全13件 (13件中 1-13件目)
1

昨日のブログで区立小学校の図工展を見たことを記した。その中にヨーロッパ中世の古城の砦風城門や英国でthe Keepと呼ばれる、日本でいえば天守閣に当たる建物の木版画が展示されていた。それぞれ別の生徒の作品であるがA3版くらいの大型で見事な出来具合である。家に帰り、パソコンの前に座ると机の横に額に収められた私のお気に入りの小さな版画が目に入った。今から50年前、イギリス南部のBrightonを訪ねたことがある。たまたまそこの大学に友人が留学していたので訪ねて行ったのである。その際友人は近辺のヒストリックサイトやドーバー海峡などへと案内してくれた。そこで私は古い本屋で使用済みの古い絵ハガキを数枚求めた中の一枚がこれである。その本屋は何でも15世紀から綿々と続いているということを聞かされ、強い印象を刻み込まれた。いつもこの版画を眺めていてその町がどこだったのか気になっていたが、友人にも50年前の小さな出来事は記憶にないだろうと聞きそびれていた。小学生の版画に感心し、帰宅後もう一度私の版画を見ると、≪Fifteenth Century Bookshop, Lewes High Street、1450年頃≫と印刷されている。以前、Lewes High Street で調べたことはあったがヒットしなかった記憶がある。今回、Lewesの町のHigh Streetで調べるとイングランド南部の町が出てきました。Wikiで調べるとここはウイリアム征服王のNorman Couquest以後ノルマン人によって作られた町であったようだ。この歴史的な小さな町は今でも中世の雰囲気を色濃く残し、今ではアンティークの町として国内ではよく知られているようあるが、国際観光地としてはほとんど無名で、ましてや日本人団体客が訪れるということはない。Webの調査でもロンドン在住の日本人の日本語ブログに登場するくらいである。確かにロンドンから日帰り旅をするとすればドーバー海峡のEast Bourne やBrightonの町巡りで精いっぱいで、海岸から離れて交通の不便なこの地を訪ねる日本人は少ないだろう。Cotswoldsばかりがイングランドの田舎村ではなくここも注目してよい気がする。Webで調べると”Fifteenth Centuriy Bookshop”は今でも営業しているということが分かった。Google Streetで探ってみるとありました。Lewesの町の中心街HighStreetと横丁のKeere(キーレ)Streetの角に位置しています。そしてKeere Streetは中世の面影を残す通りとして今も観光客がそぞろ歩くところだそうです。私が50年前に買い求めた絵葉書とGoogleから借りた現代の”FifteenthCenturyBookshop"の写真を比べるとどこに違いがあるでしょうか。お店のホームぺージによると今も児童書を中心にしてごく普通のBookshopとして営業しているようです。隣家を含めて本屋の造りには全く変化が認められません。700年間前と言えば日本では室町時代中期に当たります。その維持には並々ならぬ工夫と苦労があることでしょう。あまりの懐かしさにここを案内してくれた友人に先ほど電話をしてしばし思い出にふけった次第です。
2017.01.29
コメント(0)

