即位して弘文天皇)の側近は百済亡命人が主流で、倭の残党蘇我氏も多いからです。壬申の乱では、大海人皇子が蘇我氏を取り込んで勝利したようなものですが・・・・・つまり近江朝廷には新羅色がないのが弱点です。想像をたくましくすると、母国新羅を追われた父子が異国の地「倭国」 で「日本国」と建国したが、わずか数年で倭国の残党に破れ去った・・・・とすればかなりドラマチックな小説が書けるかもしれません。
2009/03/18
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こんにちは古代史妄想へようこそ今日は、新羅王文武王と同じ名前?の42代文武天皇です。新羅文武王の父は武烈王(金春秋)で、こちらも25代武烈天皇と同じ名前です。さすがに年代が違いすぎるので、さすがの私も同一人物だとは言いません。ところで、「文武」や「武烈」は漢風諡号とされ、その設定は淡海三船が762年-764年ごろとされます。初代神武から44代元正天皇まで(文武天皇除く)とあります。日本書紀によると25代武烈天皇は稀代の悪王とされているので、三船が新羅の武烈王によい印象がなくおとしめるために名づけたかもしれません。しかも、文武天皇に関しては751年に他の天皇に先んじて聖武天皇とともに名づけられています・・・・新羅文武王はさきだつこと681年になくなっていますので、三船は存在をしっていた筈です。しかも、文武天皇は三船命名ではないのです・・・・
2009/03/17
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こんにちは古代史妄想コーナーようこそ今日は、天武天皇(天渟中原瀛真人天皇)と敏達天皇(渟中倉太珠敷尊)の共通点です。ずばり渟中が似ています。これだけ?いえいえ。たとえば、敏達天皇の最初の皇后は広姫、広姫亡き後、額田部皇女(後の推古天皇)ですが、天武天皇(大海人皇子)は額田王(妃)との間に十市皇女がいます。(私見は十市皇女を天武皇女とは見ませんが・・・・)敏達天皇崩御後、もがりの最中に物部守屋と蘇我馬子が大人気ない喧嘩をします。一説によると、天武天皇のもがりの最中に草壁皇子と大津皇子とがもみ合い、草壁皇子にけがを負わせたため、うのの皇后の逆鱗にふれ謀反の罪をきせられ死刑になったという、もっともらしい説があります。(磐余(いわれ)にある訳語田(おさだ)の自邸で死を賜った)ちなみに敏達天皇の別名は他田天皇 (おさだてんのう)です。推古天皇は絶世の美女だったらしく、敏達天皇のもがりの最中に穴穂部皇子がいいよってきたり、蘇我馬子と関係をうわさされたり、とにかくもてたようです。それって額田王にもあてはまります。最初、大海人皇子の妃ですが、天智天皇に取られます。ところで皇極(斉明)天皇の最初は用明天皇の孫高向王に嫁し、漢皇子を産み、その後舒明天皇に嫁したとされます。この時代の皇女はあまりにも美女が多く、再婚オンパレードだったのでしょうか?ではなくて、一人の呼び名が時代や、記述者によって変化しただけではないでしょうか?最後に敏達天皇は538年?生まれ-585年没天武天皇は631?年生まれ-686年没存在時期がちょうど100年開きがあります。記紀編者がちょうど100年のときを超えて、同一人物の記録を分割したのです。
2009/03/16
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こんにちは古代史妄想癖者のブログへようこそ前回は、神道・仏教の天皇を日本書紀は縦につないだ説を展開しました。実は古事記も天皇の並べ方は一緒なので、1.舎人親王が太安万侶の業績をぱくった2.日本書紀が「倭」をことごとく「日本」に変更したので、倭人オオノヤスマロが怒って対抗して作った。どちらかでしょうが、いずれにしろ、どちらかが模倣したことには間違いないでしょう。そのため残念なことは、外国の歴史書や考古学の年代測定と照合しなければ正確な年代が確定できないことです。 それで、タイトルの1.魏志倭人伝「卑弥呼」240年ごろ2.宋書倭国伝「倭の五王の武」500年ごろ3.随書倭国伝「阿毎多利思比孤」 600年ごろの日本名が確定されて始めて記紀記事の正確な年代が確定できるということです。 