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長岡(4)・馬高遺跡この遺跡からは少数ながら縄文遺跡に多く見られる土偶も発見されている。顔の表現法には地方色が有るようであるが此処のそれはお結び型が特徴で手のひらに乗る程度のサイズであるが ”ミス馬高“ と名付けられたこの土偶は重要文化財に指定されている。 さて発掘された資料は一片毎に発掘の日付け、場所、スポット、その他のデータが虫眼鏡でしか読めないような小さな字で書きこまれて整理されている。 それらはまた個体ごとに整理箱に納められて修復に回される。空調倉庫と閲覧室の間には通し窓が置かれて見学者への閲覧に供している。 さらにその隣で行われる修復過程も分かるようになっており、時には修復教室も開かれている。このような展示によって主に学校の社会科の校外教室として利用されているようである。 外に出てみると青い空と白い平原に可愛い博物館が美しい景色を作っていた。 そして雪原の中に方形の竪穴住宅が有った。かすかに雪かきがしてあったので係の人に伺うと、行きましょうと云って鍵を手に案内してくれた。 中は結構広い 、今まで見てきた竪穴住宅はほとんど丸型であったが此処のは方形である。炉(と言っても囲いなど何もない)の上は大きな棚が吊るしてあり、薫製品を作る為と思ったがもっともっと大きな意味があるとの解説であった。炎が建材の葦に移るのを防ぐことが釣り棚の第一の意味だそうである。魚焼網から上には炎が上がってこないあの原理である。 壁には狩猟用の石矢じりの付いた矢が飾ってあるが、ここで面白いことは矢じりの材料石は此処のローカルストーンばかりでなく、広く東北、信濃、関東の石まで使われていたと云うことで、縄文時代すでに広い範囲で交流が有ったことを示すそうだ。そのことは土器の様式にも表れ互いに影響されながら変化していっているとのことであった。 帰り際馬高の縄文人が見たのと同じ越後の山々が望めた。 越後の名峰八海山、この辺りは日本を代表する豪雪地帯だけあって冬はヒマラヤの山々のような白い姿をしている。 もう一度馬高遺跡を振り向くと春から秋にかけては遺跡は公園化され色々な遺構を復元整備しているようであった。林の辺りは谷になっており河が流れている、そしてその向こう側は三十稲場(さんじゅういなば)遺跡が広がっている。手前の馬高遺跡が縄文中期の遺跡なのに対して三十稲場は縄文後期のものだそうだ。谷一つ挟んで時代が変わり、村の形態も方形から円形と異なっている。珍しく雪雲ひとつ見えない明るい雪国の空であった。
2012.01.30
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長岡(3)・火焔型土器長岡市馬高遺跡博物館は火焔型土器にほぼ特化された博物館だけあって小さいが資料数は時代・様式・用途などで綺麗に整理されており、分かりやすい展示である。前ブログで書いたような火焔式土器の形式・文様などが実際の発掘資料を示しながら解説されている。 胴体の文様も整理されている。 火焔式土器に必ず付いている鶏頭冠飾り、顔の向きは左右両方ある。 馬高遺跡で発掘された土器のサイズや様式の展示と発見時の写真。 遺跡の違いによってまた時代の違いによって鶏頭冠型でも王冠型でもサイズや装飾度に違いがある。 火焔式土器は北陸・越後、東北・関東北部と広く分布しているが現在発掘されている限りにおいては新潟のものが数も多く、装飾度も高いようである。 縄文人達の生活は当然ながら気候に支配されていた。春は草木の若芽・若葉、魚貝類、夏から秋にかけては芋などの根菜やキノコ、そして大型の成魚など今で言う農・漁業中心の生活である。冬になると雪深い北陸や東北では生活は一変する。狩猟だけが主な食糧源となる。 実は私が火焔型土器に興味が湧いたのは知人がこれらの縄文土器の同位元素による年代測定をしており、本を贈呈されてからである。この人は古文化財の年代測定だけでなく、煮炊に使った土器に付いたお焦げの炭素や窒素の同位体比を正確に分析して縄文人達が何を食べていたかを研究している。本を読んでそこまで出来るのかと驚きもし、火焔式土器に大いに興味を覚えた次第である。それにしても発掘の地層年代だけが頼りだったのがかっての考古学である。今では縄文人の食生活まで解明できる近代科学には脱帽である。下の壺土器には表面に漆加工がされているそうで当時としては破格なものである。 テレビで焼き物の場面で轆轤の上で最後に糸きりをする場面があるが、もちろん縄文時代に轆轤など有るはずが無く、何かを敷いた台の上で成形し、敷物ごと焼き上げたのであろう。普段注意しない土器の底にその痕跡が残されている。竹の編み物からは市松模様や網代編み模様が残っている。繊維織物からはその模様が出るがそれを物語るような織物も発掘されている。さらに季節によってはホウ葉のような大型の葉っぱは手軽な敷物になったのであろう。土器の実用性や装飾性とも関係ないが考古学上の貴重な資料である。
2012.01.29
