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Moncton と Saint JohnNova ScotiaからはMaine州にあるAcadia国立公園を経て一路Bostonへ帰路に着いたが、途中Moncton と SaintJohn で一寸した見物をした。まずMoncton 郊外にあるMagnetic Hill、下の写真で下り道と登り道が分かる、そして坂のくぼ地に車を止めてエンジンを切りギヤをニュートラルに入れると車は勝手に坂を登り始める。道路の下に磁石が埋まっている想定であるが、それは変だ、車が進むためには車自体が強力な磁石でなければならない。要するに周りの地形がこの下り道を登り道と錯覚させているのだ。まあドライブの疲れを癒すには格好の趣向である。そしてこの町のもうひとつの見ものはTidal Bore(潮位津波)大西洋から入りこむFundy湾は大潮の時には潮位が21mも上昇するそうで、有名なアマゾン川を遡上する津波が見られると言うのだ。私の写真中央の円弧線がそれらしいが今ははっきりとした思い出せない。 Fundy湾に沿ってさらに車を進めてSaint Johnに着く。この町はカナダにあるほかのSt.Johnと区別するためSt.と省すことは無いそうである。ここでの見ものはReversing Fall。河口に近いところにSaint John Riverのカスケードがあり、写真のように白波を立てて流れ落ちている。展望台に回るとこれはもう鳴門の渦潮に似ている。残念ながらそこで一日を費やすわけにはいかなかったが、時間が来るとFundy 湾の水位が一気にこの川に注ぎ込みひと時、油を流したように静まるかえる。やがて水流は川を80マイル(130km)も逆流し、Frederictonに至るそうである。 * スライド写真の中央に縦や横の黒い線を認めるだろう。当時「オリンパスペン」と言う小型カメラがあり、35ミリ版スライドに2画面収容できた。当然ハーフサイズのスライドマウントが有ったが、普通サイズのマウントに2枚ずつセットしたためである。お金のない時代に背伸びしたことが伺える証拠である。 ** このブログは45年前の写真を基にしている。醜い写真が多いがスキャンした写真、私の記憶が有る写真、Webで調べて確認が取れる写真と何重にもフィルターがかかった結果このようになってしまった。 ------------------ バクという動物は夢を食べて生きている、年取ったホモサピエンスは 思い出をビタミン剤にして生きていけるみたいだ。 諸般の理由で我々の旅行もこれからは国内に限ることにした。それを機会に 最近妻がアルバムの整理をし始めた。つられて私も40年以上省みられ なかったスライドをスキャナーにかけてみた。そんなわけで時々我が 過ぎし方を思い起こす写真をこのブログに登場させる。 これは私がビタミン剤を摂取する過程なので諸賢には無視していただいて 何の不都合も無い。
2010.01.27
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PagwashPrince Edward島からの帰り、行きとは別のフェリーでNovaScotiaに渡った。ニュウイングランド、ヌーベルフランスなどと言う地名を知ってしまうと、どうしても”新スコットランド”の地は大いに興味がわいた次第である。ノバスコシアに入って程なく ”Pagwash”と言う道路標識が目に飛び込んできた。”パグウォッシュ会議”の場所は確かカナダの東部だったと思い出して、出来れば見てみたいと 思いそちらにハンドルを切った。ややあって野原に一軒の家が目に入ったので案内を請いに寄ると一人の老人が家のお掃除をしていた。老人は会議場はまさにこの家だと教えてくれ、「2,3日後には1965年の会議がここで開かれるので今掃除をしているところだ」とこの別荘管理人は言った。私は世界の知性が集った家を見、彼らの座ったリビングルームに入って感激した記憶がある。それにしてもこんな人里離れた寂しい家で世界の平和が語られたことに感動した。 ここでPagwash会議について纏めておこう* 1955年:アインシュタイン博士とイギリスの哲学者 Bertrand Russel 卿が原子力兵器廃絶を訴える 宣言を発表。* 1957年:上記ラッセル・アインシュタイン宣言に賛同する 10カ国22名の世界的に著名な科学者がPagwashで集い この宣言を世界的な運動にすることを確認。参加者の中には 湯川秀樹、朝永振一郎、ボルン、ジョリオ・キュリーと言ったノーベル賞科学者が含まれている。 この運動はパグウォッシュ運動とも呼ばれ1995年にはこの運動そのものがノーベル平和賞を受けている。*1962年:湯川、朝永らの提唱で日本パグウォッシュ会議とも 称される「京都会議」が開かれた。この時の京都宣言の署名者 を見ると、正しくこの時代の日本の知性が結集したと言う 感がする。少し邪長となるが1960年代を振り返るために 列記してみよう。 江上不二夫、大仏次郎、茅誠司、川端康成、菊池正士、桑原武雄 坂田昌一、田島英三、田中慎次郎、谷川徹三、都留重人、 朝永振一郎、南原繁、平塚らいてう、福島要三、三村剛昴、 三宅泰男、宮沢俊義、湯川秀樹、吾妻栄 ** ここでBertrand Russel卿 について少し記す。 1872-1970、数学者、論理学者、哲学者 第三代ラッセル伯爵、祖父はイギリス首相、1950年 その著書に対してノーベル文学賞受賞、アインシュタインと親交。 アリスとテレス以来の論学者とも称される。 ------------------ バクという動物は夢を食べて生きている、年取ったホモサピエンスは 思い出をビタミン剤にして生きていけるみたいだ。 諸般の理由で我々の旅行もこれからは国内に限ることにした。それを機会に 最近妻がアルバムの整理をし始めた。つられて私も40年以上省みられ なかったスライドをスキャナーにかけてみた。そんなわけで時々我が 過ぎし方を思い起こす写真をこのブログに登場させる。 これは私がビタミン剤を摂取する過程なので諸賢には無視していただいて 何の不都合も無い。