例えば1.卑弥呼を日本書紀は神宮皇后として、なんとか初代神武天皇の即位を紀元前660年にしようと努力したあとが見られます。実際は天照大神が妥当だと仮定すると、倭の五王くらいまでの歴史が埋まる計算になります。ところが一説では天照=持統天皇、ニニギ=文武とするためのこじつけ系譜という意見もありますから、蓋然性が高いのは倭迹迹日百襲媛命かもしれません。そうなると若干の年代空白が生じます。倭王讃や珍は諸説ありますが、武に関しては考古学的見地からも21代雄略天皇で間違いないと思います。その後、22代清寧~25代武烈まではおろか、はては「あめのたりしひこ」まで中国史書から姿を消します。これが 22代清寧~25代武烈 架空論の根拠となっていると思います。しかし、私は再三言及するように、このころ創作という概念は存在しなかったはずなので、雄略=>清寧の親子関係は立証できませんが、すくなくとも実在または書紀お得意の人物分裂ではないかと考えます。そして、皇極天皇を斉明のみならず推古まで分裂させたがために、推古天皇の時代遣隋使となってしまったのでしょう。ここで、書紀はあめのたりしひこは聖徳太子であるようなニュアンスで悪あがきをします。ところが私見では、用明天皇=孝徳天皇、厩戸皇子=有間皇子ですから、これもあてはまりません。大化の改新のころは2朝並立どころかもっと多く、(倭と百済と日本)朝廷が存在し、そのおのおのの歴史を縦につないだ結果があめのたりしひこ=推古天皇ということになりました。
2009/03/15
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こんにちは古代史妄想コーナーへようこそ本日は日本書紀の記述をもとに古代天皇と宗教について、思いつくまま述べたいと思います。私はたしか小学校の時、仏教伝来ごみや(538年)と覚えました。日本書紀によると28代宣化天皇の時代です。最近は552年説もあるそうで、その場合29代欽明天皇の時代になります。なんで?(ザブングル加藤風に)このころ、仏教派の蘇我氏と、神道派の物部氏+中臣氏との対立が始まります。欽明天皇はどちら派かは明確になっていませんが、最終的に神道派に従っています。次の天皇からころころと支持宗教が入れ替わります。30代敏達天皇=排仏(神道)31代用明天皇=超仏教32代崇峻天皇=排仏(神道か?)なので蘇我馬子に殺された33代推古天皇=蘇我よりなので仏教か?34代舒明天皇=皇居が百済宮といったのでまず仏教35代皇極天皇(37代斉明天皇)=おそらく仏教36代孝徳天皇=ぜんぜん仏教38代天智天皇=ばりばり神道39代弘文天皇=たぶん神道40代天武天皇=たぶん神道でも皇后のために仏教41代持統天皇=仏教でも旦那のために神道(伊勢神宮もうで)42代文武天皇=たぶん仏教43代元明天皇=たぶん仏教44代元正天皇=たぶん仏教45代聖武天皇=奈良の大仏を造ったのでばりばり仏教46代孝謙天皇(48代称徳天皇)=僧、道鏡と仲がよかったのでばりばり仏教47代淳仁天皇=藤原仲麻呂(恵美押勝)のいいなりだったので不明仏教か?49代光仁天皇=回りが仏教だったので追随?50代桓武天皇=お寺が嫌いになったので、反仏教で平安京に遷都51代平城天皇=父桓武に逆らい、奈良に都を戻したので仏教?ここで、疑問に思うのは、30代敏達から33代推古まで神道・仏教と、ころころ変わっていることです。同じ王統だとしたら、海外ではありえない状態です。いまだに聖地エルサレムをめぐって、イスラム・ユダヤ・キリスト教が争っているのが宗教なのだと思っています。ここで私の妄想です。たぶん天智天皇の前までは、「日本国」と「倭国」が併立していたのだと。日本書紀はその「日本」「倭」の合併前の記録を縦につないだのだと。そんな?とお思いの方にひとつ、ご質問です。601年に遣隋使を行いました。このときの天皇は推古天皇ということになっています。ところが、隋の皇帝、煬帝を怒らせたあの有名な「日いずるとこ・・・」の手紙の主は、「あめのたりしひこ」でばりばり男です。これは日本と倭の記録を縦につないだから、中国の歴史とずれたのです。いかがでしょうか?