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火焔型土器考この日長岡研立火焔型土器博物館を訪れたのは多分我々二人だけだったろう。管理員や学芸員の方には大歓迎して頂いた。この小さな博物館をゆっくり・たっぷり見学する間学芸員の女性が付きっきりで説明してくれたり我々の愚問に丁寧に答えてくださった。以下の報告記はそこで教えて頂いたことや展示解説から私の記憶を辿って記すものであり、誤解や思い違い も多いと思われるが全て私の責任である。私の観光の一環としての印象記なのでその点は断っておきたい。いずれにしてもお名前を失念して申し訳ないが親切にして頂いた学芸員の方に深謝いたします。一般によく”火焔土器”と云うことが多いが正確には”火焔土器”とは前回紹介した長岡・馬高遺跡で発見されたもの只一つで、各地で発見された多くのものは”火焔型土器”と称せられる。火焔型土器は紀元前三千年を挟んで約1世紀の間縄文時代中期に造られていたという。 火焔型土器が出現する前北陸地方から新潟地域に伝わったと云われる下のようなシンプルな形のものは火焔型土器以前のものであるがここでも単なる実用壺以上の文様が施されている。 火焔型前期のものとしては下の写真のように胴体の装飾がより複雑になり、俗に鶏頭冠と言われる鶏のトサカのような装飾が加わり、もう一つ火焔型の特徴とも思えるぎざぎざが縁を飾るようになる。 そしてその装飾はより大きく火焔の様相を呈してくる。 下のものはいわゆる火焔型土器のシンボル的存在の”火焔土器”の形になる。 火焔型土器は一般に深鉢で、他の遺跡ではほとんど見られないが此処の馬高遺跡では下のような平鉢も発見されている。祭祀用として深鉢は液体ないし粒状の供え物を、そして平鉢は固型の供え物をするためと云うのが私の推理である。 此処の遺跡で発見された多くの火焔型土器には上に記した鶏頭冠様装飾を施したものと王冠型と言われる王冠様の装飾を施したものがある。何れも縁に4つの装飾を施し、胴体には練った泥の棒をくっつけたと思われるロープ模様が描かれている。下のものは王冠型の初期のもので縁の窪み穴は紐を通したり取っ手を付けたりして実用性を考えたアクセサリーではなかろうか。 王冠型も段々装飾が大げさになり実用性よりは祭祀用ではなかろうか。 面白いことは上下2作の王冠型土器を見ると陶工の性格や作品の価値に差がみられる。上のものは王冠飾りにしてもロープ文様の付け方にしてもいかにも荒っぽく、下の作品はどれも一つ一つ丁寧な作業が行われている。陶工の性格なのか使用目的の違いなのか分からないらしい。 火焔型土器はその装飾性からいっても大きなものは造れず20-30センチ径のものであるが中には大きくて実用品とも思われるものがある。下のカメは10L位の液体が保存できそうなものである。こういった実用品にも装飾を施すと云うことは縄文人の美意識と実生活が現代人と変わらないことを示している。 どう考えても実用生活用具と思われる下のような液体保存瓶にも文様が工夫されていて、縄や竹編みから創った鋳型の上を転がして書きいれたのではないだろうか。左の縄目模様などは行きと帰りで鋳型を方向換えして斜線の向きを逆にしている。
2012.01.28
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長岡・火焔土器(1)4日間有効の”大人の休日切符” を2日間残して帰京してしまったことは一昨日のブログに記した。そこで最後の日以前から行きたかった長岡へ火焔土器をを見に行くことにした。何しろ往復1万7千円もの新幹線代が只になるのである。ゆっくり家を出て10時過ぎに”MAXトキ”の2階席に乗り込んだ、2階席だと雪景色が十分楽しめるからである。上毛高原辺りから景色は雪景色となったが長いトンネルを抜けると川端康成の「雪国」の文章通り急に深い雪の世界である。 長岡駅で降りるとコンコースにさっそく下の火焔土器のレプリカが飾ってある。岡本太郎の言葉、「縄文土器。これを見たとき 心がひっくりかえる思いだった。人間生命の根源、その神秘を凝集し つきつけた凄み。私はかってこんな圧倒的な美観にぶつかったことはなかった。全身が”ぶるぶる” ふるえあがった」と記されている。 美の認識能力の差で太郎の美意識を共有できないでいた私でも初めて”火焔土器”の写真を見たとき縄文人の美意識が私の認識をはるかに超えたものであることを知った。インターネットや案内書でもこの火焔土器が長岡で出土し、市立科学博物館に有ると書かれている。行き方を訊きに案内所に赴くと、今は発見された”馬高遺跡”に博物館が建てられそちらに移っているという。案内された通りバスを降りると雪かきされた道路に長岡城と火焔土器が描かれたマンホールを発見した。この時ほとんど雪に埋もれているものを見つけて嬉しくなった。 博物館への曲がり角には道路標識として大型の火焔土器レプリカが飾られている。博物館公園入口標識にも同じレプリカ、?いても掻いても降り積もる雪に立派な標識もほとんど見えない。この時期の週日駐車場にも車は見当たらず訪れる人もほとんどいないので遠来の客にはこの方が好もしい。 ここ1,2年の間に出来たものらしく平屋の博物館はなかなか立派なものである。 そして展示室に入るといきなり”火焔土器”が鎮座している。そして説明文に 「火焔土器とはこの1個の土器に付けられたニックネームで近藤篤三郎氏が1936年の大晦日にここ馬高遺跡で発見したもの」だそうだ。何と私が生まれた年に私より数か月後で世に出たものだとか。なんだか親しみが湧くではないか。 篤三郎氏は地元の地主で3代に渡ってこの馬高遺跡を発掘し続け資料を整理していた人で当時は郵便局長をしていたそうであるから大晦日と言えども貴重な発掘日であったのだろう。因みに越後、関東、東北の縄文遺跡でしばしば発見される類似型のものは”火焔型土器” と呼ばれているそうである。 ここでも超特別扱いで展示されている。新潟県中越地方に壊滅的被害をもたらした中越地震の時は特別展示のためミュンヘンに行っていたそうで、昨年の東北大地震の時にはたまたま修復のため柔らかな綿の台に乗っていて損壊を免れたと云う第1級のパワーグッズらしい。 このような大げさな飾りのついた火焔型土器は縄文時代の中期BC3000年頃の数百年にわたって造られたとか。こんなものを見ると誰しも祭祀用の道具を連想するが考古学の研究は実用に使われた確実な痕跡も発見している。
2012.01.27