2010.01.26
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New Brunswick ・ Prince Edward 島Quebecからはセントローレンス川を離れてNewBrunswick州Fredericton へと向かった。 実はこの時は通過したのだが友人がその後ここに移り住んだので再訪したことがある。今は画家となっているこの御仁、30歳前に森の中にコッテージを買い週末は一人でそこで絵を描いていた。一流の研究者でもあったが今は黒人の子供を養子にして画業に専念している。 先を急いだのはこの2週間の夏休み旅行の目的地の東端をPrince Edward 島に決めていたからである。港では延々と待たされ、やっとの思いで小さなフェリーに乗り島のキャンプ地へ。 モンゴメリーの「赤毛のアン」は1950年代村岡花子によって翻訳され、日本でも知れ渡っていたが、今のように少女文学のイメージはなく私でも学生時代に読んだことがあったのである。ここでは赤土の島の風土が詳しく描かれていたがじっさいに赤い島に吃驚したものである。しかも当時、島の道路は舗装されておらず車は赤い埃を舞い上げて疾走していた。 ここでの見物はもちろんアンの家、Green Gables である(小説の原題は Ann of the green gables) レプリカではなくアンの家そのものなので取り巻く情景も小説そのものであった。記念館なので勿論公開されて係りの人も居たが来客が常にあるという状態ではなく、個人的に詳しくガイドしてくれた。日本語訳もありますよといって色々な言語への訳本を並べた棚を示した。日本語が読めない彼女は上下逆にして飾ってあったので指摘すると謝りながらすぐに直してくれた。 それからもはや恋人と言った存在ではない人と一応手を繋いで村岡訳の「恋人の小径」を歩いた思い出がある。 ------------------ バクという動物は夢を食べて生きている、年取ったホモサピエンスは 思い出をビタミン剤にして生きていけるみたいだ。 諸般の理由で我々の旅行もこれからは国内に限ることにした。それを機会に 最近妻がアルバムの整理をし始めた。つられて私も40年以上省みられ なかったスライドをスキャナーにかけてみた。そんなわけで時々我が 過ぎし方を思い起こす写真をこのブログに登場させる。 これは私がビタミン剤を摂取する過程なので諸賢には無視していただいて 何の不都合も無い。
2010.01.25
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Quebecケベック州はカナダで1,2を争う広い州である。MontrealからQuebecまではセントローレンス川(ケベック州ではサンローラン川と言うべきか)に沿って数時間のドライブである。町は旧市街と新市街に分かれており、間には下のサンルイ門がある。アメリカ大陸では珍しくヨーロッパの古い町みたいな城郭都市でありその歴史が伺える。そもそも15世紀この地はヌーベルフランスと呼ばれ、フランスの植民地であった。その勢力は遠くミシシッピ川にまで及んだが後に英国との7年戦争を経て英国領になったところである。よく知られるようにアメリカにおけるその名残はルイジアナ州で首都の名前にしてもバトンルージュ(Baton Rouge)であり、市町村制や州法にはいまだフランスの制度が残っている。アメリカにおけるフランス区がルイジアナであるようにカナダにおけるフランス区がケベックである。このようにかって戦勝国イギリスは敗戦国フランスの制度を温存してフランス系住民を繋ぎとめたのである。日本の朝鮮統治とは対照的である。 さて門を入り崖を登ると昔の大きな砦(チタデル)がありセントローレンス川に向かって大砲が据えられていた。 そしてそこでは英国式の衛兵交代式(changing guard)が行われていた。英国を迎え撃つための砦の衛兵がイギリス様式と言うちょっとへんてこな感じ。前日のフランス式行進と対照的。 砦から板張りの広い回廊を進むと豪奢なお城が聳えると言ってもこれはシャトーフロンティナック・ホテルである。近年は日本人団体客の定宿化しているが当時は鉄道会社Canadian Pacific 経営のステイタスの高い五つ星であった。 余話:1960年代バンクーバーからモントリオールまでCanadianPacificとCanadian Central 両鉄道会社が競合しながら走っており熾烈な競争をしていた。大都市の駅前には両者が高いビルを建て常にその高さを競っていた。そんな時代Banf Park Hotel,Shateau Lake Louise,Shateau Frontinac,JasperPark LodgeはCanadian Pacific の経営する国を代表する高級ホテルであった。 崖の上から下の旧市街を覗くと道路上には洗濯物が翻り観光馬車が走っていたり、名所の絵を描きながらの街頭ギャラリーなど。そしてこの時私の後ろに二人の金髪の少年がついて来て盛んにフランス語の民謡を歌い続けた。最初は気にならなかったもののだんだん耳障りになってきたのでコインを握らせると即座に退散した。せめて曲の最後まで歌えよと思ったが、観光慣れしない貧乏観光客と観光慣れした貧乏少年が演じた数分間の出来事であった。 ケベックを後にするとセントローレンス川は急にその川幅を広げて湖のようになる。 河畔のキャンプ地にテントを張り、カリフォルニアから2ヶ月のキャンプ旅行をしていると言う老夫婦の豪華なキャンピングカーに招かれたりして雄大さを楽しんでいると 目の前に大きなクルーズ船が現れた。ヨーロッパとカナダ、アメリカを結ぶクルーズ船であろう。この川は中央部に深い水路が掘られ、大西洋から五大湖まで通じている。このためヨーロッパからの大型客船がモントリオールまで遡上できる。何時の日か船で外洋や大河を旅したいと言う思いが私に芽生えたのはこの時である。 ------------------ バクという動物は夢を食べて生きている、年取ったホモサピエンスは 思い出をビタミン剤にして生きていけるみたいだ。 諸般の理由で我々の旅行もこれからは国内に限ることにした。それを機会に 最近妻がアルバムの整理をし始めた。つられて私も40年以上省みられ なかったスライドをスキャナーにかけてみた。そんなわけで時々我が 過ぎし方を思い起こす写真をこのブログに登場させる。 これは私がビタミン剤を摂取する過程なので諸賢には無視していただいて 何の不都合も無い。