先週の日曜日寒波の谷間で気持ちの良い天気であった。体調も悪くないので近くまで外出することにした。二駅隣にある歩いても30分くらいのところにある区立美術館はいつも凝った企画展があるので覗いてみることにした。ある芸術評論家の収集品の展示であったが、どちらかというと暗い絵が主体で私の趣味ではなく、感動することも無かった。ここは日曜日でも閑散としているのこの日は多くの親子連れで賑わっていた。こんなポスターを見て幼い天才の作品に触れてみようと階段を上った。自分の子供でも孫でもなく名も知らぬ多くの子供達の作品、久しぶりに素直な気持ちで鑑賞することができた。昔と違って今は材料も道具も簡単に手に入れることができるらしく、実にバラエティーに富んだ個性的な作品が多かった。火炎土器や縄文土器をヒントに作られた埴輪モドキや複雑な紙細工もある。イチゴ、スイカ、ブドウ、アイス、メロン、リンゴが結晶になって降ってくる。こんな雪が降ってきたら子供たちはうれしいでしょうね。夢あふれる作品です。これも自分が好きな食べ物を雪の結晶にしています。雪の結晶の中にチョコレートが閉じ込められて降ってくるなんて良いですね。子供のメルヘンですね。これもクッキー、海の生き物、星、サッカーボール、宝石、ステーキなど自分のほしいものは何でも雪に閉じ込められるようです。「音楽が流れる結晶」「11月11日午前中ににしか降らない結晶」、多分この子の誕生日なんでしょう。食べるとポッキーの味がするのだそうだ。紙粘土で作った海の生き物たちもサンゴ礁のようできれいです。ウツボやウミヘビなど怖い生き物も泳いでますね。上級生になるとさすがに作り方にもこだわるようで、点描画などもかなりな出来上がりで海中や海底の描き方にも気を付けています。畳一畳ほどもあろうかと思われる下の作品は工事や引っ越しの時にエレベーターを保護するビニールシートを重ねその中でLEDを点滅させて植物の花や葉、昆虫、魚などを張り紙細工で表している。小学生の作品としては出来すぎかもしれない楽しい作品である。70年前の小学生時代を思い出して心地よい時を過ごした。目的の展覧会はよくなかったがそれ以上に楽しむことができて満足な一日であった。
2017.01.29
コメント(0)

1月18日、我が家からのダイヤモンド富士狂騒劇が去り雲の動きも気にならなくなった。雲の厚い日であるが午後4時44分の西の空は湧き出る雲に囲まれた富士が望まれる。夕日の沈む位置も頂上をかなり外れてしまった。刻々と入れ替わる雲はあたかも太陽に立ち向かったいる竜のようであるが次々に流されてゆく。秀麗な富士の姿を望む一方、その周りには雲の動きが必要である。富士の姿にとって上半身は見えなければならないが、下半身は雲の薄絹に包まれていたほうがいいと人間は勝手である。21日、3日前山の中腹に沈んでいた太陽がこの日21日にはもう山裾に落ち込んでいる。右側の山は御前山である。ちょうど1週間前は富士山の頂上に沈んだ太陽が今はもうこんなに北に動いている。昔の人は地元の山の端のどこに火が沈むかで暦を読み取って生活していた。一日を計る日時計は有名だがこのように山並みは一年の暦を読み解くのに大切であった。ここにきて気づくのはカメラを向けた時のハレーションの違いである。この頃の日没はもう地上4000メートルのそれではない。濃い地表の空気層を通してのそれはハレーションもなくレンズははっきりとした太陽の姿をとらえている。日の出の太陽がはっきり見えるのと同じ原理である。ただ写真では丸まって見える太陽も実際には尾根の直線で縁取られて7日月となりどんどん小さくなって最後は点となって消えて行く。それにしてもやはり富士の姿は秀麗である、この傾斜がもっと急だと世界中にたくさんあるコニーデ状火山の一つになってしまう。かといってこれより緩やかでも台地地形の一つになってしまう。先日見たテレビ番組では富士山の秀麗な姿の秘密は火山流の粘度にあるらしい。世界中にコニーデ型火山は無数にあるが、その規模と人の心を静めてくれるその造形美は独特のものがあるようだ。この間夕景色の中の地上はすっかり日陰になっているがあの武蔵(634m)の塔だけはまだ太陽と向き合っている。それにしても富士周辺への日没風景を多く記録してしまった。このあたりで終わりとしよう。
2017.01.24
コメント(2)