2009/03/14
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こんにちは性懲りもなく妄想しております。こんな意見もあるのか? ってな感じで気楽に読んでください。できるだけやさしい言葉を使うつもりですが、意味不明の単語についてはご質問ください。今日は、古代女性の名前についてです。古来、女性は、結婚をしようと思う男性以外には決して名前を教えないものである。とされてきました。このことは、女性の名前が後の世に伝わりにくい現象を生んでしまった原因のひとつだと思います。現代も、女性は気に入った男性にしかメアド教えないということと共通点があります。ところで、日本の皇室には姓(苗字、厳密にいうと姓と苗字は違うのですが・・・・)がありません。会社において「社長」とよべば苗字が不要なのと一緒で、「天皇」とよべば(よばないか?)苗字が不要なのは昔から変わっていないということです。ところが、ご近所の国々の皇帝・王たちには姓があります。北朝鮮の最高指導者の姓が「金」であることは、いうまでもありませんが、中国最後の王朝とされる「清」の皇帝の姓は「愛親覚羅(あいしんかくら)」でした。これは、「易姓革命」といって、徳のない皇帝は廃止され、違う姓の皇帝がなるという、中国ならではの政権交代システムだったからです。う、話がそれた。つまり皇室の女性には姓がないかわりに「名前」があったのではないかと思います。まさか皇后や皇女の名前を聞きたい(求婚)勇気ある臣下はそうそういないでしょうし、そのことが古来から皇室の女性の名前があきらかになっている理由だと思っています。皇室を除くと、貴族クラスですら、平安時代くらいまで、だれだれの娘という言われ方をしてきました。(すがわらのたかすえのむすめ、きよはらもとすけのむすめ・・・などなど)天智天皇の妃ですら、「姪娘」といういわれようです。だれの姪?日本書紀の記述からすると蘇我入鹿ではなさそうです。(姪娘の父、蘇我倉山田石川麻呂と入鹿はいとこ同士なので、おしい) ちなみに、天智天皇と姪娘との間の皇女が平城京を開いた元明天皇です。天皇の母親の名前が「姪娘」 ってひどすぎませんか?それとも、人にいえないような偉い人物だったのかもしれません。 かねがね、このブログで言及してきましたが、日本書紀は一人の人物にいろいろな名前を与えています。解釈のしようによっては、「別人ちゃう?」みたいな記述も多いし、なんで漢字がまちまちなの?というところもたくさんあります。 蘇我入鹿は「林大臣」「鞍作大郎」とかたくさんあります。そうそう、聖徳太子にいたっては、上宮厩戸、厩戸皇子、厩戸皇太子、摂政太子、厩戸皇子、厩戸王、上宮王、豊聡耳、上宮之厩戸豊聡耳命、法主王、豊耳聡聖徳豊聡耳法大王、上宮太子聖徳皇、厩戸豊聰耳聖徳法王 はいはいって感じです 。ところで、同じ蘇我氏で、天皇の妃になった女性たちには、ちゃんとした名前をもつ女性も多く存在します。堅塩媛、小姉君(これは2番目のお姉さんって感じかな?)、法提郎女、刀自古郎女(こちらは聖徳太子妃)ということは蘇我氏って冗談ぬきに当時は皇室イコールだったていうことかもしれません。でもなぜ「蘇我」という姓を与えられていたのでしょう?大化の改新で蘇我入鹿が討ち取られる前と後で、違ってきているかもしれません。入鹿の子孫が、「ご先祖入鹿は死んだが、我蘇り(われよみがえり)」とあとづけで付けた姓のようなきがします。蘇我氏が天皇に匹敵する権力の持ち主だったことの裏づけにもなると思います。 ちょっと妄想でした。
2009/03/13