2010.01.24
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モントリオールThousand Islandsを訪ねた後Ottawaを観光したが、ここはその後、半年間住むことのなったので別項にしてMontrealに移動Toronto がアメリカそのものなのに対してMontrealはフランスOttawa はその両面を持つ町である。カナダの昔からの問題点は1国2制度とも言うべきQuebec州の存在である。ただ旅行者にとってはこれはすこぶる楽しい。 パリを思わせる町並みここではNotreDam寺院とMont Royal公園を見る。寺院の外観に比して内陣の壮麗さは目を見張る。残念ながら主堂の灯りは消されておりWeb に数多く見られる壮麗な姿は見られなかったが、無数のロウソク灯りに照らされて荘厳であった。一人の尼僧が話しかけてくれ長く日本に赴任していたことを話してくれた。まだ日本人観光客も少なく大いに懐かしんでくれた。 私は下の12使徒と聖人像の写真が気に入りNotreDame寺院と思い込んでいたが、WebやGoogleで探してもNotreDameにこの建物は見当たらない。ほかにもこんな立派な寺院が有るみたいである。 ダウンタウンのすぐ近くにRoyal山があり絶好の見晴台となっているので登ってみた。Montreal 市民のオアシスといった感じの別天地。山上の公園を馬車で一巡したが、御者の老人曰く「眼下のダウンタウンは人間の住むところではない、私は40年間ここで働いているが山の向こう側に下りたのは数えるほどしかない」 馬車を御す若き日のrakuten 山を降り、今度はSt Luurence 川にいくつかある中ノ島に渡った。川と言ってもここらまで来ると大河の幅は2キロ近い。人気のない芝生で休んでいると突然 -- チータラ、ラッタタ、チーター、ラッタララとおなじみの行進曲が流れてきたので音のほうを見ると、昔のフランす兵の軍服を着た一団が大砲が置かれて国旗が掲げられた所からマーチングを始めた。前日Ottawa では散々赤い軍服姿の英国式衛兵交代や大統領官邸の衛兵を見てきた目にいきなり宿敵フランスの軍団である。こんな儀式を繰り返して市民にフランス魂を植え付けようとしているQuebec州の意気込みを感じた。1960-1970年代はQubec独立運動の盛んな時代であり、過激な独立派によるの小さなテロも頻発していた。実際Quebec州の田舎ではガソリンスタンドでもグローサリーショップでも英語は片言も通じずない所があったりして独立したい気持ちも理解できた。このため、カナダでは国会も英仏2ヶ国語で進行、オンタリオ州のテレビ局も同じ番組を2言語で流していた。ある大学では学生は英仏バイリンガルが前提で講義もある先生は英語、他の先生はフランス語言った具合である。ある学生さんに聞いた話では両親が夫婦喧嘩する時、父親は英語で怒鳴り、母親はフランス語で怒鳴るそうである。ただこの場合お互い相手に言うことは十分分かっている。それでも自分の言葉でなくては気分が治まらない。いちど津軽人と薩摩人の夫婦喧嘩を見たいものである。 ------------------ バクという動物は夢を食べて生きている、年取ったホモサピエンスは 思い出をビタミン剤にして生きていけるみたいだ。 諸般の理由で我々の旅行もこれからは国内に限ることにした。それを機会に 最近妻がアルバムの整理をし始めた。つられて私も40年以上省みられ なかったスライドをスキャナーにかけてみた。そんなわけで時々我が 過ぎし方を思い起こす写真をこのブログに登場させる。 これは私がビタミン剤を摂取する過程なので諸賢には無視していただいて 何の不都合も無い。
2010.01.22
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Thousand Islands NPナイアガラを離れてセントローレンス川に沿って”Bridge to USA"の標識と個性あるInternational Bridgeなど見ながら進むとサラダドレッシングの名前で知られるThousand Islands公園に着く。この途中で我が愛車の走行メーターが99999.9マイルに 近づいた、この後00000.0に転じる瞬間があったのだが 道路上で止まるわけにもゆかないので記念の写真(フォト蔵で元画像を出すと数字が読めるはず)。エンジンを入れ替えたとはいえ、16万キロとは良く走ったものだ。幸いずっと西海岸で走っていたのでボディーは殆ど傷んでいなかった。この後もまた西海岸まで大陸横断をしてくれた。 さて公園は多く個人の所有で観光用のロッジ、個人別荘などとなっている。交通手段はもちろん船なのでどの家にも必ず艇庫がある。さらにここに来るのに自家用セスナを使う人も居てそんな人は庭先に自家用機を駐機していた。「今庭先で半パンツ、上半身裸で暖炉の薪割をしている人はGEの社長です」とかこれは誰の別荘ですとか有名人の名を次々に上げてゆく。彼らは週末郊外の別荘に行く気分でここを訪ねてくるらしい。 艇庫を備えたロッジ川の中央をアメリカ・カナダの国境線が走るため島の国籍は両国にまたがり、それぞれの国旗を掲げている。原則的に一島一地主である。写真を失ったが中にひとつ、数メーター離れた二つの島にそれぞれ星条旗と楓旗が翻り、この2島のオーナーは一日何回となくこの世界でもっとも短いinternational bridgeを行き来するのだとは遊覧クルーズガイドの説明。