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WiMaxがやってきたインターネットをしていると最近は嫌でもイーモバイルやuqコミュニケーションの無線LANが目に付く。昨年、中古のiPadを手に入れて使っている。さらにiPod touchを買ってしまった。そうなると無線でしかインターネットができないので仕舞い込んでいた無線ルーターを繋いでタブレットを使ってソファーで楽しんでいる。以前は旅行時、無線ルータを持参してホテルの端子につないで使ったりしていた。そうなるとどこでも使えるモバイルルーターが欲しくなり、いっそのこと現在の有線光Netをモバイルルーターに置き換えて序でに経費も減額出来ないかと考えた。ところが問題は屋外では問題ないとしてしてもマンション内で使用に耐えるかどうかである。先日マンション管理組合の資料でUQ通信社のアンテナが我がマンションの屋上にあることを知った。そこでWiMaxの無料試用制度を使って実用度をテストしてみた。 というのもWiMaxは2・5Gのマイクロウエーブが使われており直進性が高いためいくらアンテナが近くてもコンクリート床を通過できず「灯台下暗し」で使えないだろうと思ったからである。結果は常識的に考えられる窓際より部屋の中心部でかなり強い信号をキャッチできた。何はともあれ室内で中強度の電波をキャッチできたのでuqWiMaxに一年契約のプランを申し込んだ、このプランだと二万円近いルーターが無料で入手できる。申し込み2日後に配達されたのはAterm WM3500 他のメーカー品より少しサイズが大きめであるがLANケーブルが繋げるクレイドルが付くのはこれなので選択してみた。大きいとは言っても胸ポケットにも入る手のひらサイズ文句は言うまい。写真で一番上の緑灯は電源、次がバッテリー、三番目が無線子機への電波、一番下がWiMaxの受信電波強度で、ここではアンテナが2本立っている(最高は3本)。デスクトップで通信速度を測るとクレイドルからLANケーブル接続でも無線接続でも大差なく、5-10Mバイトは出ている。光ネット100Mb契約でも大体20-30バイトだったので私の目的には十分である。 結局充電にいちいちUSB接続しないで乗っけるだけで済むクレイドルを用いることにしてクレイドルとPC間はケーブルで繋ぐことにした。 クレードルと呼ばれるがCradleであろう、なるほど“ゆりかご”とは良い例えである。ルーターはここに乗っかるとオッパイ(電気エネルギー)は貰えるし泣いたり笑ったりできるし申し分なしである。 モバイル無線ルーターは鉄筋住宅では窓際でしか使えないと云うのが一般側であるが不思議なことに私の場合マンションの中央部で一番電波が強い、それも特定の三次元空間で強い。考えてみるとその空間はエレベーター・非常階段に近接空間である。実はWiMax電波は我がマンションのエレベーター塔の上にあるのでこのエレベーター・非常階段の竪穴を通って我が家に来ているみたいである。誠に稀な条件がそろって我がデスクトップパソコンのごく近傍で感度が良いのだ。と云う訳でWiMax -> 無線ルーター -> デスクトップを逆流して今このブログを書いている。屋外では問題なくかなりの速度でインターネットが出来る。結局光ネットよりは速度において劣るも屋内・屋外で使え、かつ料金が安くなるのは有難いことである。
2012.01.25
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雪の山形前ブログに記したが4日間有効の大人の休日切符で雪の角館を訪れた。 予定としてはその後山形蔵王に廻りロープウエイで地蔵岳に登り有名な 樹氷のスノーモンスターを見たいと云うのが我が相棒の願望であった。 一日目角館を見た後盛岡で泊ったがこの日は最高が氷点下零度、夕暮れに なるとそれよりもはるかに冷えていた。風も無いのに顔に当たる空気は 寒がりのrakutenをおびえさせ血圧が急上昇したみたいで気分がよくない。 翌朝蔵王行きのキャンセルを提案すると相棒も待ってましたとばかりに同意 してホテルに電話した。勿論蔵王山麓まで行くには問題が無いが、1300メートル の地蔵岳に登るのは寒すぎる。昨年11月に行った時は立っているのも大変な 位の強風と寒さで震え上がったものである。そこでこの日は仙台から仙山線で 作並温泉・面白山・山寺の雪景色を車中から眺め山形新幹線で帰京することにした。 山寺は駅からも望見でき、有名な立石寺の五大堂が見える。ここに立った時夏のあの涼気と秋の紅葉は素晴らしい。でも凍てついた雪の石段を1時間近く登らなければ上がれないので冬の山寺は私の脳裏には浮かばない。ところがカメラを最高のズームにすると人影が認められる。隣席で飲んだり食べたりしていた東京からの60代の男性5人、急なアナウンスに慌てて食べようとしていた浅草の伝統和菓子・船和の”芋ようかん”を私達に残していそいそと下車していった。山寺に登る為靴を新調してきたと云う、滑らずに無事の参詣をお祈りした。 程なく我々は終点山形に着く、何年か前の夏訪れてブログに書いたこともある駅から数分の霞城(かじょう)公園を歩いて見ることにした。大分復元が進んでいるがまだ大した建造物は出来ていない。 櫓の記念館前にはこの地の藩主最上義光の雄姿が立っている。NHKでドラマにもなった米沢上杉藩の直江謙次の大軍を退け最上地方を守った名君として尊敬されている。同じ山形県でも山形市と米沢市は強い対抗心を今に持ち続けているが、義光の頑張りが無ければ今の山形県庁は米沢だったかもしれない。 枡形の大手門はほとんど復元されて雪景色に映えている。 以前のブログに詳しく記した済生館は山形の大工が自力で立てた明治期の洋館で看護学校・病院として使われていた建物である。早々に駅に引き返して再開発されて出来た霞城セントラルと云う山形で一番高いビルの最上階27階に有るレストランで昼食とした。この展望レストランの窓際のカウンター席で頂いた千円ランチは味も量も質も東京ならでは考えられないお値段であった。 このレストランと同じ階は主に展望室になっており、市内が一望できる上に記した方形の霞城公園もよくその外観がつかめる。 そしてその右下部にはあの済生館も認めることが出来た。 昼食後山形新幹線で東京に向かったが山形県と福島県を区切る赤湯あたりは特に雪が深かった。雪の樹林帯も見事であるが白い平原・田んぼの広がりも都会人にとっては癒しである。もっともそこで生活する人々にとっては癒しどころか骨折りの毎日であろう。このディレンマは永遠に続くものである。