1月16日もう我が家からのダイアモンド富士が過ぎているのは承知している。それでもあまりの快晴日なので日暮れ時にやはり廊下に出てみた。冬の澄み切った西の空は強烈な日の光である。カメラは強くハレーションをおこし、日の入り前の太陽はとてもとらえられない。やっとのことで太陽が大分沈み光量が少なくなったので再びカメラをを向けて見た。日食グラスで見るともう太陽の半分くらいは山の後ろに沈んでいるのだがハレーションで何倍にも大きく見える太陽はカメラの中ではダイヤモンド富士の様相を見せている。先だってのシステムトラブルで画像編集ソフトをすべて外したので、ありあわせのソフトを使って画像処理を試みたが、次の写真のようにように六角形のグラデーションの太陽が現れた。考えてみれば真珠と違ってダイヤモンドはカットされているのでこれこそダイヤモンド指輪なのかも知れない。それをさらにモノクロ化した映像も悪くない。巨大に見える太陽であるが日食グラスで見ると実際の太陽は頂上のやや右に位置しており、小さくなってゆくにしたがってその中心は右に移動してゆく。つまりこの時期の太陽は真夏の太陽と異なり、決して垂直に落ちたりはしない。富士山の頂上に落ちかかった太陽は頂上から右下に向かってどんどん落ちて行く。下の写真のようにいかにも頂上真中に落ちているように見えるのはハレーションのおかげである。上の写真をモノクロにするとその様子がはっきり分かる。それ以降しばらくは右側斜面を滑り落ちるといった表現が当を得ている。前日のブログで富士山の影が左に移動すると書いたがそれは太陽が落ちると同時に横に移動している証拠となる。下の2枚の写真にもみられるように山頂付近の雲への反射は別にして山の右側の夕焼けが左側より強いことは太陽が右下に沈んだことを示している。寒い廊下からかえって我が家のベランダから腕を伸ばし、カメラを外に突き出して撮ると何とか頂上の南部分の一部が映ることを発見した。無念の中にも小さな発見である。ベランダに出たついでに日没時の南と東の空のパノラマ写真を撮るとこのような色模様であった。
2017.01.23
コメント(0)

昨日(14日)はダイヤモンド富士の日と思われたが我が家からは富士山は全く望めなかった。念のため廊下に出て午後4時35分に撮影したのが下の写真。大室山の山影は映るものの富士山の影は何となくその形が認められる程度どである。この日の撮影をあきらめていたが、念のため4時44分に撮影したのが下の写真。この時は気にしなかったが 手前の真っ黒い大室山の上にはっきりと富士の影がそしてその上に何やら山影が映っている。撮り続けるとわずかではあるが富士山のゴーストは左に移動し、山体の稜線から上に移動している。そして南側(左)のゴーストはだんだん消滅していった。まったく予期していなかったので最初はどんな現象なのか理解できなかった。実像の影が空に現れる現象としてはまず蜃気楼があるが、これは陸地の景色が海面に反射し、さらに沖の雲や霧に反射した像が暖かい空気と冷たい空気の境目で光路が曲がり人間に見えてくるので自分が立っている景色が沖に見えるという現象と思っている。空気の温冷の順序が逆転したときにまれに見られる現象だろう。また霧の山稜で見られるブロッケン現象は後方の弱い光ですぐ近くの霧に自分の影が映る現象だろう。しかしこの日見た富士山の影はそんな大げさなものではなさそうだ。映画は観客側から出した像を膜で反射させて鑑賞する。一方ワヤン・クリと云うインドネシアの影絵劇をご存じだろう。照明と膜の間で人形の革型を操って幕にその蔭を映し観客は幕の裏側から鑑賞する。結局私はこの日富士山主演の影絵芝居を見ていたのだ。ここで視線を90度振るとパソコンの横に昔インドネシアで買ったワヤン人形が壁に貼ってあった。この人形型の胴体・手足に水牛の角を削って作った細い棒をつけて人が幕上に物語を操ってゆく。話が飛んでしまったが、言いたかったのは強い太陽に照らされた富士山のすぐ手前に薄い膜状の雲が広がり。その雲は富士の実像を透かして見える程度の透明度でなければならない。そしてまた富士山の影を映してその影絵も裏側の人に見せるという、要するに雲は厚からず薄からず絶妙な具合であったことが分かる。