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こんにちは古代史妄想をようこそ本日は、奈良時代といわれる時代から平安時代へ移行した時期について思いつくまま記述します。通説では、称徳天皇(孝謙天皇重祚)の暴走に嫌気がさした国民の総意とされています。たしかにこの時代、寺院・僧侶は優遇されたがために増長し、国民の反感をかった部分もあったでしょう。特に天武天皇の血筋ではない桓武天皇が、寺院勢力との切り離しを画策し、長岡京=>平安京へ遷都したことは有名です。(ほかに祟りを恐れてとかさまざまな理由があると思いますけど)つまり794(なくよ)うぐいす平安京のとおり、平安時代のスタートは794年(でいいですよね?)すると784年の長岡京遷都から794年平安京遷都までを何時代というのでしょう?いままではざっくり奈良時代として片付けられていた気がします。http://ja.wikipedia.org/wiki/奈良時代まあいいか?ちなみに鎌倉時代は1192(いいくに)から1185説が最近有力ですね。http://ja.wikipedia.org/wiki/鎌倉時代 平安時代というのは、すっきりしない始まりとすっきりしない終わりを持った実に日本人らしい時代だったのではないでしょうか? 今日は妄想でもなんでもありませんでした・・・・・
2009/03/12
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こんにちは古代史妄想へようこそ昨日は、高句麗の宰相、淵蓋蘇文が日本書紀で「いりかすみ」と呼ばれていたので、蘇我入鹿ではないか?と記述しました。この妄想の欠点は、淵蓋蘇文の死亡が665年だということです。大化の改新は645年です。すると大化の改新で殺されたのは誰?作家の関裕二氏は、その著書「聖徳太子は蘇我入鹿である」で文字通り、大化の改新で中大兄皇子に討たれたのは、入鹿=太子としました。後年、聖徳太子としてあがめられる一方、蘇我入鹿として汚名を着せられている。という説には説得力があります。いずれにしろ、日本書紀は記録した文書の方言差からか、1人の人物が分裂しているような記述が目立ちます。逆にこのことは「ウソ」をついているのではなくそのままを記録した証拠でもあると思います。「うそ」をつくなら全然結びつかないような名前に変えればいいのですから。よく考えてみれば、このころ世界中に物語や小説はなく、300年くらいあとの竹取物語や源氏物語を待たねばならないわけですから、創作という概念はなかったと考えるのが自然です。
2009/03/11
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こんにちは古代史妄想コーナーへようこそ今日は、天智天皇の父とされる舒明天皇について気がつくままに述べます推古天皇元年(593年)? - 舒明天皇13年10月9日(641年11月17日) (在位:舒明天皇元年1月4日(629年2月2日) - 舒明天皇13年10月9日(641年11月17日))。 これが舒明天皇の生没年とされる年建武王栄留王(えいりゅうおう、生年不詳 -642年)は、高句麗の第27代の王(在位:618年 -642年)。姓は高、諱は建武、または成。先代の嬰陽王の異母弟であり、父は第25代陽原王。618年9月に先王の死去に伴い、王位に就いた。『三国史記』高句麗本紀・宝臧王紀では、諱のままに建武王と記される。唐が高句麗を討とうとしていることに対して、国内の体制の再編を図る必要があると考えた淵蓋蘇文は642年10月にクーデターを起こし、栄留王は100名以上の臣下とともに殺害された。『三国史記』高句麗本紀・栄留王紀には埋葬地も諡も記されていない。高句麗の建武王は臣下に殺害されています百済の武王は武王(ぶおう、580年? - 641年)は、百済の第30代の王(在位:600年 - 641年)。28代の威徳王 (百済王)の子。諱は璋、『三国遺事』王暦には武康、献丙の別名が伝わっている。『隋書』には余璋(余は百済王の姓)の名で現れる。在位42年にして641年3月に死去し、武と諡された。この後に使者を派遣して唐に報告したところ、太宗は哭泣の儀礼を以て悼み、武王には〈光禄大夫〉の爵号が追贈された。 この当時の3国の王は641-642年にあいついでお亡くなりになっていますね。とても殺伐とした世の中だったんでしょうね。