2012.01.24
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角館の雪景色(続)昨日の続きであるが武家屋敷が連なる通りの黒塀としだれ桜の巨木に降り積った真っ白な雪はやはり立派は水墨画になる。 それぞれに屋根や扉を持った門も全て黒構えである。今は黒ペンキだろうが昔はコールタールだったはずだ。石炭を蒸して留リ出る黒い液体で防腐効果は抜群である。しかしそれを現代風に解釈すると発がん物質が豊富なものでもある。工作好きだった父が屋外に置く木製の道具によく塗っていたのを思い出す。また子供時代汽車に乗ると駅周辺の全ての木製品にコールタールが塗られていたことを思い出す。 門の格子にも各戸微妙な違いがある。 正面玄関口には板が懸けられている、最初修理中かと思ったがそうではなく雪囲いである。こうしておけば例え雪が軒を埋めるほどに積っても屋内生活は普通にできる。地元の人は積雪はこれからが本番ですと言っていた。 ぐるりと雪囲いされたこの松本家、今はこのように新しい表札が付いているが本道から外れた所に有る小さな家で、おそらく貧乏な下級武士の家だったと思われる。実はこの家は映画 ”たそがれ清平” の家として使われたもので前回訪問した時は内部も覗いたが清貧そのものであった。黒塀、清流の側溝、遠くに赤い小さな傘、降りしきる雪と寒さは別に美しい光景である。 シャッター速度を落としてカメラを黒塀に向けると雪は短冊の様に映る。ふと上を見ると、たわわに残った柿の実が雪の重みを増して一段と垂れ下がり白・黒・橙色の画面を作っくれていた。 この辺り山は角館杉で覆われ武家屋敷は樅の木で覆われているが、なぜか一本メタセコイアに似たラクウショウの巨木が聳え、黒味を帯びた樅の葉っぱと好対照をなしている。 最後はやはり山の杉、ラクウショウ、樅の木、しだれ桜の並木に赤いドットを加えて終わることにしよう。
2012.01.24
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雪景色の角館またJR 東日本”大人の休日倶楽部”の時期となり、最近は値上がりで¥15000になりその代わり4日間有効になった。冬はいつも東北に雪見旅をしている。今年も15日から北に向かった。秋田新幹線で東京から直接角館へ来てみるとそこはもう全く白銀の世界。秋田佐竹藩のし支藩角館の武家屋敷の街並みがそっくり保存されており、黒塀の武家屋敷に春のしだれ桜と冬の雪景色は圧巻と聞いている。春には一度訪れたことがあり、黒塀から大きく道路上に垂れさがったしだれ桜の巨木はJRのポスターで有名なこの景色に感動したものである。そこで今回は雪の角館行きとなった。駅前には雪の山が前方を遮りバス停もほとんど目に入らない。 桜の巨木と赤いポストのを認める雪山の向こうに有るのは秋田従貫鉄道の洋館駅舎、外灯の下はJR駅に通じる鴈木通路で雪国特有。 街の端まで歩くと20分以上はかかりそうなので坐骨神経痛持ちの身とてまず街の外れまでタクシーで行き、降りた所は下の光景、何も言うまい。最初の屋敷は角館でも一番大きな石黒家、立派は門構えである。ここは公開されているがこの時期この種の家に靴下で上がると氷の上を歩くようで体調を壊すのでパス。 裏門とおぼしき黒塀屋根も雪に覆われると格式を感じる。 隣りの資料館と思われる家には降りしきる雪の間から立派な漆喰模様の家紋が見える。石黒家の家紋”抱き柊(ひいらぎ)” である。石黒家ではこの他に丸に柊の字を書きいれたものなど3つの家紋を使い分けていたそうである。そう云えば私の実家も丸に三本の横線を入れたもので呼び名は”三つびき”であった。小さい頃近所の年寄に”三つびきのぼく”と呼ばれていたことを思出した。家紋を付けた家の屋根からは見事なつららが垂れ下がっている。 梢や屋根の雪はかなりな重みであろう、雪かきをしている人に話しかけると最近は人手不足や人々の怠け性で雪かきが怠られ建物の傷みも速いと嘆いていた。白黒の世界に有っては赤い交通標識もアクセントとなる。 一週間くらい前のNHKテレビで京都大原住まいの随筆家ベニシアさんがこの町を探訪し報告していたが、太平の江戸期武士たちには大した収入も無く、色々な手仕事をして副収入にしていた。その工芸が今に伝統工芸として残りこの町の特産品となっている。それが山桜の樹皮を利用した装飾家具の“樺細工” と杉の?板を曲げて作る実用家具の”曲げわっぱ”である。そう云った伝統工芸などを展示した”伝承館”は大きな入母屋屋根にギリシャ風の小列柱と煉瓦のファサードを持つ奇妙な建物であるが、現代に生き残る伝統工芸がいかに時代に合わせた編曲をしなければならないかを象徴しているようであった。 先にも記したが白い雪と黒塀のモノクロの世界に赤は冴える、やっと赤い傘をの人が通りかかった、出来れば和服姿が欲かったがそれは贅沢と云うもの。 夏は緋鯉が泳ぐであろう流れもこの時期は雪を流す重要な流れである。
2012.01.22