2017.01.22
コメント(0)

1月11日4時38分 日没は富士南麓の宝永火口と頂上の中間あたりに沈んでいる。7合目あたりであろうか、もっともこの「合目」というやつは同じ五合目と言っても登山道によって標高はまちまちらしい。要するに標高を10で割ったなど言うものではなく、登山の難易度を加味したいわゆる信仰登山の気分で決まったものらしい。例によって南麓に生じる雲によって散乱拡大され入日は数倍に拡大されて見える。フィルターもつけないデジカメで太陽をとらえようなどとても無理な話なのだろう。カメラの受光素子が破損しないか心配しながらの撮影である。というよりももう壊れかけている古カメラである。12日は山際に雲はあるものの空気は澄んでいるらしく、前日より強烈な光で日輪をとらえるのは難しい。かといって持ち合わせの日食グラスをかざすと太陽ははっきり映るが肝心の山が全く映らない。1月3日には上弦の月であったのにこの日はすっかり満月になっていた。1月13日は晴れ渡った日ではあったが富士山の周りだけ、それも山の手前に雲が沸き、太陽の光は強烈であるが山の姿はほとんど見えない。さらに日が沈んでみると濃い雲が富士山とその手前の道志山塊の間に横たわり富士の北麓の一部だけが見え、雲の手前に富士山型の頂のとがった大室山がかすかに見えるのみであった。翌14日はさらに悲惨である。大室山だけがかすかに見えるだけで富士山の手前には濃い雲が広がり、太陽の輪郭さえ確認できない。残念至極、私の予測ではこの日こそ太陽が富士山の頂上に降りるダイヤモンド富士の日である。この夜は上空の月も時々姿を見せるのみであった。練馬区では午後4時30分になるとスピーカーから「よい子はおうちに帰りましょう、明日もまた素晴らしい一日でありますように」とアナンスが流れる。それを聞くとこの1週間余り気分を集中してきたのにわが身の不徳、肝心の日がこれである。やはりまだまだ神はわが側には無いようである。
2017.01.21
コメント(0)

今日(1.20)は昼間の温度も3℃,でここのところとても寒い日尾が続く。こう寒いと出歩くのもおっくうになる。寒い時期我が家の楽しみは夕景色を眺めることである。そこでカメラに残された日没景色をしばらくの間回想することにする。下の2葉は昨年12月19日の我が家の日没風景である。冬至に最南下した太陽が大分戻ってきて。ちょうど丹沢山系の蛭が岳と柚平山の間のくぼみに沈んでいる。柚平山の右の斜面は富士山の南側稜線が始まるところでもある。この写真は罪作りであった。わがコンパクトデジカメでいつもこんな日没写真が撮れると感違いし、以後ほとんど毎日午後4時半ごろになるとそわそわしてカメラを手にしていた。年が改まって1月2日この夜上弦の三日月と金星が最接近した、なかなか見られない光景で太陽から見れば自分の子供と孫が艶を競いあっているわけである。立場を変えて地球から見ればお姉さんより娘が一段と容貌が上とみるのは当然だろう。次の日には両者の位置関係はもうこんなに違っていた。そしてズームしてみるとなんと月と金星の間にかすかに見えるのは火星である。金星と火星がほとんど同じに円を描いていることが分からなければ気が付かなかっただろう。同じ上弦の月でも一日違うと傾き角度と言い肉厚がかなり違うのに野は驚いた。もうひとつ気が付いたのは凹面のあばたである。満月には餅つき模様で月の表面の凸凹を感じていたが外円の滑らかさに対して内縁はごつごつ見える。手持ち撮影の画像をもとに今思い付いたことを書いているので間違いかもしれないがそんな気がして内心ほくほくしている。次は1月10日の日没で太陽は富士山の中腹斜面にかかってきた。太陽が巨大に見えるのは雲に映っているだけでこんなに大きいものではない。冬は北風が吹くため大気は常に北面から吹き上げられて断熱膨張・気温低下・雲の発生が続き、南斜面には常に雲が発生している。我が家からのダイヤモンド富士は何日後につ見られるのだろうか。