遊覧船は所々のモニュメントスポットに立ち寄る、その際公園のボート乗り場のような桟橋に船が着くと入国審査官が乗り込んできて一人一人に"Where were you born ?"と問いかける。アメリカやカナダの乗客は自分の出生地を告げて終わり。 ”Japan”と答えると面倒くさそうにパスポートの提示を求められる。何度目かには面倒くさくなって私も”Where were you born””Boston”、”OK” で手間を省くことにした。顔が変わっていても言葉が少々変でも出生地がアメリカやカナダであれば自動的にそこの国籍を有するため ”Where were you born” は金科玉条と言った感じである。 お城のような豪華なモニュメント ------------------ バクという動物は夢を食べて生きている、年取ったホモサピエンスは思い出をビタミン剤にして生きていけるみたいだ。 諸般の理由で我々の旅行もこれからは国内に限ることにした。それを機会に 最近妻がアルバムの整理をし始めた。つられて私も40年以上省みられなかったスライドをスキャナーにかけてみた。そんなわけで時々我が過ぎし方を思い起こす写真をこのブログに登場させる。これは私がビタミン剤を摂取する過程なので諸賢には無視していただいて何の不都合も無い。
2010.01.22
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ナイアガラ滝1965年7月アメリカに来て始めての夏休み 、子供時代から夢見たアメリカ大陸のドライブ旅行に出かけた。車は友人から200ドルで譲り受けた1957年型Ford Fairlane,二人用の小さなテントと超安物の寝袋を二つ買い込んでの出発。ボストンから出発してNiagara にたどり着いた。子供の頃から想像の地に立ったときの印象はこじんまりとして優美だなと思った。だが島の向こうのカナダ滝はとてつもなく大きな水煙を上げていた。 そこでその夜はカナダ側のキャンプ地にテントを張ることにして国境へ急いだ、始めて見る”CANADA Immigration Custom"の文字に緊張したがパスポートを出して2,3の質問に答えただけで車に乗ったまま通過。初めての陸路国境通過に興奮していたがあっけなさにややがっかりしたのを覚えている。 カナダ側滝公園で見晴台に上るとカナダ滝の圧倒的な大きさと勢いそして轟音にこれぞナイアガラと感動した。ところでこの滝を挟んで二つのNaagara Fallsという町がある今はZipCodeがあるので間違いは少ないであろうが、昔は郵便物などの誤配が多かったことだろう。しかも国が違って対岸に対峙しているのも珍しい(似たようなケースでスエーデンのHelsingborgとデンマークのHelsingorがあり海峡を挟んでいる)。 右:カナダ滝雨合羽を着込んでの滝下遊覧船も迫力満点、夕食後のイルミネーションに感動した。きっと再訪してもこんな感動はもうないだろう。色々なものを見すぎて感じる心を無くした気がする。 翌日はオンタリオ湖畔の景色や灯台、史跡砦など見物しながらトロントを経てサウザンドアイランド公園に向かった。 湖畔の灯台 湖畔の砦跡 ------------------- バクという動物は夢を食べて生きている、年取ったホモサピエンスは思い出をビタミン剤にして生きていけるみたいだ。 諸般の理由で我々の旅行もこれからは国内に限ることにした。それを機会に 最近妻が写真アルバムの整理をし始めた。それにつられて私も40年以上省みられなかったスライドをスキャナーにかけてみた。 そんなわけで時々我が過ぎし方を呼び起こす写真をこのブログに登場させる。これは私がビタミン剤を飲み込む過程なので諸賢には無視していただいて何の不都合も無い。
2010.01.20
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Bostonに程近いNew Englandの町今回は私が2年間住んだCambridgeの近郊の写真を拾った New England地方の典型的な一戸建て住宅で破風窓と暖炉用の煙突がある。私がこんな立派な住宅に住んでいたわけではないが前に止まっている車は、1957年型Ford Fairlaneで我が愛車とにかく大きかった。妻は常にソファ用クッションを背にしてハンドルを握っていた。 古い植民地時代からの教会、時計は跡から付けたもの Boston の富裕層の住むこれも植民地時代からのLouisebergSquare ここの半地下の部屋で行われている華麗なパーティを外から覗き込むことが出来るので有名 魔女狩りが行われたSalemの街のWitch house実際この家の娘さんは魔女狩りにあったらしい。 案内板は読めないがこう言うのは決まって歴史上の人物の棲家ケネディー一族の邸宅(Kennedy Compound)があるHyanesPortの海 1700年代からあるWayside Inn とそこのチャペルインターネットによると今でも営業している(約10部屋)らしくBest Western ホテルチェインに所属するらしい。このチェインは時々こんな特徴あるホテルを傘下に収めている。 私の好きな場所でLincohnという小さな村にある美術館湖畔の丘に立つ静かなたたずまい。ドライブの途中でサンドイッチとドリンクを買い犬に付きまとわれながらランチ数少ない絵を見て人気の無いロビーから湖を眺めて過ごすひと時はリッチな休日であった。 冬季川に滑り落ちないように橋だけ屋根を付けたCoveredBridgeや砦のような古い教会、「緋文字」を書いた小説家N.Hawthorneの住んでいた家Seven Gables いつも忙しい1965年の休日であった。 -------------------------------------------------- バクという動物は夢を食べて生きている、年取ったホモサピエンスは思い出をビタミン剤にして生きていけるみたいだ。 諸般の理由で我々の旅行もこれからは国内に限ることにした。それを機会に 最近妻が写真を息子たちに渡せるようにアルバムの整理し始めた。それにつられて私も40年以上省みられなかったスライドをスキャナーにかけてみた。 そんなわけで時々我が過ぎし方を呼び起こす写真をこのブログに登場させる。これは私がビタミン剤を飲み込む過程なので諸賢には無視していただいて何の不都合も無い。