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ドイツ村イルミネーション(続) 観覧車を降りて村を離れる際村の中心Markt Platzは華やかだし その周りも鮮やかな電飾であるがその向こう側は広くて暗い芝生園地である。大体こんな田舎に来る人は皆車でやって来る。運転免許を返上したrakutenは週末だけ運行されるシャトルバスにのる。袖ケ浦駅から客は我々だけであったが徒歩入場の客はごく稀である。園地の遊歩道は臨時の自家発電照明でうす暗い照明が施されていたが本当に村を外れたと云う感じである。帰りのシャトルバスにも他に2,3人の客が乗っているだけであった。 暗い夜道から街を見ると観覧車の下には鮮やかな虹のトンネルが横たわっている。 そのトンネルの出口はなぜか小さな売店とトイレであった。普通照明トンネルはもっと賑やかな所に出るものではなかろうか。 そのトンネルも内から見るとこのように空いている。電気代が取れるのか心配になってきた。近年各地にこのような夜間電飾が増えたのはLEDの出現で電気代が数分の一になった為であるがそれでも心配になってきた。 トンネルの中から空を見るとその頃には十五夜月も大分上がり無数の星屑に囲まれて大宇宙に輝く太陽のように見えた。 いずれにしても電気の使い方としては少し ? のイルミネーションである。
2012.01.22
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観覧車と歩行者デッキからの夜景遠くに街灯りと東京湾の灯りが望見出来るがドイツ村の周辺は畑の広がる丘陵地帯で空には満月もまだ上がり始めたばかり、イルミネーションが一段と華やかになった。帰宅するのに2時間以上もかかるので早々に退散しようと思ったが、全体像を見るには観覧車も良いかなと思い列に並んだ。確かに大きな模様の全体像を見るには正解であった。ただ当然ながら観覧車は常に動いている、昼間なら問題は無いが夜間では露光時間が長くどうしても画像は揺れる。 しかし考えようによってはそれも一種の立体感を与える効果がある。 観覧車からの日本列島虹の架け橋 幸せの象徴4つ葉のクローバー、幸せには色々な種類があることを表わしたものか、”幸せはいつも自分の心がきめる” 私の好きな相田みつをさんの書である。10人10色の幸せがある。 4つ葉のクローバーはテントウ虫も好きらしい。 観覧車の下には木道がありその片側にはバルーンをメインテーマにした飾りが広がっている。 夜間撮影には液晶画面での撮影は禁物、腕が伸びるためカメラが固定できない。何かに寄りかかって体を固定し、脇をしめてファインダーを覗く(もっとも小型ディジカメではファインダーが無い)。 以上の努力をしてもこの有様である、実は木道は人が通るたびに揺れる。いくら頑張っても足場が揺れるのでこの体たらくである。 フラミンゴたちは地上に散らばったダイアモンドを食べているようだ。 消化には悪いかもしれないが、なにお腹に貯めこんだダイヤは洗えば王冠にだってできる。 フラミンゴが迷い込んだ世界の全体像。
2012.01.21
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ドイツ村・薄暮のイルミネーション 太陽が西の空に黄金の光を収め、東天の十五夜月もまだ存在を主張しない黄昏時、園内のイルネーションが自己主張をし始めた。それまで疎らだったMarkt Platzにも人が増えてきた、この頃になると団体バスツアーの客も集まり始まる。 まだ薄暮とて賑やかさには欠けるが芝生広場の立ち入り規制域は華やかなコブラン織のような園地に変わりつつあった。 そして賑やかな近代音楽のけたたましい音楽とともに村は光の飛び交うショウ会場なっていた。ドイツ伝統風の木組の家も萬艦色である(古すぎる表現かな)。 村も夜の帳(とばり)と共にダンダンと華やかに後ろの糸の垂れ下がった所は観覧車の中心回転軸、村のミニアテュア家屋の内部にはデコレーションが有ったり、テーブルがあったりで子供達は楽しそう。ビデオカメラを持って子供と一緒に入ったお父さん出る時思いっきり頭をぶつけた暫く立ち上がれなかった。後ろ横に広がるのは観覧車へ通じる光のトンネル。 この頃になると空には十五夜月が、残念ながら三脚も持たず脇を締めだけのrakutenのカメラと腕ではウサギさんまで写らなかった。
2012.01.20
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Costa Concordia号の遭難大人の休日倶楽部フリーパス期間が始まったので15日から恒例の雪見旅で角館に行ってきた。新幹線に持ち込んだ朝刊にイタリアの北方沿岸で座礁し横転したイタリア・コスタ社のコンコルディア号の写真が出ていた。(Wikipediaより)これを見て人ごととは思えない気がした。何を隠そう2008年11月私達はまさしくこの船でチベタベッキア(ローマ外港)-サボナ(ジェノバ)-バルセロナーパルマ(マヨルカ島)ーテュニス(チュニジア)ーマルタ島ーパレルモ(シシリア島)と1週間の船旅をしたことがある。この旅の記録はブログにも記したが、特にコンコルディア号については船の概要やほかのクルーズ船との比較考なども試みている。今回の遭難事故を読み説く一助にとあえてここに記しておきたい。 豪華客船とは言っても確かに設備は素晴らしいが、ラテン気質の少数の船員と中南米・アフリカ・東南アジアからの安い賃金の出稼ぎ労働者で運行されている手軽で安価なクルーズ船である。昔のヨーロッパ人の感覚からすれば日本の飛鳥号やイギリスのクイーンエリザベス号はバトラー付の旅、コスタ号のそれは訪問家政婦付きの旅だろう。多分費用は半分以下だろう。新聞記事の豪華クルーズ船も正しく読む必要がある。避難指示が悪かったとかいろいろ言われているが、船内放送もイタリア語、ドイツ語、フランス語、英語、日本語、韓国語の順番だった気がする。最近は韓国人客が多いので日本語より前かもしれない。東北大震災でもイタリア語やスペイン語しか話さない人は苦労したことだろう。また今回日本人団体にはツアーアテンダントが付いていたはずだが、ホテルと違って客室は個人が選ぶためピン・キリで船の長さ約300m、15階建ての各所に散らばっている。こうなるとあまり語学は当てにならない、個人の状況認識力・旅の力(個人旅行経験)・人間としての生きる力がものを言ったことだろう。またあるブログ記事に船長は当時ブリッジではなくレストランで美女2人を従えてテーブルに挨拶回りをしていたと非難めいた日本語記事があるが、船長は船の責任者、クルーズの責任者はクルーズマネージャー(たしかこの船は女性だった)、コック長、シアターマネージャーなどが挨拶回りに来る。ましてや出航第一夜とのことで船長の挨拶回りは義務の一つであり、なんら非難されるべき行為ではない。問題は事故後の行動である。劣悪な条件で働く一般乗務員に昔の船員魂を要求するのは酷である。運行第一夜で全員参加義務の避難演習が行われるのも2日目の昼間なのでこれも済んでおらず不運であった。ただこの船は私が乗った時も初歩的な運航ミスで予定が大幅に狂ったことがある。乗員の質には問題がありそうだ。震災もそうだがセキュリティーには費用がかかる。