(おしまい)って、ちょっと待ってください。 確かにこのとき百済と高句麗は協力して新羅を攻めています。だからといって、建武王と武王は名前が似すぎていませんか?さらに舒明天皇の年表を見ると 舒明天皇12年(640年)4月 - 伊予から帰り、厩坂宮(うまやさかのみや。橿原市大軽町)に滞在する。10月 - 百済宮に遷る。舒明天皇13年(641年)10月9日 - 崩御。10月18日 - 宮の北に殯をした。 高句麗王はなぜ殺されたかが記録され、どこに葬られたかの記録がありません 百済王も舒明天皇もいつ死んだかは記録されていますが、どこでどのようにという記述がありません。なんか3人の記録を合体されると、ひとつの記録になるのですが・・・・ 本当に舒明天皇は日本列島内の百済宮で崩御されたのでしょうか?かといって百済宮が朝鮮半島内だと決め付けるのもどうかと思います。 当時の百済王と高句麗王は「田村=でんそん=天孫」として日本(倭)にいたのではありませんか?それを蓋蘇文(別名=いりかすみ)に殺されたのです。 淵蓋蘇文(えん がいそぶん 生年不詳-665年 は、高句麗末期の宰相・将軍。泉蓋蘇文、泉蓋金とも記される。『日本書紀』には伊梨柯須彌(伊梨柯須弥、いりかすみ)として現れる。 いりかすみ?いりか?いるか?蘇文の蘇といりか・・・もしかして舒明天皇=建武王=武王は蘇我入鹿に殺された? 日本書紀はその事実を対抗者の山背大兄王襲撃に置き換えたか、入鹿は舒明天皇ののち、山背王も亡き者にしたか、どちらかでしょう。 そうすると大化の改新のときに、中大兄皇子が「鞍作(入鹿)めは天孫をことごとくほろぼしやがって・・・だから誅殺した」といったことと合致します。 ところで、話はそれますが、「大兄」って日本では「おおえの」とよび、一族の年長皇子をさしますが、もともとは「だいけい」で高句麗の官職名だそうです。 じゃあ山背大兄も中大兄も高句麗の人? それも早急な意見です。 高句麗の官名をもっていたからといって、その国のひととは限りません。 いままでさらっと流してきた、大化の改新の名場面「天孫」「韓人」は意外な事実を伝えているのかもしれません・・・・
2009/03/10
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こんにちは古代史妄想へようこそ今日は、推古天皇の皇子・皇女の人数についてですWIKIでは 菟道貝蛸皇女(聖徳太子妃)、竹田皇子、小墾田皇女(押坂彦人大兄皇子妃)、尾張皇子(聖徳太子の妃橘大郎女の父)、田眼皇女(田村皇子(後の舒明天皇)妃)ら二男五女をもうけた。葛城王(かずらきのみこ、古事記のみ) とあります。わが国初の女性天皇でありながら、7人(ないし8人)の子供をもうけるとは、古代とは、少子化とは無縁の時代だったのですね・・・って、ちょと待ってください。推古天皇は、敏達天皇の前の皇后が薨去されたのち、皇后に昇格しますが、敏達天皇は2人の皇后のほかに2人夫人がおり、それなりの皇子皇女がいます。本当に、全員血のつながった皇子皇女なのでしょうか?なんか母親不詳につき適当にって感じがします。または、後世、それらの皇子皇女の子孫を称する貴族たちが少しでも自分の先祖にハクをつけようと「おれの先祖のXX皇子の母君は推古天皇だ!」「こっちだってXX皇女の母君は推古天皇だ!」と収集がつかずに7~8人になってしまったのではないでしょうか?しかし遺令によって女帝の亡骸は息子・竹田皇子が眠る墓に合葬された。 とありますから、竹田皇子は少なくとも実の息子だったのだと思います。 余談ですが推古天皇の母親の蘇我堅塩媛 (そが の きたしひめ、生没年不詳) は、欽明天皇との間に磐隈皇女(伊勢斎宮)、額田部皇女(推古天皇)、大宅皇女、大伴皇女、肩野皇女、舎人皇女、橘豊日皇子(用明天皇)、臘嘴鳥皇子、椀子皇子、石上部皇子、山背皇子、桜井皇子 これだけの皇子皇女がいます。多すぎませんか?蘇我氏も実は、ハクをつけるにふさわしい豪族(ひょっとして皇族)だった?