2017.01.20
コメント(0)

前ブログで1月10日(火)府中に足を運んだことは記したがその目的は府中の森公園の蠟梅を見たり嗅いだりすることであった。2,3日前の新聞で今満開だとの記事を見た相棒が急に行くと言い出したのだ。蠟梅見物の付録が先の大國魂神社詣でである。神社から公園への道は歩くべきだがここは我が身をいたわりタクシーを捕まえた。車内に席を取ると目の前にこんなボタンがあり、これを押すとゆっくり走ってくれるのだそうだ。よく見るとTurtle Taxiとある、人あたりの良いドライバーで尋ねると妊婦さんや障碍者には喜ばれているそうだ。≪亀タクシー≫ なら ≪兎タクシー≫もあるのですかと聞いてみたが、それは運行しいないそうだ。ドアの開け閉めも自動だと危険な場合があるのだろう、わざわざ運転席から降りて外に回り、手で開けてくれた。こんな弱者の味方タクシーがあるのに感動した。新聞記事に博物館の周りが満開とあったので博物館前に行ってもらったが、なんとこの日は成人の日の代休で博物館は休みだという。バス停前にいた二人連れの婦人に聞くと公園は博物館の庭園で、本館が閉まっている日は公園も締まっているとのこと。彼女たちも代休翌日の火曜日が休館とは気がつかなかったようである。それでも蠟梅は道路脇の金網越しによく見えますよ、と教えてくれた。行ってみるとなるほど蠟梅は公園の外周に近いところにあり、外からでもよく見える。ただやはり園外であるからあの甘い匂いをエンジョイするには難があった。それでもあの蝋細工のような花弁は美しかった。我々同様に当てが外れた人が何人かいたが皆地元の人で金網の周りをうろうろしている。花びらに違いが認められたが、ある人は「これはもう終わってますね」と下の写真の花びらを指して言った。しかし調べてみると蠟梅にも何種類かあってこういう細長い花びらの蠟梅もある。蠟梅の横には紅梅が咲き始めている。やはり梅はこれが一番のようだ。公園の金網の外は道路、堤上サイクリングロードを隔てて多摩川が流れている。多摩川堤は一度歩いてみたかったので土手の上のサイクリング・遊歩道に出てみた。。多摩川もこのあたりまで上流に来ると河川敷も自然のままで、青空の下広々とした景色と相まって気持ちがいい。土手からも道路越しに満開の公園ない蠟梅がよく見える。その向こうに広がる武蔵野の林を抜けて楽しめなかったのは残念であった。
2017.01.15
コメント(0)

先日初めて府中市を訪れる機会があった。私は京王線よりもJR武蔵野線が便利なので府中新町で降車した。ここには有名なケヤキ並木があるのでまずそこを目指した。なるほど天然記念物というだけあって並木と言っても一本一本が記念物になれるような古木の並木である。下の写真で白いガードは京王線の線路、駅のそばにこんな古木が並んでいるのは驚きである。武蔵野を象徴するケヤキもここまで育ち、人と車の吐く息を吸い続けては衰弱も甚だしい。この欅並木と旧甲州街道が交わるところに鳥居があり、その前に2本の巨木があって神木としてしめ縄が張られている。そもそもこの並木の欅は平安時代武蔵の守であった源義公・義家父子が朝廷の命を受け陸奥の蝦夷・阿部一族の討伐に出かける際戦勝祈願し、戦勝後千本の欅の苗木を贈ったことに由来する。後に江戸時代家康の肝いりで並木の両側に馬場が設けられた。現在この欅並木は国の天然文化財にも指定されており、また馬場にちなんでかすぐ近くには東京競馬場がある。