2012.01.19
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夕暮れの空にシャボン玉ドイツ村が薄明かりに包まれだした頃マルクトプラッツにけたたましい音楽が流れ出して何箇所かで白い風船が上がりだした。よく見るとシャボン玉である。小さな櫓の上で白い煙と共におびただしい数のシャボン玉が発生していた。そして子供達が必死になって掴もうとしている。掴んだ瞬間バブルははじけて中から煙が出てくる、そして甘い芳香が漂う。中にはそっと手のひらに載せて楽しんでいる人もいる。それにしてもゆっくりと近づいて来る期待(希望)を手にした瞬間煙と散る仕組みは人生の縮図である。子供達にはもう少し幸せを抱き占めさせてやりたいものだ。 お嬢さんあまり大きな幸運を望まなかった方が良かったかも・・ですよ! 下のお城さんみたい幸運を間じかにした人の表情が良いですね。 下の写真に見えるように丸い穴が開いた円盤をシャボン液に浸しながら回転し手前から扇風機で風を送ると針金の輪にシャボン液を付けて吹くのと同じ原で大きなシャボン玉が出来る。テレビで何とか伝次郎先生がよくやるやつださてここではシャボン玉発生器に送る風に煙発生器からの煙と香料を混ぜておけばよい。シャボン玉を捕まえるとはじけて芳香の煙が出ると云うことで大人達も夢中である。 シャボン サボン はイタリア・ジェノバ近くの町Savonaに由来することは何年か前に本ブログで記したことがある。この町のお土産屋さんには石鹸細工が溢れていたことは勿論である。ある船会社のクルーズ船に乗る以外この石鹸の町を訪れる人は少ない。シャボン玉を見てはっとSavonaを思い出してしまった。 このように目前の事象を自分の過去の良い思い出に関連付けて日々の生きる糧とするのは老人の特権であろう。
2012.01.14
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東京ドイツ村LEDの出現で電力消費量が極端に減少したため自粛ムードにもかかわらず各地のイルミネーションが盛んである。遊園地も死活問題なのだろう。私の無関心をよそに相棒は準備をして見物の日和を睨んでいる。成人式の日、全天の晴れ気温9度無風、東京から遠く離れた千葉県袖ケ浦に有る”東京ドイツ村”の連休イルミネ―ションおよびフリーシャトルサービスの最終日とあって午後から出かけると云う。従僕の私に選択の由は無い。Deutches Dorf Tokyo と書かれた城壁の門のような自動車ゲートがあり、ここから車は入場する、遊園地とは言っても“村”なので車で入場し村内の駐車場に駐車する。村内移動も原則車の様で徒歩入場は異例のもの。村内は通路照明が無いためイルミネーション期間以外は4時で締め切り。この期間は通路に自家発電照明を所々に配して徒歩入場も認めている。中は丘陵地を利用して広大は芝生広場が広がっている。まず気付いたのはこの時期噴水の周りなど一部まだ緑の芝生が残っていることだ。よく見ると堅い針状の葉っぱの芝生で手で触っても人工芝と区別がつかない位堅い。一本だけ抜いて見るとチャンと根が付いていた。5-10センチ近い深さがある為ふかふかしていてとても柔らかい。 村のMarkt Platzに続く広大原っぱも皆この芝生の枯野である。村内には写真のものも含めて大きな芝生広場が幾つかあるが何れも例外を除いて立入禁止などと言う所は無く芝生本来の目的につかわれている。 村の中心Markt Platz への途中には郊外の農園をイメージした温室や苗木市があり、カフェテリアなどの郊外ゾーンもある。 そして芝生の丘を昇ると村の中心Markt Platzになる。多くのドイツの村や町を訪れたことがあるが、町は大体この構造で中心に教会があり、商店街が半円形に並び、広場には日曜市が経つと云うのが 大体の決まり。そして半円の前方にはビジネス街や住宅街が広がっている。さらに木組みのレストランやホテルが有れば完璧である。したがってこのドイツ村はよく出来ている。もっともここには本屋・金物屋・肉屋と言った生活の要素は全く欠けているが。マルクトプラッツの中心に何やら見かけぬものを見かけて近ずいて見るとリボンを販売しその売り上げを震災地への募金にしようとするものであった。 陽が西に傾き薄暮が訪れ始めた頃急に音楽と共に広場が賑やかになったので目をやると白い風船のようなものが上がっていた。次回のブログで触れるがこれは煙を閉じ込めたシャボン玉であった。 シャボン玉を横目に今まさに沈まんとしている夕日に見入った。 じっと眺めているとかすかに芳香が辺りをながれている、見ると横に蝋梅の木が一本花をさき始めかけていた。そんな訳でアポロンが馬車を駆り一日がかりで日本の空を東天から休まず旅し、いま西天の彼方に駆け去っていくのを見送ることにした。天空を駆けた太陽神アポロンが去り、仏が入滅する西方の茜空はやはり人間の心一日を終えた感謝と安堵感と安らぎを与えてくれる。また明日よろしくお願いいたします。アポロン様 !!