2009/03/09
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こんにちは今日は天智天皇と枚聞(ひらきき)神社についてです http://www.ten-f.com/hirakiki.htm http://www.minc.ne.jp/~hotei/kaimonkanme.html こちらの上記ブログを読みますと、大津から脱走した天智天皇が薩摩の国でひっそりと一生を終えたという伝説があるそうです。井沢元彦氏は扶桑略記の文面から、天智天皇は天武天皇に暗殺された説を唱えています。遺体がみつからない、埋葬記録がない、落ちていた沓(くつ)の場所を墓とした・・・・天智皇太子であった大友皇子もおちのび伝説がありますから、あながち全く根拠のない作り話ということだけではなさそうです。ましてこちらのブログを読むとhttp://blogs.yahoo.co.jp/matmkanehara/archive/2007/3/5天智天皇の出身地が朝鮮半島でなく、鹿児島だったという証拠は、 九州本土最南端の美しい山「開聞岳」と、その付近一帯の地域に特に濃厚に残っている。 この山はカイモンダケと発音されているが、その北の山麓にある 「枚聞(ヒラキキ)神社」と比較すると、「開聞」は「ヒラギキ」と読まねばならない。 「開聞」はふた通りに読めるが、枚聞はどんなにしても「カイモン」とは読めないからである。 この神社は927年(延喜五)に完成した儀式制度の『延喜式』に、 「薩摩国二座。穎娃(えい)郡一座。枚聞神社」と記録されている、 いまは薩摩半島南半に一社だけある非常に古い神社である。 主祭神は「枚聞の神」で、天照大神だとか、 海神(わだつみ)とかいろんな説があるが正体は不明だった。 しかしその祭礼には「本当の祭神」が姿を現わす。 男神に扮した人は、白足袋を片一方だけはいていて「天智天皇」。 女神は天皇の妻「木花開耶姫(コノハナサクヤひめ)」である。 この姫は『記・紀』ではニニギのミコトの夫人だし、天智天皇は滋賀の大津朝廷の天皇だから、 何もかも無茶苦茶だと過去の学者は嘲笑し、祭神は正体不明だとされていたのである。中略・・・(中略天皇っていたらおもしろいすね。また妄想)天智天皇を祭る神社は『延喜式』にもなく、現代も近江神宮は官幣社にも国幣社にも入れない。 天皇家ははっきり区別をつけている。 しかし彼の故郷・鹿児島県の枚聞神社は彼を祭り、 祭礼には彼が木(コ)の花開(サク)耶(ヤ)姫と登場する。 しかし『延喜式』は薩摩国の枚聞神社を小社のうちに加え、明治4年に国幣小社に加えたが、 神社自身も、公式には祭神は天照大神か海神か不明の神だとして、天智天皇を削っている。 神話世界のこのはなさくやひめと天智天皇の婚礼模様・・・・片方だけの白足袋、山科に落ちていた沓。斉明天皇の供養のために天智天皇が建立したと伝えられる、福岡県太宰府市の観世音寺(かんぜおんじ)・・・・確かに百済救援戦争の日本前線基地は福岡だったわけですから、天智天皇と九州は浅からぬ縁があるわけですが、飛鳥で生まれ、次の次の天皇が飛鳥に都した中大兄皇子の一生としては、九州に登場しすぎのような気がします。 関裕二氏は、舒明天皇と天智天皇を九州王朝の王とし、聖徳太子=蘇我入鹿を出雲王朝の王としました。(関氏は更に蘇我入鹿=高向王とし、その子漢皇子=天武天皇・・・出雲王朝の王)と位置づけています。これはこれで、通説を覆し、蓋然性を追求された結果だと思います。はたして天智天皇はどこで崩御されたのでしょう?
2009/03/06
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古代史妄想へようこそ今日は短めにします。西遊記の三蔵法師http://ja.wikipedia.org/wiki/玄奘三蔵が天竺から唐に帰還したのは西暦645年だそうですね。日本では大化の改新が起こった年です。偶然にしろすごいかもしれません。今日はこのくらいで。(それだけ?)