2010.01.19
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Charles河畔都市には河が必要な要素である。昔は海運の為だったが今は市民の憩いの場であったり風景の構成要素だったりする。歴史都市ボストン、学都ケンブリッジの間をチャールズ河が流れる下の光景は夕日に染まる Longfellow Bridge、有名なMIT(Massachusetts Institute of Technlogy)の前に架かる美しい橋である。 橋の名は詩人Henry Worthworth Longfellow に因む前回記したあの伝説の主人公Paul Revere’s Midnight Drive を謳いあげた人である。 その上流には州都ボストンの心臓部 Beacon Hillが広がる ここに足を踏み込むとロンドンの一角にいる錯覚に陥るこの地方を New England と呼ぶわけがが良く理解できる 夏になるとBeacon Hill 河畔にはヨットやクルーザーがひしめいていた1964年の光景である。今もそうだろう 河畔には緑地も広がっており、街から高速道路を跨ぐArthurFiedlerBridgeを渡ると野外舞台 Authur Fiedler Memorial Hutchがある。この有名なボストンポップスの創設者が始めた無料コンサートが夏季このハッチで週末の開かれていた今も続いているはずである。 上流にはHarvard Bridgeが有り、この辺まで来ると静かな落ち着いた雰囲気。 ケンブリッジ側の河畔にはHarvard の学生寮が立ち並んでいる.煙突屋根の学部学生寮に対して’Married Student’ 用のアパートメントは近代的高層ビルである。 *(エピソード): 英語でapartmentはユニットを指すらしく、ある時同じビルに住んでいるよその奥さんのことを ”I live in the same apartment” と言ったら。それを聞いた相手はかなり長い間私の顔を見入り沈黙を保った。急いで ”I mean, in the same apartment building" と言い直したら。「驚かさないでくれよ !」 と怒鳴られてしまった。 ------------------バクという動物は夢を食べて生きている、年取ったホモサピエンスは思い出をビタミン剤にして生きていけるみたいだ。 諸般の理由で我々の旅行もこれからは国内に限ることにした。それを機会に 最近妻が写真を息子たちに渡せるようにアルバムの整理し始めた。それにつられて私も40年以上省みられなかったスライドをスキャナーにかけてみた。 そんなわけで時々我が過ぎし方を呼び起こす写真をこのブログに登場させる。これは私がビタミン剤を飲み込む過程なので諸賢には無視していただいて何の不都合も無い。
2010.01.18
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アメリカの大学卒業式春分の日を中心に今週から来週は大学の卒業式が盛んに執り行われ、ホテルのロビーは謝恩会で袴やカクテルドレスのお嬢さん、スーツ姿の青年で賑わう時期である。日本の卒業式も賑やかであるがアメリカのそれも賑々しい。 アメリカでは卒業式のことを commenncement と言う。これは「始まり」という意味、日本では卒(業)であるがあちらでは社会生活の「始まり」なのだ、彼我の認識の違いを感じる。 アメリカ東部私が住んでた頃のの六月、空はあくまでも青く晴れわたりアメリカ全土で学校の卒業式が行われていた。何校かの式典を垣間見る機会が有ったがすべて野外での式典である。Harvardに行くと世界一とも言われたワイドナー図書館の円柱階段では学生たちが校歌を歌っていた。良く見ると合唱者はバラバラみたいだが指揮者は礼服でタクトを振っている。まあ卒業式を祝っているのだろう。Memoria lChurch前の芝生広場にはステージに天幕が張られCommenncementがとり行なわれようとしていた。 教授達、卒業生とその父兄しか入れない式場に一寸した理由で私は入場券を手にした。会場の椅子席の周りにはわが子の晴れ姿を見ようと全米から父兄(母)が集まってごった返している皆立ち席で頑張っている。ややあって礼服姿の職員にガードされてされた式場に黒いガウンの上に色とりどりのフード、房を垂らした帽を冠った教授連、続いて同じくガウン姿の卒業生の入場行進が始まった。 教授連のprocession下の美人は大学院の卒業生である。なぜならば1960年代Harvardの学部はまだ男子だけであった。隣にRadcliff Collegeがあり、授業や殆どの学生活動は一緒であるが入学と卒業は別々であった。例えは悪いが昔の北海道の温泉みたいに入口と出口は別だが中は一緒であった(こんな例えが通じるのはどんな年代の人までだろうか?)。もちろん今は共学(懐かしい言葉)になっているだろう。 教会前のステージにそこだけ張られたテントの下で総長が祝辞を述べるが、それに続いて誰がCallされるかが多くの人の関心事。それまでは発表されていない。その人はその場で名誉博士号を授与され、記念講演をする。通常は世界中の人がだれでも知っている人物である。 そこで地元の新聞は前日ボストンの空港にどんなVIPが降りたかを知る為に張り込んでスクープしたりすると聞いた。そして翌日の新聞では多くの有力新聞がその講演内容を報じる。アメリカでは6月になるとやれ下院議長が、やれ国防長官が、やれ参謀議長がどこそこの大学の卒業式でこのような講演をしたと言う記事が日本の新聞にもよく出るが、これは卒業式で名誉学位を贈られ記念講演をするのである。