2012.01.12
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お台場ウオーターフロント正月三日朝から快晴、今日もレインボウブリッジは朝日に輝いている。部屋の窓は結露なくクリア―である、部屋はよっぽど乾燥しているのか特殊な断熱窓なのか一晩中のどが渇いたことは事実である。後で分かったが頼んでおけば加湿器を入れてくれたみたいである。 この日は部屋でゆっくりし11時過ぎにチェックアウトして寒いウオーターフロントを散歩した。何時も部屋から見える自由の女神は下の角度である。 この日初めて台座近くに近ずきいろんな角度から眺めた。右手には金の松明、左手にフランス革命でのバスチーユ牢獄襲撃日付1789年7月14日の銘板を持っている。なおニューヨークの自由の女神はアメリカの独立の日付1776年7月4日の日付けが入った銘板を持っている。すなわちニューヨークとパリや東京の物は正確には同じものではない。世界中に70体もあると云うレプリカと称するものにはどんな銘が刻まれているのだろうか。因みに日本以外での呼び名は”自由の像(Statue of Liberty)” で女神は日本独特の名称らしい。青森県おいらせ町の像は”ももちゃん”と呼ばれているそうである。 それにしてもこの日の雲は余り見慣れない見事なものであった。遠くからやってきた雲の下方に東京湾で発生し、内陸に向かう雲筋が分かる。 そしてやがてちぎれ雲となって広がっていく。 埠頭には宇宙船のような高速艇や対岸を結ぶフェリーなどが出入りしている。 "虹の架け橋” の上には”天空樹” の影がはっきり。 そして”東京塔” もはっきり遠望できた。 預けておいた荷物を引き取り最後にロビーの門松を写真に納めて2012年度我が家の”家族の絆” の会はお開きとなった。
2012.01.11
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Rainbow Bridge今年初めての家族会の楽しみの一つは夕闇のレインボウブリッジをゆっくり眺めることであった。夕日が黄金ー茜色に染まる頃になると女神広場のステージにも灯りがともる、そして女神(?)の王冠のダイヤ飾りとトーチが輝きだす。 無理を承知でギリシャ神殿の円柱を想像してくれと言わんばかりに列柱にも灯りがともり、”東京塔” もお正月の電飾に包まれる。 ややあって”虹の大橋” も地味な正月飾りを灯す。 ホテルのロビーラウンジからも良い眺めである。 さらに時が経ち夜のとばりが空を暗く蓋うと電飾の影が水面に揺れて華やかさを増幅してくれる。とは言っても無粋老人にはそこまで、そこから何のロマンティックな童話も寓話もロマンスも生まれない。
2012.01.10
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浅草花やしき浅草寺に初詣したが予想したよりもスムースにお参りすることが出来た。隅田川に出て後ろを振り返ると花やしきの塔が見える。江戸時代(1853)にフラワーセンターとして開園したと云う、その後明治時代に動物園となり遊具も置かれた。明治・大正の上流階級のレジャーセンターで、カバ、白熊、ヒグマ、ライオン、虎、ヒョウ更には劇場や映画館まであったという。劇場街が六区に移っても花やしきは浅草寺の地続きに留まった。 昭和の終戦後は遊具を主とした遊園地となり写真の塔は我が国で最初の垂直スペースショットで今でも時々歓声が上がっていた。ここには忍者ショウやジェットコースターの子供みたいなローラーコースターもあると云うので時間潰しに入場することにした。子供たちが乗り物に並んでいる間屋上庭園に登ってみると眼下に浅草寺、その向こうにスカイツリー、目の前の塔にはむき出しの椅子を吊り下げたスペースショットが上がって行く、次の瞬間大きな悲鳴が聞こえた。 入口には浅草門とある、随分大げさである。もうひとつ門が有るにはあるが歩いても30秒はかからないだろう。 こんな劇場の軒下を登るのはジェットコースター、パンフレットの案内文では「最高時速42Km/h 日本現存最古のコースターが、銭湯や民家に大突入!いまにも壊れそうな感じがたまらない!日本中で話題の名物コースター」だそうだ、やれやれ。付近の民家は堪らないと思うがジェットコースターとは言わずにローラーコースターと言ってるだけあってあまりうるさくは無い。その下では懐かしい射的、ここには電子装置の遊具はない。 野外ステージ周りでは江戸の悪者たちが屯している。秋葉原からの帰りみたいな女の子と談笑している。お正月とて七福神もぶらぶらしており、それぞれ役柄に応じた会話をしてくれる。 スペースショットは身長高さ130m、64歳以下だけ有資格だそうだ。こうやって木の枝越しに上を見上げると後期高齢者にはテレビ塔に負けない塔に見える。メリーゴーランドの屋根とスペースショットと五重塔が重なるのも奇妙な光景。
2012.01.09
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フジテレビ展望室 元旦、家族三代9人がお台場に集まった、それぞれ東京、神奈川、静岡からFamily Tie(家族の絆確認)の目的で集結した。チェックインは3時からと言うことですぐ横に有るフジテレビに行くことにした。下の写真で左下はユリカモメの車道レール屋外の斜め蛇腹は5階無料展望広場へと、そして中央の垂直パイプは中央上部の有料環球展望台へのエレベーターである。いかにもバブル期の建物で遊び心のデザイン。さて上から展望するとまず眼下にレインボウブリッジと東京タワー 橋のすぐ下には四角いお台場島が見える。 よく知られているように江戸の幕末ペリーが下田に来航、開国をせまって翌年の再来航を通告した。慌てた幕府は江戸防衛のため急いで品川沖に幾つかの大砲台を設営した。品川御殿山を切り崩し砲台島を何と8カ月で完成した。