2009/03/05
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春過ぎて夏来にけらし白妙のころもほすてふ天の香具山(百人一首2番)ころもほしたり?違ってたらごめんなさい。今日のテーマは、天智天皇の皇女、天武天皇の皇后、?野讚良うののさららひめみこ=持統天皇です http://ja.wikipedia.org/wiki/持統天皇645年生まれ、703年崩御、崩年58歳645年て、あの大化の改新の年ですねそうそう、大化の改新の登場人物の一人、蘇我倉山田石川麻呂の娘、おちのいらつめが母ですね。 http://ja.wikipedia.org/wiki/遠智娘たしか蘇我入鹿を倒すために、蘇我倉山田石川麻呂を巻き込んだわけですよね。そのための政略結婚が石川麻呂の娘=おちのいらつめと中大兄皇子の結婚ですよね。 で、645年にもう、うののさららが生まれている?wikiでは644年以前に結婚したことになっています。なんかとってつけたような気がします。だって持統天皇には同母姉の大田皇女http://ja.wikipedia.org/wiki/大田皇女もいるんですよ。645年よりもーーーーと前から、おちのいらつめと中大兄皇子は結婚していたのでしょうか?なんか日本書紀は皇族でも都合の悪い人物の年齢を不詳にしています。それから孝徳天皇の妻妾に「乳娘=ちのいらつめ」がいます。私はかねがね「おちのいらつめ=尊敬の御+ちのいらつめ」と考えてきました。今もかわりません。孝徳天皇崩御後、天智天皇が妻妾としてひきとったのです。ですから日本書紀は、むりくり持統天皇が大化元年以降の生まれである必要があったのです。さあ、大田皇女は困りました。お得意の年齢不詳作戦です。でもなぜ、大田皇女と持統天皇を天智天皇の娘とする必要があったのでしょう?孝徳天皇だって天皇だったわけですから、ハクを付けたい意味では、あまり変わらないと思います。孝徳天皇は子女が少なすぎます。もっといたはずです。「持統天皇」の諡は「継体持統」からきているそうですが、継体天皇がきれそうな皇統をかろうじてつないだ故事にちなんで、きれそうな皇統を「持統」したということになります。通説は天智天皇の皇統をつなぐためとされてきました。(それは天武天皇の血統を疑問視する説をも生み出しました)こう考えると天智持統でなく、孝徳持統である気がしてなりません。でも、天智天皇は孝徳天皇の姉の皇子です。他人ではないのに・・・・持統天皇は伊勢神宮にて祭祀を始めて行ったり、薬師寺を完成させたり、神道・仏教どちらなの?という不可解な行動をとっています。父が天智で夫が天武であれば、伊勢神宮だけでよいのであって、薬師寺は不要です。つまり、父親は仏教徒で夫が神道で板ばさみである必要があるのです。諸々の考察より、持統天皇の母は乳娘(=おちのいらつめ)で、父親は仏教徒の孝徳天皇でなければなりません。そうでなければ、天武天皇が持統皇后の病気平癒を祈願して、自分の宗教(神道)以外のお寺(薬師寺)を建立する理由がありません。
2009/03/04
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今日は桃の節句(ふるっ)なので、古代より容姿端麗の代名詞とされている、大友皇子について思いつくまま述べてみます。 よく引き合いにだされるのが、源義経だと思います。共通点は1.非業の死を遂げた2.実は落ち延びたという伝説が各地にある(大友皇子は伊勢原・木更津?君津?義経は北海道を経由してジンギスカンになったという) 3.能力は高かったがKYだった(義経は平氏を滅ぼした。大友皇子は唐の文化人とかの評価が高く、天智天皇は弟の大海人皇子をさしおいて後継者に指名した。だが2人とも政情にうとく自滅した。) 4.もてた(静御前は最後まで義経に付き添った・十市皇女は千葉まで付き添った伝説がある。妻妾多い?)5.肉親に討たれた(源頼朝・大海人皇子) 余談ですが、大友皇子・大海人皇子の関係(叔父甥)を豊臣秀頼・徳川家康になぞらえた作家さんもいました(豊田有恒氏です)これはきついすね。本題に戻ると、確かに写真もなかった時代ですから、ごくごく身近な人でないと本人か判別つかないわけで、特に義経の場合はその首を頼朝に献上するにあたり、夏場40日くらいかけて、牛歩戦術で行ったみたいと、怪しい雰囲気満点です。それにくらべて大友皇子の場合は、物部麻呂が付き添ったといいますから、かなり伝説的には苦しい。物部麻呂は最後まで大友皇子に付き添ったにもかかわらず、平城京では左大臣までなっているわけですから、監視係だったといわれてもしょうがないところです。そしてお墓候補地が複数ありますが、私的には、滋賀の三井寺(みいでら)がくさいかなと。なぜなら、境内に新羅明神が祀られているからです。大友皇子は「百済系」じゃないの?と言われそうです。たしかに壬申の乱で最後まで近江朝廷サイドだった蘇我氏も多いわけで、大友皇子から新羅の匂いは全く感じないわけです。