今この馬場跡は一部広い歩道として活用されている。二本の巨木も台風で倒れてしまったが、今そのわき目から出た枝が大きく育っている。 並木には源義家公の立派な銅像が建っている。私は十年以上も前になるが茨城・福島の県境にある勿来の関を訪ねたことがある。そこに 吹く風を 勿来の関と 思へども道もせに散る 山桜かなと記された石碑を発見した。後に「八幡太郎」と呼ばれる若武者・源義家の陸奥への入り口となる勿来での意気込みと桜(大和)魂を現した句であろう。現代的に言えば一種の侵略戦争だろうが、朝廷(天皇)の命による出陣とあれば一種の聖戦気分だったのだろう。すぐ近くに万葉歌碑がある。説明碑によると「武蔵野の草は諸(もろ)向き かもかくも君がまにまに 吾は寄りにしを」と読み、「君が風になびくよう 私はあなたに ひたすら心を寄せたののに」の意味だそうだ。遠い武蔵の国に赴任している人を思っての歌と解釈すればロマンがわく。大国魂神社は大国武蔵の国の一宮であり、かつ一~六社を仕切る武蔵の国の総社でもあった。手水舎にしてもたいそうな彫刻で飾った唐門造りである。総社らしく儀式の際には盤木や拍子木ではなく太鼓が使われたのであろう、立派な鼓堂である。現在は寺で太鼓を打つことは珍しいが考えてみればついこの間、明治までは神仏習合だった訳で寺で太鼓も自然である。事実私の菩提寺では仏事には太鼓を使い、若僧の打つ太鼓はなかなかリズミカルである。もう初詣も終わり人もまばらで露店も開いておらず拝殿前も静かで通常のお参りができた。本殿横の門にはこんな案内板があり、その横には優雅な流れがあった。祈祷料を納めて包み紙をいただき、この水源に流すとこの庭の曲水をめぐり集められた人形は供養されるみたいである。良家に縁ずけば人形といえどもこのように立派な最期を印すようである。ここの古木は欅だけかと思ったら本殿の裏には銀杏の古木が祀られている。これも今はひこばえの時代である。昔の家々もこのようにひこばえや種を通して末代までの繁栄を祈ったのであろう。現代人は孫やひ孫くらいまではその繁栄を願うがその後まで気を配っている人は少ないであろう。
2017.01.14
コメント(0)

毎回愚痴ることになるが、またイルミネーション見物に連れて行かれた。いつも迷惑をかけているので罪滅ぼしになるべく付き合うことにしている。まして今回は我が家とは目と穴の先の豊島園だである。豊島園も戦後ずいぶんにぎわったものだが最近はすたれてしまった。毎週の花火もなくなり子供が大きく(?50歳)なって夏のプールも縁が薄くなくなったが、アジサイ園があったりして今でも時々は足を運んでいる。今でもウイークエンドには遊具に乗る人もあるのだろう、まだ営業は続いている。そして今でも冬の間はお正月期間とウイークエンドにイルミネーションがある。豊島園駅の前の広場には発券ブースが並んでいるが開いているのは一つだけで人影もまばら。エントランス並木も電飾されているが都心のイルミネーションと違って空は漆黒の世界である。小さなスケートリンクが営業してて氷面は華やかな照明が踊っている。こういう屋外でのアイスケートも気持ちがいいだろう。わざわざアイススケートというのも現代的ではないのかもしれない。私が若いころはアイススケートと言えば天然氷の上で滑るもので山中湖とか河口湖などへ行ったもので人工スケート場は後楽園にあったくらい。その代わりローラースケート場はいろんなところにあった。まばらな客を乗せてメリーゴーラウンドも回っている。この≪カルーセル・エルドラド≫は今から110年前にドイツで作られ、何年かヨーロッパのカーニヴァルで使われた後ニューヨークのコニーアイランドの名物となった。数十年前のアメリカ映画にもよく登場した。私も確かダニー・ケイの出演するドタバタ映画で見た気がする。ニューヨークで半世紀以上を過ごし、1960年代にコニーアイランドの閉演に伴い廃棄されるところを豊島園が譲り受けた。