人力で山を崩し担いで土を運び、小舟で運んで造った人工島である、翌年ペリーが再来航した時にはこの砲台が待ち受けていた。ペリーはやむなく当時の寒村横浜に向かったのである。 西洋文明に門戸を閉ざしてきた鎖国時代によくそんな大事業が出来たと思うが、一重にそれまで弾圧してきた洋(蘭)学者の力である。施政者などと言うのはいつの時代も勝手なものである。 ズームアップするとこのお台場はまわりに築堤があり、中央部の窪みは広場になっている。周りに木が植えられていれば舟からは変哲もない島にしか見えないだろう。空からの情報が得られなかった時代にあってはこの手法はしばしば採用された。イングランドのバースの近郊に平原の中に小山があり、麓に立っても山にしか見えないところをエッチラオッチラ登ってみると中には立派な兵営跡のあるローマ時代の砦を見たことがあるがそれは自然の小山を利用したものであった 話がそれてしまったがレインボウブリッジの右側やや遠くにスカイツリーも見える。もっと右に目を転じると至近距離に観覧車が回っている。十数年前怖がって乗らなかった一番上の孫も今は高校生である。更に右に移るとテレコムセンターの建物が目に付く。パリの新凱旋門を摸したこの種のデザインは20年前後の流行で、全国どこに行っても ”ツインタワー”の名で呼ばれていたものである。 さらに大きく回ると品川埠頭にある動物園(キリンや鶴がいっぱいいるので私の勝手な呼び方)が目立っている。
2012.01.08
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2012年初詣元旦、横浜の長男一家、磐田の次男一家とチェックイン時間に合わせて合流し、お台場のウオーターフロントに有るホテルに投宿した。老妻が孫たちを自宅に迎え入れる準備やマネジメントの気力・体力に欠けるためである。正月二日の朝、期待に反してどんより空である、それでも眼下には東京タワーレインボウブリッジを従えてお台場の島が窓外の景色を作っている。朝食を終える頃には空も晴れてきたので部屋から都心部もはっきりしてきた。 そこでユリカモメに乗って浅草寺に初詣にゆくことにした。コンクリートの線路(道路)をタイヤ車輪で走るので音も静か、パリ、モントリオール、札幌のメトロと同じである。 無人運転なので最前席に座った孫達は運転士気分、勿論非常時用にマニュアル運転設備も備えられているのでレインボウブリッジを渡る孫達はまるで運転手気分である。さっそくゲーム機を取り出して写真を取っていた。若い世代の子はすぐ携帯で写真を取るが、もっと若い世代の子はゲーム機で写真を撮る。そして若くない世代はポケットからコンパクトカメラを、そしてもっと若くない世代はレンズが飛び出した大型の黒いカメラを使っている。 浅草では隅田川に平行する江戸通りに直交した浅草通りは歩行者天国になっていて皆ここでスカイツリーとビール会社のジョッキと泡を摸したビルの写真を撮っている。 浅草寺に向けて雷門から本堂までの仲見世通りは人でぎっしり、牛歩ならぬカタツムリの歩みである。しかし有難いことに常に進んでいた。昨年長男が来た時には何ブロック規制されていてとても近づけず諦めたそうである。不景気な年は寺社が賑わうと云うが昨年は災害の年でやはり自粛ムードが続いているみたいである。 なかなか風格のある浅草寺五重塔は冬木立の透け模様が良い姿である。 ことしの正月は街飾りが少ないがさすがに本堂周りは賑やかである。 やっとたどり着いた本堂正面お賽銭箱の手前にも白い布が敷かれてお賽銭収納所となっているが、大きな受け口に対して賽銭の量が少ないのが気になる。朝の分は収納したのかとも思ったが硬貨の雨の中そんな作業は出来ないだろう。かってローマのトレビノ泉に早朝散歩に行った時噴水を止めて箒とバケツでザクザク世界中のコインを集めていた光景を思い出す。あれは仕分けが大変だろう。 そんな私の同情を外に賽銭泥棒を監視する警官は金網の中で任務についていた。 やっとの思いで外に出て隅田川河畔に出ると言問橋(在原業平の「名にし負はばいと言問はん 都鳥・・・」に因む橋)を挟んで対岸のスカイツリーがくっきり。この塔は五重塔をヒントにして重心棒を備えていると説明されるが、中心に見えているのがそれだろうか。 春は花の名所墨堤、先ほどの冬枯れの桜越しの五重塔同様スカイツリーの塔も絵になる。何れの塔も地震対策として振動する心棒構造である。 ホテルの部屋に帰ってみるとすぐ下に立っている「自由の女神」 が頑張っている。これは数年前の”日本に於けるフランスイヤー”に際してパリの像が展示され、その後複製が許されてパリの自由の女神像の複製を日本側で作成したものだそうだ。 自由の女神と言えば誰でもニューヨークの島にあるものを連想するだろう。あれはアメリカの独立記念日を祝してフランスがアメリカに送ったもの。そしてそれに感謝してパリ在住のアメリカ人がパリに送ったのがパリの女神像。日本には米空軍基地がある青森県おいらせ村に、あの故郷創生基金で造ったものがあるそうだ。Wikipediaで調べてみると由緒あるものや何でもないのも含めて世界中に70体近くあるそうだ、アメリカなど33体もあると云う。かってNYで内部階段を駆け上りダイヤの王冠の窓からウオール街を望んで感動したことがなんだかばかばかしく思えてきた。
2012.01.07
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明けましてお目出度うございます今年こそ皆様にとってつつがない日々が続きますように o(^▽^)o孫たちを自宅に集める気力体力に欠ける今となっては致し方なく散財てして今お台場のホテルでレインボウブリッジと東京タワースカイツリーの見える部屋でこれを書いております。三日まで孫たちに付き合う体力が持つことを祈るのみです。それでは皆様におかれましても良いお正月をお過ごしください。
2012.01.01
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