大学にとっても宣伝になり、高官にとっても自己宣伝と名誉学位は箔付けにもなると言う、悪くいえば馴れ合い行事だろう。私が参加した時はアメリカ国連大使で時の人で、当時渦中のベトナム戦争について私見を述べていた。 かって日本でも南原、矢内原などの東大総長の式辞が詳しく報道された時代もあったのだ。東大の卒業式で南原総長が講和を論じて政府を批判した、当時の首相吉田茂は南原を「曲学阿世」の徒と呼んで非難した。また、矢内原総長が卒業生に「君たちは太った豚よりは痩せたソクラテスたれ」と檄を飛ばしたりしたのはもうはるか彼方の時代、多くの人が食には困っていても大きな志を持ち合わせていた時代である。 Harvardは私学であるため校友会は重要であり、卒業式ともなると古い卒業生が招待され、卒業年度を記したリボン付きのカンカン帽を冠って出席している。まあ相当寄付をした人たちなんだろう。この日のボストン界隈のレストランは世界中から集まった卒業生の家族達の笑顔に溢れいるはずだ。 アメリカ大陸の6月は雨が降らずどこの大学でもこのように屋外での式開催となる。万が一雨になったらどうするのだろうか。もちろん大雨でも無ければ河童もどきのアメリカ人には関係が無いのだろう。 かくして多くの女子学生たちはこの日を待ち切れずにJune Brideとなって屋外で披露宴を催す。恋人がSmith Collegeを卒業したテキサス出身の友人が招待状をくれたが交通費と礼服が無いので断ってしまった。牛の丸焼きを何頭も出すと言っていたのを思い出す。テキサス人の云うことは十分の一に聞けとよく言われるが真偽を確かめる機会を逸してしまったのは残念である。 ------------------ バクという動物は夢を食べて生きている、年取ったホモサピエンスは 思い出をビタミン剤にして生きていけるみたいだ。 諸般の理由で我々の旅行もこれからは国内に限ることにした。それを機会に 最近妻がアルバムの整理をし始めた。つられて私も40年以上省みられ なかったスライドをスキャナーにかけてみた。そんなわけで時々我が 過ぎし方を思い起こす写真をこのブログに登場させる。 これは私がビタミン剤を摂取する過程なので諸賢には無視していただいて 何の不都合も無い。
2010.01.17
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アメリカの大学卒業式春分の日を中心に今週から来週は大学の卒業式が盛んに執り行われ、ホテルのロビーは謝恩会で袴やカクテルドレスのお嬢さん、スーツ姿の青年で賑わう時期である。日本の卒業式も賑やかであるがアメリカのそれも賑々しい。 アメリカでは卒業式のことを commenncement と言う。これは「始まり」という意味、日本では卒(業)であるがあちらでは社会生活の「始まり」なのだ、彼我の認識の違いを感じる。 アメリカ東部私が住んでた頃のの六月、空はあくまでも青く晴れわたりアメリカ全土で学校の卒業式が行われていた。何校かの式典を垣間見る機会が有ったがすべて野外での式典である。Harvardに行くと世界一とも言われたワイドナー図書館の円柱階段では学生たちが校歌を歌っていた。良く見ると合唱者はバラバラみたいだが指揮者は礼服でタクトを振っている。まあ卒業式を祝っているのだろう。Memoria lChurch前の芝生広場にはステージに天幕が張られCommenncementがとり行なわれようとしていた。 教授達、卒業生とその父兄しか入れない式場に一寸した理由で私は入場券を手にした。会場の椅子席の周りにはわが子の晴れ姿を見ようと全米から父兄(母)が集まってごった返している皆立ち席で頑張っている。ややあって礼服姿の職員にガードされてされた式場に黒いガウンの上に色とりどりのフード、房を垂らした帽を冠った教授連、続いて同じくガウン姿の卒業生の入場行進が始まった。 教授連のprocession下の美人は大学院の卒業生である。なぜならば1960年代Harvardの学部はまだ男子だけであった。隣にRadcliff Collegeがあり、授業や殆どの学生活動は一緒であるが入学と卒業は別々であった。例えは悪いが昔の北海道の温泉みたいに入口と出口は別だが中は一緒であった(こんな例えが通じるのはどんな年代の人までだろうか?)。もちろん今は共学(懐かしい言葉)になっているだろう。 教会前のステージにそこだけ張られたテントの下で総長が祝辞を述べるが、それに続いて誰がCallされるかが多くの人の関心事。それまでは発表されていない。その人はその場で名誉博士号を授与され、記念講演をする。通常は世界中の人がだれでも知っている人物である。 そこで地元の新聞は前日ボストンの空港にどんなVIPが降りたかを知る為に張り込んでスクープしたりすると聞いた。そして翌日の新聞では多くの有力新聞がその講演内容を報じる。アメリカでは6月になるとやれ下院議長が、やれ国防長官が、やれ参謀議長がどこそこの大学の卒業式でこのような講演をしたと言う記事が日本の新聞にもよく出るが、これは卒業式で名誉学位を贈られ記念講演をするのである。大学にとっても宣伝になり、高官にとっても自己宣伝と名誉学位は箔付けにもなると言う、悪くいえば馴れ合い行事だろう。私が参加した時はアメリカ国連大使で時の人で、当時渦中のベトナム戦争について私見を述べていた。 かって日本でも南原、矢内原などの東大総長の式辞が詳しく報道された時代もあったのだ。東大の卒業式で南原総長が講和を論じて政府を批判した、当時の首相吉田茂は南原を「曲学阿世」の徒と呼んで非難した。また、矢内原総長が卒業生に「君たちは太った豚よりは痩せたソクラテスたれ」と檄を飛ばしたりしたのはもうはるか彼方の時代、多くの人が食には困っていても大きな志を持ち合わせていた時代である。 Harvardは私学であるため校友会は重要であり、卒業式ともなると古い卒業生が招待され、卒業年度を記したリボン付きのカンカン帽を冠って出席している。まあ相当寄付をした人たちなんだろう。この日のボストン界隈のレストランは世界中から集まった卒業生の家族達の笑顔に溢れいるはずだ。 