それ以来半世紀この豊島園で頑張って日本の子供を楽しませ、今は日本機械学会の文化遺産に指定されている。木馬や馬車もすべて木彫でアールデコ風のまさしく遺産にふさわしいものである。この夜も少ない客を乗せて頑張っていたがこれからどんな運命をたどるのだろうか。昨年の豊島園イルミネーションはヨーロッパの広場のような拵えであった今年はだいぶ規模を縮小してキャンバスで作った風船のような造形物を中から照明したものが多く中に入れるものが多く子供たちにはいいのかもしれない。スカートをはいた人形に見えるのは客がスカート上に乗って上がり落下する乗り物。そういえば今年はチューリップがメインテーマとかでこの花が多く展示されていた。頂上に三日月のような飾りのついた建物の屋根や幕の模様はいかにもトルコ風である。帰路にある橋の上では赤と緑の点が星のように動いて見事であった。写真に写すと当然ながら下のように棒にな、これはこれで美しい動きである。豊島園の真ん中には我が家の前から流れている石神井川が貫通しているはずで、そこに架かる橋だろうと思われる。
2017.01.13
コメント(0)

10年くらい前、両国の江戸博物館に行ったとき北斎通りを訪ねたことがある。世界で一番名の知られた日本人画家は北斎と言われているが、生誕の地はここ地下鉄両国橋駅の近くのこの界隈である。そこで近年整備されたのが葛飾通りである。電柱を取り去り、街路灯も灯篭風にデザインして草花を添えている。そこに新たに芝生の公園が開かれ、スカイツリーをまじかに望む明るい公園では子供たちが騒いでいるが、その公園の奥につい先だって12月22日に墨田区立葛飾北斎美術館がオープンして【北斎の帰還】と銘打った開館記念展が開かれている。小さな美術館であるが何棟からできているのかわからないキテレツな建築である。入場しようとしたら前を歩いていた男性が「北斎をこんな建物に入れるとはけしからん」と私に向かって叫んだ。一瞬驚いたがわからないでもない気がする。展覧会はなじみの深い浮世絵のほかに漫画本とか肉筆画も多く展示されているが、今回の目玉は海外のオークションでその存在が分かり墨田区が競り落とした北斎の≪隅田川両岸景色図巻≫である。広げると7メートルにもなるこの絵巻はほかの浮世絵とは異なり、洋画の手法も取り入れた実に精緻な筆跡で彩色も鮮やかである。北斎ファンでなくとも一見も二見もしたい作品である。調べてみるとそのはずで、これは世界中で多くの美術館を設計しているニューヨークの≪妹島和世+西沢立衛/SANAA≫という建築事務所の設計。新幹線開通で一躍話題になった≪金沢21世紀美術館≫の設計者によるものである。図書室も外から丸見えで落ち着いて調べ物をするという雰囲気ではない。要するに建築家は人と同じことをしても評価されないので利用者の便宜とは関係なく自己主張をする場と考えている。昨年のオリンピックメイン会場の設計騒ぎが思い出される。ただこの美術館の展示室は心地よい空間となったいる。美術館から大江戸線両国までの北斎通りにはいろいろな歴史案内立札が立っている。ここはに津軽の藩邸があった、江戸時代火災発生時には板木を木槌で打ってその音で知らせたがここでは太鼓を打つことが許されていた。これを津軽の太鼓と称されていたことが記されている。そして今の北斎通りには≪南割下水≫と称された雨水を貯めて消火に使う掘割水路があった。それを埋め立てたのが今の北斎通りである。防火用水であるが消防目的以外にも元隅田川デルタの低地にたまる雨水を排水して市街を進水から防ぐ目的のほうが大きかったのではないだろうか。幕末の洋学者江川太郎左衛門もこの地に住んでいたらしい。私は江戸末期の日本の洋学について調べたことがあるが、溶鉱炉を作って鉄を製造し、外敵に対する品川沖の砲台建築につくした人物である。また当時は海の遭難者も鎖国の禁を犯したものとみなされて厳しい取り調べを受ける中、あのジョン万次郎を保護し英語を学んだ人物でもある。(忙中閑話:私の知人に1935年生まれのXX太郎左衛門という人がいる。私の知る人でこの人が一番長い名前の持ち主である)≪ノミノスクネノジンジャ≫については前ブログに記した。今回は美術館からの帰路通りの南側だけを歩いたが北側にもいくつか有名人の住居跡などの立て札があるようである。