井沢元彦氏は新羅明神を「けん制」だと解釈しています。私はそうは思いません。菅原道真にしても崇徳天皇にしても、無念の死を遂げた人は恐ろしい怨霊となると信じられていた時代です。非業の死を遂げた大友皇子の霊をどうしたら新羅明神がなぐさめられるのですか?百済明神とかなら話がわかります。壬申の乱後、天武天皇は唐へのけん制もかねて、親新羅政策をとります。唐と結びついて憎き新羅を倒そうとした兄天智天皇とは逆の立場をとります。(日本書紀においては)天武天皇のほうが先を見る力があったことでしょう。(日本書紀においては、しつこい)もし、唐と同盟すれば唐の思う壺で、新羅を滅亡においやったはいいが、その次は日本が危うくなります。ちょうど鎌倉時代元寇は当時の朝鮮半島支配国の高麗が元に屈したからです。 ではなぜ新羅明神が大友の慰霊をできるのか?それは、大友皇子が実は新羅人だったと解釈しなければうまく説明できません。日本書紀は孝徳天皇3年に「新羅遣上臣大阿滄金春秋等、(中略)仍以春秋為質。春秋美姿顔善談咲。」後の新羅の武烈王(金春秋)が日本にきたと記しています。(かなり美男子だったようです)どうも私には大友皇子は金春秋の息子のような気がして仕方ありません。父親譲りの美男子だったのではないでしょうか?(天智天皇も肖像画からすると色白で神経質そうな美男子に見えますが)やはり人間見た目が大事なのですね(そういうオチかい!!とお叱りを受けそうです)
2009/03/03
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なんか今回とりとめがありませんまた補足しますm(__)m (1)一説に天智天皇は甥の大津皇子をことのほか可愛がったとききます(出典忘れました)命名根拠も近江の大津であり、九州の那大津はこじつけがすぎると考えます。なぜ那大津皇子でなく、那だけとったのでしょう?従来、大田皇女は天智実子とされてきましたから、大津皇子は天智実子ではありえないという解釈だと思います。 (2)なぜ斉明天皇は死後、孫の建皇子と合葬するように遺言したのか? たけるのみこ=推古天皇の皇子(たけだのみこ) で、天皇になれなかった皇子、合葬依頼のくだり、孫であることよりも子であるほうが、現実感があります。おいおい説明します。推古天皇は斉明天皇と同一人物です。(最初に唱えたのは言語学者加治木義博先生です) 日本書紀は系譜を斉明-天智とつないだために、天智の子である必要性がでてきました。敏達と推古の子竹田と、斉明と天智の子(?!またオカシナ妄想をしているな!!とお叱りをうけそうです)建・・・・同一人物である可能性は高いです (3)長、弓削皇子のみならず、系譜上天武天皇の皇子とされる人々はみなさん非業の死(若年死)をとげています。逆に実子と私が言及する、草壁皇子は若く病死しましたが、舎人皇子・新田部皇子は天寿をまっとうしました。このあたりが、日本書紀編纂時は天智系が疎外され、桓武天皇になって意識的に天武系を疎外というに変化したからではないでしょうか?これでは答えになっていませんね。生没年問題がクリアされれば、大江姉弟・新田部皇女は天智の娘ではない(孝徳の娘とはいいきれませんが)ことの証明になるとも思います (4)壬申の乱以降、何らかの理由で天武天皇は大友以外の天智皇子を全員(しかも大友の子まで)引取りました。当時の系譜上は川嶋・志貴(=磯城)すべて天武の子とされていたと思います。川嶋は大津を裏切り、35歳で若死にしています。だから天武系譜からはずされた元に戻されたのです。志貴親王は藤原百川らの光仁天皇擁立策略もあり、必要以上に天智系であることの強調が迫られました。 (5)当初なぜ天智天皇崩御58歳説だったのかに立ち戻る必要があると痛感しました。神谷さんのおかげです。こちらのブログです。http://www7a.biglobe.ne.jp/~kamiya1/profile.htm それまで私は天武65歳崩御の固定観念にとらわれていた気がします。で、大体弟は5歳くらい下だろう説が天武65歳説の始まりだったと思います。 (6)一連の考察からすると日本書紀は系譜上天智-大友とつなぐ必要が生じたと思います。十市皇女を天智娘とすると、大友は婿になります。実際に戸籍上は親子と認めたかもしれません。大友と川嶋・志貴・持統らがじつの兄弟姉妹であれば、みすみす十市・高市ともども逃げられるでしょうか? ところでかねてから、天智天皇には側女しか子女がいなかったのか疑問でした。 間人皇后の存在が邪魔をしたというのが通説ですね。 皇后崩御後、天智天皇に即位したことになっています。 通説は藤原不比等と持統天皇が互いの父の業績を誇大広告するためとなっていますが、 上記のような考察からもっと裏がある気がしてなりません。
2009/03/02
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