アメリカ大陸の6月は雨が降らずどこの大学でもこのように屋外での式開催となる。万が一雨になったらどうするのだろうか。もちろん大雨でも無ければ河童もどきのアメリカ人には関係が無いのだろう。 かくして多くの女子学生たちはこの日を待ち切れずにJune Brideとなって屋外で披露宴を催す。恋人がSmith Collegeを卒業したテキサス出身の友人が招待状をくれたが交通費と礼服が無いので断ってしまった。牛の丸焼きを何頭も出すと言っていたのを思い出す。テキサス人の云うことは十分の一に聞けとよく言われるが真偽を確かめる機会を逸してしまったのは残念である。 ------------------ バクという動物は夢を食べて生きている、年取ったホモサピエンスは 思い出をビタミン剤にして生きていけるみたいだ。 諸般の理由で我々の旅行もこれからは国内に限ることにした。それを機会に 最近妻がアルバムの整理をし始めた。つられて私も40年以上省みられ なかったスライドをスキャナーにかけてみた。そんなわけで時々我が 過ぎし方を思い起こす写真をこのブログに登場させる。 これは私がビタミン剤を摂取する過程なので諸賢には無視していただいて 何の不都合も無い。
2010.01.17
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アメリカ独立運動1964年9月前年にケネディーが暗殺され、ベトナム戦争の泥沼に入り、大統領選挙では共和党右翼のゴールドウォーターと昇格した民主党ジョンソンが戦っている時期にアメリカに渡った年収をはたいても米東部までの往復運賃に足りない時代であるアメリカの財団の招き以外には無理であったが幸運にも選考を通り旅費を出してもらえ、生活費は大学が支援してくれた私の実力からいえば宝くじに当たったようなものであるがそれまでの不運がうそのようなめぐり合わせであったそれでも準備や当面の生活費として父親は田畑を担保にしてお金を工面してくれた。 落ち着いたのはアメリカの京都と言われる古都ボストンの郊外にあるケンブリッジである。ボストンは独立戦争発祥の地で史跡が多く、週末の史跡めぐりは楽しくて仕方が無かった。古い町はイングランドの佇まいそのもので、この辺りはNew Englandと呼ばれ、あたりの町の名前も南部イングランドのものばかりである。イングランドからの入植者がこぞって郷里の名前を付けたせいである。北海道などでも同じで新十津川村は奈良県の十津川村から来ているはずである 最初に独立運動が話し合われた Old Meeting House秘密集会が開かれたFaneuel Hall Faneuel Hall大好きな独立戦争ロマンス Paul Revere's Midnight Driveのスポットとして知られるOld North Church Old North Churchそしてその近くのBunker Hillに立つPaul Revere像である Paul は教会の塔からランタンの数で英軍(Red Coat)が陸路攻撃か水路攻撃かを知らせてもらい、夜中に馬を馳せてレキシントンの町に知らせMinutes Manと呼ばれる民兵を集めてConcord, Lexingtonの激戦を戦ったこれがPaul Revere's Midnight Driveである私の理解では歴史あるボストンマラソンはこの歴史に基づいている。オリンピックについで古い伝統のこの大会は4月18-19日に亘るRevereのDrive(Run)に合わせて4月19日に行われている。小さなランナー山田敬蔵さんの優勝(1953)や瀬戸利彦さんの2回の優勝(1981,1987)など印象深い。特に小さな山田さんの快走は古橋広之進さんの泳ぎとともに戦後の日本人を大いに勇気付けてくれたもので映画化もされ「心臓破りの丘」は当時の流行語でもあった ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 昨年末妻が旅行中不整脈で救急車のお世話になった。そして年初、目眩がすると言い出し、私も旅行中倒れることがよくある。海外での急病は二人とも何度か経験があるが大変である。そんなことでこれからは国内旅行を中心にすることにした。そんなこんなで妻が急に子供時代からの写真を息子たちに渡せるように整理し始めた。つられて私も40年余り押入れの戸袋に入れっぱなしのカラースライドを取り出してスキャナーにかけてみた。当時はカラープリントが高価でせいぜいカラースライドで楽しんだものである。そんなわけで時々我が過ぎし方を呼び起こす写真をこのブログに登場させてみたい。
2010.01.17
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羽田の見送り人 バクという動物は夢を食べて生きている、年取ったホモサピエンスは思い出を精神的栄養剤にして生きていけるみたいだ。 諸般の理由で我々の旅行もこれからは国内に限ることにした。それを機会に 最近妻が写真を息子たちに渡せるようにアルバムの整理し始めた。それにつられて私も40年余りしまい込んでいたスライドをスキャナーにかけてみた。当時はカラープリントが高価でせいぜいスライドで楽しんだものである。 そんなわけで時々我が過ぎし方を呼び起こす写真をこのブログに登場させる。これは私が栄養剤をかみ締めている過程なので諸賢には無視していただいて何の不都合も無い。 ・・・・・・・・・・・・・・・・ 1964-1967年の在米、在加を経て1968年夏の渡米風景まだ1$360円時代で羽田の大型機が発着できる国際線ゲートは1、2本だけ、待合室から下のようなフィンガーと呼ばれる廊下を通ってその先端から外に出てタラップを登った。見送り人はフィンガーの屋上に来て目前の機に乗り込むところから搭乗後も窓際の席から見送り人の顔もはっきり識別できた。会社の部長が海外出張の時には部下が何十人も見送りに着ていた時代である写真はボーイングDC8の席から窓越しに撮ったもの、中央部分で私のほうに向かって手を振っているのが物珍しさにつられてそこまでやってきた学生達、小さな長男と妻である。他の人たちはそれぞれ自分の見送る人に視線を投げており、機が滑走路に去るまで帰らないでいた。タラップが蛇腹口に変わり見送り人が無くなってもう何年経つたつだろう。こんな搭乗風景を知る人も少なくなったことであろう。 それにしても日本の窓口の建物がこんなバラック風だったとは今昔の感ひとしおである。