2017.01.11
コメント(0)

両国の東京江戸博物館は我が家から都心を挟んで対角線上にあり直線で15-6kはある。興味ある展示が多いが見逃がしてしまうことが多く、先日もシーボルト展を見逃してしまった。両国は葛飾北斎がその生涯をこのあたりで過ごしており、江戸博物館から北斎通りを経てほど近いところに新しく北斎美術館がオープンした。そこで1月5日(木)新しい美術館に行っみた。入館前の腹ごしらえに入ったパスタ屋で窓の外を見ると隣の小さな社が目に入った。お店の人に聞くと「野見宿禰神社(ノミノスクネジンジャ)という相撲の神様で、ちょうど今朝相撲協会の方々や若い衆が大勢来て祭祀が行われていました」と教えてくれた。そういえば3日後からはすぐ近くの両国国技館で初場所が始まっている。食後外に出てみると美術館の開館に合わせて整備された≪北斎通り≫に真新しい案内板があった。知らなかったが野見宿禰神社は相撲の神様として敬われているとのこと。早速WIKIで調べてみると、野見宿禰神社とは出雲の人で、第11代垂仁天皇の御前で大和の国の勇者と相撲を取り、打ち負かして敗者の国を与えられ以後天皇に仕えた。そんなわけで相撲の神様として崇められた。野見宿璽神社は兵庫と東京隅田にあり、後者は国技館にも近くこの神社は日本相撲協会が管理している。年3回の東京場所の直前に協会幹部出席のもと出雲大社東京支社の神官により祈願祈祷が行われる。その祭りがこの日有ったということらしい。新しい横綱はまずここで土俵入りをするそうだ。私としては偶然の大発見である、神社の玉垣には相撲協会をはじめ歴代横綱の名が刻まれている。春日野、立浪、時津風、出羽 それぞれ一門の名前が残っている名跡である。小さな社であるが背の低い門扉が閉まっているので引き退散しようとしていたら、通りかかったおばさんが「正面の扉を開けて入れますよ」と声をかけてくれた。社の正面に回り拝礼しようと思ったが扉が閉まっており、神社の必須アイテムお賽銭箱もない。祭祀の時だけ開けられ、あとは協会で管理しているみたいである。本殿正面には歴代横綱の石碑が立っている。初代は明石志賀之助で46代朝潮太郎まで刻まれ、さらに第二の石碑には47代柏戸剛から71代鶴竜までの名が刻まれている。それでもまだ下段が開いているのであと25人分は空いている。この次の横綱の名は下段から始まることになる。私は36代羽黒山から知っているので歴代横綱の半分を知っていることになる。ということは昔は横綱は例外的に強い力士の称号で、今みたいに安売りはしなかったらしい。石碑を見ると日本人横綱はなんと≪若の花・貴乃花≫が最後である、日本相撲協会の名はあまりふさわしいとは言えなくなった。冗談であるがアメリカのメジャーリーグが勝手にワールドシリーズを戦うように、国際相撲協会としたほうが相応しいのかもしれない。ずいぶん前の私のブログにも記したが、横綱の石碑は富岡八幡宮にもあり、また相撲に関する石碑は江戸時代相撲興業が行われた近くの回向院にもある。いづれも寺社の境内に設置されたものであるがこの野見宿禰神社は≪相撲の神様≫を祭るのであるから格が違う
2017.01.09
コメント(0)

明けましておめでとうございます本年もよろしくお願いいたします昨年末の箱根大涌谷の様子です以前より元気になったようです
2017.01.01
コメント(2)
全13件 (13件中 1-13件目)
1