2010.01.14
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東京スカイツリー正月の家族旅行以来微熱が去らず短い散歩以外ほとんど外へ出ないでいる。レンズ交換の出来る一眼カメラを持っておらず35-400mのLumixズームカメラを持っているだけであったが昨年末1.7倍にするコンバー^ジョンレンズというのがあること知って通販で手に入れた。近くの公園で野鳥でも撮ろうと思ってのことだが上の事情でまだ果たしていない正月の新聞に建設中の東京スカイツリーが高尾山から見える高さ(ca.260m)になったと報じられたので、練馬の我が家からはどうかと地図を広げてみると約1km先にある30階位のマンションと約5km先の池袋サンシャインの間の小さな角度の間に見える可能性があることが分かった。新宿のビル群に隠れて東京タワーが見えない我が家に少しばかり希望が見えてきた。しかしなにぶん18kmも離れているのでもちろんまだ肉眼でははっきりしない早速コンヴァージョンレンズの出番である。それでも下図の左端サンシャインビルと練馬駅前の高層マンションに間にはクレーンがいくつか見える。 書斎(?)の窓越しにさらにズームアップすると下絵の中央ブルーの塔は近くのマンションの水道水槽で、その左のクレーンが見えるものとその右側にある上部が黒く下部が白いものの2つが候補に挙がる。しばらく様子を見るしかない 1月4日撮影そして約10日後昨日撮影したのが下の絵である右の塔には変化が見られない、一方左の塔は明らかに伸びている。270mを超えてやっと我が家のスカイラインに姿を現してくれた。確かに丸みを帯びたようにも見えスカイツリーと考えて間違いなさそうである 1月13日撮影そうと分かれば肉眼でもはっきり識別できるなんだか孫の成長を楽しむようにこれからの成長が楽しみであるふと別の角度を見ると巨大な飛行艇が飛んでいた桶川を基地としている観光飛行らしく昨年から良く見かけるものゴンドラが小さく見える。それにしてもこんな巨大な宣伝を出す大学は金持ちだと感心した。願わくばその資金を大学環境に使ったほうが良いのではないかと疑問が沸く今日は久しぶりのブログ、視線をキーボードから90度右に振ると視野に入る光景を題材にした。それにしてもタワーの成長は楽しみでこれから毎日眺めることになるだろう。そしていつかまたブログに登場することがあるかも知れない
2010.01.14
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浜名湖・正月昨年の正月までは長男一家3人、次男一家4人が我が家に集っていたが、ホステスが音を上げて今年は早くから浜名湖の簡保の宿を申し込んでおいた。孫の従兄弟達3人は母方に従兄弟が居ないので今から互いに親密にさせておきたい元旦に我々は東京駅から、長男たちは新横浜から合流して浜松でレンタカーをして磐田の次男宅へ。というのも昨年次男が家を建て、長男たちはまだそこを見たことが無いのだ間近に見る駿河側の富士は片山右京の友人その他を寄せ付けなかった甲斐側に比べて5合目以下は黒々としている 次男宅でお茶をして宿に着いたのは元旦の夕食時であった2日の朝部屋の窓から外を見ると浜名湖に続く猪鼻湖が望める目前の集落は別荘地であろうか、境目の無い芝生地にコッテージと呼ぶにふさわしい赤や青の平屋住宅が続いている 年末から風邪気味であるがそんなことは言ってられない孫たちを引き連れて葛城の里、北の丸へとドライブずいぶん早く出たのに正月の東名は千円で渋滞、1時間半もかかってやっと予約時間に滑り込む。ここは古材を集めて建てたお城風の建物である。実はここ2002年ワールドカップの日本代表の根城となったところである。今はゴルフ場を備えた高級レストランとなっている。新幹線掛川駅から車で4,50分もかかる田舎屋で、イギリスの田舎にあるマナーハウスのような存在である。 母屋の裏には芝生や池(プール)の庭があり、それを囲んで宿泊等が並んでいる。中をのぞいては居ないが各部屋思い思いの形に見える。サッカー選手の合宿所とは思えない雰囲気である。トルシエ監督はこういうところは苦手らしく母屋の洋間に泊まったようである。ここは小さな山の上で1、2箇所の入り口を封鎖すれば外来者はシャットアウトでき、当時域内にサッカー練習場を設営していたここでの籠城作戦はトルシエ流秘密作戦基地であったのだろう。 食後2階に上がってみると展示コーナーがあって当時の記念品が飾ってある。 チーム全員のサインやユニフォームがあるが私には「必勝トルシエ」しか読めなかった。地元のゴン中山や三浦カズなんかのサインもあるのだろう。 お城の雰囲気とは180度異質の空間である。下に下りてみると正月らしく琴の生演奏が行われていたがなんと我が孫娘が挑戦するということになって手ほどきを受けた。爪は師範のもので子供が付けても音を出す前に落ちてしまう,それでも手を添えられて桜桜を弾き満足そうであった。 二回の展示室には北海道の材を使った或る美術工芸家具作家の展示会が行われており、中に気持ちよさそうな座布団があった。なんとこれは彫刻なのである帰り道東名高速では有名な浜名湖サービスセンターで浜名湖に沈む夕日を見た。広々とした芝生広場に向こうの木立を通して湖に沈むお正月の夕日は見事であったが何しろ寒い日であったこの寒さのせいで血圧が急上昇、夜は早々に寝込んでしまった孫たちは隣の部屋でゲームに興じていた雑多な正月2日の記録である生来の虚弱体質、いまだに微熱に苦しんでいる
2010.01.07
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